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独り輝く、月の下で

第五章

 翌日夕方、地上へ降りて九日目。
 デジャヴを感じた。
 目を開けるのが怖くて、でも一刻も早く暗闇から抜けだしたくて、生れ落ちた赤子のように緩やかに瞳を開ける。網膜が痛い。……そうだ。以前こうやって目を開けると、にっこり笑った忠太の顔があったっけ……。
「おっ、目ぇ覚ましたよ、めぐみちゃん!」
 懐かしい、ずいぶん聞きなれた声がする。目を完全に開くと、めぐみと一緒に忠太が不思議そうに覗き込んでいた。
 ぽうっとその二人の顔を見つめ、しばらくして重く体を起こした。
「ここ……は」
 忠太の家だ。忘れるはずも無い、何日も過ごした家だ。どうして私はここにいるんだ? 確か、高台で『敵』のヘビと戦い、でもアイツは偽者で──。
 瞬間──猛烈な頭痛とともに、走馬灯となった記憶がなだれのように蘇った。
 ヘビ。まだら模様。愉悦に満ちた目。高い哄笑。攻撃する私。当たらない攻撃。『目的』を果たそうとする私。否、『目的』を果たす資格のない私? 人間。尊厳。化け物。意地。いる意味のない私。事実の改ざん──否、真実の提示? 『わたし』は──?
「……パステル? どした?」
 はっと我に返る。心配げに忠太がのぞきこんでいた。
「い……いや、なんでもありません。──それより忠太。私は、どうやってここに?」
「え? どうって……覚えてないの?」
 頷いてうつむく。『敵』を倒した瞬間から、すっぽり記憶が抜けていた。忠太を助けなければ──その強い思いだけが、心に刻み込まれているだけで。
「おっまえさー、ほんとビックリしたんだよ?」
 大仰に忠太は手を広げる。
「お前、昨日の夜突然いなくなったから、おれと姉ちゃん心配してさ。帰ってくるまで起きてたんだよ。そしたら突然、窓がばりーんて割れて、お前が転がってきたんだよ」
 忠太が指差す先には、大きな窓が大破していて、今はダンボールで補強されていた。
「驚いて声かけると、敵はどこだ、敵はどこだって、話は聞かないし。体中血まみれでさ、慌てて押さえつけてそんなヤツいないぞって言ったら──気絶するみたいに寝ちゃったんだよ」
 驚くめぐみに頷き、こちらをのぞきこんでくる忠太。その視線から逃げ、ダンボールが貼りついた窓枠に視線をやる。
 物言えぬ罪悪感があった。こうして一緒にいることすら辛い。ここにいて今夜することを考えるのも嫌だし、何のためにするのか、なぜここにいるのかと考えると、狂ってしまいそうだった。
 そのとき、『鬼人』として私が勝手に言葉を吐いた。
「──気にするな」
「え? なんだって?」
 心配するように見つめる忠太を仰ぎ、できるだけいつもの表情をする。
「なんでもありません。ちょっと外に出てきます。帰りは遅くなるので、気にせずに」
「え、あ? ちょっと、おい──」
 返事も待たずに、家を出た。
 『力』を得るには準備が必要だ。吸収する『力』を包み込むため、現在ある『力』を綿密に編み、言うなれば器のようなものを作らなければならない。おそらく敵も、今夕は襲ってこない。『力』を獲得し、倒しあい生き残ったものが、『神』を倒す権利を得られるのだ。
 そのための時間が欲しい。……だけど今、何より一人になる時間が欲しかった。

 藍色の空が夕焼けを追いだし始めている。雲は夕日を受けて鮮やかな色をともしているが、地上はもう薄暗い。今夜は綺麗な満月が見れそうだ。そう思うと、どうしようもない焦燥感が襲い、でも諦念が入り混じるような、変な感覚があった。
 冷えた塀の上をツテツテと歩く。
「気にすることはない、気にすることはない」
 頭の内側に響く『鬼人』の声を、そのまま口にする。何度も何度も、かみ締めるように、自分に言い聞かせるように。何度も何度も口にする。
 今まで私はこうしてきたじゃないか。悩むのは今に始まったことじゃない。甘ったれた殺人者。上等だ。ヤツの言うことは言葉遊びに過ぎない。動揺させる惑わしに過ぎない。気にするな、気にするな、気にするな──。
 何度も何度も繰り返すうち、突然、ふと理解できた気がした。私が正しく、『敵』が間違いで、今までどおりだと、すっと納得できたのだ。
 私はこれでいいのだ。誰も阻めず、否定できない。
 まるで気にそぐわない現実を逃避して決め込むような子供みたいだったが、気にしなかった。
「忠太を殺す。今夜、満月の光が私を包み、体が否応なくもとの体に戻ったときに──今ある『力』を最大限解放し、目的を果たす。私は自由になる。忠太を殺し、自由になる!」
 わき上がる昂揚感に仁王立ち、謳うように叫びを放つ。靄がはれ、スッキリした気分だった。なのに心はズタズタで、立ち上がれないほど傷ついて、痛かった。それでも体は動く。意地もあるが──その先にある『目的』ではない何かを求め続けるために。
「パステル……さん?」
 突如かけられた声に、驚いて振り返った。同じく驚いた表情の茂人が、ぽかんとこちらを見つめていた。
「……やあ、どうしました、茂人。忠太は家に──」
「殺すって──どういうことですか?」
「……あぁ──」
 何てことだろう。私の不注意だ。面倒くさいことになった。
「殺すって、なにがです?」
「忠太を殺すって、どういうことですか?」
 キラリとメガネのふちが反射する。その語気は強い。残念だ。非常に。私にとっても、彼にとっても。
 明晰で、隔たりを持たない素晴らしい少年。が、いかんせん鋭すぎた。数日前から感じてはいただろう。私の不穏な行動と、その原因、忠太たちの怪我との関連性。
「あなたはここで私にあっていない。声も聞いてない。何も知らない。いいですね?」
 ありったけの圧力を込める。これは脅しでも警告でもない。取引だった。命は見逃す。だから忘れろ、という。
 その威圧感に、さすがに茂人はひるむ。後ずさって目を瞠り、小さく体が震えていた。
「あなたは──いったい」
「化け物です」
 それだけ言い置き、背を向けた。
 これでもう、茂人は何もできない。忠太を救えず、指をくわえて傍観するしかできない。自分の命が大切だから。──でも。もし、救おうとしたなら? 殺す? 黙らせる? いやそんなことじゃない。茂人はそうすることができるのか? 自分の命も顧みず? ──否、そんなことはできない。できるはずはない。
 そうだろう?
 背後を振り返る。もう茂人は見えない。戻ったら、彼はまだいるだろうか? 忠太と自分の命を天秤にかけ、答えあぐねているだろうか? そして、そして──彼は、いったいどちらの重しに手をかけるのだろうか?
 夕日が退散する。もう、日は落ちた。

 家に戻ると茂人はいなかった。安心するが、目的が漏れなかったことによる安心よりも、茂人がその行動をしなかったというそれのほうが、はるかに強かった。
 めぐみは帰ったらしい。奈々子もいない。忠太と私、二人きりの夜だった。
 絶好の機会。でも行動に移すまえに、どうしても聞きたいことがあった。
「忠太。どうして私を、住ませてくれたんですか?」
 なんだか落ち着きのない忠太は、へ? と間抜けた声を上げた。
「なに? なんだよ急に」
「答えてください」
 芯の通った声に、忠太は目をつむった。
「うーん、そりゃ倒れてたからにはほっとけないし、断る理由もないし」
「喋るネズミなのに、ですか?」
「そんなの関係ないよ。おれは寂しかったからさ」
 照れ笑いする忠太に、なんだか肩すかしを食らった気分だった。
「でも……そうだな。こいつは放っておけないって、直感的に思ったんだ。なんか上手くいえないけど、そういう『何か』を感じた」
「『何か』……?」
 驚く。私も忠太に『何か』を感じていたから。その『何か』を受ける感情は違えど、おそらく共通したものだろう。私達は互いに『何か』を感じていたのだ。
 だけど──それがどうしたのか。聞いた後の今更だが、それを聞いてどうしたいのか。そうさ。どうせ何もできやしないのに。
「でも、そんなの関係無しに、今ではパステルと会えてよかったと思ってるよ。変なヤツだけど」
 会えたから良かった。会えたからがんばれた。会えたから元気が出た。
 よかった、よかった、あぁ、よかった──。
 突然、目眩がするほどはらわたが煮えくり返った。溜め込んでいたものが、爆発する。
「あなたは──どうしていつもそうなのです」
 苦しいくせに、元気に振る舞い、恥ずかしいほど素直な言葉を連ね。
「苦しいなら苦しいと言えばいい。イヤならイヤと言えばいい」
 辛いのに、自分を顧みず、がんばり奮起して。
「呪いたいほどの重い足かせがあるのなら、それを捨て去ればいい──」
 自分の欲望に素直になればもっと楽になれるのに。
 いつも、いつも、いつも。いつもそうだ!
「パステル……?」
 むかつく。見下されてるようで、私が取るに足らない存在みたいで。惨めで。消えてしまいたくて。その偽善者振りを叩き壊したくて。そして、あぁ、なんだか。
 ──羨ましくて。
「私が邪魔ならば!」
 吼えた。びくりと忠太が肩を揺らす。
「邪魔だと言って、追い出せばいい! みな怪我するのも、不吉な敵に狙われるのも、皆私のせいにすればいい! なのにどうして! あなたはいつも笑うのですか! 私が悪いのに──私のせいにすれば、楽になれるのに!」
 自分のせいだと割り切り、抱え込み、苦しみ発作にあえぐ忠太。不当に他人に虐げられ、寂しかった忠太。みんな他人のせいにすれば、楽になれるのに!
「どうして──あなたは、そうやって笑えるのですか!」
 勝手に興奮してる自分が情けなかった。でも忠太は──ふと寂しそうな顔をしたのだ。
「……、ごめん。おれ、そういうの疎くて分からないから……。パステルが知らないことも、確かにおれは抱え込んでる。黙ってたわけじゃない。悪いとも思ってる。おれは──嫌われたくなかったんだ。もし言ってしまったら、パステルや茂人が、どこかに行ってしまいそうだったから。もう……イヤなんだ、そういうの」
 発作のことや、おそらく居間に飾られてる写真の──両親のこと。
 怖がりで、臆病で、無力で、無垢で、一途な忠太。それでいてずっと笑っていられる彼の強さ。
 背を向ける。くだらないと思ったわけじゃない。そんな彼を見ていると、胸が苦しかったのだ。もう……いいだろう?
 閉められたカーテンに近づく。このカーテンを開ければ、もうぽっかりと空を切り取る満月が仰げるだろう。体がうずく。元の体に戻りたいと訴えている。だから──もう、いいだろう……?
「ありがとう忠太。そして──さようなら」
 サーと、静かにカーテンが開けた。

 茂人が、窓に貼りついてカーテンの隙間から部屋を覗き込んでいた。

 まん丸に見開かれた目。充血した瞳。血の気のない唇。魂の抜けた顔。
 そこにいた茂人は、もはや人間の気配を淘汰したものだった。
 ゾクリと毛が逆立つ。ぎゅるりと瞬かない眼球が私を捉え。
 ザ──と、野生獣さながらの敏捷さで、そこを去った。
「茂人……? どうして」
 忠太の呟きは頭に入らない。体が停止する。錯綜する考え。
 私のことをいやに詳しく知っていた『敵』。初めから存在を認識していた『敵』。私とほぼ同じときに忠太に接し始めた『茂人』。『敵』を完全に獣だと思っていた私。
「忠太、少し失礼」
「え、あ、ちょ──」
 ダンボールで補強されている窓をぶち破り、満月の光をまんえんさせる夜空へと、身を躍らせた。

 ◇

 茂人がいた? そんなばかな。茂人とはこれからめぐみちゃんの家で落ち合う予定なのに。それに、パステルは何をあんなに慌てているんだろう?
 頭を捻って考えてみるが、やっぱり分からなかった。開けられたカーテンから夜空を見上げると、満天の星に囲まれた満月があった。ぷっくり太って、偉そうに鎮座している。
 ──ありがとう忠太。そして──さようなら
 パステルはそう言った。意味が分からない。なにが、一体どうしたのだ?
 おれは無力だ。きっとおれじゃ手も届かないことをパステルは考えているのだろう。おれは何もできないから──。
 けどそうやって言い訳して、結局おれは……、逃げてるだけじゃないのか? 父さんたちが殺されて発作を起こすことしかできなかった頃の自分と、何も変わってないんじゃないか?
 そんなのはイヤだ。立ち向かうのは怖い。でも、友達を失うのはもっと怖い。
 やりきれない思いに拳を握る。……とりあえず、もう時間だ。
 戸締りをして、パステルが返ってきたときのためにメモを残す。家を出た。

 ◇

「……ぐっ」
 超人的な速さで茂人を追いかけながら、体の疼きが爆発するのを感じた。
 地震が起こってるみたいに視界が揺れる。転びそうになる。歪む視界で、振り返った茂人が不吉に笑うのが見えた。
 熱い。焼けるように体が熱い。満月の光で本来の姿に戻りたがっているのだ。小石も何もないところでつまずき、倒れてしまった。
「ククク──ハハ、無様だな、パステル・ムーヴィン」
 視界がぼやき始めた。ビクビクと手足が痙攣する。
「あなたが、本体とは、実に、残念です。それから──」
 小さな手を大きく振るう。茂人が見えない横からの衝撃に、倒れ、コンクリートの塀にぶつかった。
「──いつもの、茂人なら、もっと注意深い、はずですよ」
 茂人は倒れたまま動かない。ほんの小さな『力』の放出だったが、体中に激痛が走る。獰猛な呻き声が口からもれ、切ってもないのに血が出てくる。本来の姿が戻るにつれ、『鬼人』の私が喜び勇むのが分かる。
 茂人はまだ動かない。さすがに不審に思った。牽制ていどの攻撃だったのに。
 クックック──と、含むような笑い声が聞こえてくる。
「アァ──辛いなあ、この体は」
「……なに……?」
 しばらくその言葉の意味を吟味し、はっと気づく。完全に思考力が落ちていた。最悪の考えが頭に浮かび、熱を帯びたみたいに熱いのに血の気が引くのを感じた。
 いつもの茂人なら、もっと注意深いはず。
 私自身、そう口にした。
「忠太、は」
「クク──さぁてね。どうだろうな? それよりこいつの心配したらどうだ? 腕折れてるぞ。それからこいつは、なにやら切羽詰った顔でおまえの家に向かう所を、おれが捕らえたんだ。お前さ、ハハ、なに言ったんだ?」
「う……くッ」
 体が動かない。哄笑が脳髄に響く。
「満月の夜とはいえ、人間の体は長く操れねぇな。──じゃあな? パステル・ムーヴィン」
 愉悦にみちた亀裂の笑みが消え、がくんと茂人の体から力が抜けて倒れた。
「あぁ、ああああ!」
 肉体が変化する。ぼこぼこと腕が大きくなり、尻尾が消える。
 出し抜かれた虚しさもあったし、悔しさもあったし、惨めだった。精神さえも変化していく感じがする。全てが変わる。
 だけど、私は命じた。できる限りの権限を持ち、命令した。
 忠太を救え、と。

 ◆

 重たい体を引きずり、なんとか忠太の家へと帰りついた。手もあり足もあり、起用にドアノブを開けて家に入る。そこにいる私はまだ異形ではない。自制心を総動員し、どうにかこの姿──人間の形におしとどめたのだ。
「はぁ、はぁ──忠太」
 冷淡な光が灯る室内に、彼はいない。やがてテーブルに置かれた手紙に気がついた。
 ──めぐみちゃんの家に行って来ます。パステルも絶対に来るんだぞ。忠太。
 荒い息づかいで、ぼうっとそれを見つめる。忠太の字だ。『敵』に惑わされず、忠太はめぐみの家に行ったのか。どうして? いや、今そんなことはどうでもいい。めぐみの家なら無事か──と安心するが、生まれる引っ掛かりがあった。
 それは地上に降り立ち今まで過ごした中の、ほんの小さなひとかけらの記憶。手を伸ばせば届きそうなほど普遍的で、砂場の中からダイヤモンドを探すかのごとく難解な言葉。
 なんだ。なにが引っかかっている? ……分からない。思い出せない。どちらにしろ、めぐみの家に向かわなければならないことは確か。
 面倒だが忠太の服をきて、外に出ようとする。──ふとそこで立ち止まり、もう一度居間を眺める。思い出しかけた。思い出し──いや。
 思い出した。
「────」
 そうだ。そうだ……! もう一匹いたじゃないか! 私と同じときに忠太の傍に現れたもの。間接的に、忠太と私の情報を仕入れ、なおかつ近かった生き物が。
 ──私もついこの間、猫拾ったの。
 初めてめぐみと出会ったとき。彼女はそう言った。私と同じときに拾ったのだと。
 灯台下暗し。
 『敵』は、私と同じ、ペットだったのだ。

 めぐみの家は知らない。だが溢れ出る邪気がその場所を露呈させていた。
 家に侵入する。『敵』も気づいているのだろう。てぐすね引く、胸やけのする気配がした。リビングに続くドアを開ける。と。
「ようこそ──パステル・ムーヴィン」
 化け物がいた。天井に頭が届くかと思わせる巨体で、体中にくすんだ灰色の毛が生えている。不吉な笑みに、嫌々しい目をする。その瞳は赤く、鼻は鋭くとがって先端近くからはひげが幾本も生えていた。大きな前歯が光る。
 見まがうはずもなく、それは巨大なネズミだった。
「同じ姿を持つお前なら、もっと早く見つけられると思ったがな」
 クククと含んだ笑いをする。仮の猫の姿から、満月の光で本来の姿に戻ったのだろう。それは本当にこの世のものじゃなく、自分を見ているみたいに悲しくなった。
「パス、テル……?」
 酷く弱々しい声がした。化け物向こう、壁際に倒れている忠太がいた。口から血を流して、驚いた顔でこちらを見ている。
 思わず駆け寄ろうとすると、化け物のしっぽが鋭く唸った。激しく壁に叩きつけられ、激痛が走る。
「よく……私だと、わかりましたね」
「お、お前──女だったのか?」
 長い黒髪に、すらりとした体躯。忠太と同年代ていどの、仮の姿だ。この姿が一番しっくり来るだけの話だが、そう言うことすらおっくうだ。
「かわ、いいな」
 冗談交じりのその声に、だが覇気はない。肩で息をして、酷くきつそうだ。発作がおきかけていた。どうせまた、危険も顧みずこの化け物に立ち向かったのだろう。
「酷くきつそうじゃねぇか、パステル・ムーヴィン?」
「あなたは……、楽しそうですね」
 そりゃそうだと笑う化け物の腕には、気を失っているめぐみが抱かれていた。怪我はみあたらないが、ぐったりとしている。
「この女は便利だったぜ。オレを拾い、大切に保護し、お前たちの情報を語りかけ、オレのもっとも親しい存在になった」
 化け物は叫ぶ。
「オレはこの時を待った! いつか、かならず、お前に復讐してやると誓った! 忘れもしない屈辱をオレは味わった。忘れたとは言わせねぇぞ!」
「……記憶に、ありませんね」
 皮肉たっぷりに言ってやる。びゅんと唸ったしっぽが頬を打つ。抵抗もできず床を転がり、忠太が私の名を叫んだ。
「はっ──。勝負を挑んで負けたオレを殺さず、耐え難い屈辱を与えたお前を、オレは許さねぇ! ……なんとも惨めじゃないか? そこに転がっているお前は」
 体に力が入らない。変貌する体は沸騰するように熱く、抑制するたびにビクリと痙攣する。動かない瞳には床が映り、化け物が映り、その先で悲しそうな顔をしている忠太が映り。
 もういいかな──と思った。私は負け、ここにはいつくばっている。どんな言い訳をしようとその事実に変化はないし、むしろ当然だとさえ思う。この世界にいるべきじゃなかった。誰も私を望まない。
 私は化け物ですらないと言われ、否定したが、結局は認めたくないだけだったのだ。自分自身でも本当はそう思っていたのかもしれない。人間や化け物ですらない私は、では一体なんだというのだ。
 そんな私はなかったかのようにして、いなくなればいい。……もう辛いのだ。
 何かのせいにして、何かを犠牲にして、自分を騙して、わずかな希望にすがって生きていくのに、もう疲れた。
 でも……だとしたらなぜ、開放されようとする体を、私は押さえつけているのだろう?
 もう辛いのに、やめたいのに押さえつけ続ける自分がいる。
 もういい。もういいんだ。もう──いいんだよ。
「あああ、あああああああッ!」
 遠い叫びが聞こえた。まるで画面を隔てて次元の違う世界を見ているような。
 ──ああ、そうか。忠太だ。忠太がまた……くだらない、偽善的な行為をしているに違いないのだ。
 そう思うと、鋭い胸の痛みとともに、ぼやけていた視界がスッとはれた。
「お前、お前! よくも──ぐっ!」
 激しく壁に打ちつけられ、倒れこむ忠太。よろよろと立ち上がり、近くにあった椅子を持ち上げてもう一度突進する。ハエを払うように尻尾で叩かれ、床を転がった。呼吸は荒く不規則で、抑えられない嗚咽が口から漏れる。上げたその顔には血が垂れて恐怖ににじんでいたけど、宿った強い意志は砕けていなかった。ゆっくりと、再び立ち上がる。
「あァ──しつこいんだよ、このガキが!」
 しなる尻尾が彼を打った。何度も、何度も打った。だけど──忠太は、それでも立ち上がった。
 どうしてと思うよりも、怒りが先に立つ。化け物ではなく忠太に対してだった。
「どうして……どうして、ですか」
 はたき倒された忠太に質す。苦痛にゆがむも芯の通った瞳がこちらを見た。
「どうしてそこまで、がんばれるのですか」
 虐げられた苦しみを持つ忠太。発作の恐怖に見をすくめる忠太。人生に絶望したであろう、可哀相な忠太。なのにどうして懸命に生きようとするのか。楽になろうとは思わないのか。苦しいことばかりで、生きている中に喜びはほんの一掴みなのに。
 どうして他人を恨まない。逆に他人を虐げない。憎まない。他人のせいにしない。
 おまえがそこまでする義務はないだろう? ならもういいじゃないか。がんばった。でもダメだった。それで諦めればいいのに。
 どうしてそこまで私を苛立たせる。
「もういいでしょう。あきらめれば……いいでしょう」
 だるそうなこわばった表情の忠太。その体はボロボロで、彼の内側には発作という拭えない恐怖さえ満ちていることだろう。
「イヤだ」
 忠太は断言した。震える体を、打ち寄せる恐怖を圧し止め、ゆっくりと確実に立ち上がる。化け物が哄笑した。
「そんなに死にたいか小僧が!」
「おれにとっちゃ、やっとできた友達なんだ。それを虐めるやつなんか、おれは許さない。自分のために他人に手をかけるヤツなんか、おれは認めない」
 足元の、椅子の破片の棒切れを手にとる。
「ごめん、パステル。全然自分のことを話さないおれを助けてくれて。無力だからって、おれ逃げてた。仲良くしてくれてありがとう。今度はおれが──守るからさ」
 咆哮を上げ、忠太が化け物につっこんだ。
「やめろ、……死にますよ!」
「死なない! 誰も死なない! みんな助ける!」
 あまりのしつこさにむしろ楽しさを覚えた化け物は、笑いながらそんな忠太を跳ね除ける。それでも立ち上がり、忠太は立ち向かう。
 生きるのは辛い。虐げられるのは苦しい。永遠に恐怖は払拭できない。忠太とて同じで、むしろ人並み以上にその苦痛は経験しているだろう。忠太が語らない過去には、おそらく想像もしない痛烈な過去があるに違いない。
 ならどうして忠太は笑っていられるのか?
 全ての恐怖を押し付け、危険も顧みず立ち向かう忠太に質せば、友達だから、と答えることだろう。
 何気なく、当然だというように答えるだろう。
 つまるところ、そういうことなのだ。
 単純だった。認めたくなかっただけだ。友達が危ないから立ち向かえるし、友達がいるから──笑っていられる。辛くても、友達がいるから平気でいられる。
 初めは私と同じ「意地」だったのかもしれない。負けたくないと思い、他人や自分や運命を呪いたいと思ったかもしれない。だけど、その先で彼は見つけたのだ。
 私や茂人、めぐみ──求めていた希望という名の友達を。
 私が生きるのは「意地」があったから。
 他人を恨むのは、虐げられたから。
 なのに人間に執着してしまうのは、彼らの中に淡い希望を抱いていたから。
 ジェントルマンであるのは、他人の心に入りこみ裏切りやすくするため──でも本当は、その結果、彼らに求められたいと思っていたから。
 この口調になっているのは、そんな自分の気持ちを押さえ込みたいから。
 求めているのに自分から拒絶しているのは──私が傷つきたくなかったから。
 最初は全く一緒だった。私と忠太は、虐げられ意地だけで生きようとした。それなのになぜ結果がこうも違う? いったいどこで道をたがえてしまったのだろうか?
 そう考えると──あぁ、と……。私は理解した。
 忠太にこうも苛立ち、同じく羨望の想いを向ける理由が。忠太の中にある『何か』。
 私が絶望のふちにいるのに、同じような立場の忠太が笑っている。それに疑問を感じ、疑いを持ち、嫉妬し、激怒し──憧れを持ったのだ。
 私は忠太の中に、大きな希望を見出していた──。
 忠太が笑える理由も、今なら容易に理解できる。忠太は無力だと言った。だがそれは違う。私よりも、そこにいる化け物よりも、ずっと強く、逞しい。私が認めようとしなかったものを受け入れ、身をゆだねたのだ。
 それは『信頼』。
 忠太は一度も人を疑わず、従順なほどに素直のままの彼でいられた。
 そんな彼を、私は……私は、うらやましいと思う。
「うおお、おおおおお!」
 何度目になるだろう、新たに椅子を持ち上げた忠太が化け物につっこむ。化け物もあまりのしつこさに舌打ちし、今度こそしとめるつもりでかぎづめを振り下ろす。持ち上げた椅子が破壊される乾いた悲鳴。
「──忠太!」
 だがそこに彼の姿はない。化け物も見逃し、どこだとわめいて首を動かす──その真下。懐に忠太はもぐりこんでいた。びたんとうつぶせに倒れ、だが手には折れた椅子の足がしっかりと握られている。転んだことが、功を奏した。
「はぁ、くっ……、忠太、スペシャル! せい!」
 鋭く折れた木の棒が、化け物の腹に突き刺さった。
「ぐ──ぎゃ!」
 傷口から血が滴り、加減なく足が忠太の体をなぎ払う。テーブルとその上にあった料理を巻き込んで倒れた。
「ぐ、くそ、てめぇ!」
 その中の──白く柔らかいものに目がいく。ケーキだろうか。手作りなのか不恰好で、いたるところにウインナー……いや、チーズかまぼこが刺さっていて。
 ハッピーバースデエ パステル
 つたないチョコレートの文字が、崩れたケーキにそう書かれていた。瞬間、鮮明な記憶が遠くから蘇る。
 ──お前、誕生日ないの? まじでッ?
 ──いつ生まれたか知りませんからね。そんな驚くこともないでしょう。
 ──そっかぁ。でも、それってなんだか寂しいよな。
 その時の複雑な忠太の表情。しばらくして閃いたような表情。
 私の視線に気づいたか、いたずらがばれてしまったみたいに忠太は顔をしかめた。
「あぁ──新しく、ケーキ作らなきゃな……」
 決壊する。今まで生きてきて一度も流れなかった涙が、防壁を砕き溢れ出した。
 私は今まで、取り返しのつかないことをやってきた。許されず、軽蔑されても仕方がない。消えてしまおうとさえ思う。だけど……忠太。

 それでも私はまだ……、あなたの友達であることが、できますか……?

 力なく──包み込むように──彼は、笑った。
「アァ、いてェ! もういい! 終わりにしてやる!」
 化け物が吼える。息は荒く、怒りに我も忘れている。鋭い爪を頭上にかかげ、もう一つの手のひらには安らかな顔でめぐみが眠る。
「ハハ──楽しかったぜ、パステル・ムーヴィン! これでオレは『力』をとりもどし、『神』を倒して自由になる! じゃあな!」
 煌かないかぎづめが動き、高く血しぶきが舞った。
 バタバタと鮮血が床に滴り落ち──ドスン、と鈍い音がした。
「あ? ──ぎゃああ!」
 化け物の腕が切り落とされている。
 肩口から血が噴き出て、激痛にぎゃあぎゃあ化け物が呻いている。
「忠太。この子を抱えて、外へ出てください」
「え? あ、パス、テル?」
 その時には私は忠太の隣に移動していて、腕に抱えためぐみを忠太に渡した。肩で呼吸してきつそうだが、これは忠太にしかできないことだ。
「私はこの哀れなものを倒しますから」
 容姿と私がかみ合わないからか、どぎまぎしつつ忠太は頷く。めぐみを抱えてよろよろと玄関へ向かい、振り返って心配そうに私を見る。
「アァ──どこ行くつもりだ、お前ェ!」
 空を切って尻尾が忠太を狙う。瞬間、すっぱりと半ばから尻尾を断ち切る。
「忠太。……大丈夫です」
 苦しそうに頷いて、彼は家を出た。
「あぁ、クソ! てめえ、許さねえぞ! みんな殺す! そしておれは自由になる!」
「自由とはなんですか? 生きるとは一体なんですか?」
 今まで何も分からず、ただ化け物の意地だけで生きてきた。だけど少し──ほんの片鱗だけ、分かったような気がする。
「思い出しました。あなたは数百年前、私に戦いを挑み、そして敗れました。どうして殺さない、何のために生きているのかと問うて。改めて地上に降り、そこで再びあなたはどうして生きるのかと問いました」
「クハ──あぁ、そうだよ! 化け物にもなりきれない、拍子抜けの温いヤツだったがなぁ!」
「そう。あなたは正しかった。私は化け物だ。だが化け物になりきることはできなかった。花を綺麗だと思い、青空がすがすがしいと思い、昼寝が楽しいと思い、人間とのふれあいが嬉しいと思う心を、排除できなかった。私は弱い。化け物ですらない。でも──」
 それは体の隅々まで響き、世界にこだましたかのように感じた。
「人間のようにありたいと願うことはできる。そうであるように努力することができる」
 きっと。いつかきっと。挫けるかもしれない。裏切られるかもしれない。でもそのときには、傍に誰かがいてくれる。
「私は化け物ではない。人間──パステル・ムーヴィンです」
 教えられた。年端もいかぬ子供に、私は教えられたのだ。
「クック──ハハハ! 素晴らしい感動をありがとうパステル・ムーヴィン! だが蜘蛛の糸ほどはかない願いだな! 立っていることも精一杯のヤツが!」
 瞬間、横なぎに化け物が手を振るう。危うく伏せてかわすが、そこへすぐにけりが襲った。家具を破壊して窓のそばへ転がる。
「オレがいたずらにここまで遊んだと思うかっ? オレの恨みはこんなものだと思うか? 笑止だな! 月光で元の姿に戻るには、収斂した『力』の器が必要だ。オレにはその『力』が溢れ、だがお前には明らかに不足している! 理由は当然分かるだろうっ?」
 口から血をたらしながら、化け物を睨みつけて体を起こす。
「お前は『力』を使いすぎた! この夜以前に! オレが『力』で操るものたちは知能の低く、『力』をあまり使わなくていいものばかりだった。だがお前はどうだ? あんなにたぎらせ、放出したお前に残っているはずがない! あの小僧を殺すことなど二の次、今のお前の姿がオレの目的だったんだよ!」
 さも楽しげに哄笑する化け物。確かに私の体には『力』が不足し、元に戻ろうとする体と『力』の平衡がとれず、暴走しかねている。
 ……だが、化け物よ。
「以前よりあなたは『力』を増し、私に挑んだ。ならどうして私の『力』も増えていると思わないんですか? 裏をかいたその目的で私を再び出し抜いたといいました。だが最終的に勘が鋭いのは誰です? 器が大きいのは、結局誰なんですか?」
「あァ?」
「だから馬鹿は嫌いなのです」
 すっくと立ち上がり、後ろの窓にかかるカーテンをザッと開けた。
「──忠太を除いてですが」
 満月の光が、後光さながらに私のシルエットをうつしだす。体中が絶叫し、同時に『力』のリミッターを解除した。化け物の目が見開かれるのが見えた。
 灼熱が体に溢れたのは、ほんの一瞬。
「ば──かな」
 化けネズミがそう呟くその目の前には。
 腕の毛を優雅に舐める、化け猫がいた。
「驚くことはないでしょう。この姿は、一度見ているはずですが?」
 むろん揶揄だが、彼の動揺をあおるには十分だ。
 猫が化けネズミとなり、ネズミが化け猫となり、追い詰めているさまは、なんとも形容しがたい。
 背後からの月光に、銀色の毛がキラキラ光る。今なら、奈々子にギンちゃんと言われても納得する。それに比べ、目の前にいる化けネズミは、薄汚れた雑巾みたいな毛が乱暴に生えている。
「かわいそうですね。あなたはハムスターであることさえできない」
 動揺が屈辱になり、憤激にとってかわる。
「うるせぇ──うるせえうるせえ! オレは自由になるんだ! 誰もオレを、哀れむことはできないんだ!」
 わめいてかぎづめを振り下ろしてくる化け物は、まるでわがままをいう子供みたいだった。哀れで、かわいそうだと思う。彼もまた、忠太や私と同じように、枝分かれする道を一歩たがえただけだろう。でもだからこそ、容赦はしない。
 刹那的な一瞬で十分だった。
 忠太を倒して『力』を得らずとも、瞬間的に最大限まで『力』はたぎっていた。
 静寂に包まれる。月光だけが頼りの暗闇には、倒れ伏し絶命した化け物と、立ち続ける化け物がいる。
 きっとこれは分かれ道なのだろう。新しい道を選択した私は立ち続け、倒れふす化け物は以前の私と同じだ。私は生きた。意地ではないけれど、今はそれが素直に嬉しい。
 倒れ伏す化け物の血が滑り、足に触れる。さながらお前は絶対に逃げることができないんだと言っているかのように。
 そのとき、カタリと音がする。はっと目を上げると、不安そうな顔で忠太が顔をのぞかせた。私を見て一瞬びくりとするが、すぐに目を凝らす。
 こんな姿、見て欲しくなかったが、足に触れる血がそうしたのだろうか、私を哀れんで欲しいという孤独を求める自虐心がわいた。
「パステル……」
「……忠太」
 ややあって、上ずった声で彼は言った。
「すげ。かっこいいなぁ、おまえ」
 どう反応すればいいかわからなかったが、笑みを零す自分に気づく。
「──当たり前です」
 満月の光が、明るく感じた。
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