Novel βrother
なとりうむ
BBS  Home
第二章 | 第四章 | 目次

独り輝く、月の下で

第三章

 私は、自分がいつ、どこで生まれたのか知らない。気がついたら意識があって、いつの間にか生きるすべを身につけていた。そして、世界にとって邪魔な異分子なのだということも──分かっていた。
 自分がいつ生まれたか分からないのは、悲しくはない。ただ虚しく──ほんの少し、怖かった。
 いつ命の炎を灯し始め、いつ消えてしまうのか分からない。始まりが果てしなく遠いなら、終わりも果てしなく遠く──もしかすると無いのかもしれないから。
 思ってしまうのだ。私はなにをするために、生きているのだろうと。
 虐げられ続け。認められようと努力して。踏みにじられて。一瞬の快楽を得て。深い疑心暗鬼にとらわれて。希望を見出すために何かをして。苦しんで苦しんで、なおその何かを求め続け。
 何の意味があるのだろう。手に入れたとて、どうせ私の生にすればほんの一瞬の希望だろうに。
 もしかすると──この苦しみを味わうために、私は醜い存在に生まれ、一生の命を得たのかもしれない。
「甘ェ。いったいお前は、何のために生きているんだァ?」
 そんな私をあざ笑うかのような質問を、『ヤツ』はした。
 名前など知らない。どこから来て、どういう経緯で接触したのかも知らない。『ヤツ』は突然戦いを求め、体のいたるところに傷跡を残し、私の足元にひれ伏していることしか。その時の私は、私本来の姿だった。
 満天の星空に囲まれ、まん丸に暗闇を切りとった満月が、そんな私たちを静かに見下ろす。
「お前はオレと戦って、勝ったんだぞ! オレはお前を殺しに来た! だがお前はオレに止めをさそうとしない! ハハハッ、とんだ甘ちゃんがいたもんだぜ! お前は一体何のためにそこにいるんだよ! オレと同じ存在のお前がッ! この腐った世界の、さらに腐敗した部分を抽出したお前は、オレたちは! 一体何のために此処にいるッ!」
 『ヤツ』は叫ぶ。化け物のような──否、化け物だからこその大きな口を開け、血とつばを散らしながら。
「イライラする、アァ、イライラする! お前を見ていると、イライラするんだよ! 何悩んでいる顔してんだよッ! オレたちは! この世から見捨てられた存在なのに! 何かを望んでいるようなその顔が、イラつくんだよッ! 殺せばいいだろ! 殺して楽しくなることが、オレたちに与えられた特権なんだからサァッ!」
 狂ったようにわめき、痛みに悶える『ヤツ』。私と同じ化け物。
「この──『鬼人』がぁッ!」
 私は何も言わず、その場を去った。
 くだらないと思った。哀れだとも思った。
 言い返すことができずに──心が痛かった。
 自分を見ているようで、腹が立った。
 私は──一体、何のために生きているのだろうか……?

 ◆

 翌日夕方、地上へ降りて四日目。
「忠太が危ない……?」
 問うわけでもなく、一人ボソリと呟いた。暖房の低い唸り声が、知らないよと言っているような気がした。
 奈々子が動物に襲われた件についてだ。翌日になっても、その疑問が頭に渦を巻いていた。
 明らかに異常で、非日常的な現象。ありえない。ならなぜ起きた?
 私は考えた。奈々子が襲われた原因は、私にあるのではないかと。確証はない。だが可能性として、私という異端者に触れたことにより、奈々子が何かしらの影響を受けたのではないか──そういう考えが、最もしっくりくるのだ。普遍な者には、普遍な幸せを。異端者には、異端な制裁を。──実に理屈っぽい原因ではないか。
 とすると──忠太が危ないという事実が、急激に浮上してくる。
「忠太は今、学校……」
 危ない。ちょうど今は、昨日奈々子が襲われた時間の直前だ。早く忠太と合流しなければ──そしてこれからは、忠太を常に監視せねばならない。
 そのとき、コンコンと窓をノックする音が聞こえた。見上げると、そこには一羽のカラスが羽をはためかせていた。
 『力』を使って跳躍し、窓を開けた。カラスは窓枠に降り立つ──と見るや、黒羽をばたつかせて飛び掛ってきたではないか。
「ししょーう! ぼくことクロサキ、戻ってきました!」
 ジャンプしてかわし、カラス──クロサキの頭の上に、ぽすりと着地する。
「お帰りなさいクロサキ。いい加減会うと飛びかかる癖を直して欲しいものですが」
「あ、ごめんなさい、ぼくとしたことが鳥みだしてしまいまして」
 鳥にかけるな、鳥に。
「それで。現状は?」
「今のところ、新しい発見はないです。仲間にもこれといった変化は。ただ、暴走したものが目を覚ましました」
 流暢に言葉を使い──人間には小さく鳴いているようにしか聞こえないだろうが──クロサキは状況を説明する。
 クロサキは私が地上に降り、二日目辺りに知り合ったものだ。変貌した地上を散策しようと路上に出たとき、突然このカラスが襲ってきた。当然のごとく返り討ちにしたのだが、このカラス、なんと自分を弟子にしてくださいと名乗り出てきたのだ。
 面倒くさかったが、遠くへ移動するには便利だと思い、軽く承諾した。以来、私を師匠と仰ぎ、便利に使わせてもらっている。背中の乗り心地もなかなかのものだ。
 後に知って、クロサキはここら一体の空飛ぶ動物を束ねる長の、息子だったらしい。
「そうですか。それで、そのものはなんと?」
 私はその立場を存分に利用し、クロサキに仲間を用いて、昨夜の事件を洗うように頼んでいたのだ。
「はい。まだ完全に覚醒したわけじゃないですが──『覚えていない』、と」
「……そうですか」
「でも、その……うろ覚えらしいですが、気を失う前、彼は、──目を見た、と言ってました」
「目……?」
 目とは、文字通りの目か?
「はい。黄金色で、鋭く、吸い込まれるような瞳だった、って。その目を見て、気がついたら、さっき目を覚ましたみたいです。たぶん地上のものかと」
 地上のもの──とは、犬、猫、ネズミ、ヘビ……などか。
「そうですか、わかりました。引き続き上空から、数日前と比べた町の変化を見つけてください。それからクロサキには、これから忠太の監視を願いたいです」
「忠太とは……この家の子供ですか?」
「そうです。彼も、襲われる可能性が無いともいえない。異変があったら、飛んで私に知らせてください。すぐに駆けつけますから」
「わかりましたぁ。──じゃあ師匠行ってきますっ!」
「はい。いってらっしゃい」
 力強く頭をたれ、バサッと飛び立っていった。……ふう。疲れる。
 窓辺に落ちた黒羽を見つめつつ、しばらく考えを錯綜させていると、すぐに羽音が戻ってきた。
「どうしました?」
「ちょうど、帰ってきたみたいです。待機しときまぁす」
 玄関が開き、ただいまーといつもの元気な声音が響いた。
「忠太! 無事でしたか」
「無事? ……ああ、傷なら浅いから大丈夫って言っただろ?」
 そういうことではないが、無事ならばそれで良い。矢継ぎ早に聞く。
「昨日と比べ、何か変化はありませんでしたか? どんな些細なことでも構いませんから」
 さすがに忠太は怪訝そうな顔をした。
「なに? 別にないけど」
「そうですか。なら良いですが、これからは気をつけて──」
 ピンポーンとチャイムが響いた。パッと表情を光らせた忠太が玄関へ駆ける。ニヤニヤ顔の彼が戻ってくると、その後ろから華奢な少女が一人入ってきた。めぐみだった。
「これから、めぐみちゃんと仕事に行ってくるから。帰りはちょっと遅くなるかもしれないから、パステルは自分でご飯食べてくれるかなぁ?」
 後ろのめぐみが、ぺこりと人形のようにお辞儀をした。
「いいだろ、パステル?」
 良いわけがない。ただでさえ危ない時間、忠太を無造作にほっぽりだすなどできるはずがない。危険がないと確信できない以上、少しでも目の届く所にいて欲しかった。
「でも──分かりました。なら、私も行きます。邪魔はしませんから」
「えっ? え? パステルもくるの?」
 すると、思いのほか忠太は面食らったようだった。引きつった顔でめぐみを振り返る。
「え──っと、ど、どうするめぐみちゃん?」
「そうだ、ね。う──ん、別に、いいんじゃないかな?」
 忠太と同じ動揺を、めぐみも感じているようだ。変に思ったが、すぐに忠太の肩へと駆け上る。
「それじゃ、いこっか」
 戸締りを確認し、忠太とめぐみは家を出た。

 空は、昨日の大雨が嘘のような快晴だった。ところどころに水溜りがあって、めぐみが楽しそうにぱちゃぱちゃと踏みつけていく。それはさながら、妖精が踊る喜びの舞のようでもあった。
「……美しいものですね」
 思わず頬が緩む。忠太を仰ぐと──しかし、悲しそうな、だけど苦しそうな、珍しい表情をしていた。
「昨日さ……ありがとな」
 かみ締めるように、突然忠太が呟いた。口調に揶揄はなく、彼が真剣に何かを伝えるときのそれだった。
「昨日、パステルがいたから、おれはこんな怪我ですんだんだ。姉ちゃんだって、あの程度の怪我でよかった。──ちゃんと礼言ってなかったから。ごめんな。ありがとう」
 唐突に何を言うのだ、この少年は。私は私のためだけに行動しただけなのに。
 だけど──私は見た。小さく、見えない程度に、忠太は唇を噛んだ。噛んで、呟いたのだ。
「……おれは無力だから。何も出来ないから」
 自分を戒めるように、叱責するように、ともすれば呪うように。
 ……そうだ。そうなのだ。忠太は、自分の大切な人が危なかったとき──何も出来なかった。助けることができなかったのだ。
 理解する。それが忠太にとって、どれだけ屈辱的で悔しいことなのかを。
 数少なく、だからこそ心を許せる人間。私がいなければ、今頃どうなっていたことだろう。無力な自分は何もできず、ただ傍観するしかなく、最悪の結果を見続けることしか出来ない忠太。
 忠太は無力だ。無力で、無知で、何も出来ない無垢な人間だ。
 忠太はそれが悔しいのだろう。腹立たしいのだろう。昨日彼は、明るく振舞い、私たちに心配をかけなかった。でも心の奥では、自己嫌悪や恐怖感に、押しつぶされそうになっていたのだ。強がって、心配させないために。
 忠太の肩が震える。体が震える。自分への怒りが、悔しさが、もどかしさが、沸騰し、彼の中の発作という爆弾を融解し始める。
 だけど、忠太。
「あなたは確かに無力でした。何もできなかった。でも──あなたは、奈々子を助けるために、なりふり構わずつっこんだじゃないですか。私でさえ、一瞬おののいてしまった場面で。それはきっと、素晴らしいことだと思います」
 そうだ。救えなかったが、忠太は救おうとした。臆すことなく、果敢に、ためらいなど一切振り払って。
 私には分からない感覚。関係なくて、偽善的なものだろうけど。
 きっと、すごいことだろうと思った。
 どんぐり眼で私を見た忠太に、フンと鼻息を立ててやる。
「それに、忠太は筋トレもしてますしね。そのうち、強くなるんでしょう?」
 茶化すように言う。小さく忠太は吹き出した。声を出して笑う。……ちょっと、私らしくないことを言ったか。
「……、そうだなぁ。おれ、強くなるもんな、きっと」
「いえ、ちょっとした言葉のアヤですけどね」
「え? え? どうしたの、二人とも?」
 水溜りと戯れていためぐみが、きょとんと小首を傾ぐ。
 なんでもないよというセリフが、忠太と被った。

 職場は、アットホームな雰囲気の良い本屋だった。
 フレンドリーがモットーであり、個々のニーズに応えたり、割引制度もあってか、そこらのチェーン店にも客足は負けない。らしい。
「いらっしゃいませ──あ、忠太くん、めぐみ。待ってたわよ」
 店内には、その話も納得できる花のような笑みを、店員──めぐみの母親が見せた。
「話は聞いてるから。忠太くん、無理しなくて良いからね」
「はい。でもたいしたことないので、お気遣いなく。よろしくお願いします」
 はいよろしくと微笑んで、店員の証であるエプロンを渡した。視線が私に移る。
「あら、確かあなたは──ギンちゃんだったかしら? めぐみと、奈々子ちゃんから話は聞いてるわ。とても紳士で、格好いい方だってね」
「……、パステル・ムーヴィンと申します、お母様。お会いできて光栄です。どうぞ、ふつつかなものですがよろしくお願いします」
 内心、奈々子に毒づきながら恭しく頭を垂れる。忠太がぽんと私の頭に指をおく。
「そうだよな。パステルはふつつかものだからじっとして待ってろよ」
「私のことではありません。あなたのことです、忠太」
「え? おれ?」
 楽しそうにめぐみが笑った。めぐみの母も、よろしくねと微笑んだ。

 客足が増えてきた。学校帰りの学生や、買い物途中の子ずれの主婦など。かと思えば年配の人間も来るし、小学生くらいの子供まで本を買いにきていた。平日の夕方ならこれは大盛況だろう。めぐみの母は、値引きキャンペーンをやっているからだと教えてくれた。普通はこれの半分くらいらしい。
 私はカウンターの横に、置物よろしく寝そべってそんな店内の光景を俯瞰していた。
 子ずれの主婦が、親しそうにめぐみの母に声をかける。置いてない本を、直接取り寄せてもらう制度も、この店には導入されている。が、そんなことは二の次というふうに、世間話を始めた。子供は大変だとか、そんな話。
 ふと視線を感じる。話しこんでいる母親の子供だろうか。レジ横に横たわる精巧なぬいぐるみを見る──みたいな視線で、ぼうっと私を見つめている。私も見つめ返す。
「好きな本を買うと良いですよ」
 やおら言ってみた。うお、と子供は驚き、お母さんぬいぐるみが喋ったよ! と力説し始めた。母親は適当にいさめているが、めぐみの母がちらっとこちらを見る。……すみません。
 実に良い感じだ。人気も出るはず。良いこと、なのだが……。
 ちろりと視線を移すと、本棚の手前で忠太がしゃがみこんでいた。かごの中にある在庫本を取りだし、せっせと買われて抜けた本の穴埋めをしている。すると、小学生くらいの少年が本の場所を聞いてきた。丁寧に教えてやり、作業に戻ると、今度はめぐみから本の分別作業を手伝ってほしいと言われ四苦八苦している。
 ……少し、この盛況はきつすぎるだろう。
 まあ他人事だと思い、客に不審に思われないよう黙って待つことにした。
 と──おもむろに顔を上げる。怯えた草食獣──というよりは、餓えた肉食獣の瞳で、辺りを見回す。交わされる談笑。立ち読みする学生。忙しく動き回る忠太とめぐみ。吹きおろす温風と、やんわり響く音楽。変哲のない光景だ。
 もう一度見まわしたあと、ゆるりと寝転がりなおした。
 ああ、温風があたり、揺れるひげが心地よい……。

 どれだけそうしていただろう。客足も途絶え、空を包む夕日が落ち始める頃、ようやく終了の声がかけられた。忠太はヘトヘトで、日ごろ手伝いをしているめぐみもだるそうだ。
「ありがとう、助かったわ。今日で割引期間は終わりだから安心して。これからは一人で良いから、二人はもうかえって良いわよ」
 二人は店を出た。西の地平線はこげるような真紅が踊り、東の地平線は澄んだ群青色を孕みこんでいる。吸い込む空気が冷たかった。
「さて──と。茂人は来てないなあ」
「うん。……あ、あれじゃない?」
 めぐみの指差す先には、こちらに手を振って歩いてくる一人の少年がいる。
「忠太。どこかへ寄るのですか?」
「うん、ちょと買い物。パステルにもなんか買ってやるから、そんときに顔出せば良いよ。寒いだろ、ほら」
 胸ポケットにスペースを開けてくれたので入り込む。ただし顔だけは出しておく。茂人が追いついた。
「ごめん、いこうか。──ん? あれ、パステルさん? きてたんですか?」
「……いてはいけないような口調ですね」
「いや、そんなことはないですよ」
 上辺だけ繕われた言葉で、三人は顔を見合わせ苦笑いする。む、疎外感。
 三人が向かった所は、電車で十分くらいの大型ショッピングセンターだった。
 こちらもさすがに客が減り始めており、大きな駐車場には数えられるほどの車しかなかった。その駐車場の形と、抜け道、安全性に目を走らせる。
「忠太。下ろしてもらえませんか」
「え? もうすぐそこだよ?」
「野暮用ができました。すぐに終わるので心配は無用です」
 釈然としないようすだったが、自分から無理やり降りて、彼らと別れた。
 一人残された駐車場は、ひどく巨大なものに感じられた。夕焼けはもう没し、群青色の空がしだいに漆黒のそれへと取って代わっていく。冷たい風はひげを揺らし、夜の到来を告げる知らせのようでもあった。
「砂漠に入った小人のような気分ですね……」
 私から見ても、周りから見るものとしても。
 私は小人。無力で、何の力も無い小人だ。
 だが、その小さな体に隠し持っているものは、どんな鎧も一瞬で惨殺できる禍々しい武器。そして意志。
 獲物の皮を被り、ひ弱に立ちすくみ、ヨダレをそそらせる、最高の食材として。
 ゆるりと待つ。さも油断しているように。だが精神を研ぎ澄まし、集中力を剣のように鋭くして。──待つ。
 やがて警戒していた敵も、我慢ならなくなる。牙をむき、下卑いた自分の息遣いに、なお奮起する。そして警戒を解いたら最後。
 ミステリックにサイケデリックにファンタジーにミステリーにホラーに──。
「叩き潰します」
 ダン、と地面を蹴った。同じ動作で、全く何も見ずに、体を回転させて蹴りを振るう。真空を裂く見えない蹴りの残像が、『それ』を襲った。
 ぎゃっと呻いて倒れ伏すのは、今まさに襲い掛かってきた──野良犬。おそらく、先日襲ってきた生き物と同じ類の。
 音も無く地面に立った私は、ゆるりと二本足のまま後ろを振り返る。
 喉奥から低い唸り声をあげる、野良犬。野良犬。野良犬。ゆうに二十体はいるだろうか。皆正気を失った瞳で、死んだ仲間に気さえ払わず、私を注視している。
「この争いは、多勢に無勢の類ではありませんよ」
 全身に漲る洗練された『力』の奔流。日を追うごとに、強くなっているように感じる。
 吼えて威嚇する野良犬を無視し、その『力』をかみ締めるように、四本の指の開閉運動をする。ぎろりと、無数の敵を見据えた。
「苦しみは、しませんから」

 惨殺だった。
 駐車場でやるのはまずい。だから排熱機などが積まれている店の側面へ、敵──野良犬を誘いこんだ。当然、人の気配は皆無。
 理性が効いたのはそこまで。そこでやった。
 日は落ち、辺りは暗い。今やそこらに幾つもの影をつくる骸が伏しており、漂う腐臭が鼻をつく。
 排熱気に、地面に、壁に、金網に、鮮血が飛散している。夕焼けのような美しい紅色ではなく、邪悪な汁を濾したような、どす黒い赤だった。
 昨日のような気絶させる程度の傷ではない。完全に急所を狙った、必殺の一撃ばかりを放った。
 実感する。ふつふつと増していく『力』と一緒に、『鬼人』としての私が理性を食い破ろうとしているのが。
 懐かしく、楽しかった。この後には罪悪感が溢れるだろうけど、今を楽しみたいという欲求がすでに溢れ、零れ出している。
「いつから……気づいていた?」
 低い、男の声がした。怯えはなく、むしろ挑むような口調だ。
 当然、周りに人はいない。目の前に対峙する、残り五匹となった野良犬のうちの一匹からだった。
 私は動じない。人の言葉を吐く犬に私が驚くなど、道理外れもいいところだ。そして──私たちを狙う敵がいることにも、さして大きな反応を見せなかった。
「ある程度、予測はしてました。大量の動物が襲うなど、私のような存在が絡まないとまず考えられない。しかし私にそのような発生源がないと考えると──」
「成る程。第三者しかないって訳か」
「そうです。そして先ほど確信しました」
 本屋にいるとき──視線を感じたのだ。室内からではない、わずかな殺気を含んだ突き刺すような視線を。
 暴走するケモノの視線ではない。理性で抑えた、けれど殺したい欲求に駆られた視線──これまで、吐き気がするほど向けられた視線だった。
「恨むものを、憎むものを見つめる視線。私たちを狙う、誰かがいると」
 そしてそいつは目の前にいて、いま私に殺されそうになっている。
 クク──と。
 押し殺した、我慢なら無いという笑い声。高みから俗世を睥睨したような、侮蔑した笑い声。
「クク──クハハ、ハハハハ!」
 野良犬が声を張りあげて笑った。裂けそうなほど口角を吊り上げ、歯茎さえむきだし、声の限り笑い倒した。
「面白いじゃねぇか! 鈍っちゃいねえ、貴様は以前のように鋭いままだっ! そうだ、勇敢にさえ見える真っ赤な血を浴びて! 生きることに終始し、目的を達することに全身全霊をかけ、殺すことを厭わないのが! お前や、オレという存在だッ!」
「……一緒にしないでください」
「あぁ──そうだったな、お前とオレは確かに違う。だが中身は全く一緒なんだよ。鮮血を体中にこびりつかせて平然としているお前は、絶対的に人間ではありえない。人間も、オレも、認めない。ならなんだ? お前とは、一体なんだ?」
 簡単だよ──不吉な笑みを野良犬は浮かべる。
「いちゃいけない存在! それがお前だ!」
 ちくりと──否、胸元に刃物を突き刺しねじられたような、鋭い痛みが走った。
 いちゃいけない存在? 私が? 何を言う。……どうして?
 フラッシュバック。蘇る記憶、過ぎ去る苦痛。
「オレだから解る。オレだからこそ解る!」
 同じ虐げられた化け物だったからこそ、解れる苦しみ、苦悩。故に鋭い剣尖となる言葉、告げる事実の重さ。敵の戯事とわかっているのに。めまいがし、胸が痛んだ。
 何もして無いのに。みんなが排他的に扱うのが悪いのに。そうさ。私はやってない。私は悪く無いのに、皆が──。
「皆が悪い? 自分は悪くない? ハッ──自分を見ろよ!」
 呆然と視線を下ろす先。小さなその手は、目もさえる真っ赤な血で染められていた。殺したものの血。何も思わず、感じず、邪魔だったから殺したものの残骸だ。血なまぐさい臭いに、頭がかき回されているようだ。
 私が、私が殺した。私が──ワルイ?
「なのにどうした! さっきのお前の目はッ?」
 顔を反らし、見下すような瞳で、鋭い遠吠えを空に放つ。
 ここで殺しておくべきだった。有無を言わさず、懸念が深くなろうとも──殺すべきだったのだ。
「くだらねぇ人間なんかじゃあるめェし! あの思いつめた顔はなんだ! ぬるま湯に浸かったような顔はなんだ! 辺鄙な希望を望むような顔はなんだ! 思い悩むような顔はなんだ! くだらねえくだらねえ! 悪者は悪者らしく! 邪魔者は邪魔者らしく! 化け物らしく──『鬼人』らしく生きろよッ、アァッ?」
 いちゃいけない存在。だから化け物らしく開き直れ。そういうこと。でもどうして? 望むって、そんなに難しいこと? 許されないこと? 希望って、そんなにダメなこと?
 刹那。地面を蹴る、複数の音。
 我に返ったときには、鋭い牙を見せた口が二つ、目の前で大口を開けていた。
 とっさに跳び、両手の先端に『力』を込める。軽く前転する目に、獲物を取り逃がした二匹の、骨ばった背中が映った。
 ざっくり切り裂かれた何かが、振るおうとする腕にためらいを与える。
 殺すのか? 殺したら私が悪いのか? 私が殺すから──嫌われるのか?
 何のために生きる? 生きている? 化け物らしく生きる? 私は──。
「くッ……!」
 考えるな。考えは、動きを鈍らせる!
 鋭く腕を振るうと、放出された『力』が瞬時に二匹の首を打った。
 だが着地する寸前、私の体はもう一匹の犬の犬歯に当てられていた。先ほどの躊躇が、タイミングを狂わせた。
 歯と歯のかみ合う硬質な音。顎が折りたたまれ、私を咀嚼しようと力がこめられる。自らのどに突っ込み、何とか牙を逃れた。
 のどの中央で体を止め、全神経を『力』の統一に集中する。悶える犬の喉を、肉を裂き骨を砕いて突き抜け、直線状にいたもう一匹の体に体当りした。
 押し倒し、さらに後方にいた最後の──饒舌な犬の胸元に、『力』を叩きつけた。
 『力』は肉体の内部で炸裂し、骨の折れる不吉な凶音がくぐもった。
「ぐッ──がぁ……!」
 支点を失い、野良犬は倒れこんだ。その鼻先に立ち、つとめて無感動に倒れ伏す犬を見下ろした。
「どうして私を狙うんですか? なぜ私の存在を知っているんですか?」
「ぐッ──ハハ……! 最高じゃねえか! そうだ。お前はそうあるべきだ。そのために生きるべきだ!」
 質問に答えず、最高だ、最高だと狂おしいほどに叫ぶ野良犬──否、『敵』。
「そうじゃなきゃ──そうじゃなきゃ、『目的』は達成できないだろうからなあ! お前とオレの、同類の『目的』をッ!」
「…………」
 クハハ、と笑って。
「『神』を殺す! オレを封印した、ヤツを殺す! そうして、オレは自由に──」
 ベチャ、と、頭が大破した。
 突き出した腕を、ゆっくり下ろす。
 辺りは暗く、嘘のように静かで、だけど消えない名残が、この出来事を現実だと教えてくれた。
 じっと『敵』を殺した手を見つめる。感慨なく、感情のままに、『力』を振るった腕を──自分自身を見つめた。
 何度も。何百度も繰り返してきたことなのに。『目的』も、封じた『神』をこうして、自由になることなのに。
 化け物として生きるべきだ──その叫び声が、頭に反芻して無性に虚しかった。
「…………」
 ──忠太。そうだ、忠太は……忠太は、どこだろう。もう買い物は終わっただろうか。チーズかまぼこ買ってやったぞと言って、私に笑いかけてくれるだろうか。……こんなに血まみれで、大量の命を奪った私を? 人間外のいてはいけない私を? 傲慢だ。けど、忠太ならそうしてくれるという不確かな希望があった。
 のろのろと歩く。四足で『力』を使うことなく、普通のネズミのように歩いて向かう。
 初めは気づかなかった。何も聞かず、何も考えずに歩いていたから。でも、視界にチラチラと明滅する赤い光が、さながら踊り狂う血の化け物のように感じられて、はっとして顔を上げた。
 救急車──だったか。店の前でエンジンを切り、赤いランプだけ点灯させて、その周りをせわしなく人が行きかう。
 こんな時間になんだろう? 誰かが怪我をしたのか。どうせ、私には関係ないか。
 上手く頭が働かなかった。無関心に、その隣を通過して店の中に入ろうとする──。
「母さん、母さんッ!」
 悲痛な声──叫びが、聞こえた。ごく最近、ついさっきまで聞いて、鼓膜になじんだ心地よい声音。今は張り裂けそうで、悲しそうで……?
 ……、──ああ。そうだ。思い出した。……めぐみだ。
 めぐみは、担架に乗せられ救急車に移される人に、必死に呼びかけている。お母さんお母さん。何をそんなに叫ぶ必要があるのだろう。やがて見るうちにめぐみもその中に入り込み、うるさいサイレンを鳴らして救急車は去っていった。
 玄関には野次馬がたくさんいたが、店員が引率し、しだいに人影は薄れていった。
 その中に、動かない影が二つ。
「……忠太。茂人」
 呆然と立ち尽くし、去っていった救急車の幻想を見つめる二人は、私に気づかない。もう一度呼びかけると、茂人がびくりと私に気がついた。
「……、パステル、さん……」
 瞳孔の開いた、切羽詰った瞳が私を認める。だが血まみれの私を見ても、彼は特に反応を示さなかった。ただ一言。
「連絡……しなきゃ。めぐみさんの、お父さんに」
 そう呟いて、店内にかけて戻って行った。
 らしくない彼を見送り、のそのそと立ちすくむ忠太の隣に立つ。
「……忠太」
 聞こえている。だけど聞こえない。忠太はまさに、そんな状況だった。
「……めぐ、みちゃんの、お母、さん、が……、」
 ヒュク、ヒュク。がくりと膝を落とし、肩を揺らしながらあえぎ呟く。
「お、おれ……を、かばって、倒れ……ヒュク、たな、の、下敷きに、なって……! おれの、ヒュク、せいで……! おれ、また……! 何もで、きなく、て……ヒュク」
 あぁ──と、倒れゆく忠太の傍ら、穏やかな理解をする。
 忠太は、また守れなかったのだろう。何がどうなって、どういう結果になったのかは分からない。
 ただ忠太はそのことを、自分のせいだと思っている。姉を救えなかった。今度はめぐみの母を救えなかった。めぐみまで傷つけた。自分のせいで。自分の無力が故に。
 自意識過剰なほどの自己嫌悪。
「忠太──。あなたは、ある敵に狙われています」
 忠太が息を荒げながらこちらを見る。
 なぜこんなことを言うのか、自分でも分からなかった。
「その敵は、私と同じ類の存在。化け物です。私と同じ力を持ち、虐げられ、目的を持った異質者です。そして今、私と同じときに目覚めたそいつは、あなたを狙っています」
 嘘ではない。忠太を狙うのは、間接的に私を狙うことになるから。事実、なにが起きたか分からないが、めぐみの母が怪我をした原因は、その敵だ。
 私をひきつけておいて、その隙を突いて忠太を狙ったのだ。
「私と出会ったときから、その化け物に忠太は、──命を狙われているのです。だから──」
 襲われた奈々子。怪我をしためぐみの母。傷付いためぐみ。
 全て忠太を中心に起こっていた。
 忠太が行動一つ変えなければ。いつも行く買い物を、奈々子ではなく忠太が行っていたなら。忠太に力があり、庇うめぐみの母を救えていたなら。めぐみの心を傷つける不用意が無かったら。
 忠太が悪いから。忠太が無力だから。
 完全なあてつけだった。なぜこんなことを言うのか分からないけど、忠太をとことん侮蔑したい気分だった。すべての荷を負わせたい。調子に乗った怨めしいライバルの失敗を、皮肉たっぷりにあざけたい気分に似ていた。
「全部、忠太が──」
「あぁ──あぁあ、ッ、ぁぁあ!」
 大きな悲鳴は無い。肺が過呼吸を起こし、酸素が無いから。あえぐような慟哭で、揺さぶるような動悸に胸を押さえて、力なく倒れこむ。
 唇がカラカラに乾いて、軽く吐いた。しだいに気を失っていく。
 私はそんな忠太を、力なく見つめる。
 助けなければ。忠太が危ない。誰か救急車を──。
 だけど私の体は、一向に動いてくれなかった。
 私はそれを、自分の中に入る『鬼人』のせいだと決めつけた。
第二章 | 第四章 | 目次
 
BBS  Home
Copyright (c) 2007 ヴィジョ丸 All rights reserved.