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独り輝く、月の下で

第二章

 出て行けよ。誰かが言った。騙したな。誰かが言った。化け物め。誰かが言った。
 ただ仲良くなりたかっただけなのに。否応なく私の姿が変わる『その日』に、彼らはそろって悪態をついた。ある者は泣き叫びつつ、ある者は被害者ぶりつつ、ある者は怒り狂って拳を振り上げつつ、薄い希望が煌こうとしていた私の心を、徹底的に叩き潰した。
 やめて。お願い。もう言わないで。どこか行くから。関わらないから。叩かないで。殴らないで。そうじゃないと。
 あなたたち、死んじゃうよ……?
 ケタケタと、さも楽しげに転がすような笑みが脳裏に響く。嘲笑するように、あきれるように。
 全ての終焉を告げるような暗闇を、月がちょこんとまん丸に切りとる空の下。
 どれだけ同じことを繰り返しただろうか。毎回同じ希望を味わい、絶望を味わい、快楽を味わい、それをして私はどれだけ癒されたのだろうか。
 悲鳴を上げる人々。逃げ惑い、そして──自らの大切なものを守る人々。向けられる鋭い眼光。その目つきが──その目つきが! 私をいらだたせるのだ! そんなヤツは! こうしてやる! こうしてやるッ! アハッ、護ろうとして護れなかった屈辱を! 味わえ、味わえ! アハハ、アハハハハハハッ!
 手に残るリアルな感触! 耳を裂く悲鳴! 制圧感! 楽しい! 餓えていた心が、満足するのが分かる! 力が溢れる! 満たされる! 楽しい──楽しいのに! どうして!
 涙が、溢れてくるんだろう……?

 はっと目を覚ました。稼動する暖房の、ひくい唸り声がひびく。
 少したって、ようやく悪い夢を見たのだと気がついた。
 なんて心が弱い。忘れられない。私は生きている間、永劫この苦しみから逃げられないのかもしれない。
「ふう……」
 一息ついて気を取り直し、リモコンの電源ボタンを押し込んだ。チャンネルをニュースに変え、汗で湿った毛を、舐めてといていく。ちょうど天気予報だった。
「九州南部地方は低気圧の谷の影響で、今夕に掛けて曇り、今夜に掛けて雨になるでしょう。しかしその後低気圧は北上するため、明日から週末くらいまでは、高気圧が覆い概ね晴れるでしょう。気温も上がるため、たまっていた洗濯物を片付ける事ができそうです」
 ──晴れ、か……。どうやら天の神は、私に味方をしているらしい。
「ギーンーちゃぁあん!」
 突如。横殴りの掛け声が、耳朶を打った。
 理解したときにはもう遅い。その場を跳びのこうとした私を、むんずと掴み上げる両手。
 その両手の主──平河奈々子は、横っ飛びに掴みとった私ごと、テーブルの上をヘッドスライディングさながらに滑り込んだ。
 意外に手の力が強い。身動きがとれずじっとしていると、おもむろに顔を上げた奈々子がにはぁと笑った。
「やっほ。元気?」
「先までは。今は体が痛いです」
 そりゃあ良かったと満面の笑みを見せる奈々子。良くないですよ。
 忠太のテンションをそのまま──いや、それ以上を持ち合わせた人間こそ、奈々子なのだ。本人は楽しいだろうが、付き合ってやる身にもなって欲しいものだ。
「何のようですか」
「冷た! 冷たいなー、ギンちゃんは」
「そのギンちゃんというのは、一体なんです」
 私を解放し、テーブルの上に胡坐をかく。
「星空の下にいるあんたの毛が、銀色に見えたから。だからギンちゃん」
 まさしく忠太と同じ発想を持つものか。
「今夜は雨が降るらしいです。買い物は早めにいった方が良いですよ」
「あ、そうなん? 親切だなー、わかった、ありがと」
 チュっと投げキッスをよこし、テーブルから降りる。背を向けリビングを出て行こうとし、
「──っと見せかけて、ゲット・オン・マイハンド!」
 華麗な海老反りを見せて、やはり再び飛び掛ってくるか平河奈々子。
 今度こそかわし、奈々子の両手は無残に空を切った。そのままテーブルの上をすべり、床にダイビングする。ゴツンという鈍い音。
「痛! 痛ッ! 何でよけるのよギン太郎!」
「太郎ではありません。よけるのも当然です」
「なにー? こいつぅ」
 むすっとした奈々子は、地獄の底を這う亡者のような体たらくで、ずりずりとテーブルに這い上がる。へっへっへと、私を捕まえようと手を伸ばしたとき、
「ただいまー。……あっ。姉ちゃんまたテーブルに乗って! ダメだろ、そんなことしちゃ!」
 ナイスタイミングで忠太が帰宅した。
「……ちぇ。はーい、ごめんなさーい」
 憮然とした顔で飄々とテーブルから降りる。忠太、えらいぞ。
「さーてと、それじゃあお姉ちゃんは買い物にでも行って来ますかね。しょげちゃったからね。お姉ちゃんしょげちゃったからね」
「え、姉ちゃん今日いくの?」
 晩ご飯の買出しは、もともと忠太の役割である。この家は忠太と奈々子の二人しか住んでいないため、家事を分担しているのだ。両親がいない理由を知ろうとは思わない。知っても、役に立たないだろうから。
「いいのいいの、今日はあたしがいくから」
 家事分担にうるさい奈々子としてはめずらしい。
「弟にもいえないものを買うんだね……」
「違うわよ! 気晴らしよ、気晴らし。実はね、めぐみちゃんのお母さんから、商品券もらったの! イヤ! やらないわよ、あんたたちにはやらないんだからね、お姉ちゃん今のこと根に持ってるんだからね!」
「分かってるよ……。いってらっしゃい」
「いってきまぁす。フッフ、楽しみだわあ」
 満面笑顔の奈々子が出て行く。
「奈々子?」
 ──声が出た。突然。何の意識もないまま、勝手に口が動いたのだ。奈々子と忠太が同時に私を見る。当の私は自分自身に困惑してしまう。
「あ……いや、なんでもないです」
「お土産は期待しないでいいからねえ」
 そう笑ってドアの向こうへ消える奈々子に、なぜだか私は瑣末な気がかりを覚えた。それはどんな種類の予感か分からないし、すぐにうやむやになってしまった。気のせいか……。
「さ〜て、と。姉ちゃんがいなくなったぞ」
 伸びをして、つと背を向ける忠太。キッチンへ向かおうと足を踏み出す。私は顔を上げる。
「──と見せかけて、ゴールデン・マイハンドォ!」
 さっとよける。小気味好い音を響かせ、忠太がテーブルに激突した。
「ふ、ふぉおおおお! な──なんで分かったのッ?」
「……あなたたち、よくそれで生きていけますね」
 あの姉あらばこその弟か。さっきの懸念は、完全に消えてしまった。

 ◆

 私は人間ではなかった。人間とも動物とも違う、いわば化け物のような生き物だった。
 故に、私は自然と警戒心を持つようになった。人間は己と違うものを忌み嫌うから。襲われないように。なじられないように。寝るときも、食べるときも、いついかなるときも。
 だが忠太のもとに来て、その警戒心を怠っていた。いうなれば完全に油断していた。だって警戒する必要がなかったから。バカばかりの、疑わない変な奴らばかりだから。
 怠けていた。だから気づけなかったのだ。数百年前の自分なら、懸念ではなく確信を奈々子の背中に抱けていたはずなのに。
 そして忘れていた。何度も経験したことだというのに。
 心休まる平和は、いつか必ず、唐突に終わりを告げるものだと。

「なあ、何でいつもそんな、礼儀正しいんだ?」
「今更ですね。……こうしたほうが、冷静に、客観的に、場や自分を見渡すことができるからです。自分をいさめることもできます。それに、親しみやすいでしょう?」
「……最後のはどうかなぁ」
 話していて。異変に、最初に気づいたのは忠太だった。
「なんか……外、騒がしくないか?」
 夕日になる直前の、色あせた空が広がる時間だった。私も耳を立て、外の音に神経を集中させる。……薄くだが、確かに聞き取れる。人間とは違う──騒々しくわめき散るような声だった。
「嫌な感じがする……」
 忠太の顔は悪寒に満ち、声は小さかった。そのとき──。
「──ッ」
 電撃的に、衝撃的なあの感覚が、私の体に迸ったのだ。警戒心というよりは、嫌な予知のそれに近い。ぞわりと全身の毛が逆立つ。
「──忠太。家の外へ!」
 簡潔だが、理由はいらなかった。忠太は焦りに満ちた顔で頷く。伸ばされた腕に飛び乗り、肩に移った。
 外に駆け出すと、さらに毛が逆立ち、目をゆがめてしまう。
「姉ちゃんが……?」
「分かりません。しかし、可能性としては」
 ぐん、と足が速くなる。何度もこけそうになりながら、懸命に忠太は走った。家を出て三つ目の角を曲がる。そこで、唐突に足が止まった。
 予想だにしない光景。
 目を覆うほどの動物が──辺り一帯に群をなしていた。
 その種類も様々だ。毛の乱れた野良犬、不吉な羽を散らすカラス、爪をむき出しにする猫、私より二回りも大きいネズミ、チロチロと舌なめずりするヘビ。軽く見ても三十匹はいるだろうか。
 多種多様の小動物が一点に集まるさまは、まるでこの世の終わりを告げる不吉なセレモニーのようでさえあった。
 あまりのシュールな迫力に息を詰める。と──群がるその中心に、何かを見た。
 忠太も見た。私は冷静だった。冷静に自分をいさめた。だが忠太は目を瞠り、駆け出す。私は肩から振り下ろされた。
 群れの中心には、頭を抱えて倒れこむ奈々子がいたのだ。襲われていた。
「やめなさい、忠太! 危ないです!」
 構わず、忠太はつっこむ。手前に飛んでいたカラスを、横手になぎ払った。飛び跳ねる野良犬を蹴り、スズメを叩き落とし、両手を振り回してがむしゃらに攻撃した。
「姉ちゃん! おい、姉ちゃん!」
 うずくまる奈々子に反応は無い。怯えているのだろうか。
 突然の介入者に動じることなく、すぐさま標的が変えられる。カラスやスズメ、ハトさえも羽を散らせて、かぎづめを繰り出す。両手を振り回して抵抗する忠太だが、あまりにも数が多すぎた。見る見るうちに傷ができ、服が破れていく。
 吼えて威嚇していた野良犬も歯をむき出し、猫も同様に飛び掛る。一匹、二匹。よけるが、その背後から次が飛び掛り、かわす暇もなく牙がつきたてられた。
 なにが起きている。こんな現象が、現実に起こりえるのか。
 辺りには、騒ぎをかぎつけた野次馬ができはじめていた。助けるものはいない。
「……チッ」
 柄になく、舌打ちをしてしまう。考えるのは後だ。今は──忠太が、危ない。
 体の中の『力』をたぎらせる。集中して『力』を統一させ、全身にくまなく回す。
 地を蹴った。
 目にも留まらぬ速度で跳び、そのまま直線状にいた犬の横腹に体当りをかます。小さく呻いて犬は倒れた。
 二本足で着地し、落ち着くまもなく横飛びする。猫の腹に、拳を叩き込んだ。
 今のこの体は、もはや物理的にネズミではない。小さな人間と比喩した方がしっくりくる。
 同じように、一匹、また一匹倒していく。吼える野良犬の歯を砕き、毛を逆立てる猫の手足を潰し、飛んでいるものには、手を下さず『力』を放出して地面に叩きつけた。
 野生の臭いが漂うなかを、めまぐるしく駆け回る。足元には倒れた生き物が、何体も積み重なっていた。残り十体前後になり、ようやく仲間が倒れていく事に気がついたようだが、もう遅い。
 姿を認められる前に、『力』を放出し、残りの生き物たちを全て地面にたたきつけた。
「…………」
 騒ぐもののいなくなったその場所は、今の騒ぎが嘘だったような静寂に包まれた。空を滑空するスズメの鳴き声も、当然ない。漂う野生たらしい臭いと、わずかな血の臭いだけが、騒動の残り香だった。
 予想以上に体に負担が来てしまった。『力』を抑制され、この小さな体では限界が早すぎる。
 ともあれと、視線を屍の中央に向けた。奈々子をかばうように、忠太は倒れていた。
「忠太。終わりましたよ」
 ゆるゆると、切り傷ばかりの顔を上げ、忠太は力なく笑った。
「姉ちゃんは、大、丈夫、かな」
「そこらのヒトが救急車を呼んでくれます。大丈夫です。ただ気を失っているだけでしょう」
「あり、がとな、パス、」
 テル、という言葉の代わりに、ヒュク、と不可解な呼吸音が口腔を突いた。
「……忠太?」
 ヒュク、ヒュク。不規則な、痙攣するような呼吸。肩を揺らして呼吸し、だが上手く酸素を取り込むことが出来ない。顔の色が、みるみるうちに蒼白になっていく。
「忠太、どうしました」
 ヒュク。ヒュク。ヒュク。
「あぁ……あぁ、ヒュク、あああぁぁああぁ!」
 服の上から、心臓をぎゅっと握って。
 忠太は、気を失った。


 窓を打ち付ける雨の音がする。何かを訴えているかのように。
 リビングほどの部屋に、ベッドが四つ置かれている。壁や毛布、ベッド間を遮るレースまで白くて、白々と照らし出す蛍光灯が、よりその場を無機質なものにしていた。
 北側の二つのベッドにはレースがしかれ、私は、南側の奥のベッドに腰を下ろしていた。
 せかせかと毛づくろいをする。イヤな臭いが、体から漂って消えない。
 ベッドには、ガーゼをいたるところに貼り付けた忠太が眠っていた。
 手前のベッドには、同じく奈々子が並ぶ。病院というところは、非常に効率のよい医療所である。統制されつくした現代社会ならではだと思う。
 そのとき、荒々しくドアが引かれた。目を向ける。息を切らせた茂人がそこにいた。続いてめぐみもその姿を見せる。身をよじりながら、忠太が上半身を起こした。
「お、茂人」
「お、茂人。じゃないよ! 一体どうしたの、そんな怪我して!」
 急いできたのだろう。足元は雨にぬれ、メガネには飛沫が飛んでいる。
「めぐみさんから電話があって、忠太が大変な事になってるって聞いて」
「あはは、そんな対したこと無いよ。切り傷はたくさんあるけど」
 屈託なく笑う忠太に、ひょうしぬけしたのか、安心したのか、茂人はため息をついた。
「それならいいけど……。一体どうしたの」
「いやいや、ちょっと階段から落ちただけだって。心配しないで良いよ。それから、めぐみちゃんも来てくれて──え?」
 ドアのところで立ち止まっていためぐみは、小さな肩を震わせて、泣いていた。嗚咽を押し殺し、我慢するが、ぱっちりした瞳から雫が溢れてくる。
「ちょ──え? え、どう、したの? め、めぐみちゃん?」
 目に見えて動揺する忠太。ごめんなさいと呟いて、めぐみは涙を拭った。
「忠太、くん、……電話が、あって。怪我した、て。私驚い、て、ぇぐ、……包帯、いっぱい巻かれてるし、ビックリ、しちゃって。ごめん、なさい。でも、ぅ、よか、った──」
 消え入るように小さな声で、途切れ途切れに言った。すると、また涙が溢れてくる。
 茂人がめぐみの傍に行き、やさしく背中を押してあげた。
 めぐみは良い子なのだ。友達の事故に動転し、どうにか茂人の応援を呼んで、無事を切に願って、涙して──。美しい人の姿が、そこにはあった。
 忠太もそう感じてか、傍に来て涙を拭うめぐみに、ありがとうと言った。
「おれは平気だから。その……心配してくれて、ありがとう。ごめんな?」
 めぐみはうつむいたまま、小さくうんと頷いた。

「明日は、学校行けるの?」
「たぶん大丈夫。怪我は本当に浅いのばっかりだし。治療して、診察結果はまだ教えてもらってないけど、今日退院できると思う。それに姉ちゃんが、その──おれよりも少しひどいから、二、三日は入院するかもしれないんだ。だからその間、おれが姉ちゃんの所で働こうと思うんだ。何日も休んじゃったら迷惑かけるし。学校から帰ったあとなんだけど」
「無理しなくて良いよ! 母さんには、私から言っておくから」
 泣き止んだめぐみが言う。彼女の母が経営する店に、奈々子が働きに出ているのだ。
「大丈夫だって、本当に平気。おれ、手伝ったことあるから要領もわかるし。そういうことで、よろしくお母さんに伝えてもらえないかなぁ?」
 不満そうなめぐみだったが、やがて頷いた。
「……分かった。でも、その間、私も手伝いするよ」
 マジでッ? と、さぞ叫びたかっただろう。満面の笑みで、忠太は承諾した。
 病室のドアが開き、看護婦さんが入ってきた。面倒になる前に布団の中に隠れる。
「平河忠太さぁん。お話がありますので、きてもらえますか? 同伴者はいてけっこうです」
「はぁい。同伴者は、別に──イテっ」
 カプリ、と忠太の太ももに噛み付いた。怪訝そうな顔で毛布の中の私を見る。
(めぐみを一緒に連れて行け)
 小声でそう伝える。だが何を勘違いしてか、みるみるうちに忠太の頬が赤く染まっていくではないか。この純朴少年め。
「それじゃめぐみちゃん、連れて行ってもらえないかな? ほら、一人じゃ歩きづらいだろうし、さみしいだろうし」
 と、そこで、私の声を聞いていた茂人が機転をきかせた。
「え? うん、忠太くんがいいなら私は良いよ」
「あ、う、うん。じゃあ、よろしく……」
 看護婦とめぐみの支えを借りて、忠太は病室を後にした。
 思わず溜め息がもれる。
「……で。どうして、忠太はあんな怪我をしたんですか?」
 くるりと茂人が振り向く。本当に感の良い男である。
「そうですね。私もそのことを、詳しく聞きたいものです。……いつまでそうしている気ですか、奈々子?」
 隣のベッドで布団を被っていた奈々子が、もそもそと動いた。むっつりした顔を、ひょっこりと出す。
「……何で誰もあたしに構ってくれないのよう」

「それじゃ……本当に、何の前触れもなかったんですか?」
「うん。最初は、鳥だった。カラスとか、スズメとか。今日は鳥が多いな、って思っているうちに増えて、急に襲ってきたの。すると今度は犬やら猫やらがきて……わけわかんなくなっちゃって、声上げる事もできなくて」
 よほど恐ろしかったのか、話す奈々子の肩が震える。
「忠太とギンちゃんが助けに来てくれて、助かったよ。忠太にも、あとで礼を言っとかなくちゃね。ありがとう、ギンちゃん」
「いえ……」
 奈々子の礼を、私は素直に受け止めることができなかった。そんな純粋な理由で救ったわけではないから。ただ──忠太が危なく、『目的』が危なかっただけだったから。
「確かに、めぐみさんには言えないですね……。でも、現実的にそんなことが起こりえるんですかね? 少なくとも僕は、そんな怪奇現象は聞いたことがない。何か──襲われる原因のようなものが、奈々子さんにあるならば、別でしょうが」
「うーん、そうなのよねぇ。私はこれといって心当たりは無いんだけど。どうかなあ、ギンちゃん?」
「……分かりません」
 ですが、と二人を見上げる。
「奈々子が襲われたのに、理由があるのは確かなことです。それが分からない以上、再発する可能性も否定はできません。奈々子の何かに理由があるとすれば、茂人やめぐみ、忠太が襲われることもありえるのです。気をつけていて、損はありません」
「確かに……動物たちに襲う理由があると考えるよりも、奈々子さんに襲われる理由があったと考える方が、無理がないですね」
「今日はもう遅いです。帰りは、タクシーという運び屋がいると聞きましたので、それでみんな帰るべきです」
 茂人が静かに頷いた。奈々子を見ると、うつむき、うっすらと口元に笑みが浮いている。
「どうしました、奈々子。傷が痛くて、狂いましたか?」
「いや、ね。忠太にも、こんな……良い仲間ができたんだなあ、って思って」
 珍しく、奈々子の真面目な口調だった。
「こんな心配してくれて、思ってくれる友達がいるってことは、幸せなこと。忠太には、今までそういう仲間がいなかったから……」
「…………」
「あんたたちも、気づいているだろうけど。忠太は──忠太は、臆病なのよ。元気に振舞って、心配掛けようとしないで、自分よりも他人のことを思って。それでいて臆病で、繊細で、引っ込み思案で。不器用で、世渡りが下手なのよ。だから、友達と言える友達もいなかったみたい。でもね。何より──人は、自分たちと異なるものを忌み嫌うもの……」
 パニック性の発作なの──と、神妙な雰囲気を加え、奈々子は言った。
「パニック性……の、発作?」
 突然の告白に、茂人は理解が追いつかない様子だ。しかし私は、むしろ納得の方が大きかった。
 大量の生き物から忠太を救った後、彼は過呼吸となっていた。空気を取り込もうとして取り込めず、心臓の痛みに胸を掻き毟る。忠太が倒れた、それが理由だった。
「実は忠太がここにいるのも、怪我よりも、そちらの不安要素が多いからと思うわ」
「そう、なんだ……」
 心配するような、複雑な表情を茂人はした。
「このことは、けっこう知られてるのよ。茂人くんのクラスメイトは言わないだろうけど──その、偏見はあると思う。……でも、誤解しないで欲しいの。忠太は、決してあんたたちを騙そうとしたわけじゃなくて、……臆病だから。せっかくできた友達を、失うのが怖くて、きっと──いえなかったんだと思う。だから、その──」
「大丈夫です」
 上手く言葉を継げない奈々子に、茂人が微笑んだ。
「僕は、別に気にしてません。忠太だって、そのうち告白してくれるでしょうし。そのときを待てば良い。それに、そんなことで忠太を偏見したりしませんよ」
「ええ。奈々子は心配せず、体を休めるのが先です」
 本当に心配だったのだろう。ほんのり瞳を潤め、ありがとうと奈々子は笑った。
 父親もいない。母親もいない。親しいものもいない。それはとても苦しいことだろう。だからこそ唯一の肉親である弟を、奈々子は放っておけないのだ。不器用な忠太ならばなおさらだ。
 無邪気な忠太を呆れさせるほど、明るく振舞う奈々子──そんな彼女は、こんなにも小さく、こんなにも優しく。
 微笑む奈々子の顔にはガーゼや包帯がたくさんついて痛々しかったけど。まるで願い事が叶ったかのように、嬉しそうだった。──だから。
「よかったですね──奈々子」
 そんな奈々子から、そっと私は顔をそむけた。

 外はもう暗く、一定の不況音を雨が奏でている。空を仰いでも、雲が広がり月は見えなかった。
 タクシーを呼び、帰宅許可を得た忠太をのせて、帰途につく。
 私は忠太の肩に移らず、そのまま茂人の胸ポケットに納まっていた。助手席にのる茂人の背後で、忠太とめぐみの楽しげな会話が聞こえてくる。どうやら、忠太はめぐみと話すのにだいぶ慣れたようだ。二人は数年前から知り合いだが、話すきっかけが無かったのだろう。茂人が来たことで、一気に距離が縮まったのだ。
 キューピット役を強制された茂人の顔は、しかし、一転して浮かない。無理もない。怪奇的な生き物の襲撃や、それによって受けた傷の大きさ。でもおそらく、彼の表情を翳らせている一番の原因は──。
「……僕、知っているんです」
 茂人は雨がはじけるフロントガラスを睨んでいる。忠太の発作のことだろう。
「転校する前に、同じ発作をもった友達がいたから。その発作は──思っている以上に、ひどいものなんです。発作が起きたときに限らず、日常的な面でも大きなリスクを持っています。予期不安、焦燥感、睡眠障害、吐き気、目眩。ひどくなると、希死念慮──死ぬことを考えてしまうらしいです。もちろん個人差はありますが」
 以前の友のことだからか、その口調は重い。後ろの座席で、忠太とめぐみの笑い声がはじける。
「ほかにも色々ありますが、いずれにしろ、精神面が大きく関係してるんです。普通の患者なら、そういった症状や不安や恐怖を抱え、引きこもりたいと考えている。……忠太も、おそらく」
 そんな忠太は、背後で好きな子と談笑をかわしている。普通の人と変わらず、悟らせず、隔てなく、幸せそうに。なんら変わらず、力強く。
 懸命に──忠太は、生きている。
 茂人は、それ以上言葉を紡がなかった。黙って、宿敵を憎むかがごとく、前方を睨みつけている。怒っているのか。悔しがっているのか。苦渋なのか。発作の症状自体を言わない茂人が何を考えているのか、私に知るすべはない。
 だがそれを、私はこの目で見ているのだ。
 動悸の痛みに胸を押さえつけ、肩を揺らし必死に呼吸しようとしてできず──忠太は、泣いたのだ。涙を流し、溢れさせ、怖い怖いと呟いたのだ。何に怖いのか。なぜ怖いのか。もはや『怖いから』としか説明の仕様がない恐怖に、大声で泣き叫んだのだ。
 忠太はそのとき、死にたいと思ったのだろうか。楽になりたいと思ったのだろうか。
 いや、それとも──。
 一段と、大きな笑い声が車内に響いた。耳に入り、頭の中で反響する。
 逆境に負けず、強く生きようとする者の、笑い声のように聞こえた。
「……チッ」
 舌打ちして、わけの分からない苛立ちに忠太を睨んだ。
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