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独り輝く、月の下で

第一章

 ヒュルルルル。秋風が吹く。
 ふわふわとひげが揺れ、むずがゆさに目を覚ました。ぽうっと、目の前でパチパチと彩を変えるテレビを見つめる。
 ……いけない。つい居眠りをしてしまった。
「怠け癖がついてしまって、いけませんね」
 呟き、寝転がっていたソファの上で伸びをした。体を起こし、ぴょんとソファから机に跳び移った。リモコンの電源ボタンに両手をそえ、全体重をのせて押し込む。ぷつりと音を立てて、単調なアナウンサーの声が消えた。
「ん? 起きてたの?」
 窓辺の方から声が聞こえた。見ると、ベランダの向こうの庭に忠太が立っていた。幼さの抜け切れない、普通のそこらにいる中学生だ。何事にも真剣に挑む素晴らしい性格の彼だが、その実深く考えない単純一途なだけというのは周知の事実である。
「いたんですか。どうりで、開けてもない窓から風が入ってくる……」
「あ、ごめん。窓開けたまんまだった」
 別に良いんですけどねと、テーブルを蹴り、ソファの横に設置された簡易的な水入れに寄った。中の水は外気にさらされ生ぬるい。二、三口ぺろぺろとなめる。もう一度伸びをし、大きくあくびをして涙をこらえた。
 ふと視線を外の忠太に向ける。………?
 何か言おうと口を開いたが、やめた。忠太の奇行にいちいち言葉を挟んではきりがないことは、もう学んでいる。
 体勢を低くし、一気にジャンプしてテーブルにとびのった。小皿に積まれているアーモンドを一つ取り、カリカリかじる。……思うのだが、この塩気はどうにかならないものか。素材は素のままが一番おいしいのだということを、現代の人間は失念している。
「忠太、この塩気はどうにかならないんですか? そうです忠太、これを水洗いしてください」
「えー、やだよ。そしたらおいしくないじゃん。嫌なら、自分の分を自分でとれよ」
「私には、文字通り荷が重過ぎます。手も塩で汚れるから、掃除するときに結局は舐め取ってしまうのですよ」
「……お前さぁ、その口調やめたら? 堅苦しくて、なんかヤダ」
 ヤダとは失礼な。言葉とは心の鏡。いかなるときも敬いの心を忘れはいけないのである。
 手のヨゴレを舐め、あ、と思いつく。
「忠太、チーズかまぼこはありますか?」
「あー、たぶん無い」
 背を向けていた忠太が、振り返りつつ言う。
「昨日、おれたべちゃったよ」
 なんということだこの男。私が様々な食物の融和の中で、唯一認めたあの食べ物を! よもや咀嚼していたとは!
 私が頭を落とし落胆していると、フッ、と気合の入ったかけ声が耳に届く。目線を上げて嘆息する。
「……忠太。君はさっきから、何をしているんですか?」
 半ば呆れ口調でいうと、庭で奇妙な動きをしていた忠太がふりかえり、ニンマリと笑った。
「体鍛えてんの!」
 だからなぜ、こんな時季に、そんな格好で体を鍛えているのかと聞いているのだ。秋とは言え、外気はもう肌寒い。そんな中、上半身裸でスクワットするヤツを見れば誰だってそう思うだろう。
「あのさぁ、おれ前から思ってたんだけどさ」
 忠太は、まるで大きな発見をした子供のような興奮した様子で、言った。
「魚とかって、こういう季節になると身が引き締まるじゃん? だからさっ、このじきに体鍛えると、普通の二倍くらい体が引き締まるんじゃないかと思ってさ!」
 ……あぁ、風が冷たい。冷たいなぁ。どうして君は人間なのに、そんな素晴らしい発想しか出来ないんですか?
「まぁ、お前にはできないだろうな。だってお前、ネズミだし!」
 ハムスターですよ!


 私が地上へ降りた──つまり平河忠太と出会ったのは、小雨の降る曇り空の日だった。今から、三日ほど前、雨にさらされ気を失っている私を忠太が保護してくれたのだ。
「チーズかまぼこ、食うか?」
 さすがの私も、息を詰めずにはいられなかった。
 目の前にいる、数百年ぶりに見た自分以外の存在にも。色のある世界にも。小雨が家を叩く淡白な音も。自分の姿がハムスターだということにも。
 永遠とも思える長い間、休息をむさぼっていた感覚器官が、五感を通じて入ってくる情報量に酔ってしまったのだ。
 だが、私はつとめて冷静だった。
 冷静に状況を見、立場を捕捉する。目で捉え、耳で察し、触覚さえ利用し、おぼろげな記憶と現状を織り交ぜ、今なすべき事を最優先次項で判断する。困惑のときにこそ冷静は必要だと、長い生の中で認識していたから。
「助けてくれてありがとうございます……。私の名前は、パステル・ムーヴィン。あなたは?」
 その時の、忠太の驚いた顔といったら。
 二言三言、忠太と会話する。小動物が話すという異常、対する忠太の反応──。そして決断し、私は言ったのだ。
 私をここに住ませてくれませんか──と。
 忠太は快く許可をくれ、ここに住むことになった。忠太の姉が非常に物分りの良い人間だったことも、幸運であった。
 ──いや。もしかすると、これは偶然ではなく、意図的に仕組まれた出会いだったのではないか。『神』が忠太の下に私を導かせたのではないか。
 『神』は、一体何を考えている?
 ……しかし、考えた所で答えはでない。ともかく。
 私はやるべきことを──与えられた九日間のうちに、やるだけなのだ。
 そのためには、まず──そうだな。とりあえず。
「いいかげん、ハムスターとネズミの区別をつけてもらいたいのですが?」
 この重要な事実を、再認識してもらわねばならない。
「え? なにが? 区別?」
 灰色のセーターからすぽっと出した顔を、つと忠太はかしげた。室内である。
「だから。私が。ネズミではなく。ハムスターだということを。理解しろといっているのです」
 切り口上に、一語一句はっきりと言ってやる。
「べつにどっちでもいいだろ、そんなの。似たようなもんだよ」
 その一言が、私の中の触れてはいけない何かに触れたのだった。似ているもの──だって?
「忠太、あなたは断じて誤解しています。ネズミとハムスターは、確かに似ています。ですがそれはあくまで分類上の話であり、重要なのは世間の認知度なのですよ。両者の名前を一度聞くだけで、第一印象には雲泥の差があります。古くからネズミは残飯荒らしとして忌み嫌われていましたし、事実そうでしたから」
 はぁんとか、そんな返事を忠太はする。
「その点ハムスターは違います。もともと輸入された種のため深い嫌悪の対象にはならず、今ではペットとしての需要が非常に高い。姿も一回り小さく、なつきやすい。みな認めているのですよ、ハムスターを。つまり──ハムスターとネズミは、もはや違う次元の生き物なのです。分かりますか?」
「あー……よく分かった」
「ならばよろしいです」
 ふうと一息つく私に、「要は」と忠太が継いだ。
「ネズミって言われるのが嫌なんだ? 変な印象があるから」
 うっ。一瞬固まってしまう。図星ではない──図星ではないが。
「あ、図星?」
 変な笑みを忠太が浮かべる。知ったような瞳がものすごくイヤだ。
「私はただ──」
「冗談だって。分かってるよ、パステルがハムスターってことくらい」
 不満だったが、これ以上詰めよるとどちらが子供かわかりはしない。
 忠太はとにかく抜けている。だが妙に鋭い洞察力や、感を持っていることも、この三日間で感じていた。何も考えないと、そういう面が鋭くなるのだろうな。
 忠太は立ち上がると、台所へ向かった。
「パステルなにか飲むだろー。なに飲む?」
「コーンスープを」
 コーヒーに入るカフェインは、この体にこたえる。
 陶器の触れ合う音が、台所から聞こえ始める。その音にしばらく耳を傾けた後、暮れなずむ夕空を、窓の向こうに見上げた。赤色の泰然とした明かりが、今日という過ぎ行く日をいつものように美しく彩る。
 秋は嫌いだ。世界がリセットするような風景の変化に、まるで私の中の何かも一緒に変われるような錯覚を覚えてしまうから。その結果、過ぎゆく秋の空しさを嫌う自分がいる。美しい秋空にどことない空しさを感じてしまうのは、誰しもそうやって心につけ入る隙を与えているからではないのだろうか。
 こうして見上げる空は、数百年前のそれと相も変わらない。また感じる心も同じように。
 しかし──当然変化するものも多く、良い例が、現代のこの社会だろう。
 私がいた時代には、こんな世界が訪れるなど考えもしなかった。何事も手がいらず、餓えも無く娯楽に溢れた、隙間無く統制された社会──言うなれば、まさに人間の自己欲に包まれた世界が。
 人は進歩した。地球をその手に掴み、世界を自分たちの中心とすることができた。だがその根底にあるものは、何一つ解決していないのだと思う。ニュースを見ればまたほら、欲に駆られた不届きな話が湧いて出てくる。
 ヒトとて、所詮は生き物だ。自分の本能に逆らうなど、永劫できはしないのだろう。
 全く──本当にくだらない……。
「何考えてんだろな」
 頭上から声が振ってきた。見あげると、両手に器をもつ忠太が変な笑みで立っていた。片方はカップだが、もう片方は刺身のときにしょうゆを入れる器である。
「何が、ですか?」
「パステルだよ」
 目の前に小皿を置く。湯気を上げるコーンスープが、ちょこんと入っていた。私にはこのくらいがちょうど良いのだ。以前、忠太がスープを持ってきてくれたとき、私の体三つ分くらいの容器に入れてきたことがあった。熱々のスープに体を乗り出して舐めるという、何かの拷問のような食事をしたものだ。……うん、熱いが、おいしい。
「なんていうんだろ。心がどっか行っちゃって、何考えてんのか全然わかんなくて」
「少なくとも、忠太には分からない情緒のゆがみですよ」
 じょうちょ? なんだそれと、忠太はカップを傾けた。彼が飲んでいるのも、コーンスープだろう。
「なんていうかさ……くらいよ、その顔」
「──ほう。どういう風に?」
 半ば驚き、茶化してみる。表情一つで──しかも、異種の動物の考えを一瞬で読み取るなど、そうできることではない。
「死ぬ前の金魚の目みたいだ!」
 ぽかーんと、まるで最高の比喩表現を使えたと満足したように頷く忠太を見上げる。ゆっくりと目を外し、ちろちろとスープを舐めた。……いや、ある種その表現に感服はするが。
「そういう忠太は、うれしそうですね」
「えっ、やっぱそう見える?」
 適当な発現だったのに、思いのほかの反応。実はさぁと、零れるほどの笑みを見せて。
「今日、友達が来るんだよ!」
 ──ここもスルーするところだろう、普通ならば。だが忠太にとって、それはとても大きなことなのだ。
「そうですか。物好きな方が転入でも?」
「そうなんだよ、転入生! ……物好きって、なんか悪い意味?」
 良い意味ですよと、残ったコーンをかじりながら言った。
 忠太には友達がいない。聞いたわけではないが、何となく分かる。放課後に寄り道もしないし、遊びに行くこともないし、来ることもない。私と話す忠太が、久々のコミュニケーションを楽しむ人間の表情でさえあった。
 友達がいない原因は知らないが、ニュースで流れる「いじめ」などが原因ではないかと、私は考えている。要因までは判らないが、そんなものいくらでもでっち上げられる。
 以前の時代にはあまり考えられなかった現象だ。裕福になると、見下す存在を望みたくなるのだろうか。
 ともあれ、自分には関係ないことだと、早々に割り切った。

 チャイムが鳴る。条件反射を習得した犬さながらの敏捷さで、やっていた数学の宿題をほっぽりだし忠太は玄関へとダッシュした。私は出向かず、放り出された数学の問題集を見つめ続ける。ハムスターの体は、家の中を移動するにしても一苦労なのだ。もっとも微量の『力』を使い、負担を軽減することはできるが。あまり使いたくは無い。それに玄関は暖房が効いてないし。
 ぼんやりと一次方程式を暗算していると、満面の笑みの忠太と、それに続く少し背の高い少年が目に入った。彼は初めてきた場所を見回すという定石の行為を行いながらも、私に気がついた様子はない。
 落ち着いた服を着て、冷静に部屋を物色している。フチのないメガネをかけ、その奥で光る瞳に初めてきた場所に対する辟易はない。男だとは聞いていたが……忠太とは正反対の雰囲気を持っている。
「やあ、パステル。えっと、大浦茂人くん。略してシゲちゃん!」
「パステルさん? 居候しているっていう? 一体どこに──」
「答えは、X=4ですね」
 え、という驚きの後、私を確認するのに約十秒。ええええ、という叫びで、ようやく私が認識されたとみていいな。
 すっくと二本足で立ち、欧米の紳士みたいに恭しく頭を垂れる。
「初めまして、茂人くん。私はパステル・ムーヴィン。忠太が世話になります」
 顔を上げると、驚愕に目をむいたまま、まだ茂人は動かない。──当然の反応だな。喋るネズミだ。忠太はすぐさま順応してきたが、彼は例外としてみていい。
 しかし、夢があって良いと思うが?
 その後質問の嵐をうけ、雑談を交えつつ、信じられないと茂人は繰り返した。だがやはり彼は聡明だった。しだいに偏見なく、正しく理解していった。
「なぜ君は、忠太と仲良くなったんですか?」
 忠太は茂人の飲み物を作るために、台所へ消えた。ここぞとばかりに尋ねてみる。茂人は不思議がる笑みをみせた。
「友達になることに、理由なんて要らないと思いますよ」
「しかし、物事には動機がいる。忠太はあまり友達がいないように思えます。その中で、友達になったのにはやはり理由があるかと」
「パステルさんは不思議なヒトだなあ。強いて言うなら、忠太は良い奴に見えたんで」
 良い奴に見えた──か。確かにその理由は、大きな動機になるだろう。なぜなら、私も忠太が良い奴に見えたからこそ、ここに住むことにしたんだから。
 茂人は良い人間だ。長年、客観的立場から人間を見てきた私には分かる。物事を冷静に判断できる類の人間だ。
「何の話してんのー?」
 マグカップをもった忠太がやってきた。茂人に渡す。
「さては、パステルがハムスターのこと力説してたんだろ」
「茂人は忠太とは違います。そんなこと説明するまでもなく分かりますよ」
「えっ? まじでっ?」
 軽く笑った茂人が、そういえばと忠太に向き直る。
「沖永さんは、奈々子さんと一緒に来るらしいよ。多分もうすぐ」
 ぶほォ、と忠太は、突然勢いよく飲みかけのスープを噴きだした。
「ゲホ──な、なんだってぇえ! めぐみちゃんが?」
 目をむく忠太に、頷きながらも茂人は引く。あーあ、教科書が。
「予定ではあと一時間はあるはずなのに……一体どうして!」
「え、ええと、帰りに沖永さんと会ったんだ。一度お母さんの所よるから、ここには奈々子さんと一緒に来るって──」
「なんてことだ! まだ心の準備もしてないのに、こんな予想外の事態が!」
 えらいこっちゃと呟きつつ部屋をぐるぐる回り始める。茂人は困惑した表情で、私を見た。肩をすくめる代わりに、目を細める。
 沖永というと、忠太の同級生に当たる少女だ。沖永の母が経営する店に忠太の姉である奈々子が勤めていて、その関係上家族ぐるみの付き合いをしていると聞いた。そして──。
「忠太。そんなことで動揺するなんて、男らしくないですよ」
「う、うるしゃい!」
 首を傾いでいた茂人は、私の一言と忠太の反応で、なるほどと頷いた。理解が早い。
 ダン、とテーブルに両手を打ちつけ、勢いよく忠太が頭を下げた。勢いのあまり額まで打ちつけるが、気にしない。
「現代を生きる戦友として、頼みがある!」
 面倒くさい臭いが鼻をつく。耳をふさぎたいが、いかんせんハムスターの聴覚はよい。
「女の子と──好きな子と自然に仲良くなるには、どうすればいいんだっ?」
 あぁ、こいつはどこまで純粋なら気が済むのだ。
「あー……だから、沖永さんより僕を早く家に呼んだのか」
「そういうのは、対象を悟られないようにこっそり相談するものですよ」
 忠太は顔を上げない。私は嘆息し、茂人も苦笑いだ。
「僕も女性の事は詳しく分からないけど……今の忠太を、そのまま出せば良いと思うよ。忠太は良いヤツだから。でも好きって感情をもてあまして、いじわるな事をしちゃいけないよ」
 忠太はまだ顔を上げない。と思いきや、テーブルの下で手の甲にメモしているではないか。……いろんな意味で丈夫なヤツだな。
「忠太。ヴィー・ジェントルマン、紳士であれ」
 私は言った。忠太が顔を上げ、傾ぐ。
「上流社会の男子のごとく、気高くあれというわけではありません。女性に優しくし、なれど品格を失わず、礼儀正しくあれということです」
 理解できないような顔をした忠太だが、すぐに首肯して、メモを取った。
 その後、しばらく私と茂人がアドバイスをしていると、玄関の開く音が聞こえてきた。緊張が走る。ただいまーと、忠太の姉である奈々子の陽気な声が聞こえてきた。おじゃましますという続く控えめな声。忠太は振り返り、数分前にはなかった自信に満ちた顔を、私と茂人に向けた。
「やーやー帰ってきたよ! 寂しかったかい?」
 茂人くらいの長身で、背中まで流れる長い茶髪。反して貧乳(禁句)という、ヒマワリのような笑顔をした奈々子が入ってきた。当然、眼中に無い。
「おじゃましまぁす」
 奈々子の背中からちょこんと顔を出す、妖精のような少女。ボブカットの黒髪に、くりっとした目が特徴的だ。以前この家に来たことがあるらしく、家を見回しはしない。すぐに忠太に気がつき、背景に花畑が想像できるような朗らかな笑みを見せた。
「こんにちは、忠太くん」
 向こうの反応は悪くない。さあ行け忠太。礼儀正しく、品格を持って対処しろ!
 忠太はぎこちない笑みを見せ、言った。
「は、ハロー、ミス・めぐみ?」
 ……その瞬間、私は初めて理解した。
 吹雪という比喩表現。あれが、非常に的を射ている表現だと。

「ひゃーっはっは、はっは……!」
 腹を抱えて奈々子が笑う。隣では忠太がむすっとした顔で、そんな姉を睨んでいた。
「そんなに笑わなくてもいいだろ!」
「だ、だって、おま、……! み、ミス・めぐみって、ひゃっはっは!」
 耐え切れなかったのか、ついに寝そべって笑いだした。……弟の失敗をここまでバカにできる姉を、私は見たことがない。
 ジェントルマン──英国に住む紳士、つまり英語で話さなければならない、と忠太は解釈してしまったらしい。素晴らしい発想だぞ忠太。
「奈々子さんの家は、いつもにぎやかでうらやましい。それにこんなかわいくて、おしゃべりのできるネズミちゃんがいるしね?」
 忠太にとって幸運だったのは、この少女──めぐみが、深く考えない……あー、非常に物分りの良い子だったことだ。
 そんな忠太が振り返り、急に含み笑いをした。……ネズミちゃんと言われたことを馬鹿にして、憂さ晴らしをしているらしい。全く──ネズミと揶揄されるのがイヤなだけなのに。
「あのぅ、触ってもいいですか?」
「えぇ、どうぞ」
「えへへー。私もついこの間、猫拾ったの。でも、ネズミちゃんもかわいいね!」
 ひょっと優しい手つきで私を持ち上げ、めぐみは嬉しそうに胸元に抱いた。……ふむ、なかなかふっくらしているな、この娘。
 見ると、忠太が憤怒と悲哀と屈辱に満ちた顔で、私をにらんでいた。
 これ見よがしに身をゆだねてやる。この優越感といったら。我慢できなくなった忠太は、うわあんと茂人の胸に飛び込んでいった。苦笑いで受け止める茂人。
 その後ろでは、奈々子がまだ笑い転げていた。

 学校の事やらの雑談が始まったので、私は腰を上げた。
「パステル、どこいくの?」
「すこし風に当たってきます」
「おれの部屋だろ? 運ぼうか」
「いいですよ、忠太はそのままで」
 それでも忠太はリビングのドアを開けてくれた。その隙間から出て、階段へ向かう。二階へ続く階段は、さながら規則正しく連なる崖だ。当然、両手を伸ばしても一段目の段差にさえ届かない。──だが。
 ……体の中に散らばった、精力のようなものを一点に集める感じ。今の場合は足。足先。集まってきた所を──
 ダンッ。
 ──弾く!
 全く、何の前触れも無く、体が階段の頂上まで、文字通り飛んだ。飛びすぎて、あやうく突き当たりの壁に体当りするところだった。危うげに制動し、トテトテと歩いて左手にある忠太の部屋に入る。
「だいぶ慣れてきましたね……」
 大したことをしたわけではない。人間にはない潜在的な『力』を使っただけだ。その『力』を使うことで、普通では考えられない力を発揮できる。厳密には、身体能力の飛躍、ではない。体外への放出もできるため、念力に近いものがある。
 この体になって『力』を使う感覚が変わったため、制限するのが難しくなったのだ。
 散らかった雑貨をよけながら、見上げるような窓辺の傍に座る。窓の外はしぶとく暮れなずんでいた夕日が、ようやくその色を薄めていた。しばらくその風景の下、毛づくろいすることにした。
 しばらくして気がつくと、仰ぐ空に色はなく、まるで何か生き物の腹の中にいるような暗闇が広がっていた。星明りもなく、室内は暗い。
 階下から、叫ぶ声が聞こえてきた。ゲームか何かやっているのだろう。忠太が負けて罰ゲームをする光景が目に浮かぶ。
 そう思うと、自然と頬が緩んだ。しかし次の瞬間には、その感情は嫌悪に似た罪悪感に取って代わる。
 ここにいる人間はバカばかりだ。何の疑問も抱かず私を受け入れている。その中でも平河忠太は逸脱している。深く考えない──よく言えば、無邪気で一途な人間。汚らわしい部分を持たない、持とうとしない、まるで私と真逆の人間。それでいて無力。
 バカだ。バカなのだ。だけどそれでいいのだ。空気をあわせやすい。『目的』を果たしやすい。バカだ。バカめ──なのに。
 なぜ私が感傷を抱かなければならない? 悪い癖だ。まだ人間に未練があるのか。何十回何百回、同じことを繰り返せばすむ。学習しろ。結局、人間とは相容れないのだ。
「……ふう」
 人間は本能から逃れられない。でも、私もやはり同じなのだろうか。
 ──ゆめゆめ忘れるな。
 ゾッ──とした。
 ぼんやりと思案していた脳に突然、電撃的に駆け抜ける言葉。他でもない私自身の声。
 ……分かっている。わかっているさ。忘れちゃいない。『目的』を。
 その瞬間、周りの闇がしみこむように、心がどす黒く変色していく。
 ──むろん、貴様の『力』は抑制し──
 『神』は言った。「封印」ではなく「抑制」と言った。事実、私の『力』は七割方抑えこまれたが、完全になくなったわけではない。『力』は使える。
 だが、『神』にとって「封印」ではなく「抑制」することに、何の利益があるだろう? ……ない。明らかな不利益しか生まれない。ではなぜ『神』は『力』を封印せず、抑制した? 簡単だ。
 『神』は、私の『力』を封印するまでの力を、もっていなかったのだ。
 封印したくでも、できなかったのだ。
 つまり──『神』の力は予想以上に低下している。
「ふふ──ふ」
 長い前歯の横の隙間から漏れるようにして、笑いが零れた。
 やれる──やれるのだ。そして私は……!
 ぱちっ、と滑稽な音のあと、部屋に明かりが満ちた。
 はっとして振り返ると、部屋を見まわす忠太がいる。瞬間、引き裂くように心の闇が取り払われた。
「私はここです、忠太。どうしました?」
「おー、そこかぁ。見つけづらくていかんなぁ。あのさ、今からコンビニ行くんだけど、お前ついてくる?」
「今から? もう外は暗いですよ?」
「……ゲームに負けたんだよ」
 むすっとする忠太。私の予知も捨てたものではない。
「外は寒いですし……私は、別に行かなくても、」
「チーズかまぼこ奢ってやるよ」
「行きます。自転車の用意を」

 夜空にはもう星が浮かぶ。忠太のダウンの胸ポケットに収まり、にやにや笑う奈々子の見送りで、外に出た。
「うひょお、さむいさむい!」
 そういう忠太は楽しそうだ。
「楽しそうですね」
「えー? あはは!」
 ずっと友達がいなくて寂しかったのだろうな、と思った。
 それから、しばらく先ほどのゲームのいきさつや、めぐみと茂人の意外な面を見たことや、相変わらず奈々子がいやらしいことなどを聞いた。
 話は、私の身の上話へとうつる。
「じゃあパステルは、今から数百年も前の時代から生きてるってこと?」
「いや、生きているわけではありません。忠太に会うまで、かなり私は──眠ってましたから。起きたときは驚きましたよ。世界の変わりように」
「はは。お前のいた時代じゃ、お湯で三分の保存食なんか考えられなかっただろうからな」
 そこでカップラーメンを例えに使いますかあなたは。
「その時代って、どんな感じだったの?」
「現代のように統率されてませんし、何より貧しかったです。平民はいつでも貧しいものですよ。ですが、現在のように荒んだ──と言いますか、冷たい社会という感じはありませんでした。人々はその日を生きる事に精一杯で、そんな暇は無かったのでしょう」
「そっかぁ。でもパステルは人間じゃないだろ? お前みたいなのは、よくいたの?」
「いえ、特異でしたね。四つほど県をまわり、一人いるかどうかくらいです。そんなに私のような存在がいたら、物理的にも困りますよ。だって──」
 と、そのとき、走っていた自転車の直前に、まだら模様の猫が飛び出してきた。わあ、と悲鳴を上げた忠太がブレーキをかけるが、間に合わない。ぶつかる──というところで、自転車が、浮いた。
 浮き、猫の頭上を越えて、後方の地面に着地する。みゃあと逃げゆく猫を呆然と見送り、ついで見開いた目が、私を見る。
「──このようなものがうじゃうじゃいたら、困るでしょう?」
 忠太はゆっくりと自転車を漕ぎ出し、しばらくして、そうだなぁと答えた。
「でも、こんなチカラもってたら、大人気だろお前」
「……そういうわけでもありませんよ」
 ちくりと胸が痛む。少し、ポケットの中に顔を引っ込めた。
「人は、普通ではないほかの何かを遠ざけたがるものです」
 フラッシュバックのように蘇る、数百年前の記憶。色あせず、眠っていた数百年のうちにどれだけ苦しめられたか。
「……仕方ないことかもしれません。潜在的に詰め込まれた──自己防衛や、その行為で自分の存在を認識する手段。生きるための糧なのかもしれませんから。でも、私は思うのですよ」
 忠太は、黙って聞いてくれた。
「人間はどうして、そこまで『生きる』ことに固執するのでしょう?」
 忠太を仰ぐ。何も言わない。何を考えているのか。忠太の顔は、いつものような飄々としたものではなかった。
「おれも、わかんないよ。でもさ、おれも『生きる』ことに固執してるよ?」
 にんまりと、いつもの忠太の口調で。
「命には、限りがあるからさ。がんばりたいんだよ。──今のおれは、そう思う」
「そう……なんですかね」
 多分だけどね、と忠太が呟いた。
 私は、ポケットの中に、寒さをしのぐ赤子のように体を丸めた。
 死期はいつ訪れるのか──いや、死ぬことができるのかどうかすら分からない私には、永遠に分からない問題なのかもしれないと、思った。
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