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なとりうむ
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第一章 | 目次

独り輝く、月の下で

序章

 声が──聞こえた。
 私の眠りを妨げる、忌々しくも絶対的な声が聞こえた。
「──きろ──起きろ──『鬼人』よ」
 のろのろと目を開けると、暗闇にぼんやりと浮かぶ誰かがいた。私の目は、その誰かを認識するに至らない。仕方ないことだ。以前目を開けたのは、ずいぶんと前になるだろうから。二百年か──あるいは、五百年か。
「……あぁ──どう、しまし、た──『神』、よ」
 喉が上手くなるのを確かめながら、声をしぼる。
 声の振動に、縛り上げられた体がピリピリと痛んだ。何に縛られているかも、ここがどこなのかも知らない。しかし、縛り上げられた当時に感じた冷たさは、もうなくなって久しい。
「私は万能ではない」
 『神』は言った。少しの間をおき、かすれた笑いが私の喉から漏れる。
「……だから? 私を、解放してくれるとでも、言うのですか」
 揶揄だった。しかし『神』は言った。
「そうだ」
 顔を上げ、見えない神を見る。『神』は嘆息しているのか──小さなことだと気にもしていないのか。
「私は磨耗した力を蓄える時間が必要だ。その間、私はお前をここにとどめる事は出来ない。──地上に降りてもらうことになるだろう」
 感覚のなくなった体に力を入れる。節々がミシミシと痛んだ。
「九日だ。その間、久しい地上を楽しむがよい。むろん、貴様の『力』は抑制し、姿は固定させてもらう」
 初老男性のような口調の『神』の言葉は、とても理不尽に聞こえた。勝手に捕らえて封印し、今度は力を蓄えるために九日だけ地上に降りろなど。幻滅も甚だしい。
「嬉しくないのか『鬼人』よ。……そうか、『鬼人』として地上に降り立つことができないものな」
 突然、広がっていた世界が崩壊を始めた。限りない闇の世界に亀裂が走り、砕けていく。体に巻きつく戒めはムチではたくような音を立てて千切れ、体の形が変化する違和感に顔をしかめた。声を上げないのは、せめてもの抵抗だ。
 砕け散る世界の外側には、光溢れる──地上という名の世界が広がっていた。
「さあ──久々のうつくしい、これが地上だ」
 しかし、私は無感動だった。
 戒めを解かれたことに対する喜びも、期限付きの自由に対する不満も、何もなかった。
 私の中に存在する『鬼人』は、狂喜の叫びを上げていたが。
 私自身は、何も思わなかった。
 地上はまぶしい。生きた亡霊の住まう、答えなき迷路だ。
 最後に、私を見下す『神』を仰ぎみる。
 ふと、『鬼人』としての自分が声を漏らした。
「神は、殺せる? 殺せる。殺せる、殺せる殺せる殺せる殺せる──」
 今まで取り巻いていた世界が崩落する。
 『神』が軽蔑するような視線を、私に向けている。
 私は数百年ぶりの地上へと、堕ちていった。

 ◆

 寝ているようで寝ていない。不確かなまどろみの中、私は受けたことのない感覚を感じていた。──いや……感じたことないわけではない。久しく忘れているだけなのか。
 肌にやさしく触れるような──温かさ? むずがゆく、鳥肌の立つような──肌を撫でられる感触。ピリピリと、頭の中で反響するような──話し声。
 誰かが何かを言っている。誰かが、私を呼んでいる?
 私は、まるで初めて世界を見る赤子のように、緩やかに瞳を開けた。暗闇の世界だけを漂っていた網膜に光が走る。眼球を貫く痛みに、思わず呻く。
「あ! 目ェ覚ましたぞ! 頬ずりして潰さないでくれよ姉ちゃん!」
「分かってるわよ! ──あぁ、やっぱりめっちゃかわいいじゃない!」
 ……騒がしい。頭に響く。痛烈な痛みを感じつつ、何とか焦点を絞って揺れ動く影を認めた。
 好奇にひかれた、大きな瞳。にんまりと弧を描いた口が、目に入った。その口が、なははと笑う。
 人、だった。少年。十二、ないしは十三そこらの。
 思わず生唾を飲み込む。人だ、ヒトだ! もう数百年以上触れていなかった、私以外の存在。胸が高鳴る。
 何を言おう? どう対処しよう? どう反応しよう? どう接しよう?
 柄にもなく動揺する私。人間ごときに、こんな反応をしてしまう私。だがその少年は──まるで親しい友に話しかけるかのごとく、こういったのだ。
「なあ、チーズかまぼこ、くうか?」
 ──それが、私と平河忠太の、初めての出会いだった。
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