まんだら!
第五章
椿野華は、数年前に入水自殺をし、そして未遂に終わった経験がある。
地熱がわき上がる、夏の夜。辺鄙な田舎の防波堤に行き、その身を投げ出した。
もともと椿野は、都心に生まれ、なおかつ文字通りの意味である『お嬢様』だった。家は三階建てで、展望台、プール、スポーツジム付きだったし、習い事もたくさん出来た、ほしい物は何だって手に入った。知る人ぞ知る、金融株式会社『TUBAKI』の社長が、すなわち椿野の父だったのだ。いや──父、『らしかった』。
椿野は父が大嫌いだった。誰もがうらむ夢のような生活や環境も、大嫌いだった。
幸せなどは人それぞれ、千差万別とか。はたまた、そんな環境でもまだ満足していなかったという傲慢な思考とか。思いつく理由は限りなくあったが、椿野が納得できるものは無かった。ただ漠然と、嫌だったのである。現在の状況が。取り巻く全てのものが。
何か足りない──お金? 地位? 名誉? そんなものじゃない。そんな、陳腐なものじゃ。では何? わからない。教えて。誰か教えて。誰……? 私の傍には、今誰がいるというの? 父? 死んだ母の亡霊? 上辺だけの友達? あぁ──そうか。
自分には誰もいない。自分には、愛する人も、愛してくれる人もいなかったのか。
ならばもう、死んでも誰も弔わない。別にかまいはしないじゃないか。
ああ──なんだかもう、どうでもいい。……死にたい。
椿野はそう考えた。水の中は、生ぬるかった。怖くも無かった。ただ苦しかった。
そしてその苦しさも遠のいた、その時──暖かい手が、差し伸べられたのだった。
困惑して沿岸に打ち上げられた椿野に、咳き込んでいた青年は叫んだ。
──何しているんだ、死にたいのか!
椿野の中で、戸惑いが、怒りに変わった。今まで放っておいたくせに。自分には、死ぬ自由すら与えられないのか。死にたい。哀哭しながら、椿野はそう訴えた。
鋭い平手が、椿野の頬にとんだ。
女の子とか関係無しに。顔見知りとか関係無しに。ただ、椿野を見て。こう言って。
──死にたいとか、いっちゃ駄目だ。大丈夫。僕が、ちゃんとここにいて、色々聞いてやるから。寂しくなんか無いから……。
抱きしめて、くれたのである。椿野は理不尽に涙し、悔しさに嗚咽を洩らし、嬉しさに顔をくしゃくしゃにさせて。
青年は、当然のことをしたというかもしれない。でも、椿野はそうではなかった。誰も見てくれない世界で、唯一手の平を差し伸べてくれた大切な人。白馬の王子様。
椿野華は、そうして青年──根路銘鳴滝を、愛してしまったのだ。
世界に広がる暗闇の中、やっと見つけた希望。愛すべき人。だから。
「ぜったいに、はなしたくない……!」
絶対に離したくない。失いたくない見失いたくない誰にも渡さない。
守ってもらえないなら──自分が守ってでも、あなたを愛し続けるから。
椿野は、ふらふらと目を落とし、自分の手の平を見つめた。わずかに、青白い光りが輝いていた。
「わたしは……まちがってないよね、根路銘君……?」
小さく、椿野は呟いた。
胡坐をかき、静かに目を閉じる。静々しい虫の声を聞きながら、妖乎はただ待っていた。
お膳立ては、もう出来ている。最後のマカ──曝れ頭を待ち受けるだけだ。やつはおそらく、いや確実に、自分たちを狙う。そして根路銘を奪うだろう。
妖乎は、曝れ頭の巧みな言葉遊びにつけこまれないよう、心を静めていた。
同じ苦しみを味わった意志として、曝れ頭に同情の念を抱かずにはいられない。しかし、根路銘を渡すつもりも全く無かった。
全力で叩き潰す。それが、今の妖乎の中で確かな形をかたどっている意志だった。例え『意志』に、根路銘に、曝れ頭の言ったとおりの特別な感情を抱いているとしても。
ちらりと、妖乎は視線を移す。根路銘が畳の上で、安らかな寝息を立てている。時刻は午前五時をまわった辺りなのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
早いものだ──妖乎はそう思う。六日前の、ただ純粋に使命を全うしようとする自分が、ひどく昔の事に思える。むろん現在も、使命を全うすることに間違いはないが、その理由も、目的の狭間に存在する傷も、深いものとなってしまった。
全てはこの男──根路銘鳴滝のせいで。
押し付けがましい考えに妖乎は自嘲し──しだいに、その笑みは苦いものへと変わる。
根路銘は今、自分に対して深い嫌悪を抱いているようだった。というのも、屋上で妖乎がマカと敵対したとき、椿野に告白されたらしい。根路銘は戸惑い、答えを先送りにした。妖乎の身を案じて──という理由を楯に、逃げたくて。根路銘はそう、苦渋に満ちて言った。
根路銘は、椿野が自分に好意を持っていることに気づいてなかったのだ。彼は椿野が単純に、身近な友達として、接してくれていると認識していた。そして、その自分の鈍感さのせいで椿野を苦しめた事に、深い罪悪感を抱いている。
全く甚だしいものもあり──だからこそ、妖乎は彼を愛しいと思った。単純に、裏表なく、一人の人間として。意志の持つ、すばらしいものとして。
「……ようこ」
そんな根路銘から、突然声をかけられ、妖乎は驚いて顔を向けた。
「なんだ。眠ってなかったのねえ」
「ちょっと眠ってた」
休校だからそのまま眠っていたらいいものをと、妖乎は思う。
「ようこ……僕は、まちがっていたのかもしれない」
「なにを?」
「──たとえ君を殺してでも、力を手に入れるってこと」
妖乎は、内心どきりとして根路銘を見た。根路銘は、寝たままで薄く目を開き、あらん方向を向いている。
「なによぅ、急に。あたしは別に、どうも思ってないわよ。それに──あたし自身、その答えには納得できるような気もするし」
殺してでも力を手に入れる──それはすなわち、根路銘の過去に帰属する事となる。家族を殺した姉を殺すなら、どんな事でも躊躇わない、という。
根路銘は黙った。妖乎も、同じく黙っていた。やがて根路銘が言った。
「ようこ……僕は、君の『大切な人』にはなれないのかな」
一瞬、意味を掴み損ねた。大切な人、その言葉が示す意味を。そして納得する。嫌な意味では、冗談ではなく。ただ、文字通りの意味で。自分の大切な人に。
今もっとも、妖乎が望んでいるものになりたいと──。
「……馬鹿か」
そっぽ向き、妖乎は毒づいた。本当に、バカだと思う。怨めしく思う。そんなことを言うから、椿野と妖乎は争ったのだ。椿野を苦しめる事になったのだ。それでも、そのことに気づかない根路銘は本当に鈍感だ。今の、自分の気持ちを考えもしないで。
『意志』は正常に回復し、予定より大幅に早まって、おそらく残り数時間で復元される事だろう。そうなれば、自分は消える。消えなければならない──なのに。
「──ありがと」
そんな事いうなんて、ばかばかしいにもほどがあるのではないか。
感傷や諦念の入り混じる重い胸元に、温かいものが広がっていくのを妖乎は感じた。
思いに反して、瞳に熱いものが広がり始めたとき──
唐突に、時は満ちたのだった。
次の瞬間、目も眩む揺れが妖乎を襲った。
一瞬にして世界の空間がない交ぜとなり、体が宙にたゆたうような感覚に陥る。聞き取れないほど高い音波が耳の奥で響き、たまらず妖乎はその場に崩れ落ちた。倒れた感覚すらないまま、妖乎は冷静に状況を把握し──にやりと、薄い笑みをその口元に浮かべる。
──来た。間違いなく、マンダラの力。だが曝れ頭ではない。理屈などよりも確かな、マンダラと曝れ頭の『匂い』が違った。
揺れる世界の中、手探りで妖乎は立ち上がり、しっかりとその足で畳に立った。やがて体が青白く光り、立鎌を握るや否や、確かな足取りで家の外へと飛び出していった。
おそらく三半規管に刺激を与える、超音波か何かのマンダラだろう。相手にすると厄介この上ないが──もはや、今の妖乎にはそれさえも『どうでもよかった』。
貫きたいと思い、誓った使命。邪魔するもは、容赦しない。冷徹なまでの、決死の覚悟。それが、妖乎の中で生まれた一つの決断でもあった。
ぐにゃぐにゃに歪んだ視界の中には、スーツ姿の真摯な男が佇んでいた。うまく表情は見えないが、動揺していることに間違いはない。動きを封じるためのマンダラ……のはずなのに、その利点をこうも簡単に看破されてしまったのだから。
動揺を殺意に変えたマカは、獣のごとき咆哮で妖乎につっこんだ。
世界の空間が定まらず水面のように漂う中、繰り出される拳や蹴りを、しかし妖乎はことごとくかわした。マカの表情が、急激に絶望に塗りたくられていく。
そんなマカをしかと妖乎は見定め、強く立鎌を握った。繰り出された刃は空気を裂き、吸い込まれるように──マカの胸元へ、叩き込まれた。マカが動きを止め、息を詰める。
瞬間、脳を揺さぶる音波が途絶え、はっきりと地面に足をつく感覚が蘇った。
感触。同胞を殺した……確かな感触。妖乎は、あえて無表情を貫いた。そうでないと、心に決めた決意が、壊れてしまいそうだったから。
「────」
悔恨と悲痛に満ちた、マカの表情に──。
散々する光の粉が、滑らかな妖乎の肌を撫で上げる。近くで嘔吐する音が聞こえ、よろよろと根路銘が玄関から出てきた。と──その瞬間、彼ははっと息を呑んだ。
当然、妖乎もそれには気づいている。深く空気を吸い、吐く。
冷徹な顔を崩さず、すっと振り向いた。
「──終わりだ」
視線の先──森の中から姿を現したのは、幼すぎる影。薄いフード、大きすぎるマスク。
曝れ頭の表情に、不吉な笑みが浮かんだ。
椿野は自分を抱くように、膝を抱えていた。ひどく、寒かった。
秋に入った肌寒い外気のせいもあったが、身のうちから湧く、風邪を引いたときのような凍えが、椿野を襲っていた。自然と指先が震え、きゅっと強く膝を抱える。
彼女の幼い曲線美を、淡く、青白い光が包み込んでいた。その光は頼りなく、しかし確実に発光し、同時に椿野の体力をジリジリと削っていく。
マンダラ──彼女はその力を発動し、誰の目にも届かない場所で縮こまっていた。それが根路銘を守る方法だと、曝れ頭は教えてくれたから。健気に。ただただ純真に。
しかし──思いに反し、胸のうちには暗くて思い何かが、膨らんでいくような感覚もあった。ザァザァと、小波のような澄んだ音が聞こえ、その音が孤独を知らしめるように胸に響く。
間違いない。自分の望む結果がすぐそこに近づいている。自分は正しい──そう思うたび。膨らむ黒い感覚はより大きくなり、必要に自分を責めたてているようで、椿野は強くおくばを噛みしめるのだった。
根路銘との純粋な付き合いを、椿野は渇望する。椿野は根路銘が、好きで好きで好きでたまらない。しかしそこで邪魔になるのは、冷艶妖乎……。分かっている。分かっているが──はたして、自分のやっている事は、正しいといえるのだろうか。
いや、正しいのだ。──肯定するたび頭にもたげるのは、妖乎の言葉、諦念の入り混じる笑顔。椿野に隔たり無く反駁してくれた妖乎。一人の人間として、誠意を持って対してくれた妖乎。自分の存在を、認めてくれた妖乎……。
──違う、違う! 椿野は強く頭を抱え、苦しげに呻く。体をまとう青白い光が、呼応するようにわずかにたゆたった。自分は、自分は……。
椿野は、もはや、何に頼り、信じていいのか解らなくなっていた。
ザァザァと響く波打つ音が、ひどく虚しく、椿野の耳朶を叩く。
空が──うずいた。
一筋の煌きが尾を引いた。横なぎに振るわれた立鎌は、大気を裂きながら曝れ頭を襲う。曝れ頭は目を細める。次の瞬間、彼は屈み、難なく攻撃を回避した。
が──逆に、妖乎はその空振りを遠心力に変える。くるりと翻った彼女は、かがむ曝れ頭に懇親の蹴りを放った。空気の切れる音と共に、曝れ頭の頭部に影が重なる──瞬間。曝れ頭の掲げた腕が、またもや攻撃を防いだ。
硬質なものを打った音が鳴る。はっとして、とっさに妖乎は地面を蹴った。数メートル飛びずさり、曝れ頭の手中にあるものを冷静に観測する。
三十センチほどの、バタフライナイフ──。彼はその武器を手に、妖乎の攻撃を防いだのだった。
「へえ、ずいぶんと──」
ぐっと身を屈め、再び妖乎は地面を蹴った。
「荒々しいマンダラなこと!」
逆袈裟懸けに、立鎌が振るわれる。曝れ頭は大きく後ろに跳んでかわし、数十メートル後方の高い枝に、しなやかに着地した。バサバサと、木の葉が舞う。さらに追撃を加えようと、妖乎は立鎌を強く握りなおし──
クスクス、と。その含むような笑う声は聞こえた。曝れ頭が皮肉なものを見るような眼で、妖乎を見下ろしている。小さく揺れていた肩は、やがて我慢できなくなったように大きくゆれ、曝れ頭は高く哄笑した。
「……何がおかしいのかねぇ?」
いえねと、曝れ頭はなおも笑みに目を細めながら、言う。
「冷艶妖乎。あなたは、終わりだといった」
「そう、終わり。あたしがあんたを殺して、使命は終わる。あんたも終わる」
「終わりではありません。終わりなど、この世に金輪際存在しないのですから。全ての生命に死が平等であるように、全てのモノに等しく、『終わり』などはありえません」
「──その例え自体が、矛盾してんのよぅ!」
妖乎は飛び跳ね、次の瞬間には、その右足が曝れ頭の頭を捉えている。
「──あなただからこそ、この考えは理解できると思うのですが」
が、薙いだ右足に、手ごたえはない。曝れ頭の姿が消え──すぐ頭上に小さく跳んでいるのを、妖乎は驚愕して見つめた。横殴りの衝撃が、頭部を襲う。
激しく地面に叩きつけられる寸前、妖乎はかろうじて受身を取り、同時に跳ね起きた。「妖乎!」と、家の影から叫ぶ根路銘に、口の血を拭って無事を示した。
「ちょっと、油断しちゃっただけよぅ」
とは言うものの、一抹の不安が妖乎の頭を掠める。一瞬──曝れ頭を見失った。目で追いきれなかった。妖乎は悟る。このマカの憎しみ、恨みがどれほど深いものかを。
「結局、これがあなたの望んだ結果なんですね。ボクたちマカのように『意志』を憎み、意識体を殺したいと思い──でも出来ず、使命を全うする。『意志』に取り込まれていたときと同じように、ただしたがって。やはり、『本質』に逆らうことはできませんでしたね。そして結局、そこで血を拭っている」
「そうねぇ。あたしは『抑制者』として使命を全うする──でもそれ以上に、あたしが望んでいるの。鳴滝を──殺させないために」
曝れ頭の目があきれたようにゆがみ、背後で根路銘が息を吸い込む音が聞こえる。
自分は『意志』を恨んでいる。そう──そうなのかもしれない。でも、妖乎はそれ以上に、守りたいものを見つけたのだ。大切な人になりたいといった根路銘──彼を救うためならば、彼の住む世界を守るためならば、どんな憎しみも踏み台にしよう。どんな屈辱も、どんな嫉妬も、排斥し、力に変えよう。そう、思うことが出来た。
「そうですか……それは残念です」
さして残念そうでも無く、曝れ頭はぼそりと呟いた。
「『愛』……そう、それも、一つの愛の形なのですね」
「なに?」
「人間と、そのほかの生物を分け隔てる、明確な感情ですよ。全ての動機、成り立ちには、どんな形であれ、必ず『愛』があります。明確な意志を持ち、しかし不安定で、他のものに頼る事でしか生きていけない不安定な生物。それが人間であり、『愛』を生み出す最たる理由でもあります。『愛』は実にすばらしい。どんな理由をこじつけようとも、根源には『愛』があり、なおかつ否定は出来ない。『本質』と同じように。あなたも、その『愛』があるからこそ、根路銘鳴滝を守ろうとしているのでしょう? ──しかし、『愛』は鮮やかで美しい反面、同じくらい醜い姿を持っていることも否定は出来ませんが」
謳うごとく、まるで世の創世者のように、彼は高らかに言った。
「……何が言いたい」
「人は、進化したという。何千年、何億年のときを経て、文明を開花し、技術を得、論理を証明して。そしてたどりついた先が──これです。貪欲な欲望、醜い自我欲、無謀な妄信、荒れ果てた欺瞞……。これが? これが進化? 否、ですよ。人類は進化を間違えた──もはや、退化といってもいいのかもしれません。例えどんな奇麗事を言ってもこの事実は隠せず、事実綺麗なものがあったとしても、もはや認知されることすらない。人は堕落した生き物になってしまった」
ふう、と溜め息のような息をついた曝れ頭は、芝居くさく肩をすくめた。
「そういうことなんですよ。人はもう、『愛』という心を忘れてしまった。己の『本質』に支配されてしまった。もう食欲だけに餓えるライオンと、利己欲にまみれた人々を隔てるものは存在しない。人本来の価値観を失ってしまったわけですから。──『ならば』」
珍しく語尾を強めた曝れ頭は、高らかに言い放った。
「ならば、この世界を救うしかないでしょう? どんな手を使っても──例え、それが禁忌の力を手に入れることでしか、成し遂げられないとしても」
ならば──ならば。そう、それこそが人の、意志を持つもののエゴだ。曝れ頭という少年は、それを知らない。自分の考えこそが、自分の見下す人類に成り下がっている事を。
「ボクのこの行動は復讐とも言えますが──義務ともいえるんですよ。そして、その根源は──」
危険だ、と、冷艶妖乎は思った。
「──『愛』なわけですから」
このマカは、この少年は危険だ。この確かな、『意志』に対する、意識体に対する、憎悪。歪んだ愛が故の、純粋で、無垢で、透き通った殺意。
「あんたは──何を望んでいるの?」
知らず知らずに、妖乎はそう尋ねていた。
「ボクとあなたは、非常に似ている。あなたの『本質』と同じものを、ボクは望みます」
「あたしの……ほんしつ?」
どきりとする。自分の──自分の本質とは、一体?
「意志を持て、自分だけの使命を持て、そして『愛』を持ち、それを成し遂げろ──」
今までと違う、とげとげしい口調で空を仰いだ曝れ頭は、マスクを剥ぎ取って、凄惨な笑みで妖乎を見据えた。
「ボクとあなたの本質は──『永遠回帰』ですよ」
{{かっこ下げ}}『永遠回帰』。
その言葉に含まれた真実を汲み取り、根路銘は愕然とした。永遠回帰──すなわち、同じものが永遠に繰り返される事。留まることなく、滞ることなく、永遠に。それこそ、終わりが存在しないように。
曝れ頭は『意志』を憎み、世界をうとむ。殺意を抱き、永遠回帰という『本質』、考えに従って力を行使──つまり。曝れ頭の望む、本当のものとは。
世界の破滅。そして再生。支配ではなく、人類の滅亡なのだ。『意志』も。人類も。世界も。全てをリセットし、間違った進化を正させようと。
そして、妖乎の『本質』も永遠回帰。妖乎は自らの『本質』、つまりマンダラを『等価交換』と言っていた。物体を創るには、それに見合った代償を。武器には腕を。傷には命を。
腐った世の中には──それに見合った、鉄槌を。
人類の過ちに見合った鉄槌を下し、この世界を永遠回帰へと──。
根路銘の中で深い憤りが渦を巻き、出口を探して唸りを上げる。醜悪な排気を出すそれは、明確な憎しみ、殺意だった。なぜ?──根路銘は疑念を抱く──何も知らないくせに、妖乎のことをあれこれ言っているからか。そう、そのとおりだ。しかし。
なにか決定的に、現在の曝れ頭を拒否している自分が、彼の中にいたのだった。
息を呑んでいる妖乎に駆け寄り、根路銘は曝れ頭を睨み、鋭く吼えた。
「お前! さっきからベラベラと! 妖乎は、お前が知っているような奴じゃない! 彼女の『本質』? それがどうした! 妖乎は妖乎だ。他の誰でもない、唯一つの意志だ!」
「鳴滝……!」
妖乎はすがるような、叱責するような、もどかしい様子で根路銘の前に出た。
「鳴滝、あんたは後ろに下がって──」
「へえ? 全ての原因が自分にあるとも知らず、よくそんな事がいえますね」
根路銘はなおも興奮した様子で、「なんだと……!」と妖乎の肩越しに曝れ頭をねめつける。曝れ頭は嘲笑とも取れる、まるで楽しいものを見ているように答えた。
「ボクがここにいる理由ですよ。あなたはこの状況が、理不尽で不運な出来事と捉えているようですが──今、この瞬間は、あなたの『怠惰』がひきおこした結果なんですよ」
言葉に含まれた何かに、根路銘と妖乎は眉をひそめた。
「私立村乱中高等学校──数ヶ月前、そこに通うある一人の学生が、自殺しました。服毒自殺です。おそらくあなたにも、記憶に新しい事だとは思いますが」
そして曝れ頭──死の象徴を名に持つ少年は、妙に冷めた口調で言うのだった。
「あれはボクなんですよ、根路銘鳴滝」
根路銘は自殺した男を──斉藤と言ったか──確かに、知っている。
特別な理由や、親しい友達、ましてや同じクラスだった訳ではない。日に二、三度は同じ人物とすれ違うという、田舎高校特有のありふれた理由に過ぎなかった。
一年の二学期ごろに彼は転校してきた。根路銘は違うクラスだったが、噂は耳にした。この時期に転校し──それが理由となり、いじめを受けていると。
一度すれ違った彼の体には、青黒い打撲の後が幾つも見られ、彼の周りには誰もいなかった。人間とは実に、身の危険に敏感な生き物である。彼に近づいたら、彼を助けたら、次に狙われるのは自分。周知の事実に、彼は友達が出来ることなく、ずっと一人だった。
だが根路銘は一度、そんな彼を助けた事があった。理由など他愛も無い。放っておけないという偽善的なものではなく、なんとなくその時は気に入らなかった、見ているこちらが腹が立ったという、何の気も無い突発的なそれだった。いじめというものは案外脆く、こちらが本気で対抗すれば、無くなるものなのだ。ただ、その勇気がないだけで。
いじめていた生徒を追い払った後、いじめられていた生徒は──困惑と、安堵と、うれしさのない交ぜになった顔をして、ありがとうと言った。根路銘はその言葉を、素直に聞き入れる事はしなかったが。
その後、根路銘は虐めの標的にされる事は無かった。もちろん、変えたところで根路銘は強く反抗するだろうし、逆に相手を後悔させてやるほどの覚悟もあった。
いじめていた生徒は、腹いせをしていたのだ。虐められていた生徒を、再び強くいじめ。
彼は懇願するような瞳を、再び根路銘に向けた。希望が、すがりが、その瞳の奥にあった。助けてと。手を差し伸べてと。根路銘はそんな彼を一瞥し──しかし、今度は助けなかった。さらに言えば、見放した。
動揺、困惑、絶望、失意──。信じられず見開かれた瞳を背に、根路銘は静かに彼の瞳から姿を消した。
面倒だったわけでも、助けられなかったわけでもない。ただ──駄目だ、と、根路銘は思ったのだった。いじめは悪い──だが、抵抗しないのも悪い。あそこで助けたら、確かに彼は助かるだろう。だが、根本的なものは何も解決しないのだ。彼の意志も、彼の周りを取り巻くものも、これからの彼も。
彼自身が、変わろうとしなければ──。
そして彼は、その数日後に自殺したのだった。「この世は腐っている」。自分の血で書きなぐられた、そんな言葉を書き残して。
「あぁ、絶望した、悔しかった、腐っていると思い、復讐したいと思った、この世界に、ボクを虐めた不良生徒を、傍観していた全ての生徒を、そして──」
体に巻きつく毒蛇のごとく、毒々しげに曝れ頭は言った。
「──根路銘鳴滝、ボクを見捨てたあなたに」
棒立ちした根路銘は息を詰め、曝れ頭と名乗る少年を凝視した。
全てが繋がった。彼がここにいる理由も──彼が抱く、この世、『意志』への憎しみも。
あまりに幼すぎたのだ。この世界を、人類を見る、彼の瞳が。心が。あまりに純粋で、透明すぎたために、腐敗した闇はその心をたやすく冒した。そして彼は自殺したのだ。
だが──唯一の安穏を信じたその行為の先に待っていたのは、欲にまみれた意識体。どれだけの絶望を、理不尽を感じただろうか。この少年は──あまりに、不運すぎた。
{{かっこ下げ}}『意志』の爆発が起こったのは、おそらくその直後だったのだろう。記憶を削除される前にこの少年は解き放たれ、地上に降り、決意する。この世の破滅、再生を。
「じゃあ昨日亡くなったうちの生徒って……お前が、殺したのか」
「ご名答です。もっとも、今日あなたの力を借りて、この世を終わらせる気でいますが。彼らの死は、個人的な恨みからですよ。──人間特有の、ね」
いじめるものがいて。見放すものがいて。一瞬の希望をちらつかせたものがいて。
だから世界が憎い。虐めたものが憎い。一瞬の希望から、より深い絶望に叩きつけた根路銘が憎い。
「──ふざけるなッ!」
口を衝いて、叫びが出た。あまりの憤りに、握りすぎたこぶしが痛い。
何て理不尽な、恣意的な考えなのだろうか。その甘ったれた、まるで力の無い子供のような行動原理。助けなかった皆が悪い? 小さな希望をちらつかせた自分が悪い?
「お前は自分の怠惰を棚に上げて、まわりにその責任を負わせてるだけじゃないか! 何が絶望しただ、何が腐っていると思っただ! お前の弱々しい意志が、そうさせたんだろ! なにを──なにを、周りが全部悪いみたいに……!」
「しかし、事実──」
冷淡な、曝れ頭の言葉。
「──ボクはこうしている。そう思ったからこそ、あなたを乗っ取ろうとしている。その事実にはなんら変わりはありません。ボクは中途半端な希望を見出したあなたを許せず、そしてそんなあなたのせいで世界は危機にさらされている──その事実と、同じように」
その言葉に呼吸が止まり、握ったこぶしが震えるのを根路銘は感じた。もはやどうすることも出来ない現実、導き出される未来に、根路銘の憤慨は叩き割られていく。同時に、別種の暗闇──恐怖が、ドクドクと脈打つのを感じた。
そうなのだ。例えどんな理不尽な理由があろうと、結果は変わらないものなのだ。
自分が、人を殺したという。
間接的に、しかし結果的に、拭えない真実。もし自分が目の前の男を助けていたならば。もし不良の男たちを停学にさせていたら。もし自分が何かをやっていれば。
「あなたはボクを殺した。あなたは、ボクに世の中の真実を突きつけてくれた」
わき上がる恐怖。駆け巡る戦慄。吹き出す悲しみ。
「あなたがボクを解き放ち、この世を終わらせるわけですよ、根路銘鳴滝」
自分が世界を──ころす……?
刹那。曝れ頭の背後に、影が奔った。キラリと光る閃光。寸前、曝れ頭も気づき、勢いよく枝から跳んだ。木に刃物が抉りこみ、メキメキといって半ばからその幹を断ち切る。地面に着地する曝れ頭は、すぐにはね、さらに距離をとった。曝れ頭が着地していた地面が、次の瞬間、轟音を立てて陥没する。
地面に立鎌をたたきつけた妖乎は、鎌を肩に担ぎなおし、小さくした打ちした。
「あんた話長いのよねぇ。しかもどうでもいい話。あたしの『本質』が永遠回帰? あんたに何が分かるって言うのよぅ。あたしはあんたを殺す。それだけの事実があればいい」
「そうですか? 人の話は、何事も聞いたほうがいいものですよ」
「そうねぇ。でも、あんたの話は聞きたくない。虫酸が走るから」
クスクスと笑った曝れ頭は、ふとを空を仰いだ。
「──『意志』の復活も、もうそろそろというところですしね」
曝れ頭が視線を戻し、妖乎がくるりと鎌を回して握りなおす。曝れ頭もナイフを逆の手に持ち替え──にわかに、その視線を根路銘に向けた。根路銘の体がはねる。
「『愛』はすばらしい。人を成り立たせ、また支えている大きな要因ですから」
再び不可解な事を話し始めた曝れ頭に、妖乎が攻撃を仕掛けようとする。が、曝れ頭は掲げたナイフで彼女を牽制する。
「しかし紙一重で、それは醜いものに変わる。先も言ったとおり、美しいコインの、裏の部分ですよ。恐ろしい──だが人は、容易に、無意識に、その醜い愛を抱いてしまう。おもな原因の一つには、純粋な愛を持ち、それを向けている相手に踏み躙られる事にあるようです」
意味が分からず顔をしかめる根路銘は──徐々に、顔を凍らせていった。
「そして憎しみの愛を持ったものは、純粋な愛を求め──より深い、暗い愛におぼれていく。手に入れるために。例え自分の命を絶っても、敵の手の平で踊る事になろうとも」
──それは……それは、もしや。
「根路銘鳴滝。さあ、探してみなさい。手遅れになる前に。再びあなたの手で人の命を絶たないために、絶望を与えないために。彼女は、ただ、『そこ』にいる」
椿野、華……!
次の瞬間、根路銘は駆け出していた。全身の感覚を麻痺させるほどの恐怖。痙攣しそうになるまでの焦燥。
「鳴滝! バカ、いくな!」
もはや、その耳に妖乎の言葉など入らない。外界の音など入らない。もう、失いたくないから。自分のせいで、他の人が苦しむのは嫌だから。根路銘は呻き、走った。
「椿野……ッ!」
力なく横たわっていた椿野は、鳩尾がうずく妙な違和感を受け、空ろな視線を空に向けた。変哲の無い、雲の流れる空の様子。──だが。
「……くる、しがってる」
呟いた椿野の言葉は、酷くかすれていた。常人には解らない感覚。空が、何か苦しむようにうずき、心なしか雲の流れも速い。変な、感じだった。
倦怠感が全身を襲い、体が鉛のように重い。何とか体を起こそうと地面に手をつくが、すぐに力が抜け、パタリと倒れてしまう。目の端に捉えた自分の指は、小刻みに震えていた。そして取り巻く青白い光は、呼応するようにその勢いを増す。まるで生気が吸い取られているみたいだ──椿野は、ぼんやりとそんなことを思った。
ザァザァと波打つ音が空虚に聞こえ、わずかに潮の香りが鼻につく中。椿野は凝然と、能力を発動していた。昨日、曝れ頭に渡された『根路銘を守るための力』──その力はじりじりと椿野の体力を奪い、精神力をそいでいっていた。
眼前の光景に現実感が無く、宙に浮いているような感覚。これ以上発動し続けたら、体が持たない──でも、椿野はやめることが出来なかったのだった。
根路銘を自分のものにしたいから……。
椿野は、そのことだけを望む。根路銘だけを渇望する。そのために今こうしているし、危険だと分かる曝れ頭の言葉にも従った。妖乎も、見捨てた……。
妖乎は自分と言い合ってくれた。妖乎は自分を許してくれた。妖乎は自分を──認めてくれた。クラスでも孤立していた椿野にとって、初めて出来た対等な……友達。果たしてそんな彼女を虐げ、得るものはあるのだろうか? むろん、そうだと思うからこそ、椿野は曝れ頭の言うままに能力を行使している。が──思うのだ。
今こうして友を裏切っている自分は、とても醜く、汚い存在なのではないだろうか、と。
そんな自分を、おそらく根路銘は軽蔑する。妖乎は呪う。だとしても自分は、根路銘を手に入れたいのか? 今抱いている気持ちが、真実を映したものではないとしても?
椿野は気がついた。自分は愛したい。でも──それ以上に、愛されたいのだと。
孤独。それが以前の自分だった。怖くて、とても恐ろしい感覚。でも、根路銘が現れて愛したいと思った。孤独ではなくなるために。だから愛してほしい。自分の愛するものに、独りではないと言ってほしいから。
根路銘の愛を介した存在証明──妖乎の言ったそれがまさしく合点している。彼女もおそらく、根路銘に『それ』を見出していたのだろう。そして、そんな彼女を自分は──。
椿野は、浅く引きつるような呼吸をした。胸に溜まった想いが爆発し、強く噛んだ歯の隙間から醜い呻き声が漏れる。頬を伝う熱い感覚に、椿野は自分が泣いているのだと気づいた。体をまとう青白い光が、にわかに脈動する。
──駄目だ。椿野は、思った。何が駄目とか、だから駄目とか、詳しい理由は何一つ明確ではない。でもただ漠然と、こんなのは駄目だと思ったのだ。根路銘に軽蔑されてもいい。妖乎に罵られてもいい。だから、だから──
こんな事はやっぱりいけないんじゃないかと、そう思ったのだ。
椿野は全身の筋肉に全力で指令を送り、動かそうとした。この間違いを正すために。妖乎を、根路銘を助けるために。しかし、その意志に体は応えてくれなかった。ピクリとも反応せず、ただ、心臓の音と激しい呼吸音が耳朶を叩く。
無性に情けなくて、悔しくて。噛み締めた歯の隙間から染み出る呻き声が、なお惨めで。能力を止めることすら出来ず、椿野は声を上げて涙を流し──
「椿野!」
声を。
声を、その耳で捉えたのだった。
望み、だが無意識に罪悪感の湧く、聞きなれたほっとする声は。やがて椿野の耳元でもう一度自分の名前を呼び、だけど椿野には霧がかったように判然としなくて。
「──ねろめ、くん……」
悲しそうな、安堵したような、根路銘の顔が自分をのぞきこんでいた。
ああ──椿野は理解する。根路銘は、やはり根路銘だった。何があっても、ゆるぎない母なる大地のように。軽蔑も、偏見も、嫌悪も感じることなく、ありのままの自分を包み込んでくれる。それに、根路銘は見つけてくれた。自分の人生の分岐点となった運命のこの場所を、根路銘は覚えていてくれた。椿野が自殺し、根路銘が助けたこの場所を。
だから椿野は、思ったのだった。存在理由とか、自分を助けてくれた人だからとか。そういうことを全部取っ払ってでも、自分はこの人を、心から愛しているのだと──。
根路銘が優しく椿野を抱えあげ、なされるがままに椿野が身を任せたとき。かすむ視界に、『そいつら』は映った。
それぞれに異質な武器を持った男が三人──不吉な笑みを浮かべ、そこに佇んでいた。
予知にも似た『おかしい』という漠然的な疑問が、妖乎の脳裏をかすんだ。
なんだ──と思った次の瞬間には、煌くナイフが妖乎の体を捉えている。慌ててバックステップで距離をとり、立鎌を振るって追撃をけん制する。行動を予測されていた曝れ頭は振るわれた立鎌をさっとかわし、自身もやむなしと後ろへさがる。
距離を保った──とおもうや、次の瞬間にはすでに激しい打ち合いが再び繰り広げられていた。
妖乎の想像以上に、曝れ頭は手ごわい相手だった。流石に戦闘経験は妖乎に分があるものの、その滑らかな戦闘捌きは、妖乎のそれと同じ、または同等の逸材ともいえた。隙、急所、死角を的確については、反撃をくらう前に引く。妖乎は敵に攻撃を与えることが出来ず、また与えられることも無く、戦闘は均衡状態を呈していた。
曝れ頭が跳び、着地した所を狙い、妖乎は鎌を振るう。曝れ頭は難なく身を捻ってその攻撃をかわし、クスクスとさも楽しげに含んだ笑いをこぼした。激情に力がこもり、手数の増えた得物が乱舞する。
「おやおや……すばらしいものがありますね、今のあなたの雰囲気には」
「うっさい!」
鎌を衝きたて、曝れ頭が大きく後ろに跳んでかわした。それがまるで逃げているように見え、妖乎は強く唇を噛んだ。
妖乎はあせっていた。椿野を助けに行った、根路銘のことである。曝れ頭は何も、戯れで根路銘をそそのかしたわけではないだろう。おそらく──いや確実に、残りのマカが無防備になった根路銘を襲うはずだ。
「彼が恋しいですか?」
揶揄するような声に、妖乎の胸が熱くなる。
「ならば、ボクを止めるほかありませんね。彼の精神が崩壊し、別の人格が乗っ取られる現実を見たくないのなら」
胸が熱く、頭が急激に冷めていく。怒りで頭の芯まで冷えきるという、矛盾した感覚。
この男を殺すことに、もう気詰まりを感じたりはしない。それが根路銘のためになるのならば。自分はどんな事にも、立ち向かっていける気がする。
だが──妖乎はいまだ、物理的に彼を追い詰める事が出来ずにいた。曝れ頭は優美なまでに彼女の攻撃をかわし、または与えてくる。強い。しかし曝れ頭の戦闘力は、決して倒せないほどではないと、妖乎は判断していた。今まで戦ったマカと同じ──それ以上だとしても──自分がやられる事はないし、倒す自信も、自負もある。
だが、倒せないのだ。曝れ頭の動きに、妖乎の速度が追いつけていない。その答えは、さきふと感じた妙な違和感に帰属する。
妖乎は、自分の体に異変が起きていることを、あるていど汲み取っていたのだ。その原因は当然、曝れ頭のマンダラの可能性もある、のだが……。
「不思議そうな顔をしていますね。いや、事実不思議がっているのでしょうが」
立鎌をかわし、または反撃しながら、息一つ乱れぬ口調で曝れ頭が言う。
「なぜ、力で上回っているはずの自分が、この男を殺せないのか。そう、自分の体がおかしい──と。あなたとて、ボクのマンダラがこんな陳腐なナイフではないという事は、とうに分かっているのでしょう? そしてそのとおりであり、ボクのマンダラは──」
毒です。
立鎌の風を切る音に混じり、愉悦に満ちたそんな声がわずかに聞こえた。再び距離をとった曝れ頭を睨みながら、妖乎は激しく肩で息をついた。
「致死量を体内に取り込めば、しだいに体力がそがれ、筋肉が弛緩していき──やがて、体の組織が死滅し、死に至る。じりじりと死が近づいてくる恐怖は、むしろ壮観なものがあるでしょう? 冷艶妖乎。僕が死んだときの苦しみを、あなたも味わうがいいです」
毒──おそらく、体内から空気中に霧散させる形の。予想しなかったわけでもないが、すぐに否定した可能性でもあった。
マンダラは『常識』に強く制限される能力である。あまりに強力なものは『常識』に縛られ、弱体化する。強力な毒の排出も、間違いなくこの例えに準ずるもののはずだ。むろん排出しつづけ、空間いっぱいに毒を満たしたなら弱体化したとて関係はないが──世界は広い。すぐに毒も空気に分散し、役を果たす前に解けて消えてしまうはず。
が──瞬間、はっとして妖乎は瞠目した。
……風が、なかった。
妖乎の変化を見取ってか、曝れ頭がクスクスとまた笑い。
「あなたは実に勘がいい……そうです。僕の能力は、所詮役立たずなものです。しかし、密室した空間では、すばらしいものがあるんですよ」
妖乎は腰をかがめ、立鎌を強く握りなおそうとし──その手が細かく震え、力が思うように入らないことに気づいた。
「ここら一体の空間を、外界と遮断させていただきました。そしてボクのマンダラは、あなたを対象に昨日から稼動状態にあります。──冷艶妖乎。あなたはボクに戦いを──いや。僕という存在が現れた時点で、あなたはすでに負けていたんですよ」
体が毒に蝕まれていく感覚と同じくして、妖乎は愕然とした。守ると決めた。世界を、根路銘を救うと決めた。使命を貫くと──その結果が、これか? 見捨てられ、このまま殺されるのか? いやだ──そんなの、いやだ。
「全く……ボクは運がいい。すばらしいマンダラを持つ子と出会い、こうしてあなたをひれ伏させる事が出来たのだから。神が、僕を導いているのかもしれませんね」
ふと、悦に入った曝れ頭のその言葉に、妖乎は引っかかるものを感じた。
「マンダラを持つ──『子』?」
「……ああ……本当に、あきれるほどあなたは勘がいい」
クスクスと、神経をさかなでる優声で、彼は笑う。
「それでは、ヒントを与えるとしましょう。空間を封鎖するマンダラ。束縛的で、実に独りよがりな能力だと思いませんか? ヒトの負になった『愛』が顕著に出ている、すばらしい『本質』ですがね。あなたはその利己的なマンダラを──『恨みますか』?」
訳が分からず眉をひそめていた妖乎は──しだいに、その表情をこわばらせていった。
「あんた……もしかして……っ」
「そうですよ」
その声は、背後から。耳元に毒を注ぐように、邪悪な響きを伴って。
「──椿野華。彼女は、実に忠実なコマでしたよ」
反射的に妖乎は振り返り、立鎌を振るう。
その腕を鈍く光るナイフが貫通し、鮮血が舞い散った。
椿野を抱えた根路銘は、じりじりと三人のマカに距離を詰められていた。鋭くけん制のまなざしを向けるが、三人のマカに浮かぶ表情は、弱者をいたぶる愉悦に満ちている。
その時、シャンとガラスの砕けるような音があたりに響き、頭上から紫の破片が降り注いできた。
「ね……ろめ、くんを……」
弱々しくかすれた声で、椿野が呟いた。すると呼応するように破片は根路銘と椿野を包み込み──失敗したように、ばらばらと砕け落ちた。苦しげに椿野が呻き、その体から徐々に青白い光が消えていく。根路銘はいたたましげに椿野を見、悔しさに唇を噛む。
彼女もまた、マンダラを持っていたのだ。そしてその能力を覚醒したのは、おそらく曝れ頭。椿野も一度、死と隣り合わせの状況に陥った事があるのだ。でなければ、マンダラを得る事は出来ない。そう──この、静かに波打つ沿岸で。根路銘が椿野を救った、この場所で。
根路銘としては、通りかかったときにおぼれていた少女を、無我夢中で救ったに過ぎない。でも、そのときから椿野の運命を変えたのは、紛れも無い自分なのだ。そして自分はそんな椿野の気持ちも知らず、理解せず……。根路銘は、強くほぞをかんだ。
自分の怠惰が、このか弱すぎる少女をここまで追い詰めたのだ。
──ずるり、と。
わずかに思いにとらわれていた、そのとき。背骨を伝う寒気に、根路銘は息を詰めた。
驚愕して背後を振り向こうとすると、体の自由がきかないことに気づく。両手首、両足首に赤い輪がつけられ、空中に縛り付けられているようだった。彼の膝の上から、支えを失った椿野がペタンと地面に転がり落ちる。──マンダラ?
「──はじめるぞ」
真後ろで低い男性の声がする。いつの間にか両側にまわったマカ二人が頷いた。
目端で、わずかに根路銘は見た。マカが両腕を突き出し、やがて青白い光がその腕を覆うのを。ふいに、妙な圧力を感じた。──次の瞬間。
目も眩む閃光が、視界を覆った。と思うや、転瞬の間に暗転し、火花のような光が炸裂する。背骨を伝った寒気が全身を這いずり回り、あまりの違和感に、根路銘は絶叫する。全身の毛穴から液体があふれ出し、重力の有無は分からず、音なき騒音が耳朶を叩く。
脳が沸騰するようで、全てがごたまぜになった世界に──やがて、根路銘は垣間見た。
視界に広がるわけではなく。脳に直接、わき上がるように浮かぶ情報。
世界にとぐろを巻く人類の業を。世界を監視する、私欲の塊である『意志』の姿を。
爆発的に吹き出す情報に、脳の繊維一つ一つを針で潰すような痛みが伴う。
やがて、根路銘の頭に一つの情報が明かされ──彼は瞠目した。
それは今まで自分を苦しめてきた、呪縛の答え。紡がれる、残酷なまでの『真実』。
──嫌だ……嫌だ! うそだ!
絶叫する。しかしなお解き明かされていく、鮮明な情報。根路銘の中に存在する一握りの理性はその『真実』を否定する。送られてくる情報は、否定という概念すら打ち砕いていく。世界に存在し、なおかつ真実のみを選りすぐった、一塊の真意。
根路銘は愕然とした。自分が信じ、見てきたものは、全て偽りだった……。
やがて、混沌とした世界に、新たな感覚が降り注ぐ。自分という意識の中に、他の意識が侵略してくる、黒々とした不安感、絶望感。
外界にいるマカが、根路銘の意志を『乗っ取ろう』と手を伸ばしたのだ。
しかし根路銘は、絶叫する事も、嫌悪に顔をゆがめる事もしない。何も、しない。
同時に、代わりとばかりに浮き上がってくるものがあった。
理由があり、証明できるわけでもない。でも、確信を持っていえるその存在。
自分の『本質』──マンダラ。
全てが嫌悪に満ちた。全てが憎悪に満ちた。全てを──壊したいと思った。
自分を取り巻く存在、事実、真実を。とてもむしゃくしゃした。
こんなにも醜いのに。こんなにも汚い存在なのに。世界は、人類は。
こんな世界なんて──
一度、滅びてしまえばいいのに。
……ああ──と、どこか客観的に状況を窺っていた根路銘が、納得する。
そう──自分は『これ』だったのだ。どんな奇麗事を言おうと。どんなに曝れ頭を否定しようと。否定できないもの。それが『本質』。
自分のマンダラは、黒かった──。
胸元で膨れ上がっていたマンダラが、爆発し、外界に奔流となって放出されるのを、根路銘は力の無い笑みで見守った。姉が両親を殺し、自分が刺された時から、もう自分の『本質』は決まっていたのだろう。押し隠しても消える事は無い。自分は、姉を、この世界を、恨んでいたのだ。自分を独りにした、この世界を。
──姉さん……僕は、僕は──。
マンダラの爆発が更なる憎しみを呼び、邪念となったそれが『本質』と共鳴する。
青白い光の奔流に抵抗するように、三人のマカがより奥深く意識に手を伸ばそうとする。根路銘は無造作に、無表情で、その腕を掴んだ。ぐっと、力をこめ──
腕が、四散した。握った箇所を中心に、光に包まれ、粉となって宙に霧散したのだ。その光は急速にマカの体を包み、迸るマカの絶叫を、断末魔のそれへと導いていった。生きながらの死というべき、まさに凄惨な光景だった。
根路銘はその光景を、ただ無関心に、冷徹なまでの冷めた視線で見つめていた。
残りのマカも同様に、なすすべなく光に包まれ、死にゆき──
クスクス、と。
ややあって、根路銘は、そう笑った。その頬を、涙で濡らして。ひび割れ、亀裂が走ったような笑みを口元に浮かべて。
ただただ、邪悪に。
生暖かい血液が体中をつたい、ポタポタと地面に落ちる。赤黒い血溜まりとなったその場所に、とさりと妖乎は力なくひざをついた。血のはねた顔は空の向こうを凝然と仰ぎ、驚愕に目を見開いていた。
雲のたゆたう空の下──青白い光りの奔流が、天を衝いていた。考えるまでも無い。妖乎は、根路銘から吹き荒れるマンダラの力を目にしていたのだ。
曝れ頭もまた、同じく空を見上げ、感嘆の吐息を洩らす。
「すばらしい……!」
美しいまでの光の柱を見つめながら。しかし妖乎は悲鳴を上げるわけでもなく、目に見えた絶望を呈したわけでもなかった。呆然と光を見、ただ信じられないでいた。
自分が今まで必死に守ってきたものが、こんなにもたやすく、脆く、崩れ落ちてしまった事に。
根路銘は以前、妖乎に言った。使命ではなく、妖乎自身がどうしたいのかと。妖乎すら気づいていなかった、彼女の真意に、根路銘はほんの少しの時間で看破したのだろう。そして妖乎は事実、使命を命がけで果たそうとは思っていなかったように、今では思える。
しかし、今こうして根路銘を破滅に導いたであろう光を見つめ──妖乎は、震えた。
無心だった心に、恐怖が、恐れが、悲哀が、圧倒的な不安が襲い掛かってくる。
肺が痙攣したように、妖乎は不安定な呼吸を繰り返す。
声帯が潰れたように、それでも悲鳴は出る事は無かった。ひゅうひゅうという、実に滑稽な浅い呼吸音しかもれない。
「どうしましたか冷艶妖乎。これは、あなた自身も望んだ結果なんでしょう?」
望んだ結果? これが? ──眼前に根路銘の顔がちらつく。……違う。あたしは。
「あたしは、ねろめを……ッ!」
「根路銘鳴滝は乗っ取られてはいませんよ」
抑揚をどうにか押し殺している声音で、曝れ頭は軽く言った。
「もっとも、無事──とも、言える事は無いですが」
「なに……?」
止みはじめた光を一瞥した曝れ頭は、じりっと鋭い視線に、口角を吊り上げた。
「やはりボクは正しかった。感じませんか? 空間を遮っていた、椿野華のマンダラも消え、空気中に満たされていたボクのマンダラも消えている。──そう、根路銘鳴滝のマンダラに、巻き込まれて。これほどの力です。彼の力を生きて制御するなど、不可能に近いことなんですよ。そしてそれでも挑もうとしたものは──容赦なく消される」
彼は背を向け、消えていった光の残像に、恍惚とした表情を向ける。
「ではどうやって、この世界を『永遠回帰』へと導くか……。簡単な話です。彼に導いてもらえばいいんですよ。『意志』も。世界も。ボクも、あなたも、自らも。全て消して、無に帰せばいいだけです。だからボクは、彼にそうするだけの力を与えればいい。事実彼は己の『本質』から逃げられず、マンダラを開放している」
そして曝れ頭は。亀裂の笑みを走らせ、ぎらりとした瞳で振り返り。
「あなたももう知っていることでしょう。彼の家族にあった『必然的』な悲劇と、今ここにいるあなたという存在の『殻』については」
殴られたような衝撃が、妖乎を襲った。──なぜ……なぜ、この少年は。
「知っていますとも。椿野華から聞き出し、結果を予測する事は決して難しいことではありませんから。そしてあなたは、その『真実』を根路銘鳴滝に話してはいない……。しかし、決して恥じる事はありませんよ。それがヒトの怠惰、業というものなのですから」
全身を奔る深い傷に、痛みも感じず。常に肌を濡らす、赤黒い鮮血の温かさも知らず。手の平からこぼれた立鎌が、光の粉となって散るのも分からず──。
深い泥沼の中で、妖乎は自分の存在が溶けていくのを感じた。
このマカは、根路銘を乗っ取るのではなく、誘導する気なのだ。
絶望をあおり。闇の淵へ。より深く。より暗闇へ。
{{かっこ下げ}}『憎しみ』という感情を、マンダラに訴えかけて。
──刹那。手の平で弄んでいたナイフを、次の瞬間、曝れ頭は鋭く投げ放っていた。煌きは、吸い込まれるように妖乎を襲う。反射的に避けようとするが、残留した毒に体は動かない。ずぶりと、腕の無い肩口をナイフが貫き、背中からその剣尖をのぞかせた。
「ぐ──ッ!」
「ただし、あなたはまだ殺しません。あなたには、傍観者となってもらう。傲慢なヒトの果て。欲望に満ちた『本能』の果て。しかと、見届けてもらいます」
もはや姿勢を維持する事すら叶わず、血の溜まった地面に顔をうずめた。ややあって、瞬間的に曝れ頭の気配が消える。
──静寂が、妖乎を包み込んだ。全身を脱力感が襲い、何をする気力も湧かない。全身が痛い。傷口が痛い。空気が痛い。心が……痛い。
視界いっぱいを覆っていた赤い液体が、ふいににじんだ。血とは違う、熱いものが頬をつたい、勢いよくあふれ出した。深い傷で、嗚咽をもらすことは出来なかった。
終わった……自分は、負けた。結局自分は使命を果たせず、全てが徒労に終わった。『意志』は破滅し、じきに地球上の文明は絶えるだろう。
改めて考えると全然現実感が無く──それでも、紛れも無い真実なわけで。
──駄目だ。
広大に広がる闇の中。ろうそくに灯る明かり程度の、『妖乎』が言った。
絶望に打ちひしがれ、現実を冷徹な視線で見下ろす『妖乎』が問う。
例え助けたとしても、おまえ自身は『消える』という決まった結果が待っているんだぞ?
──知っている。
ならば何故助ける。何がしたくて助ける。
──ただ助けたい。
使命のためか? 存在証明のためか? 抑制者としての意地か? 歪んだ愛のためか?
──違う、あたしはただ。
そんな傷で? 回復も出来ないほど傷付いて? どうやって? 根路銘に──逆に、憎しみをぶつけられるとしてもか?
──ああ、ああ、苦しい、苦しい。胸が焼け、吐き気がする。
お前は何の役にも立ちはしない。ただ這いつくばり、終わりを見届け、そして──
「うるさい……うるさい、うるさいうるさいッ!」
ブジュリと。血が溢れ、肉が軋み。それでも妖乎は歯を噛み締め、半身を起こした。血液がだだ漏れになる体を、にわかに青白い光が覆う。命を削っての、回復だった。
もはや全身を治す力は無い。『冷静』に、必要な情報量を、必要な部分だけに与えていく。腕、腰、胸、肩、体内に残る毒──。
絶望しか頭をよぎらない。それでも、妖乎は守りたかった。自分を取り巻く、全てのものを。欲張りで、傲慢かもしれない。全てを望みすぎているのかもしれない。歪んだ愛かもしれない。でも、その歪んだ愛を利用するのも、またヒトなのだ。
だから妖乎は立ち上がる。有限の命を使い、能力を行使する。
「『明けの明星──」
ふわり──と。両腕で自分を抱いた妖乎の背中が、にわかに輝いた。
「──ルチフェル』」
光が、爆発した。
──だめです。そんなことしたら、だめ。
破壊衝動に駆られる根路銘の脳に、小さな声が響いた。弱々しく、それでいて力強い。
根路銘はかまわず、憎しみ、恨みを根源にわき上がるマンダラを放出する。その瞳は何も見ず。その耳は何も聞かず。阻むものを、無条件で消し去るほどの威圧感で。
再び聞こえ、根路銘は聞かず──三度聞こえ、さらに聞こえたとき、根路銘の奥歯が強く噛み締められた。
──阻む者か。ならば……
か細い意識の感じるほうに向き直り、破滅の光に牙を剥かす。
──消し去ってやる。
ずいっと伸ばしたその手は、だが、はっとした様子で宙に停滞した。
──そんなの、根路銘君じゃないです。私が愛したあなたは、そんな事はしません。
茎のように細く、白い両腕が逆に伸ばされ、自分を抱き包むのを、根路銘は愕然として見下ろした。椿野の心は、優しく、力強く根路銘の力を抑制しようと光り輝く。
激しい嫌悪感が瞬間的に湧き、同時に、いとおしさにも似た痛みが走る。
──何を。何をする。なぜ拒む。なぜ否定する。なぜ──手を伸ばす!
──私にはその憎しみがわかります。同時に駄目だということもわかります。あなたが、そして妖乎さんが、私に教えてくれたことですから。
瞬間、憤りの念が渦を巻いて爆発する。何も知らない。何も解ってないのだ。この世は醜い。入り乱れる悪しき人の『本質』を、彼女は知らないのだ。ならば破壊すればいい、再生すればいい、永遠回帰すればいいのに! それに──
──君だって、その『本質』に身を任せたんだろッ? 妖乎が嫌いだったんだろッ? ならなんで! どうして君はそういえる! 何もわかってない、わかっちゃいない、君は!
──そう、ですよね。
あっさりと認める、優しい声音。
──でも、私はやっぱり、彼女を最後まで苦しめる事が出来なかった。私は、あなたを取った彼女が憎いだけで、彼女自身は嫌いじゃなかったのかもしれません。それに──あなたもそうでしょ? 本当は、好きなんでしょ? こんな世界が?
好き──好き? バカか……バカか、バカかバカかッ! そんなわけない、そんなわけないのに──。どうして動揺する自分がいる、呼吸が出来なくなるほど胸がしまる自分がいるんだよ! あぁぁあ、苦しい苦しい。消したい。なんで消せない。ケシタイ、ケシタイケシタイケシタイ! なのに──ケセナイ。
──なぜ……どうして君は、そこまで……!
胸元に膨らむ何か。苦しくて、どうしようもなくて、苛々して、とても大切な何か。
──私は。
エヘヘ、と、無邪気な笑い声。
──私は、あなたを愛していますから。
アイシテイル──胸元に脹れていた何かが、がじゅりと心臓を鷲づかみにした。
手が伸び、自分を包み込もうとする。恐怖に、反発心に、震えが止まらない。
壊したいと、消したいと思う。でも、その腕はとても優しくて。
偽善だと、虚構だと思う。でも、とても柔らかくて。
彼女が浮かべている表情は笑っているが──とても、淋しげで。
憎しみに、優しさに、理解できない理不尽な世界に、破裂しそうに頭が痛んだ。
根路銘は絶叫し、その柔らかい腕から逃げた。とても怖かった。得物を突き立てるマカよりも。世界を覆う『意志』の復活よりも。その一握りの優しさが、とても怖かった。
椿野は臆した様子も、気にする様子もなく、さらに手を伸ばし、根路銘に触れる。消したい──と思う。でも、やはり出来なかった。その行動を決定的に否定する自分が、彼の中にいたのだ。腕を頼りに、ずいっと身を寄せた彼女は、ふっと微笑み。
──だいじょうぶだよ。
小さく、そう、呟いたのだった。
何に響いたのか。何に衝撃を受けたのか。とても温かくて。その一言が、どんな憎しみを呼ぶ事実よりも重くて。
──つばきの……。
バジリと、視界の明度が変異した。徐々に、視界が明瞭になっていく。
根路銘は、自分が椿野の腕に抱かれていることに気がついた。
体には、いまだ溢れんばかりの青白い光が染み出している。全てに現実感が無く、まるでいまだ夢の中にいるようだった。眺めるわけでもなく、無心に、ぼうっと椿野の意識を失っている横顔を見つめる。そのとき。
生きたまま体内に蛇を入れられたときのような悪寒が、根路銘の体を凍らせた。
震える体で、ゆっくりと視線を転ずる。視線の先の男が、恭しく一礼した。
「どうも、根路銘鳴滝」
「され、こうべ……」
ぞぞぞ、と、無意識に青白い光が溢れ出す。先ほどの、意識を始め、体中を支配した──憎しみの、危険極まりないマンダラ。
瞬間的に、根路銘の『本質』はこの男を消したいと思っていた。この手で、殺したいと。溢れ出す憎悪をこらえきれず、根路銘が苦しげに呻いた。
そんな根路銘を見てか、曝れ頭が不気味な笑みを見せる。
「どうしたんです? 何をためらっているんですか。あなたを取り巻くその力を解放し、あなたの願いを叶えればいいじゃないですか。難しいことじゃありません。ただ、この世界を見つめなおすだけでいい。あなたとて、この世界の業を創り上げた一人の意志なんですから。その思いのまま、ボクを殺し、あなたの膝の上にいる彼女を殺し、終焉を待つだけの冷艶妖乎を殺し、世界を破滅させ、『意志』を瓦解させて──自分を消す」
悪魔の囁き。絶え間なくざわめく、胸の闇をどうにか根路銘は押さえ込む。抑えきれず、あふれ出した死の光が、うごめき、曝れ頭を標的にしようとする。
「どのみち同じ事です。あなたはもう、三人のマカを殺した。ボクは冷艶妖乎をほぼ殺した。椿野華はその手伝いをし──あなたは、自分の中に存在する冷艶妖乎を殺した」
愉悦に、亀裂の笑みを、曝れ頭は浮かべた。
「もう知ったのでしょう? 全てを取り込む、あのマンダラの渦……今ここに存在する『真実』を、あなたはマンダラを介し知ってしまった」
どくん。どくん。バクンッ。
椿野の力を借り、押さえ込んでいた憎しみに満ちたマンダラが、再び根路銘の体を這いずり回った。深い憎悪感、破壊衝動が蘇り、力が自分の手の平に戻ってくる。
「あなたは、僕を始めてとして、すでに冷艶妖乎を憎んでいる。こらえきれないほどに!」
曝れ頭が高く哄笑した。楽しげに。愉快に。根路銘は睨み、腕が痙攣した。
そう──根路銘は知ってしまった。『真実』を。絶望しか孕まない──思い出の真相を。
根路銘の家族を初め、親類一族は、もともと『意志』、またはマンダラの存在を知っていた。詳しい理由は不明だが、一族から出家した僧侶が、悟りを開き、『意志』の存在を見つけたものだという噂もある。が、そんな事はどうでもいい。
親類一族は、『意志』に対し、強い敵愾心と、危機感を抱いていたのだ。
暗く欲に満ちた『意志』は、やがてこの世界を滅ぼす……。
迷信にも似た、それが理由だった。実際に、マンダラを覚醒させたものは『意志』を見たし、『意志』が不穏な動きを見せたと同時に、洪水などの災害が起こったのも事実だった。
こうして、一族には令状の無い使命が出来た。時を満たしたものは、マンダラを覚醒させ、悟りを開き──『意志』と接触、破滅させる、という。
姉は、定めといった。時が満ちたといった。憎めといった。マンダラは死と接触しなければ、得る事は出来ない。姉は自殺しようとしてその力を手に入れ、父と母は姉に刃物を突き立てられ、失敗して死んだ。そして根路銘は生き延び──力を、手に入れた。
よって『家族』は破滅した。紛れも無く。『意志』のせいによって。
そうして、姉は愛するものを捨て、『愛』の絡み合う世界を救うため、誰も見ることの無い孤独の中──悟りを開いた。しかし結果的に、『意志』を破滅させる事は出来なかった。
なぜならば。大ダメージを受けた『意志』は、今こうしているうちにも、着実に回復しているのだから。
姉は、おそらく……。いや、確実に。死んだ。死に、そして乗っ取られた。
自らを殺した攻性本能を持つ『意志』に。
憎むべき相手に。
冷艶妖乎と、名を変えられて──。
不運すぎる偶然。そして、避けられない必然。
憎むべき相手は、姉ではなかった。独りにした、両親ではなかった。
{{かっこ下げ}}『意志』。目の前に立つ男。マカ。そして……。
「ああぁ──ああ! あぁ、あぁアアアアアア! アァァァアアッ!」
憎い。殺してやりたいと思った。自分から全てを奪ったこの男を、『意志』を。この力を使って。『本能』に従い。世界にはびこる、同じような意志を持つ人類を。
青白い光が邪悪に染まり、触れたものを死の灰とする得物に取って代わる。呼吸をするのと同様に、意のままに動く死の光。そう。ほんの指一本、呼吸一つ震えさせれば、この光は動き──目の前に佇む、憎しみの塊となったこの男を殺すことが出来る。
殺したら、根路銘自身、もう歯止めをかけることが出来ない。曝れ頭はその暴走を、自らの死とともに望んでいる。
衝動に駆られる。殺意を抱く。殺して楽になりたいと思う。
光が溢れ、渦巻いてその意識を誘う。
手の平が痙攣し、狂った偏執狂のように、命令をうながす。
殺せ。と。殺していいか。と。
唸るように漏れる吐息は、はたまた嗚咽のそれか。
──僕は……僕は──!
刹那。
指が動き。光が衝動に駆られ。曝れ頭の笑みが深くなり。根路銘は吼えて。
「────」
曝れ頭の首筋に、光の奔流が──当たる事は無く、唐突に静止したのだった。
文字通り、止まった時間──。やがて。
「……なんです。まだあなたの中に、ためらいを覚える心があるんですか?」
さもあきれたという風に、曝れ頭が嘆息した。丁寧に取繕われたその声の裏には、確かな苛立ちが含まれている。
「僕は──」
起伏に歪む、震える声で、それでも根路銘は決然と言い放った。
「僕は、お前のようにはならない……!」
幼い顔の眉間に、亀裂が奔る。
「……何をいっているんですか。あなたはすでに、」
「お前と僕は違う! 曝れ頭は、……いや。斉藤は、とても可哀相だ。でも、僕は違う。僕とお前は、同じじゃない! 僕はお前のようにはならない……!」
「なに──」
理解できないように、曝れ頭はさらに深く眉を寄せる。
「この世界で虐げられて、いじめられて、だれも助けてくれなくて。自分の居場所が無くて、でもがんばって生きようとして──希望を抱いたの僕にも、裏切られて。この世界の醜い部分を、理不尽な悪意を、お前は見すぎた。もっと大切なものを見つけることが出来なくて、得ることが出来なくて、苦しんで……自殺した。どれほどの苦しみがあっただろう、憎しみが生まれただろう。そして唯一希望を持った『死』には──もっと、絶望が待っていた」
苦しげな、空気に浸透するように悲痛な声。
「本当は、お前は……愛して欲しかったんだ。誰にでもいい、どんな理由でもいい、自分を認めてくれて、存在を肯定してほしかったんだ。歪んだものではなくて。純粋な、自分にだけ向けられるものを……。だから未練があり、憎んでいる。──世界を」
「なにを──」
わずかに曝れ頭はたじろいだ。
「なにをいっているんです。ボクは望んでなどいない。愛なんて──そんな汚い、偽善的な感傷なんて──」
「望んでいた! だからお前は、この世界にいまだ干渉しようとしている!」
ヒュッと、鋭く空気が吸い込まれた。その幼く、震える唇に。
「あぁ、可哀相な斉藤、可哀相な曝れ頭。だからこそ僕は解る。お前は世界の理不尽に、人々の歪んだ愛にボロボロにされて、世界を、『意志』を殺したいほどに憎んだお前の苦しみがわかる。僕もこの世界を壊したいと思って──でも、それは違うとわかった」
「──ぁあ」
「教えてくれた人がいるから。お前にはいないが、僕にはいる。僕とお前の、絶対的に違うところ。そしてお前はその存在を求めていた、希望を抱いていた、愛がほしかった。助けを求めて、さまよっていた。だからお前は──なおさら醜いものを見せられて、失望してしまったんだ。お前は人の傲慢さを嫌う。でも、お前もただ一人の、人間だから」
「──るさい」
幼い、声。低く、弱々しく、もどかしさに揺れる声。
「おまえ自身、知っていたんだろ? 自分が変わらないと、何も変わりはしない。人は醜い──でも、自分もそうだったから、苦しみを他の人間にとってかえて、逃げたかったんだ。お前はこの世界を知らない。人を知らない。与えるものを、与えられるものを、お前は知らない。でも、僕は知っている。僕は、お前みたいにはならない」
うるさい、と、小さく曝れ頭は呟いた。
「僕は、憎しみに全てをゆだねたりなんか──しない……!」
「──ああ、ああ、ああ! うるさい、うるさいうるさい、うるさいんだよぉッ!」
頭を抱え込んでぶんぶん振り、激情にその表情をゆがめる。
「哀れむな、哀れむな、アワレムナ! お前に何がわかる! ボクのことなんて──『意志』のことなんて、世界のことなんて! お前には解らない! 『意志』を介し、僕はこの世界を改めて見直した! そこに映った世界は、やはり黒かった! 歪んだものに満ち溢れていた! お前だってその一つだ! なのになんでッ! ボクに同情する! お前ごときが! ボクを哀れむ事が出来る! 消えろ、消えろ消えろ、早くケセよぉッ!」
自分の聖域に土足で踏み入れられたように、曝れ頭は嚇怒し。臆すことなく根路銘は、やはり哀れに思うのだった。道を間違えた──知るべきもの一つを見失うだけで、この少年は、堕ちてしまった。彼に罪は無い。罪を持つべきは、世界……それを創り上げた、人類、または、止められなかった自分──。
「あぁ、アア、アアァ、もういい、もういい! そう──それなら、お前がそうするなら!」
もはや撫で回すような口調すら忘れ。曝れ頭は、笑んだ。不吉に。ただただ邪悪に。
「──この世界の理不尽さを、もう一度味わえばいいんですよ……ッ!」
「なに──」
眉をひそめた根路銘は、だが次の瞬間、鋭く息を飲み込む。ギラギラと光る瞳に、病的なまでの亀裂の笑みを奔らせ。その手には、禍々しい光を反射する、太いナイフが握られていたのだ。デザインの施された棘の多いそのナイフは、まさに現在の彼の姿を映し出しているようでもあった。
瞬間的に、根路銘は曝れ頭の意図を察する。──しかし。
「世界の絶望。教えてあげますよ……ッ!」
根路銘は、焦らなかった。曝れ頭が哄笑し。ナイフを前に、肉薄し。絶望を与える死神となり。根路銘ではなく、椿野をしとめようとして。刃が肉を抉ろうとした、その直前まで動く事は無く。
──ぐっと、ちからなくこぶしをにぎって、ねろめはただしんじていた。
転瞬。天から降り注いだ一条の影が、肉迫した曝れ頭の手の平を刺し貫いていた。
「ぐ──? ……ぁぁああ、アアアアア!」
突然の飛来物に曝れ頭が目を剥き、意味を成さない悲鳴を迸らせた。
飛来した影は、握っていた曝れ頭のナイフと手の甲を貫通し、彼の腕を呪縛している。地面に、垂直に突き立てられた、さながら神の鉄槌とも言うべきその得物。
長い棒の両側に特徴的な刃物がついた、槍──否。
立鎌、だった。
驚きよりもまず、やはりという感慨が胸に湧く。いつどんなところでも、彼女なら、助けてくれる気がする。陽気な、軽い調子で。その理由や保証なんて、陳腐なものがあるわけでもなく──ただ、そう思うから。
「ちょおっと、ぎりぎりだったかなぁ?」
そして事実、そういうわけだから。
「お前は──」
苦しげに呻いた曝れ頭は、認めた人物に、目を見開く。
「──冷艶、妖乎……?」
わずかな疑問符を当てられた妖乎は、やがて、ゆるりと根路銘の前に、『降り立った』。
「────」
青白い光。包み込むのは、淫靡なまでのしなやかな体。背を向けている妖乎の顔は見えないけれど、軽々しくも、潔白な表情をしているに違いなく。
曲線美を描く背中には、対になった、漆黒の翼が突き出していた。
肩の付け根辺りから伸びるそれは、彼女自身の身長よりも少し長く。優しく吹きすさぶ潮風に、まるで喜びを表すようにうごめき。暗闇をそのまま切り取ったごときその翼は、バサリと大きくうごめいて、身じろぎするのだった。優美に、可憐に。
「ばかな──なぜお前が。冷艶妖乎。どうしてここに──なんなんだ、その翼は」
困惑と、迫り来る恐怖に押しつぶされるような、そんな声。
「あたしの、決意の証」
さらりと、問われた少女はそう言いのけた。
「マンダラは、使用者が真に望むものを如実に与えてくれる。例えその対象が、複数だとしても。……でも、最初からあたしにはこの力があったのかもしれない。『等価交換』の大きすぎる代償──そして、自由になりたいと願ったあたしの『本質』が」
曝れ頭の手を串刺しにした立鎌をがしっと握り、妖乎は勢いよく抜き放った。肉が抉られる音と共に、悲鳴と鮮血が舞う。
「なにを──なにをいまさら! 真に望むもの? ハッ! それが人の業だといっているだろう! 欲して、その為には他のものを顧みもしない──。それが人の『本質』、歪んだ愛! そしてお前の『本質』は、永遠回帰──絶対的に、否定する事は出来ないんだよォ!」
「ああ、そうだろうね。あたしは抑制者としても、一つの意志としても、間違った事をしてるのかもしれない。あたしの『本質』も、その悪意を許してはくれなかった。天使の翼ではなく──堕ちた悪魔の、黒い翼しか与えてくれなかった。あたしは『意志』を憎む。あんたを憎む。だから破壊する。大切な人になりたいと──言ってくれた人がいるから」
──ようこ……僕は、君の『大切な人』にはなれないのかな……。
本当の気持ちを紡いだ、その言葉。
「あんたの苦しみは解る。だけど容赦はしない。あたしの守りたいもののために」
ためらうような間のあと、妖乎はゆっくりと首だけで振り返った。根路銘の真摯な眼差しと交錯し、
「……ごめん」
目を細めて、そう言った。堕天使の翼が生える背中を、免罪符のように再び向ける。
「あたしが、衝撃的に全部守ってやるから」
「妖乎──」
「はは──あはははは!」
空気を叩き割る哄笑が、そのとき響き渡った。
「ははは! ははははは!」
曝れ頭の幼い声音が、耳朶を激しく叩きつける。
「ははは! あははははは! ごめん? 守る? 笑わせてくれますね! 根路銘鳴滝の姉を殺し、その体をのうのうと奪ったあなたが! 何も知らず、今更のように! ──さァ、根路銘鳴滝! この女が憎いだろう! 家族を奪った、自分を踏みにじったこの女が! ならば殺せ! ボクを殺し、その力の真価を世界の破滅と共に見せてくれッ!」
謳い、勝ち誇ったように講釈する曝れ頭。いまだわだかまる、憎しみの青い光がうずくのを、その場の誰もが感じた。ひび割れた曝れ頭の笑みが、深くなる。
しかし──その光は、爆発することなく、ゆっくりと根路銘の体の中に吸い込まれて、消えていった。深く、彼は息を吐く。
「──待っていたよ」
そう。待っていた。悔しくないといったらうそになるけど。それでも自分は、君を待っていた。
ふ──と。妖乎が、笑ったように感じた。
曝れ頭が驚愕から、苛立ち、恐怖、不安の百面相へと移り変わっていく。
「だが──だが! お前には、ボクを倒す力なんて、残ってないはず!」
「あぁ、そうだね。でもあたしは、突進して『貫く』のが大好きでねぇ」
揶揄するように、妖乎は手の平で立鎌を弄ぶ。
「最強の突進術は。どんなに距離を保ち、助走をつけることでもない。なに、この世界は意外にシンプルなのよねぇ」
ばさっと翼がゆれ、羽根が舞う。
「──落下すればいい」
次の瞬間、漆黒の翼がその身を広げ、闇が訪れたような影を中空に落とす。光に反射することなく、わさわさとうずき。転瞬、その暗闇が空間から消えうせた。はらはらと大きな黒い羽根が落ち、潮風に揺れる。
果てしない上空、すでに米粒となりつつある妖乎を仰ぎ、根路銘は小さく呟いた。
「妖乎……」
青白い光をまとう漆黒の翼をはためかせ、妖乎は天へ登る。一つ翼をはためかせるたびに時速は増し、眼下の風景が小さく、上空の雲が大きくなる。上昇気流に乗ってさらに飛翔した。その姿はまるで、自由を得た籠の中の鳥のようでもある。
空には強い意識の本流が入り乱れていた。もうじき最低再生ラインに達する『意志』がうずき、強い干渉を放っているのだ。『意志』を束ねるのは最も意志の強いもの。しかし今、『意志』が変革しようとしている状況でも、やはり最も強い意志は醜悪だった。欲という名の醜い『本質』に満ちた、傲慢な意識──。
皮肉な薄い笑みを浮かべた妖乎は、さらに雲を突き抜ける。
蒼天を衝き、気圧の差をものともしない、その抑制者は──ふいに、目頭が熱くなるのを感じた。濃くなる空の青、浮遊する雲の白が、にじみ、強く目を瞬かせる。頬を伝った熱い雫は、キラキラと光って地上へ降下していく。
我慢しても溢れ出す涙に、妖乎は強く唇を噛み締めた。そうしないと、呻いてしまいそうだったから。涙に、嗚咽を洩らしてしまいそうだったから。
──待っていたよ。
小さく、限りなく優しく、根路銘は呟いた。その言葉に含まれる様々な思い。
根路銘は、どれだけ自分の事が憎く、呪わしいだろう。自分は紛れも無く、彼の人生を狂わせた。『意志』という存在は自分でもあり、その自分が家族を壊し、姉を殺してのっとった。彼はいつも自分の後ろに映る姉の姿を、どう捉えていたのだろう。そして──何も知らず、ただ根路銘を守ると陽気に言いのける自分を。
そう──そんな自分を。根路銘はただ、待っていたよ、と……。
ただ、優しくそう言ってくれた。
自分は根路銘に何も与えてやれず、与えられてばかりだった。そんな自分に、彼は何を望んだのだろうか? 与えてもらうだけの、わがままを言う子供みたいな自分に、彼は。
使命を果たす──。今も昔も、変わらない考え。
だがその理由も、動機も、目的も、何もかもが変わってしまったように、妖乎は思う。
それほどまでに、大切なものを知り、触れ、得てしまった。
初めはただの違和感に過ぎなかった。でもしだいに疑念となり、不安に変わり、深い疑惑に変貌していった。自分とは、そして使命とは──。
はっきりとした答えが出たわけではないし、今でも、漠然とした形さえつかめていないのかもしれない。ただ──以前の自分を思うと、妖乎は戦慄にも似た恐怖が、背筋を這う感覚を禁じえない。
浮かれていた。抑制者としての自分に、自由を得た自分に、浮かれていた。
だが、何も変わってなどいなかった。『意志』に取り込まれ、記憶を消され、ただの『情報』として扱われていた自分と、なんら変わってはなかったのだ。
逃れられない己の『本質』に弄ばれ。何一つ──自分は、『自分』という意志を持っていなかった……。
自分の死が、これほど怖いものだとは思わなかった。失う事が、これほど絶望するものだとは知らなかった。けど。それ以上に、大切なものもあるから。
だから、自分は。
抑制者としてではなく。
冷艶妖乎として。
唯一つの、意志を持つもの──人間として。
「あたしが。あなたを。爆裂的に、激越的に」
──救って、あげるから。
冷艶妖乎は、翼を翻した。前後左右、丸みを帯びる全ての地平線が見渡せる中、彼女はわずかに停滞した。上下の変わる世界。一瞬の間──。
次の瞬間、その空間には黒い羽根のみが残されていた。文字通り風を切る速度で、翼を折りたたみ、妖乎が降下する。激しい空気の抵抗が肌を叩き、急激な気圧の変化に圧迫感が襲う。鼓膜に入り乱れる風の音が、生き物の悲鳴のようにも聞こえた。
超越的な妖乎の聴力が、地上でわめき散る曝れ頭の声を聞き取る。
──後悔──やめろ──死ぬ──おまえは──憎む──『意志』──世界──本質──
酷く滑稽に思えた。なにを恐れるか。なにを憎むか。その恐怖自体、『愛』と同じく意志を持つものに与えられたエゴだというのに。
結局はあの男も、憎しみをあてつけへと変えた、矮小で、可哀相な意志の持ち主だったのかもしれない。『本能』に支配され、自分の確かな意志を持つ事の出来なかった男。
妖乎は持っていた立鎌を握りなおし、垂直に衝きたてた。
逃げ惑い、恐怖に満ちた曝れ頭の幼い顔が振り向く。
視線が交錯した、次の瞬間。
突進し、突き立てられた得物が、曝れ頭の胸に吸い込まれた。
粉塵が舞う。砕けたコンクリートの破片が降り注ぎ、パラパラと音を立てる。
根路銘は、椿野を庇って伏せていた体を起こした。あまりの衝撃音に、耳鳴りがする。
濃い霧となる粉塵は、柔らかな潮風に流される。ややあって、その中からキラキラと光を放つ美しい粉が、上空に飛散していった。光は風力に関係なく、天空に上る。
やがて粉塵が晴れると、そこには、胸部を立鎌に貫かれた曝れ頭が仰臥していた。左腕や、貫かれた胸にもはや原型はない。そこを中心に陥没した路面は、蜘蛛の巣状に瓦解し、さながら蜘蛛の巣にとらわれた羽虫のようでもあった。
噴水のように勢いよく血が吹き出すが、地面に付着する前に光の粉となる。
「くぅ……ぁ……あぁ……ぅ、うっ……!」
曝れ頭は、泣いていた。
悔しさに眉を寄せ、奥歯をかみ締め、涙を流し、嗚咽を洩らして。
今までのマカと変わりなく。透明な雫に頬を濡らし続けた。
妖乎はそんな曝れ頭の最後を、瞬き一つすることなく、冷徹に、無表情に見下ろしていた。喜ぶことも、悲しむことも、講釈することも、同情することも無く。
何もしないことが、唯一してあげられることだというように。
曝れ頭は振るように痙攣する右腕を、自分の胸を貫通している立鎌に宛がう。強く握り締めようとし──その指が、甲が、光の粉となって消えていく。
悔しさに顔を歪め、曝れ頭は妖乎をにらみつけた。
「ち、くしょ……」
光が、静かに、残酷に、その言葉を断ち切り、飛散していった。
曝れ頭はそうして、世の『本質』を憎んだまま、この世から消えた。
全身をなでていく光。それらに感傷するような間をとった後、やがてゆるりと妖乎は視線を転じた。
「──妖乎」
その顔が、いつに無い真摯な表情で、何かを我慢しているようにも見えて、苦しげに根路銘は呟いた。色々とありすぎた──しばらく黙って見つめていた根路銘は、やがてはっとする。曝れ頭は消えてなくなったのに、光の粉はなお、妖乎の体をなで、天へ登っていっていたから。そしてその光に気づいた根路銘に、妖乎が諦念の入り混じる、物寂しげな表情を向けていることに気がついたから。
妖乎の足が──光に包まれ、消えていた。
その時、雷鳴が轟いたごとき轟音が空気を揺るがし、圧倒的威圧感が地上に降り注いだ。
根路銘は驚いて空を見上げ、妖乎はどこか淋しい視線で仰いだ。
雲が──はやい。
拭う事のできない、この感覚。──『意志』の復活が、最終段階に入っていた。
「あたしの『抑制者』としての役目は終わった。だから、最初に言ってたように消える」
「な──んで」
根路銘は自体を悟る。驚愕し、納得のいかない表情で、力なく根路銘は首を振る。
「なんで……どうして! ここにいればいい。ずっと、ここにいればいいじゃないか!」
胸の奥が痛んだ。理不尽な、それこそ曝れ頭が言うごとき、残酷な現実に。
「僕は気にしてなんか無い! 妖乎が、姉さんの体でも、妖乎は妖乎だ! 君だって、そう望むんだろ? 椿野だって、本当は君の事がすきなんだよ! だから、だから……!」
「もう──限界なの」
優しげなその言葉に、根路銘はひるむ。翼を揺らし、静かに妖乎は、涙に頬を濡らし始めた彼に近づく。
「どのみち、あたしはもう消えるんだよ。マンダラや回復で、情報を消費しすぎた。もう、あたしを構成する情報は無い」
そして再び、『意志』の中に取り込まれる。記憶を消され、ただのメモリーとして。
圧倒的な喪失感。残虐なまでの冷酷な必然。
根路銘は言葉にならない思いで見つめ、妖乎も込み上げるものをこらえるように返す。
「根路銘……」
涙で歪む視界に、妖乎が光に包まれる。
「妖乎──妖乎!」
全身に光が覆われた妖乎に、根路銘が手を伸ばす。すがるように、引き止めるように。腕は妖乎の体をつきぬけ、光の粉を上空に散らせた。
「肩、ずれ──」
そして妖乎は光となった。消えた。曝れ頭のごとく。気丈な冗談を述べるいとまも与えられず。他のマカと同様に、あっけなく──。
「ぁあ──あああ! ああぁぁ……あ、ああ! あぁぁあぁあああああああああああ!」
叫びが、口腔をついて放たれた。浮かび上がる光を掴むように手を伸ばし、しかしかなわず、打ちひしがれて根路銘は拳をたたきつけた。何度も何度も、ひび割れた地面にたたきつけた。
なにが最強のマンダラか。なにが神秘を突破できる、世界を支配できるマンダラか。
一つの命すら守れない力に。守ってばかり貰うこの力に。
一体、どれほど重要な力があるのか。
根路銘は苦しい。そしてこの苦しみは、一生彼の胸に突っかかり、苦しめる事だろう。
妖乎は消えた。だけど、根路銘は忘れない。この痛みと共に。
そして根路銘は、ふと思うのだった。
果たして──妖乎は一人の人間として、幸せになれたのだろうか……と。
◆
人は醜い。世界は醜い。意志を持つ全てのものは醜い。
悩み、苦しみ、結果的に得た答えは、そんなものだった。
静かな、海の中のように広大な暗闇で、ぼんやりと妖乎は思った。
妖乎自身も、そんな意識を持つものの『本質』に翻弄された。
そして結果、逃れることはできなかった。曝れ頭は死に、『意志』は生きながらえ、根路銘は──これからどうなるか解らない。
だけど自分がいる内は、根路銘を助けたかった。
自分がそうしたかったからという、願いで──または、傲慢なわがままで?
曝れ頭はその願いを、欲望といい、人の業といった。妖乎も否定は出来ず、そのとおりかもしれないとさえ思う。ただ──
果たして、その願いや欲望を、一丸に『悪』と決め付ける事はできるだろうか?
人は願い、欲望を持ったからこそ進化し、大切なものを手に入れた。そのために体をはって大切なものを守り、時には命を捨ててまで守り通そうとし──。
大切なものを、守ろうとする意志を。願い、欲望の延長線だからと言って、『悪』だと決め付ける事はできるだろうか?
──否。違うと、妖乎は思う。
純真な『本質』はとても美しい。しかし使い方を間違ったならば、簡単に歪んだものへと姿を変える。コインの裏と表の関係で──しかし、紙一重ほどにも差は存在していないのだ。例え自分が純真な気持ちであろうとも、相手にとっては歪んだものに感じられるのかもしれない。変えるのは『価値観』。
これもまた、人の欲望の果てに手に入れたものの一つだ。
皮肉ではない。人は、意志を持つものはそういう生き物なのだ。
むしろ、その『価値観』や『本質』をしかと見つめ、意志を貫こうとせずにだくだくと従うものこそ、罪があり、またつまらない呪縛に縛られているのだ。
そう、以前の自分みたいに──。
人の本質というものは『悪』でもあり、『正義』でもある。が、『悪』と決め付ける事自体、『価値観』に頼り、自分がそうであってほしいという欲望であるわけだが。
{{かっこ下げ}}『悪』が『悪』を裁く。果てしない、矛盾の連鎖。
答えはいまだ遠い。もしかすると無いのかも……すでに、見つけているのかもしれない。
本当の『正義』とは。正しいものとは。
自分は間違っているのか。いないのか。
己の『本質』を否定することができたのか。認めることができたのか。
悩む事が、唯一許された解決法。あきらめた瞬間に終わりだ。
だから妖乎は──悩み、答えを出した。
自分が間違っているのかもしれない。それこそ欲望に身を任せているのかもしれない。
──湧き上がってくるような感覚。
でも、じっとしていたら何も始まらない。
──ゾクリと戦慄するように、震えた『意志』。
意志を持つ事が、許される世界なら。
──妖乎は、決意する。
自分は──戦う……!
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