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第三章 | 第五章 | 目次

まんだら!

第四章

 空も未だ暗い早朝、何気なく妖乎はテレビの電源を入れた。
 視聴率が限りなく少ない時間帯のためか、半ば気の抜けたニュースが続いている。そのニュースの内容を耳にしているうち、妖乎は嘆息した。
 幼児虐待、誘拐殺人、権力で圧されていた粉飾決済疑惑、止まない核開発に独裁政治──。
 不況だの世の末だの嘆く者もいるが、所詮はいつの時代も同じ事だ。人は欲望という名の『本質』に、最も正直な生き物だ。人を初め──自分でさえ、逃れる事は出来ないのかもしれない。自分にとっての『本質』とは、使命。その使命を無碍に出来ない自分は、やはり人のように愚かな生き物なのだろう。
 兎に角と、妖乎は視線を転じた。そんな世の中でも、守らなければならないものに変わりは無い。たった一握りでも、可能性の原石はどこにでも埋まっているものだから。
「おやよぅ、椿野。朝早くからごめんねぇ」
「……おはようございます」
 例えこの少女が、残酷な真実を運んできた天使で──その中に、危険な悪魔が存在しているとしても。
 椿野は、どこか緊張しているようだった。仕方ない事だと妖乎は思う。昨夜遅くに、妖乎は椿野に電話した。空も明けない早朝に、根路銘の家に来るよう告げたのだ。
 それは自分なりのけじめだったし、素直になれない自分への贖罪でもあった。
 椿野は、妖乎が昨日の件で、何か仕返しをされるとでも思っているのだろう。だから、玄関前に立ち尽くし、横の窓辺に座る妖乎に、緊迫した視線を投げかけているのだ。
 妖乎はリモコンを手にとり、室内で響く冷淡なアナウンサーの声を断ち切った。
 静寂を肌寒い風が吹きぬけ、やがて、妖乎は言った。
「ごめんなさいねぇ、今まで。『あなたの』根路銘鳴滝を、横取りしてて」
 椿野が驚いたように、うつむきかけていた顔を上げた。しかし、逆に妖乎はその視線に合わせようとはしなかった。思案げな表情をつくり、腕を組んでつき立てた手の平にのせている。淡々とした口調が、空気に浮いた。
「別に、あんたと根路銘の間を裂こうとか、そういうのじゃなかった。ただ、あたしも──あんたのように、拠り所がほしかったのよぅ。それが不運にも根路銘だったってわけ。笑っちゃうわよねぇ、守る側が守られようとするなんてさ」
 淡々とした声──事実、妖乎はふっきっていた。椿野に『真実』を告げられ、根路銘と自分の間に存在する、秘密裏の深すぎる溝を知り。が──動揺と同時に、安堵もあった。妖乎は知らない間に、根路銘に何かを求めていた。それはとても傲慢で、矛盾したハナシ。
 抑制者の自分は、何も求めてはいけなかったのだ。
 だから、むしろ『真実』を知ってよかったと思う。無駄な希望を抱かずにすむから。
 でも、その『真実』を根路銘に隠したままだと思うと、焦げ付くような罪悪感が湧いてしまう。
「あんたと鳴滝の間に、何があったかは知らないけど。存在理由を鳴滝に求めるのは、なんとなく分かるわねぇ。あたしも当事者だし。あいつは……なんでも、包み込んでくれるんだよねぇ。傍にいるだけで、あたしはあたしだ、と言ってくれるような気がする」
「べ、べつに、私は──。ただ、私は根路銘君が好きだから……」
「存在理由を求めるが故の愛ね。確固たる理由があるからこそ、その愛も強い」
 愛という言葉を聞き、椿野はわずかに赤面した。
「でも……だからこそ、危険もある」
 わずかに目を細めて、妖乎はそう言った。
「一目惚れなんて陳腐なものとは訳が違う。訳があるぶん、理由が強いぶん、その愛に深く沈んでしまう。その人本来の意志をゆがめてしまうほどに。愛は人間だけに許された、とても綺麗な感情。でも同時に──その裏には、獰猛な刃が連なってる。使い方を間違ったら、不幸になる道しか残されてない。とても危険なのよぅ、愛って言うのは。……なーんて、あたしが言っていいセリフなわけでもないんだけど」
 ばつの悪そうに、妖乎は笑う。椿野の表情はうかない。妖乎の言葉を熟考するような、神妙な顔を足元に向けていた。
「安心しなさい。あたしは、あと数日で根路銘の傍からいなくなるから。それまでの辛抱だと思ってなさいなぁ?」
 いなくなる──はっとしたように、椿野は顔を上げる。何か言おうと口をぱくぱくさせたが、やがてその顔を伏せた。苦渋に満ちた、そんな表情だった。
「でも……それでも、根路銘君の中にはあなたは残る」
「え? なに?」
 椿野は答えない。やがて、きゅっと踵を返し、背を向けて歩き出した。
「どうしたのよぅ、もう帰るの? 鳴滝と一緒に学校行かないの?」
「あなたが認めても、彼が認めなきゃ意味が無いですから」
 決然とした、そんな声だった。直感的に、妖乎は眉をひそめる。椿野はもう用が済んだとばかりに、森の中に続く坂道に消えていった。
 取り残された妖乎はぽかんとし、ふむう、と握りこぶしを口元に押し当てた。
「まだ怒ってるのかなぁ? ……乙女心ってのは、難しいわねぇ」
 ぼそりと呟いた。

          ◆

 片方が折れた。
 ガダンゴドン。早朝の人影の少ない電車に揺られながら、椿野華はそう思った。
 が、だからといって、問題が解決したわけではない。肝心なのは根路銘……。妖乎があきらめた事から、むしろ今まで以上に根路銘が干渉する危険性さえある。
 根路銘が、妖乎に姉の影を見ているといったのは、本当だ。秘密を暗に知った椿野が、根路銘に姉の話を振ったとき、確かにあの表情をしたのだ。妖乎をたまに見る、あの複雑な、もどかしい焦げ付きに苦しめられている顔。が──同時に、根路銘は幸せだった頃の家族さえ、妖乎に重ねてみているのだ。姉の面影が逆にそうさせる事もあるし、同居人ができたということもある。
 ならばどうしたらいい?
 根路銘の頭から、完全に妖乎を引き出すには? その感情を無に帰すには?
 ──冷艶妖乎を、叩きのめしませんか?
 硬直していた体に、ぎゅっと力が入った。ごくりと、生唾を飲み込む。
 それは、まだ早い。根路銘は。根路銘鳴滝は──
「はたして、あなたを選んでくれますかね?」
 突然声がして、椿野は飛び上がりそうになる。幼い声音に合わない、こましゃくれた口調。すぐさま、そのコトバを吐いた人物を、鋭い視線で射抜く。向かいの席で膝を組んでいた曝れ頭は、おどけたように肩をすくめ、冗談ですといった。
「緊張しているようですが? そのようなようすで、大丈夫なんですか?」
「…………」
「兎に角、これは利害の一致した取引。あなたには是非がんばってもらいたいものです。しかし、ボクにも案外時間は残されていないものなのですよ。必ず今日、お願いします」
「わかってます。……わかってますから」
 分かっている。故に、拭えない不安があった。
「『場所』を確保する手はずは整っています」
 そんな椿野の様子を見取ってか、曝れ頭が軽薄ともとれる軽い声音で言った。
「あなたは、そのどさくさに紛れて、彼を好きな場所に連れ込めばいい。……その時、拭えないオプションがついてくるでしょうが、それも大切なピースの一つですので」
 どこか高くからモノを述べる曝れ頭に、反射的に不快感を抱くが、椿野はつとめて無感動を心がけた。大丈夫。きっと、大丈夫──。その思いを胸に、椿野は学校に到着した。
 妖乎と根路銘の姿も現れ、やがてホームルームが始まった。その時──

 耳をつんざく女子生徒の悲鳴が、校内中に響き渡ったのだった。


 言葉少なげに、帰宅する生徒たちの群れが見下ろせる。一定間隔で先生が引率し、たまに涙を流して膝を落とす生徒を支えている。取って代わるように校内に入ってくる車両の群れは、白と黒のツートンカラー。赤い光をくるくる放射する警察車両は、もう三台にもなる。続くのは同じ光を宿す救急車に、血をかぎつけたサメのような敏捷さでやってくる記者だ。実に物々しい雰囲気が、田舎の学校を侵略していた。
 校舎裏のさらに奥のスペースで、男子生徒三名の死体が発見されたのだ。どの死体にも深い打撲の後が見られたらしく、他殺の面が出てきたらしい。
 椿野華は、無感動にその光景から目を外した。驚かなかったわけではないが──今や、その危険度さえ計れないほど、椿野の頭はある一つの事柄に支配されていた。
「椿野──どうしたの? こんなときに呼び出すなんて……」
 戸惑うような、根路銘の声。その隣には、訝しい視線をやる妖乎の姿。
 椿野は騒動が起き、生徒の緊急帰宅が発動させられたわずかな隙に、根路銘を屋上に呼び出していた。おそらく──曝れ頭が仕掛けた、この隙に。
「こんなときだから……この時じゃないと、駄目なんです」
 垂れたツインテールが、心地よい風にたなびく。
「根路銘君を解ってあげられるのは、私だけですから」
「椿野……なんだか今日の椿野、おかしいよ」
「おかしくなんかありません。私はただ──」
 戸惑いから混乱へと、根路銘の顔が変化する。隣で仁王立ちしている、妖乎の厳しい視線が肌に痛かった。つかえる思いでいっぱいの胸元に手をあて、ふうと息を吐く。
「……根路銘君。大事な話があります」
「…………?」
「あなたなら、きっと解ってくれる。理解してくれる。選んでくれる」
 小さく呟いた椿野は、ゆっくりと息を吐いて。吸って。また吐いて。きゅっと、小さな拳を握り締めて──
 轟音が、鳴り響いた。
 脳を鮮烈に揺さぶる、空気の振動。椿野と根路銘は反射的に頭をもたげ、そして振り向く。片腕と片足で支えた立鎌で、妖乎は根路銘を襲わんとした『衝撃』を、受け止めていた。洗練された筋肉質の腕を覆う、青い装甲。肘まである鉄のグローブをはめたような拳が、ギリギリと妖乎の持つ立鎌と擦れ、まじあっていた。
「へえ……! やっと来たかと思ったら、なに、一人なの。マカってのは、ずいぶん間抜けな意志が集まった集団なのかなあっ?」
 皮肉っぽく、マカと呼ばれた男に対し妖乎が言う。男は挑発に逆上した様子もなく、むしろその顔を笑みにゆがめた様子で、腕を振りぬいた。
「────ッ!」
 凄まじい腕力で、妖乎は弾き飛ばされる。その下に、屋上のコンクリートはない。地上に放り出された妖乎の顔が見えなくなり──追うように、マカがコンクリートを蹴って地上に身を躍らせた。発狂した、狂喜の叫びを上げて。
 椿野は呆然としていた。しかし、理解が及ばないわけでもなかった。おそらく、曝れ頭と同じシュルイの人間で──なおかつ妖乎と根路銘に深く関係する事態の発生。それが、現在の状況。
 現に、取り残された根路銘は混乱するわけではなく、危惧していた事態が起こってしまったという、むしろ追い詰められたような表情で立ち尽くしていた。
 同時に鳴った、学校のチャイムが酷く浮いた。やがて──。
「ご、ごめん椿野! 僕、いかなくちゃ!」
 そう叫び、根路銘が切迫した表情で階段に向かおうとし。ズキリと、椿野は胸が痛んだ。
「ま、まって! 根路銘君、まって!」
 慌てて椿は駆け寄り、その華奢な両腕で根路銘の手首を掴んだ。なおもごめんと言って行ってしまおうとする根路銘に、椿野は叫んだ。
「好きなんです!」
 ぴくりと、根路銘の動きが止まる。困惑の表情が、すっと振り返った。
「私は、根路銘君のことが好きなんです! あなたが私を助けてくれたときから、ずっと、ずっと私はあなただけを見てきた! 好きで好きで、好きで好きで好きで! 愛してほしくて、私は! どんな事でもやります! 根路銘君がこうしろっていったら、私はそうします! あなたが私を愛してくれるなら、私はどんな事でもやりますから! 大好きで、大好きで、大好きだから……! だから、私を一人にしないで! いつまでも、私を守って! 私だけの根路銘君でいて……! 私をおいて、行かないでぇ……ッ?」
 困惑と、動揺に、目を剥いて完全に静止する根路銘。そんな彼に、椿野は必死にしがみつく。両腕で。触れれば折れてしまいそうな、茎のように細いその腕で。ぎゅっと。震えつつも。あらんかぎりの力を込めて。愛しい人の腕を、その胸に抱いて。
 お願い──。

「ごめん」

 ──と──。真空が佇むような沈黙の後。ぽつりとその一言が、椿野の耳朶に触れた。
「ぇ……?」
 ぽかんと面を上げた椿野の顔は、幼く。酷く無垢で。世を知らない、世界の残酷な面を知らないほど無邪気で。事実、椿野はその三文字の答えを理解できず。吹き付ける乾いた風の中。──ぽろりと、熱いものが頬を伝い。わけも解らないまま、次々と溢れ、わずかに上気した頬を塗りたくらせて。
 すっと、握りこんでいた根路銘の腕が、離れたのだった。
「……、椿野。話しは後で聞くから。ちゃんと答えも出す。椿野は、僕にとっても大切な人だから。だから、ね? ごめん、だけど僕は今、いかなくちゃいけないんだ」
 欺瞞。偽善。欲望。私利。私欲。貪欲。迷妄。傲慢。恐れ。怠惰。盲信。臆病。殺意。
 あぁ、そうか──。椿野は手の平から抜け落ちた、温かい感触に残像を感じながら、ごく単純な理解をした。
 根路銘鳴滝は、椿野華よりも、冷艶妖乎をとった。
 単純な答えだった。ただ残酷なだけで。死にたいほど、殺意を抱くほど無残なだけで。
 膝を砕き、背を丸め、額を地面につけつつ、椿野は哀哭した、慟哭した。
 それでも根路銘は手を差し伸べてくれない。守ってくれない。
 ──あいつがあなたのあたまのなかにいるから?
 直後、声にならない根路銘の声が聞こえた。次の瞬間、その場から根路銘の気配が完全に消失する。妖乎を襲った、曝れ頭と同じシュルイの人間が、すれ違いに根路銘を連れ去ったのだ。それでも椿野は動かない。泣き、わめき、荒い呼吸をする。
 やがて──そんな彼女の隣に、スタスタと一人の少年が歩み寄る。
「……残念です。彼は、あなたよりも冷艶妖乎を選んだ」
 バッと勢いよく面を上げ、椿野はその言葉を吐いた曝れ頭を鋭く睨む。それこそ、射殺さんといわんばかりに。
「そう──『ならば』」
 曝れ頭は感情無く告げる。
「ならば、どうしたらいいのでしょうね。彼はあなたを選んでくれなかった。冷艶妖乎を選び、また守らなければならないと思った。美しい相互関係──。たった数日で、ここまでお互いの事を分かり合うとは、切り崩す壁は大きいものということです」
 椿野は、唇を噛んだ。強く、血がにじむほどきつく。
「叩き潰しましょう。冷艶妖乎を。ボクたちの手で」
 悪魔の囁き──こんな状況でも、冷静に見つめている自分はいるものだ。その自分が、そのコトバに恐怖を抱いている。ふるふると、涙を落としながら椿野はかぶりをふった。
「でも……それじゃあ、自己満足にしかならない……。妖乎さんが、いなくなっても、根路銘君の中に彼女は残る……。もっと、強くなる。……それに……」
 妖乎は、自分に謝ってくれた。椿野の中に、その事実に対して意外なほど驚いた自分がいた。……嬉しかった自分がいた。同年代の女の子と、言い合いとは言え、あんなふうに心置きなく喋ったのは初めてだったから。
「自己満足ではありませんよ。冷艶妖乎を叩き潰す──それは、何も文字通りの意味ではないのです。ボクが言いたいのは──『根路銘鳴滝の中の、冷艶妖乎を叩き潰す』ということですよ」
「根路銘君の中の……妖乎さんを?」
 それほど魅力的な、同時に恐ろしいことはなかった。駄目だ──と、思う自分もいて。
「それは……どうやって?」
 でも、聞きたい自分のほうが強くて。
 麻薬に堕ちた中毒者が、求めるものを懇願するような顔で、椿野は少年を仰ぐ。愛ゆえの憎しみ──彼女の『本質』が、理性を凌いだ瞬間だった。
 少年はニコリと、快い笑みを浮かべた。
「すべては、あなたの『マンダラ』しだいということです」


 学校から程近い林の中で戦いながら、妖乎はふいな違和感を受けていた。
 両手足の肘、膝の向こうを青いグローブのような装甲で覆う、すらりとした筋肉質の男──マカ。その拳が薙ぎ、妖乎は受け止めずかわしていく。わずかな隙が出来た所に立鎌を叩き込むが、ことごとく防がれていた。
 ある程度の距離を稼ぎながら、戦う。戦いがなら、緊張感で頭を冷静にしていった。
「あんた、ずいぶん強いのねえ。今までのマカとは大違いだわ」
「私は。お前を倒すことだけ。考えていた」
 同時に襲ってくる拳をかわす。──その先を読んだ装甲の足が、背後に回っていた。ぎりぎりで腰をねじり、ブリッジのかたちとなってその攻撃をかわした。すぐさまバックステップで回避する。
 と──視界から、マカが消えた。限りなく超人的な嗅覚が、警報を鳴らす。──後ろ!
 回避ステップと同じ動作で、さらに回避行動を取った。横薙ぎのパンチを警戒し、身を地面すれすれまで伏せたのだ。そして次の瞬間──脇の部分に横薙ぎの衝撃が襲った。息がつまり、ミシミシと骨が軋む。弾き飛ばされ、乾いた土くれを妖乎の体が抉る。
「……ガ……はッ!」
 アバラが数本いったな、とどこか感慨なく思い、すばやく状況を把握した。そして把握した途端、わずかに妖乎は動揺した。
 このマカは、妖乎が回避行動を取った瞬間に、拳の目標到達地点を捻じ曲げたのだ。
 強い。そう思い、疑念を持った。先から感じていた違和感……マカにしては強すぎる事に対してか?
「違、うわねぇ……。なんなんだろう……」
 ふと一つの疑惑が頭をよぎる。己を構成する情報を代償に傷を治しながら、敵の気をそらすためにも妖乎は聞いた。
「あんた……なんで、一人で行動してんの? 今まで襲ってこなかったのは、他のマカと手を組むための準備期間じゃなかったのかなぁ? せっかく多人数を相手にするための作戦立ててたのに」
「私は。常に一人を望む。しかし。時には手を組む事もある。致し方ないこと。だが。私はそれでも一人でありたい。そして。常に私のマンダラが。望むものは」
 ぐんと、マカのすらりとした筋肉質の体がかがんだ。
「強者のみ」
 爆発的に突進してくるマカを、すんでのところで回避する。このマカの攻撃力は、妖乎のそれさえも凌駕するほどだ。一発でも喰らったら、先のようになりかねない。ここは確実な戦闘をして、敵のダメージを蓄積させ、隙を作らせたほうが──
 ゾクリ。背骨を這い上がる冷たい殺意に、妖乎が立鎌を振り上げた。
 頭上。遠心力をかけた立鎌と、重力をかけた青い拳が激突する。
 鉄の繊維一つ一つを押しつぶすような凶音をたて、立鎌の先端が圧し折れた。鼻白むことなく、妖乎はステップを踏む。回避し、息を切らせてマカとの距離を稼ぎ──
 突如、はっとした。先ほどから感じていた違和感。そうだ、そうだった。もっとも大切な事を、忘れていた。こいつは。このマカは──
「あんた──なんで根路銘を狙わない?」
 薄く殺意をおび、わずかに恍惚に歪んでいた表情が、ピクリと反応した。
 そうだ。そうなのだ。マカの目的は、妖乎ではない。根路銘鳴滝ただ一人。ならば、妖乎を放っておいても、彼を手に入れたいのが尋常。このマカが根路銘を手にし、逃げようとする隙はあった。妖乎を、吹き飛ばしたときだ。だがこのマカはそうしなかった。
 考えられる事は──ただ一つ。
「しまった……!」
 バカだ。バカすぎる。考えなかったわけではない。冷静でいられなかったのだ。椿野のことで。根路銘のことで。──自分の事で。頭の中で混沌が渦を巻き──結果、油断した。
 このマカは囮なのだ。残った根路銘をさらうための。
 しかし、妖乎はこのマカを振り払えずにいた。このマカの、異常な戦闘力に。
 強者のみを望むというこのマカ。彼はおそらく──根路銘を奪い、『意志』を殺すという欲望を、持っていないのだ。そしてその代わり、強い相手と戦いたいという、異質な本質を持っている。つまり、純粋な力がほしいと。それゆえに──憎しみさえ凌駕する強い意志と、本質が深く結合し、このマンダラを生み出しているのだ。
 妖乎は激しく舌打ちした。一筋縄ではいかない。でも、急がなければならない。
 妖乎は、焦った。


 尻餅をついている根路銘に、二人の男と一人の女がにじり寄った。
 体から何か生やしているものもいれば、武装したように装備を持ったものもいる。どうにか足で立った根路銘は後ずさる。が、背に当たった墓標に行き場を失った。
 彼らがいるのは、大きい墓標が五つほど並ぶ、墓地だった。辺りは深い樹木が生い茂り、日の光りが届かず、街路に出る道も奥にある一本道しかない。
 追い詰められた──そんな光景を、生垣の上に立つ椿野は、充血した目で見下ろしていた。
「根路銘君……!」
 憎い。裏切った彼が憎い。でも──それでも、この気持ちは止まらない。心配だった。
「彼らの目的は、根路銘鳴滝のマンダラ──つまり、彼の肉体です。肉体を奪うには、精神を半ば殺して、マンダラを生かした状態で、乗っ取る必要がある。どのみち、この先に待っているのは彼の破滅だけ、ということですよ」
 うっそりと告げた曝れ頭は、どこか楽しげだ。
「どうすれば……どうすれば、根路銘君は、助かるんですかっ?」
「椿野華さん。愛はすばらしい。しかしその形は、何も一つに限られたものではありませんよ」
「どういう……?」
「あなたは今でも彼を愛し、手に入れたいと思いますか?」
 椿野は、躊躇わず頷いた。曝れ頭は目だけで笑い、ふっと椿野の背に手の平を宛がった。
 椿野が眉をひそめた瞬間──青白い光りが、彼女の肢体を包み込んだ。目も眩む閃光が視界を覆い、体を圧する重力が一転する。声帯が悲鳴を上げているのかも解らない混沌の中、椿野は見た。海のような、静謐な世界を。
 次の瞬間、ズッと世界が暗転し、重力が帰ってくる。一瞬だった。激しく息をついた椿野は、額をつけるほど接近した地面を、凝視していた。自分の体に変化が起きた。確信を抱ける、何かがあった。そしてその使い方も。どういうものかも。
「……ほら、椿野華さん。彼が危ないですよ……?」
 冷淡に告げる声に含まれるのは、狂喜とした何かか。椿野は気にすることなく、ゆっくりと顔を上げた。何かを理解したような、決然とした表情。
 根路銘はその首根っこを鷲づかみにされ、墓標にうちつけられていた。根路銘は苦しみ悶え、マカの愉悦に満ちた笑みが窺える。首を掴んでいるマカの体が、わずかに燐光しようとするとき──椿野が大きな目をきつく細め、体中に青い光りが溢れた。ふわっと、肩にかかったツインテールが浮く。
 次の瞬間、マカと根路銘の狭間に、薄紫のガラス板が出現した。根路銘の首にかかったマカの腕が半ばから切断され、紅いしぶきが上がる。空中で停滞し、三人のマカを牽制するように佇むそれは、わずかに青白い光りをまとっていた。
 マカの一人が吼えた。突然の乱入物に困惑し、やがて憤激する。人語を知らない獣さながらに、手にした武器を振りかざした。その時、紫のガラス板がうごめき──
 気を失った根路銘を、そのガラス板が包み込んだ。シャラシャラと、ガラス棒を擦り合わせたような音が鳴る。鋭く打ち付けられたマカの攻撃を反発し、はじき返した。外界との、完全なる遮断──それが、椿野の得た能力だった。
 危害を加えてほしくない。自分と、大切な人を外の世界から断絶したい。二人きりになりたい──その強い想いと、本質が融合した、実に椿野らしいマンダラだった。
 クスクスと曝れ頭は笑った。まるで、やっとその能力とめぐり合えたとも言うように。
 椿野は、力を振り絞った。根路銘を包み込んでいたガラス板が、チリッとうずく。刹那、前触れも無くシャンと砕け、中空に舞った。そして、困惑する三人のマカに降り注ぎ──逆に、そのマカたちの周囲を紫のガラス板が包み込んだ。
 三人のマカはそれぞれのガラス板に包み込まれ、内部で苦渋の悲鳴を上げる。もちろん外見は人間で、言葉もあったが──もはや、椿野の頭にそんなことは入らない。
 ガラス板を操作し、内部の空気だけを、外部に放出する。包み込むガラス板が、まるで防護服のようにマカに密着し──悶えていたマカが、やがて動かなくなった。
 真空状態になったガラス板の中で、窒息死したのだった。
 ガラス板が砕けると、マカの死体が光に包まれて消えた。
 途端──激しく、椿野は呼吸した。口から唾液が漏れ、しかしその表情は歓喜に歪んでいる。守ったのだ。自分は。守られるのではなく。自分が、大切な人を守ったのだ。
 守られるのではなく、守る──形の違う愛。その結果が、これだった。
「まったく、あなたには驚かされます。僕が望んでいた──いや、それ以上の能力を引き出してくれました。大丈夫です。これからあなたは、必ず──」
 曝れ頭が何か喋っていたが、椿野は聞いていなかった。石垣を転げ落ちて、気を失っている、守るべき大切な人の下ににじり寄る。
「ね、根路銘君……!」
「──よう、こ……」
 椿野は固まった。悦に入っていた表情が、くやしさに、くしゃくしゃとゆがむ。
 ──そう。そうか。そうなんだね。根路銘君。『ならば』。
「大丈夫です。椿野華さん」
 すっと差し出された手が、椿野の肩に触れた。曝れ頭が、ニコリと微笑む。
「手はあります」
 その微笑が、椿野には救世主のそれのようにも思えたのだった。


「こっちか……!」
 呟き、妖乎は地面を蹴った。超人的な脚力がうなり、猛然と荒く舗装された田舎道を駆け抜けていく。その体のところどこに血がこびりついて固まり、打撲で赤黒く変色している部分もある。手に握り締めた立鎌は、三度再生しなおしたにもかかわらず、先端の刃物が抉り取られ、単なる棒と化していた。
 傷は治せないわけでもない。しかし、それよりも重要な使命が妖乎にはあった。
 立鎌を放り出し、根路銘の気配を追う。わずかな残り香、オーラ……。瞬間、妖乎は直感的に地面を蹴り上げた。数メートルはある木々を飛び越え、開けた場所を見つけるや否や、猫のような敏捷さで柔らかく着地する。根路銘が横たえられていた。
「鳴滝……!」
 すばやく駆け寄りながら、殺気じみた警戒網を張り巡らせる。おかしなことに、敵はいないようだった。根路銘の鼻に手を当てると、無事呼吸もしている。
 全身の力が抜けるほどの安堵に、妖乎が息をついたとき──嫌な、気配がした。勢いよく振り返り、見定めるや、鋭い眼光をそれに向けた。
「どうも。はじめまして、冷艶妖乎さん?」
 丁重な口調とは裏腹に、声は酷く幼かった。事実その人物も幼く──フードを被り、大きなマスクに顔全体を隠しているようでもある。唯一窺える瞳が、嫌に細まれる。
「あんたが──曝れ頭か」
「おや? ボクは、あなたとは初対面と記憶しておりますが?」
 石垣の向こうに佇む少年は、縁起臭く驚いた風を装う。むろん、妖乎もこの少年にあったことなど無い。ただ、話は聞いていた。根路銘が最初に出会ったマカであり、唯一隙があったときに根路銘をさらわなかった、奇妙なマカ。それが、この曝れ頭だった。
「あぁ──なるほど」
 理解が及んだか、その声にはどこか愉悦なものが含まれている。
「根路銘鳴滝は、『信用』にとても鈍感らしい。せっかく──あなたと彼が出会ったとき、あなたは死ぬことになるでしょうと、親切に教えてあげていたのに」
 瞬間、今まで以上に妖乎の視線がきつくなった。
「おやおや、分かりやすい人ですね。別にボクは今、あなたと争おうなどとは思っていませんよ。ただ、そうですね──。あなたという人は、どういう人なのだろうかと、そんな陳腐な事を思ってしまいましてね」
「……あたしが?」
 嫌な感じだった。この少年の、たたずまいが。気配が。言葉が。口調が。先ほど戦い、辛くも勝利したマカよりも。戦闘に関してではなく、妖乎は身構えてしまうのだった。
「ボクはマカです。『意志』の裏切り者です。不意な事故からとは言え、ボクを初め、他のマカたちも望んでいた事なのです。『意志』を裏切り、逆に支配する事を。そしてあなたは『抑制者』として生まれたわけですが。そこで、一つ疑問が浮かぶわけですよね。おそらくあなたも一度は考えたでしょうが──ボクは、確信を持ってこういえる」
 天を仰ぎ、両手を広げ、謳うように曝れ頭は告げた。
「あなたは今、猛烈に自分の存在意義について困惑している。『使命』が示すものか。己の本質が定めるものか。押し隠す自分の理性がそうなのか」
 どきりとして、妖乎は息を詰めた。全く──ど真ん中、的を射た台詞だったから。
 言葉を失う妖乎を見取ってか、曝れ頭の目が不敵に笑む。
「では、なぜあなたがそのような事を考えてしまうか分かりますか? 世界にあるものは、意外にシンプル──そうです。あなたは、我々マカと同様に、『意志』を恨んでいる。殺したいと思っているのです。しかし出来ない。使命──つまり、あなたの『本質』を否定することになってしまうから。何者も、己の汚らわしい『本質』からは逃げ切れることが出来ないということなんですよ。もちろん『意志』もあなたも、ボクも」
 憎む──憎んでいる? 自分が? 殴られたような衝撃が妖乎を襲った。何故だと妖乎は思うが、その疑問が自分の中で、空気を入れた風船のように、浮いていくのを感じた。
 脳裏にかすんだ記憶。海の中のように、静謐な世界。あの中で自分は、奴隷といっても過言ではない存在だった。自分ではなく、他のモノたちもそうだ。自我欲の意志に沈んでしまった意識体。それが、妖乎の思う霊妙集合意識体の姿だった。いくら意志の強いものが『意志』を束ねるとしても、所詮は同じ類──醜い『本質』に支配されたものなのだから。
 故の憎しみか? 恨みか? 反抗心か? 自問を繰り返し──否とはいえない。妖乎は、そう、思ったのだった。そしてその答えに、愕然とする。
「どうやら、『意志』も相当切羽詰ってたらしいですね。あなたのような人を、『抑制者』として分離させるとは。自分の意識がかかっているにもかかわらず」
 くるりと背を向け、曝れ頭は森の中へと歩いていった。
「──ボクは、あなたとは戦わなくていいのかもしれませんね」
 妖乎は、おくばを強く噛み締め、見送る事しか出来なかった。そして、傍に根路銘がいなければ、自分は崩れ落ちていたかもしれない。そうも、思うのだった。
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