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第二章 | 第四章 | 目次

まんだら!

第三章

 根路銘鳴滝との接触から四日目。四時二八分、早朝。
「妖乎! 妖乎危ない!」
「わかってるよぉ!」
 怒鳴り返しつつ、妖乎は体を反らした。瞬間、その眼前の空間を巨大な腕が通過した。腕は伸び、風圧で髪が宙に舞う。
 妖乎ははっとした。目端で捕らえ、小さくした打ちする。太さ二メートル、直径十メートルはある巨大な腕が伸びる延長線上。古ぼけた家屋に身を隠す、根路銘がいたのだ。
「ああ、もう!」
 この腕の狙いは、まさに明白の事実。
 妖乎は何度目かになる認識を、再び頭の中で復唱した。
 敵の目的は自分と戦うことではない。根路銘を生捕ることなのだ、と。
「ッ────」
 仰け反った体勢から、体を反転させて背を向ける。左手に持っていた立鎌を口にくわえつつ、目の前に迫る地面に、ダン、っと左足を突っ張った。そのまま上半身をねじり、
「っハァッ!」
 懇親の左拳を巨大な腕に叩きつけた。横殴りの衝撃に進路を阻まれた腕は、轟音と共に地面に抉りこんだ。反動でよろめきながら、妖乎はすぐさま武器を持ち直す。
 途端、耳をつんざく巨竜のごとき咆哮が、大気を振るわせた。殴られた巨大な腕は、まるで生き物のようにうごめき、被害をもたらした妖乎をそのまま横なぎに払う。
「ぐっ──ァ!」
 たまらず、妖乎は弾き飛ばされる。後方に広がる数メートル四方の家庭菜園へと、背中から突っ込んだ。抉られて何だかわからなくなった野菜と土を払い、すぐさま立ち上がる。
 根路銘から別の悲鳴が聞こえた気がしたが、妖乎は無視した。
 巨大な腕は、のっぺりとした印象を受ける、石膏細工だった。色は褪せた灰色で、表面は荒れている。
 腕がずるずると引き戻される先──本体は、家の敷地から道路へと通じる、坂道の入り口にずんぐりと佇んでいた。
 人を模した石像だろうか。高さは四メートルほどで、その半分以上が足の部分だった。小さな胴体と頭部に、ひょろっと生えたように細い足。ついで引きずる形となる巨大な両腕が、まるで幼稚園児が工作の時間にでも造ったかのような、ちぐはぐな印象をかもし出していた。
 巨人は、ウゥウ、と地獄の底から這い出る死者のような胴間声を上げる。凹凸に乏しい小さな顔は憎しみにゆがみ、殺気じみた激しい感情の起伏が肌を打った。
「よ、よよよよくも妖乎! 僕が毎朝毎晩、心を込めて水遣り、肥料、土の耕しまでして収獲まであと少しだった野菜たちを! 君は非道か! 鬼畜か! 夜叉かぁッ!」
 悲しみに満ちた叫びに、面倒くさく妖乎は応じる。
「なによぅ。野菜ぐらい、スーパーで買いなさい。それに植えれば、また生えるでしょ」
「うぅ……妖乎はその野菜たちのケナゲな生命を知らないんだぁ……」
「あーもう、悪かったぁって。後で、一緒に生き残った野菜植えなおしてや──」
 刹那、巨大な両腕が、家庭菜園に叩きつけられた。降り注ぐ野菜と土を全身に浴びつつ、妖乎が横っ飛びにかわす。
「ぎゃぁぁあああ! 終わった! 終わった! か弱き生命たちがあぁぁあああ!」
「うっさい!」
 叫びつつ、再び振りなおされた腕を受け流す。受け流しつつ、敵の情報を正確に分析する。妖乎は緊迫した雰囲気にこそ、冷静に判断できるタイプだった。
 まずこの巨人は、むろんマカの仕業である。石膏細工を自在に動かす技術が現代にあるとすれば、それは多大な経済効果を伴って世界に広まるであろう。しかし、この巨人自体がマカであるかどうかと言えば、それはまた話が違ってくる。
 妖乎を初めとして地表に降り注いだマカは、もともとは無機生命体だ。肉体も質量も持たない、ただ浮遊する意識。解りやすい例えならば、まさに幽霊がそうだろう。ではどうやって肉体を手に入れるかというと、それは人間の死体をのっとるということに尽きる。死んだ人間の肉体に干渉し、乗っ取る。憑依とは違うが、完全に違うとも言い切れない。
 乗っ取った後は、その意識体が思想する肉体となり、命が吹き返されるのだ。
 有機生命体には例外なく、意識、つまり魂を宿す、器、のようなものがある。人間ならば、心臓がまさにそれだ。だから人間は心臓を砕かれると、肉体的にも死を遂げるが、意識的にも死を遂げる事となるのだ。人間が死んだ場合、当然その器から魂が抜け落ちる。そして、そこに意識を定着させる事により、乗っ取る事が可能となる。
 もちろん、生命体でないものにその器があるわけでもなく、つまり意識が石像に乗っ取る事もありえないのだ。
 とすると、考えられる結果はおのずと二つに絞られる。マカがマンダラを使い、体に石膏細工をまとっているか──あるいは、遠くからの遠隔操作で石膏細工を操っているか。
 しかし。あの石膏細工から、直接殺気が発せられているという事は──。
「まったくぅ。寝てるとき襲うなんて卑怯なまねしてきたくせに、ずいぶん面倒くさいマンダラもってるんだからぁ……。おかげで、寝起き最悪だなぁ。寝てないけど」
 腰をかがめ、唯一無二の腕を後方に突き出す。立鎌の棒の半ばを持ち、それがかすかな青白い光を帯び始めた。巨人が、再び腕をせり出してきた。
 今までより速い、と妖乎は思う。正面から腕は突っ込んできて、巨大なだけに威圧感もすごい。しかし妖乎は臆することなく見つめる。
 激突する寸前、跳躍してかわした。が、その跳躍は低い。突っ込む腕の上空、すれすれだった。背後に突き出した腕は、頭上に掲げられていた。
「あたしの『まじかるすてっき』、なめなさんなぁ!」
 この石膏細工は、でかい割に敏捷だ。しかし、この距離でかわせるはずもなかった。
 『まじかるすてっき』こと立鎌が、腕の肘の部分に叩きつけられた。灰色の石膏細工の破片が、派手に四散する。腕の半ばから叩き割られ、巨人は早朝の空に咆哮した。
 が──にやり、と微笑む妖乎のすぐ真横に、もう一方の腕が迫っていた。
 風の切れる音、視覚に移る立体的な視野、石膏細工のわずかなにおい。様々な感覚を超絶的に把握し、妖乎は体を回転させた。突き出された腕の上を回転して転がり、威力を殺す。
 全身を使って腕の上に跳ね起きる。
「きたぁ、この間合い!」
 標的を外し、前のめりになる巨人に、妖乎がほくそえんだ。立鎌の、扇状の鎌が直角についているほうを下にやり、逆に鋭いバタフライナイフのようなものが先端に突き立てられている下の刃を、頭上に掲げる。
「あたしはねぇ──」
 ぐっと体を屈めきり──バネさながらに腕の上からはじけ跳んだ。
「叩きつけるより、突進するほうがすきなのよねぇ!」
 巨人が抵抗しようとするが、遅い。突進した妖乎が衝きたてた立鎌は、まっすぐ巨人の胸に突き刺さった。石像の抉れる音と、その隙間から溢れる──真紅の液体。
 咆哮が鼓膜に叩きつけられた。蜘蛛の巣状に広がるヒビが、大きくなり、やがて巨人の体全体に広がった。巨人の外郭が瓦解する。
 中にいたマカは、心臓──『器』に立鎌を突き立てられ、口から血を吐いた。
 勝った。守り通した! 圧倒的な安堵感に、妖乎は頬が自然と緩み。
 しかしはっとして、妖乎は固まったのだった。
 途端、全身の血流が凍りついたような感覚が襲う。あふれ出していた昂揚感が、急激に掻き消されていく。足がすくみ、武器を握る手が震えた。
「────」
 息がつまり、呼吸がうまく出来なかった。
 やがて、マカは石像の破片と共に、光り、消えていった。

 乾いた地面を、一滴の涙で濡らしながら。

          ◆

 青みを帯び始めてきた早朝の空に、ふいにマカの表情がうつった。悔しさに泣き、屈辱に呻く、裏切り者の姿が。
 以前戦ったときは、妖乎はこんな気持ちになることはなかった。倒したという安堵ではなく、倒してしまったという虚無感。
 戦うと覚悟し。だからこそ戦うという行為の裏に含まれる、ひたかくしにしてきたことに、戦慄してしまったのか。同じ意識体で、同じ感覚を持ち──同じ苦しみを抱いている、同じ人間だった者たちを、倒していかなければならないということに。
 だが、そうすることが同時に『意志』を守ることとなり、使命を果たす自分の存在肯定ともなり──根路銘を、守ることにも繋がるのだ。
 正しいかどうかは解らない。でも今は、こうしないといけないような気が、妖乎は、したのだった。
 見るわけでもなく空を睥睨し、妖乎が強く、拳を握り締めた時。ふいに、腕のない肩口がちくりと痛んだ。思考が引き戻され、視線をやる。
 ピンセットの先に綿を持った根路銘が、肩の傷口にそれを押し当てていた。
「……あぁら? セクシャルハラスメントの趣味でも出来たの?」
「はぁッ? 違うよ! 僕にそんな趣味は無いし──じゃなくて、消毒だよ。妖乎、平気みたいだけど、けっこう傷深いよ?」
「まるで、恋人を心配する彼氏ね。うれしいけど、あたしにはいらないねぇ」
 妖乎は肩を揺らし、その綿を払いのけた。
「何すんの。雑菌はいるでしょうが。文句言ってないで、ほら」
「まあまあ。ちょっと見てなさい」
 呟くや、肩の傷口が、にわかに青白く輝いた。すると紅い血痕が見る見るうちに消え、傷口が塞がっていくではないか。全身の傷や打撲、血の染みている皮膚も同様に輝き、白い素肌へと転換されていった。光が止むと、まさに戦う以前の妖乎がそこにいた。
 根路銘は呆気にとられ、ぽかんと口を開けている。
「あたしたち無機生命体は、もともと質量の無い情報で構築されてる。だから、その情報をある程度代償として支払うことで、傷を治したり、現実的な情報を操作することも出来るの。って、この間も言ったけどねぇ」
 もちろんその情報操作にも限界はある。情報を使うという事は、すなわち自分の持つ魂を削るということに値するのだ。だから、現実的な情報や傷などが大きければ、当然消費する情報量も大きくなり、意識に負担をかける。いわば、自殺行為なのだ。
「あー……そうなの」
 もはや呆れ口調になりつつある根路銘は、嘆息して救急箱をなおし始めた。怏々と作業するさまに、妖乎はふいに胸がうずき、
「ありがとね」
 とっさに口を衝き、そんな言葉が出ていた。気づいたときには遅く、根路銘が意外そうな顔で振り返り、にたぁ、と物知り顔に頬をゆがめる。
「へえ? 妖乎もそんな一般常識的な行為が出来るんだ。で? 裏には何があるの?」
「……感謝の言葉も素直に受け取れないっていうの? 怒るわよ。あたしが怒ったら、駅で買ったエロ本全部根路銘の家にあったものだっていって、学校中にばら撒いちゃうんだからね」
「ごめんごめん。ていうか、そういう嘘、本当っぽいからやめてください」
 根路銘は慌てた様子で戸棚の奥に救急箱をなおす。含み笑いに、肩が揺れていた。
「鳴滝!」
「なにさ」
「肩ずれた」
 ん、と肩からずれたタンクトップをしゃくらせ、そっぽを向く。なんだか、ちょっと面白くなかった。世話の焼ける子供にするような嘆息をした根路銘は、ずれたタンクトップの肩掛けを丁寧に戻してやった。
「ん……? あれ、でも妖乎、じゃあ何で、君は腕がないのさ?」
 ふいに、不思議そうな顔で根路銘は聞いた。
「傷治せるなら、腕切られてもなおせるんじゃないの?」
 妖乎はおっくうに視線を戻し、ああ、と頷く。
「リスクは高いけど、なおせない事もないねぇ。でも、これは違うの」
「どうして?」
「これは、あたしのマンダラの代償だから、もどせないのよぅ」
 マンダラ、と小さく呟いた根路銘の表情に、理解した気配はない。妖乎は、自分がマンダラについて根路銘に説明していなかったことに思いあたる。同時に、教えてもいいものかという疑問にも、思いあたった。
 そもそも、根路銘のマンダラが『意志』に脅威を及ぼしたものとほぼ同型だったため、彼は危険にさらされているのだ。根路銘のマンダラが危険ならば、教えないにこしたことはない。が、妖乎はそこまで『意志』に指示を受けてはいなかった。『意志』もとっさのことで、冷静さに欠けていたのかもしれない。さてどうするかと考えた妖乎は、
「ま、いいかなぁ」
 その言葉に、全てが集約した。
「マンダラっていうのは、まあ鳴滝も知ってると思うけど、マカやあたしが使って戦っているものねぇ。能力の種類は多岐にわたるけど、根本的なものは同じ。『何もない空間に物質を具現化させる能力』。あたしの場合は『まじかるすてっき』で、さっきのヤツなら体にまとう石膏細工ね」
 ふうんと、興味があるのか無いのかわからない返事を根路銘はよこす。
「でも、マンダラといえど、何も超越的な万能能力じゃない。『星一つ滅ぼすほどの、身体エネルギー凝縮光』なんて能力あってみなさい。それこそ、もう地球終わってるわよ。抑圧するモノがあるわけよね。そのうちの一つが──能力は自分で決める事は出来ない、ということ。つまり、マンダラを発動した場合、自分が、どんな能力がいい、とか思うことに関係なく、自動的に能力が行使される。自分でもわからないの。でも、ランダムなわけでもない。マンダラは──『自分という人間性の、本質の部分に比例』する」
「自分の……本質?」
「そう。たとえば、あたしが最初、学校の校庭で戦った相手は、体から巨大な蛇を具現化させる能力だった。これも、あのマカの『本質』に比例した結果。つまり彼は、ヤマタノオロチさながらの巨大蛇に、何らかの本質を重ねていた。たとえば、人を拘束、監禁、縛り上げたいとか──そんなものが、一番リアルだけどねぇ」
「あー……だからあのとき、淫靡なマンダラ、とか言ってたのか」
「そしてもう一つは、『世界の常識に拘束される』、ということ。身体エネルギーの凝縮光を抑圧する、もっとも直接的な呪縛ね。これは、まあ、そんままの意味なんだけど。万有引力の法則があるから、重力を自在に操るなんて能力出来ない。定比例の法則があるから、成分元素その質量を変える事はできない。地球の常識は、偉大ってわけ」
「でも、それじゃあマンダラ自体を否定してるようにも感じるけどね。何もない空間に物体を出すなんて、エネルギー保存の法則に反してるよ。ヘルムホルツは、マイヤー、ジュールさんたちが間違った法則を立てたとは思えないけど」
「だれそれ、しらないわよぅ。あたし、さっき傷治したでしょ。マンダラは、その理屈と本質の相互関係が、成り立たせているのよ。まあ、ある程度の法則は突破してしまうかもしれないけどねぇ。あ、鳴滝、水」
 怏々と根路銘が席を立ち、運んできた水をゴクゴクと飲み干し、はいとコップを返す。
「で──なんで鳴滝のマンダラが問題かというと、『意志』を破損させた──『地球の常識』を突破してしまう能力、だからよ。名づけるなら、えぇと……」
「突破……。あ、名付け親にならないで、お願いだから」
「なによう、そのいいぐさ。まあいいわ──仮に、『神秘突破』とでもいうわ。名のとおり、神秘を現実に変えてしまう力。恐ろしいわねぇ、能力範囲限界が広すぎる上に、地球の常識に真っ向から挑むような能力だわ。まあ事実、正面衝突で影響を受けるわけで。『神秘突破』は、ある条件下で常識を突破してしまうのよねぇ」
「ある条件下って?」
 当然帰ってきた質問に、妖乎は唸り、
「……憎しみに身をゆだねたとき」
 神妙な顔もちで、そう言った。
「鳴滝に限らず、マンダラは、感情に支配されやすかったりする。代価エネルギーとしての心が揺れると、当然具現化したマンダラも不安定になる。不安や恐怖、憎しみは、もっとも影響を受けやすい感情でねぇ。自分でも制御できなくなって──そのかわりに、多大な力を得る。だから、もともと戦闘力が弱いはずのマカたちも、攻性本能に長けたあたしと、対等に戦えるってわけ」
 根路銘は聞くや、表情が固まっていった。首をかしいで覗き込む妖乎に、
「じゃあ、『意志』を殺そうとしたその人も──憎しみにとらわれていたんだね」
 悲しげな、同情の余地すら入るような声音で、そう呟くのだった。
「何か、とても深い……恨みがあったんだろうね……」
「…………」
 妖乎は、ちょっとたじろいだ。根路銘は、たまにこういう表情をするのだ。本人は気づいてないだろうが、深い──それこそ、憎しみに目を向けるときのような、そんな表情を。
「──妖乎。で、君の腕とマンダラは、どういう関係があるの?」
 そして気づいたときには、いつもの表情に戻っていることも。
 妖乎は気を取り直し、得意げな表情を作る。
「あたしの能力は、『等価交換』。情報エネルギーとは別の代価を与え、その分の能力を得る、能力。常識に縛られるけど、自分で能力を選べるのは良い」
「だから腕を代価にしたってわけか……。ん? それで、立鎌なんて具現化したの? なんだか、全然つりあってないような気がするけど」
「いいのよぅ。アレが使いやすいんだから。切れ味も強度もすごいんだから」
 武器を具現化する際、剣や銃ではありがちで面白くない、だから傍に落ちてた立鎌を具現化して能力にした。というのは、妖乎は隠しておく事にした。
 ポーン、と、その時くぐもった音が鳴り、つづいて鳩の疑似化した音が響いた。根路銘と妖乎が、同時に壁を見上げる。古い、褐色の鳩時計が、七時を知らせていた。
 とっさのことに、魔が差したような沈黙が落ちる。やがて、根路銘が妖乎に、にこりと笑顔を見せた。
「ありがとう、教えてくれて。僕に教えたら、まずかったでしょ?」
「そうだねぇ。でも、あたしは別に、そこまで面倒を見る気はないよぅ」
 なんとなく照れ、飄飄とした口調で返す。同じ動作でそっぽを向いた。が、じとっとした視線を感じ、妖乎は眉をひそめて根路銘を見返した。
「なぁにじろじろ見てんのよぅ。あたしの腰が、そんなにくびれて綺麗?」
 根路銘はあくまで真面目に、こう言った。
「いや……もしかして僕、透視の能力あるかなって思って。妖乎の下着……青色?」
 妖乎は、根路銘の腹を思いっきり殴った。


「もう四日か……」
 ガタンゴトンと電車に揺られながら、問うわけでもなく妖乎は呟く。隣に座る根路銘は、相も変わらず景観観察に没頭しているようで、気づいた様子はない。
 登校中の電車内に最小限の気を払いつつ、妖乎は考えていた。
 四日目。そう、もう四日目なのだ。根路銘と出会い、また守り通した時間。まだ今日をあわせて四日あるが──どうも、妖乎は気になっていたことがあった。おそらくそれは杞憂ではなく、現実味を帯びた、理屈的な『危険信号』だろう。
 襲ってくるマカが、少なすぎる。
 『意志』から得た情報によると、マカの総数は約十体前後。そして四日目、現在妖乎が倒したマカの数は──四体。マカは『意志』の正確な回復期限は解らないが、回復しているという事実は知っているはず。さらに、根路銘を狙うマカは他にもいる。
 ならば、早々に根路銘を捕らえたいと思うのが普通。しかし、それがない。考えられる事は一つ。妖乎の存在が──マカ全員に知れ渡ってしまったということ。
 マカはもともと、妖乎の存在を知らない。だからこそ、力で勝っているとは言え、的確にマカを倒すことができたのだ。不意打ちと思わせておいて、逆に不意打ちをする、という手法で。
 しかしその不意打ちが通用しなくなった今、非常にまずいことになる。マカはおそらく集団を組み、じっくりと算段をつけたあと、攻めに来る可能性が高い。そのほうが、効率もよく、確率もよいからだ。捕まえた後の根路銘は──また、その集団で奪いあえばいい。
 そもそも、四日間暴れまわって、ばれないと思っていたほうがおかしいが。
「緊急事態とは言え……もう一人くらい、抑制者放っときなさいよねぇ」
 妖乎は深い溜め息を吐き、澄んだ風景をぼんやりと仰いだ。
 しかし弱音を言おうとも、やらなければいけないことに変わりは無い。
 四日。そう、四日だ。あと四日で、『意志』は復活する。コンタクトはできないが、気配だけで十分にわかる。そしてあと四日で、自分は──いらなくなる。
 『意志』は復活し後、根路銘を放っておくことはないだろう。『意志』の存在も、マンダラのこと知ってしまったのだから。記憶操作か……あるいは、強制的干渉の行使か。どのみち──そう、どのみち、妖乎には関係のないことだった。
 自分がいなくなっても、世界は回る。存在が消えても、世界は進む。そういうことなのだ。自分は、そういう宿命に生まれ、そしてやりとおさなければならないのだ。
 自分は──
「……ねえ、妖乎。僕、前言ったよね」
 ふいに声をかけられ、妖乎はびくっと肩が揺れた。わずかに気の抜けていた自分にいらだちつつも聞き返す。
「なに?」
 彼は、妙に思案気な表情だった。
「もし僕がマカだったら、妖乎を倒してでも、力を手に入れるって。あれ……どう思った?」
「どう、って。そりゃ、驚いたけどさあ」
「驚いたってことは──僕の行動が、『異質だった』、ということ?」
 質問の意図も意味も解らず、妖乎は頭に疑問符を三つほど浮かべた。
「別に異質とか、そういうわけじゃないけど……なんで?」
「……いや、それならいいんだ。なんでもない」
 そう言ったきり、根路銘は黙ってしまった。妖乎も黙り、降りる駅につくまで会話が交わされることはなかった。ガダンゴドンと列車が停車し、根路銘が席を立つ。
 妖乎も後を追おうとしたところ、根路銘が何かを落とした。拾うと、それは財布だった。中身を見ると、二千円ほどしか入ってなかったが、無用心には変わらない。嘆息し──ふいに、その中に入っている一枚の写真に気がついた。
 幼い頃の根路銘だろうか。両親がいる。両親は幼い頃に交通事故で亡くなったと、妖乎は聞いていた。大好きだった両親だからこそ、いまだあの家に一人で住んでいる、ということも。写真には、切り取られている部分があった。意図的に、女性らしき人の顔を千切られている。
 妖乎は、その写真に違和感を受けた。言葉には言えない、不穏な何か──。
 何だ、と思うが、結局は解らなかった。

          ◆

 冷艶妖乎と椿野華には、確執があった。
 転校初日の『例の事件』を発端に、四六時中トイレに行くまで共に行動するならば、妖乎と根路銘の間に疑いをもたれるのは当然だ。そして椿野が良く思わないのも、また当然である。どう転ぶか解らない三角関係──そう、周りの生徒たちは捉えているだろう。
 妖乎は一向に構わないし、むしろ楽しんでさえいた。自分でまいたタネだ。別段、根路銘をどうしようとは思わないが──彼が椿野と楽しそうに話すのを見ると、何だか釈然としないものがある。自分がのけ者にされ、本当に抑制者として、派遣されたのだと思い知らされるからか。
 だが何よりも問題な事が、一つある。さすがというべきか、単に馬鹿というだけか。
 根路銘は、自分がそんな立場にいることを、気づいてすらいないのである。
「あー……ずいぶん寒くなってきたよね、最近」
 だから、根路銘は解っていない。彼を挟む形で両側に座る、妖乎と椿野から吹き出す、不穏なオーラの正体を。
「…………」
 妖乎は答えず、椿野も答える様子はない。危機感を察知したためか、周りに生徒の姿はない。そ知らぬ風に、それでいてあてつけるように、妖乎が言った。
「鳴滝。暑いわねぇ、今日」
「え、暑い? あつい……。あ、ああ、そうだね。暑いね、今日」
「なぁんか、こういう日、上着脱いで下着だけになりたい気分だわねぇ」
 ぼやくや、はらりと妖乎の肩からタンクトップがずれ、ふくよかな胸元を覆う下着が見え隠れした。びくりと椿野が反応し、びくびくんと根路銘が赤面して跳ね上がった。
「よよ、妖乎! 何してんの、早くなおしなさいその服!」
「あぁら。あたし、かたっぽの腕じゃ、戻しにくいのよねぇ、これ。ほら、鳴滝。いつもみたいになおして頂戴」
 いつも、というところを強調した。赤面しつつ手を伸ばしてなおす根路銘の影で、してやったりと妖乎は笑んだ。椿野が、むぐっと表情をゆがめる。
「ね、根路銘君! そんなことしなくていいんです! しちゃいけないんですッ!」
「え? だって……」
「いいんです! やめてください!」
 鬼気せまる椿野の声に、びっくりした根路銘はしたがっておろおろと席についた。
「あぁら、どうしたの、椿野華ちゃん? ちょっと、お子様には刺激が強すぎたかしら?」「何を……! どうして、貴方はそんなことするんですか! 根路銘君は、純粋な、すばらしい人なんです! そんな彼を、そんなことにこき使うなんて、貴方は酷いです!」
「そう? 鳴滝の家では、もっと言えない、すごいことしてるわよ? あぁ、お子様にはこれも言わないほうがいいわねぇ、きっと卒倒しちゃうだろうから」
「ッ──! な、なにを……! あなたは彼に、物事を強要しているだけじゃありませんか! 少なくとも私はあなたより彼のことを大切に思っているし、彼のこともたくさん知っています!」
「そうかなぁ? あたしはあんたよりも、鳴滝の事を知っていると思うけど。それに、知っているということがプラスに働くとは限らないわよぅ。ほぉら、今流行ってるじゃない、ストーカーってヤツ。あー、鳴滝にしっかり注意してやらなきゃ。そういうやつは、思いのほか近くにいる、ってねぇ」
「それはあなたでしょう! 不用意に彼の家に訪れるなんて、それこそストーカーです!」
「どうかな? 鳴滝は認めてるし、何より訪れてるんじゃない。住んでいるのよぅ」
 椿野さらに目を剥き、ふるふるとツインテールの毛先を震わせる。
「ち、ちょっと二人とも、どうしたのさっ? 落ち着いてよ、妖乎、椿野?」
 もはや、妖乎と椿野は二人の世界に入り、根路銘の言葉など焼け石に水にもなりはしなかった。椿野の瞳には、激しい怒気と、殺意が含まれるほどの嫉妬があった。
「ねえ、二人とも……」
「今日の昼休み、話があります」
「あぁら、光栄。どんなご教授なのかしらねぇ、楽しみだわぁ」
 妖乎が演技くさく肩をすくめたとき、
「ちょっと、二人とも!」
 ついに我慢できずに根路銘が声を張り上げ、
「「何ッ!」」
 重複した叫びの返答に、びくりと畏縮して、なんでもないですと浮いた腰を下ろした。
 しばらくにらみ合っていた妖乎と椿野だが、やがてフンとそっぽをむいて腰を下ろす。すっかり静寂に包まれていた教室は、やがてぽつぽつと縫い合わせるような言葉がかわされ始めたが、女ってヤツは、という雰囲気が消えることはなかった。
 あてつけるような舌打ちをして、教室を出て行く不良生徒もいたが、妖乎は窓から窺える空に視線を外し続けた。
 何だかちょっと、自分が嫌になった。


 制服をだらしなく着崩した三人の生徒が、校舎裏の、さらに奥のところで、タバコに煙を吹かせていた。ここは校舎から見えず、彼らのたまり場となっているところだった。
「あー、くそっ! マジむかつく」
 男のうち一人が、がすっと地面を蹴りつけて怒鳴った。そうだな、と首肯したのは、壁に寄りかかっている男だ。もう一人は地面に座り込み、早くも二本目のタバコに火をつけていた。
「だいたい、何なんだよあの女ども! 毎日毎日、根路銘根路銘ってよお! ウザイったらありゃしねえッ!」
「まったくだ。そろそろ、本気で腹が立ってきたな……。あぁ、こういう時こそ腹いせに殴りたいぜ。そもそも、ストレス解消のサンドバッグ野郎がいなくなったのがいてぇ」
「斉藤のやろう、自殺なんかしやがって! 勝手にいなくなるなってんだよ、ボケッ!」
 金網を派手にけりつける男に、二本目のタバコに火をつけた男が、下卑いた笑い声を上げる。
「せっかく可愛がってやったのになあ。──そろそろ、新しいやつみつけるか?」
「おっ、いいねー。俺、目ェつけてるやついるんだ、二組なんだけどよ?」
「マジかよ! 誰だよ、それ」
 歪んだ会話を嬉々として交わす、三人の頭上──屋上から、彼らを見つめる人影がいた。
 薄いフードを被り、大きすぎるマスクに顔の大半を隠し、鉄柵の上に仁王立ちする少年──曝れ頭が、そこにいた。その瞳は、冷めた瞳で三人を見下ろしていた。憎しみ、嫌悪、吐き気、胸騒ぎ、恨み……様々な負の念が固まったような、『人間らしい顔』。
「マスクをしていて……よかった」
 曝れ頭は呟いた。マスクを介さず、ちょくせつあの『腐った人間ども』と同じ空気を吸っていると思ったら、彼は迷わず吐いていただろう。
「悪には正義を。制裁には制裁を。腐敗には洗浄を」
 教義か何かにとりつかれたように呟き、彼は。
「──絶望には、絶望を」
 ふっと、鉄柵から飛び降り、たむろう三人の生徒に飛来したのだった。


 チャイムがなった。瞬間、妖乎は警戒網を周囲に張り巡らせる。……変わらない、日常。
「いつ仕掛けてくるのやらねぇ」
 わずかに気の緩む瞬間にも、マカが襲ってくる気配はない。襲ってこないに越した事はないが、逆にそれが彼女を不安にさせた。
 きゅっと、空腹に胃が縮むような感覚が起きるが、妖乎はそれを圧した。今日は、購買で売られるやきそばパン争奪戦をかき回すことよりも、優先事項があった。
「ほ……ほら、妖乎? パン買いに行こうか? 早くしないと売り切れるからさ?」
 授業中からそわそわしていた根路銘の言葉は、眼中になかった。妖乎は、彼の後ろで椅子を引く少女に視線を送る。椿野もやがて、鋭く見返した。
 根路銘ははっと息を呑み、慌てて口を挟もうとした所──鋭い手刀が、その首筋を襲った。息の詰まる声の後、根路銘は膝を落とす。片腕で妖乎が倒れこむ根路銘を支えた。
「邪魔でしょう? 第三者はいらない」
 驚いた椿野に、ざっくばらんに妖乎が言う。椿野が、キュっと可愛い眉を寄せた。
「ついてきて」
 わずかな恐れと好奇心の入り混じる視線を受けながら、椿野と、根路銘を抱えた妖乎が教室を出た。
 やがて椿野が足を止めて所は、妖乎にとって数少ない思い出の場所だった。学校と森に挟まれた校舎裏は、今日も快調に陰湿な雰囲気が漂っている。
 そのときふいに、妖乎は違和感を受けた。妙な匂いがした。文字通りの意味ではない。粘っこい──それこそ殺気のような、思わず反射してしまう匂い。が──深追いすると、全ては幻影だったかごとく、あっけなく消えた。思わず身構えた妖乎は、肩すかしを受けたような気持ちになる。気のせいだった、らしい。
 安らかに寝息をたてる根路銘を、壁に背を預けさせて横たえる。そして、眼前の少女を改めて眺めた。彼女も根路銘を一瞥し、妖乎の視線に合わせた。
 校舎から遠い喧騒が聞こえ、やがて、ひっそりとした場の雰囲気に溶けていく。大きな瞳に必死の想いをたずさえる椿野の視線に、わずかに妖乎がいづらさを感じた時、
「根路銘君に、もう関わらないでください」
 開口一番、きっぱりとした口調で椿野がそう告げた。その足はわずかに震えていた。
「……へえ。ずいぶんと、重い命令だねぇ。ちょっと、恣意的過ぎるんじゃないのかなぁ?」
 瞬間、強い自己嫌悪が妖乎を襲った。素直になれない自分に、いい加減腹が立った。
 妖乎は──正直な所、椿野に申し訳ない気持ちがあった。朝の教室でもあったとおり、椿野は根路銘のことを大切に思っている。深く深く、それこそ自分よりも強く。突然現れた女に寝返られれば、柳眉を逆立てるのも当然だ。
 ごめん、あと数日だから──その一言が言えない自分が、妖乎はたまらなく嫌だった。
「私のためじゃない。あなたは、彼のためにならない。彼を苦しめている」
 だが、わきあがる不穏な想い。いけないと解りつつも、押さえきれない自分。
「何故そんなことがいえるの? アンタがそう思っているだけで、鳴滝は違うかもしれないじゃない」
「彼は我慢してるんです。あなたのために──か、自分のためにか……」
 不安げに、椿野はうつむいた。意味深に、語尾を濁して。
「──だから、あたしが彼を守ってあげなきゃならないんです」
「訳が解らないわね。どうして鳴滝があたしに苦しめられるの。四六時中鳴滝に、あたしがついているから、なんてコトバはやめてね。それはむしろ、鳴滝のためなんだから」
「違う。あなたは、彼のことを知らないんです。私だけが、わかってやれるんです」
「そうかしら? 表面上のことも、裏の事も、あたしは鳴滝のことを解っている気でいるけど? 長い付き合いだけでは解らない、目を背けたくなるような真実も、時には存在するものよ。それから目をそらし、解ろうとしないならば、アンタは鳴滝のことを解ってない。あたしの方がわかってるし、あたしの前で彼を語る資格も、あんたにはないの」
 全くのでまかせだった。しかし、口を衝いて出て、止まらなかったのだ。妖乎は、根路銘が起きたなら、その腹を一発思い切り殴ることを心に誓った。
「違う……」
 と──唸るような声が、弱々しく響き、
「違う、違う。それは、あなたなんです……!」
 すっと、妖乎の瞳がきつく細められた。
 一つの雫が煌いた。優しげな曲線美を伝い、ゆっくりと地面に落ちる。次々と溢れ出した涙をこらえ、だが椿野は妖乎から頑として視線を外さない。肩とツインテールがわずかに揺れ、どうにか嗚咽を押し殺しているようだった。
 最初から、もう爆発寸前だったのだろう。胸につかえる想いに、感情が耐え切れなくなったのだ。そしてそんな彼女を追い詰めたのは──ほかならない、妖乎だった。
「私は……ただ! 彼の辛い顔を見たくなくて! 笑顔が見たいだけでっ! その元凶の貴方が許せなくて……! もし──いや! 私は、だから彼の笑顔の中心にいたいと思う! 願う! 他の誰でもない、私がっ! あなたではなくッ!」
 涙の溢れる瞳に睨まれ、妖乎はわずかに鼻白んだ。そして直感する。
「あなたは、彼の傍にいる存在として、ふさわしくないッ!」
 この少女には、何あると。根路銘と深い──それでいて、妖乎にも通じる何かを。
「なぜ……そこまで、あいつのことを想うの? 男なら、もっとほかにも──」
「ほか? 馬鹿にしないでっ! 私は、彼だから──彼だけが、私の糧となってくれた! 誰もいない、何もない、自分すらいない、そんな時に。うれしかった……ほんとうに、心からほっとした。護られることの安心を知った。私という一人の人間を見てくれた。私は私で、そのほかに変わりはなくて、一つの意志を持った人間だと教えてくれた!」
 わめくように、椿野は涙を散らせ、叫ぶ。妖乎は心底を不可視な何かで、でも確かにある冷たいもので、串刺しにされたような感覚に陥った。
「あなたに何がわかるって言うんですか。貴方の言っている『裏の事』だって、単に誰だって理解できる事実を知っているだけでしょう? そんなことで彼のことを図れると思ったら、間違いも甚だしいです! あたしは知ってる! 貴方は知らない! 例え聞いても、解らない! だって貴方は──彼を、本当に理解しようとしてないから。あなたは『本当の根路銘君』を見ていない。ただ、『無理している彼』を見ているだけなんです!」
 すっと、妖乎の表情が消え──歪んだ。初めて、その表情を隠すことなく。いや、押し隠す事が出来ず。根路銘に対し、自分がどういう風にして見ているか。椿野の言うそれは、まさに──『意志』が妖乎を見ることと、同じだったのだ。
 さらに、椿野──。彼女は、妖乎と同じだった。
 詳しく聞くことなんてない。言葉の節々から染み出る、その感情、匂い。彼女もまた、苦しんでいたのだ。自分という存在の、その意義に、意味に。そしてその疑惑を、根路銘に救ってもらった。教えてもらった。いや、正確には、それは単なる端緒に過ぎないのかもしれない。彼女はまだ、苦しんでいる。だからこそ、根路銘を自分唯一の拠り所としているのだ。自分の苦しみを発見し、傷を癒そうとしてくれた彼だからこそ。
 愛をも超越した、圧倒的な依存──。
 痛いほど解った。その苦しみが。自分が解らないという苦しみ。妖乎もまた、そんな椿野と同じように、根路銘に依存しているということに気づいたのだから。そのため、根路銘に親しく干渉しようとしていた椿野に、嫉妬のような、ねたましい感情を抱いていた事も。根路銘は──妖乎と初めて、『人』として接してくれた相手だった。
 そうして妖乎は、深くて重いモノを無意識に根路銘に求め──それでいて『彼』という存在を深く考えようとしていなかったのだ。なんて自分勝手。なんて胸糞悪い。
 妖乎は、無性に腹が立った。怒りをぶつけた椿野にではなく。のんきに寝息を立てている根路銘にでもなく。自分勝手な──そう、『わがままを言う子供』みたいなじぶんに。
 妖乎が立ち尽くす中、椿野はどうにか自分を落ち着かせ、淡々と語った。
「あなたが、根路銘君との間に何かがあるという事は、分かります……。最初、学校の体育倉庫が破壊されたとき、私も彼と一緒にいたから。とても、人間の仕業とは思えないほどの──。それに根路銘君が、何かを隠しているのも分かります。私は彼が大好きですから。でも、だからって、根路銘君を傷つけないでください」
「…………」
「やらなきゃいけないことかもしれません。でもそれは、あなたのエゴにすぎない。そのことを、忘れないでください」
 エゴ……はたして、そうなのだろうかと、妖乎は思った。くやしさからではない。エゴとはすなわち、一部の感情表現。自我を通すという。つまり──必然的に、意志を持つものに限られてくるということだ。
 自分は、『意志』から派遣された『抑制者』。それ以上でも、以下でもない存在──で、あるべきなのだ。淡々と使命に従えばいいだけ。ならば、エゴという言葉自体、自分には不釣合いなのではないか。それともなにか。
 そんな言葉を、むしろ自分は、望んですらいるのだろうか──?
「妖乎さん」
 と、急に初めて名前で呼ばれ、妖乎は辟易した。椿野の瞳に涙はなく、むしろ研ぎ澄まされた視線で、妖乎を捉えていた。
「でも、あなたには教えるべきだと、私は思いました。下心があるわけじゃないです。同情なんか、もっとないです。あなたは知っておくべきだと思うから。ただそれだけです」
「? ……何を?」
「彼の──根路銘君が、あなたに苦しめられている理由」
 真意に迫るような、はっきりした言葉。
「……根路銘君の家族がいない事は知ってますよね?」
「ええ。両親が、二人とも交通事故で死んだとか……」
「違います。彼の両親は、彼の実のお姉さんに、殺されたんです」
 そして、妖乎は──踏み込んだ。
「根路銘君はあなたに──おそらく、そのお姉さんの幻影を見ています」
 様々な本質と、導き出される真意が鎮座する──混濁の世界へ。

          ◆

 当時六歳。そのとき根路銘鳴滝は、ただ、そこにいた。

 根路銘は幸せだった。例え田舎のさらに辺境地にいようとも、あまり裕福な家計でなかったにしても。そんな些細な事を根路銘は深く考えなかったし、考えたにしろどのみち、どうでもいいとすぐに忘れていた事だろう。
 母がいた。父がいた。とても優しくて、根路銘は大好きだった。いけないいたずらをしたときには怒ってくれた。幼稚園のくだらない競技で一番になったときは、誉めてくれた。小学校に上がるときは、お金をやりくりして新品のランドセルを買ってくれた。
 そして──姉もいた。大好きだった。だいぶ年が離れてたけど、とても綺麗で、世話を焼いてくれて。勉強の解らないところはわかるようになるまで教えてくれた。友達がうまく作れなかった根路銘と、一緒に遊んでくれた。
 どこにでもある、普遍的な家族の光景。
 そう──疑念はなかった。ただ、これからもずっとこの日常が続くと思っていたし、それで良いと思っていた。『自分の家に限って』なんて、空想の上に出来た戯言だった。
 だけど、そんな根路銘をあざ笑うように、『それ』は起きてしまった。
 姉が、近くの海岸で身投げ自殺をしたのだ。正確には、浜に打ち上げられて一命を取り留めたため、自殺未遂とされるだろう。病院に搬送され、治療される間、根路銘は不安だった。姉が自殺した理由など考えもしない。ただ、助かってほしいと思った。
 意識を取り戻した姉は言った。
「父さん、母さん。私……手に入れた。見えたよ」
 根路銘には意味が分からなかったし、嬉しさに溢れる涙に、それどころではなかった。父と母は、意味ありげな頷きで、それに応じていた。
 家族が、妙にちぐはぐし始めたのはその頃からだったと思う。
 表面上はいつもの家族だ。しかし近しいものの変化は、近しいものには隠せないもの。家族の間になにか、しこり、のようなものが出来たように思えた。まるで苦しいときに無理して作る、引きつった笑みのように。
 何だか不安だったが、根路銘は気にしないようにした。子供なりの気づかいだともいえたし、何もなくてほしいという願望でもあったのだろう。
 そうして、そのまま半年が過ぎたとき──『それ』は起こったのだった。
 学校から帰ってきた根路銘は目にした。走って、息を切らせて。その手には、読書感想文の賞状を携えて。誉めてもらいたくて。満面の笑みで、扉を開けて──

 胸を一突きにされ、重なって倒れている両親の姿を。

 畳には、重なり合う両親を中心に、信じられないほどの血が溢れていた。血溜まりは未だにその嵩を増やし続け、乾いた畳をどす黒く染め上げている。血は赤くはなかった。黒味を帯びて、禍々しくて。そう分かるほど根路銘は血や両親を凝視していたし、それほど──現在の状況を、把握できていなかった。鼻を刺す鉄臭いにおいが、たまらなく不快だった。
 口腔を突いて、言葉にならない叫びが出た。訳が分からなかったが、大変なことが起こっているとは理解できた。親が、危ないという。
 母を抱くようにして倒れている父の肩は、震えていた。そして──眠たそうな目で、根路銘を認めた。視線が合い、目を剥いて凝視する根路銘に、父はわずかに目を細めた。まるで、すまんと謝るように。
 近づく事は出来なかった。足がすくんで動かなかったし、なにより──血のべっとりついた刃物をもつ人影が、両親のすぐ傍に立っていたから。
 刃物をもつ姉は、涙を流していた。肩を揺らし、膝をわななかせ、引きつる呼吸を必死に押さえつけながら。その涙にあふれる瞳がゆるゆると動き、根路銘を見た。根路銘の中で、信じられないという思いが爆発する。が、同時に理解を及ぼしている冷静な自分もいて、膨れ上がるわずかな絶望があった。
 どうしてとか、根路銘はそういう叫びを上げた。姉はうっそりとうつむき、
「時が満ちたから……。世界の、ためだから……」
 肉親の血にまみれた刃物を眺めつつ、そう言った。訳が分からなかった。時が満ちた、世界のため? なぜ親を殺すことが、世界のためになる?
「本当にくだらないわね。でも──これが、定めというやつなのかしら。……そうよね。意志を持ったモノの、これが顛末。世界を創り上げたのが意志を持つモノなら、壊すのもまた意志を持ったモノ。そしてそれを止めるのも、意志をもつモノだということ」
 さらに言った姉は、するりと足を動かした。壁に立てかけてあったトランクを手にとり、玄関に向かう。その先にいる根路銘は、近づいてくる姉に思わず身を引いた。その手には、刃物が握られたままだった。とても怖かった。
「ごめんなさい、鳴滝。でも……こうしないといけないから。私は、お父さんもお母さんも、あなたも信じてる。必ず、戻ってこられるって。だから──ね?」
 姉は、そう呟いて。鈍く光る刃物をぎゅっと握って。
「がんばって、鳴滝──」
 さくりと。呆然とする根路銘の胸に、刃物を差し込んだ。
 体の中に、異物が侵入する不快感。息が詰まった。事態に頭がついていかない。転瞬──灼熱の痛みが、胸元に迸った。激烈な、痛み、痛み、痛み。
 頭が痛覚に支配され、根路銘は絶叫し、倒れこんだ。生暖かい血液が、ドバドバと溢れかえった。かすむ視界、はっはっと断続する呼吸。
 姉は玄関口で涙を流し、そんな根路銘を傍観していた。苦しげな、痛烈な表情で。
「鳴滝、憎い? この私が、殺したいほどに? もし──父さんたちが死んで、あなただけが生き残ったなら。追ってくる? 冷静になりなさい。全てを理解しなさい。人間を、意志を持つモノを、その行き着く先を。そして──憎みなさい。この私を。そうすれば、私も安心だから。恨んで呪って、今の気持ちを決して忘れちゃ駄目。いい? 鳴滝──」
 それはまるで、解らない宿題を教えるような口調で。凛とした、希望を抱くような泣き顔で。重圧に耐え切れない、振るえる声音で。
「──さようなら」
 ぴしゃりと、玄関の戸が閉まった。やがて根路銘は、気を失った。血に濡れそぼった、賞状をぎゅっと握り締めて。
 その後、両親は死んだ。根路銘は生きた。姉の言葉は、未だに理解が及ばない。
 父がいない。
 母がいない。
 姉がいない。
 独りになって。
 憎しみだけが──残った。

 姉はどういう理由で肉親を殺したのだろうと、根路銘は思った。どういう気持ちで、刃を肉に差し込んだのだろうと。姉は、家族を憎んだりしてはいなかった。愛していた。
 ならば、とても辛かったのではないだろうか。事実、姉は泣いていた。嗚咽を洩らして。そうしてまで、肉親に手をかけなければならない理由があったのだろうか。それこそ──姉が言ったとおり、世界を守るため、というほどに大切な。
 しかし、だからといって同情の余地が生まれるわけではない。根路銘はいまだ、姉の面影に謎を追い、また憎んでいるのだから。
 ついこの間まで──そう、根路銘は思っていた。思い込んでいた、思い込みたかった。
 根路銘は、奇抜という言葉をそのまま具現化したような少女、冷艶妖乎に出会い。
 直感的に、根路銘は妖乎の影に姉を見た。姿かたちは全く似ていない。でも、近しいものだったからこそ分かる、『通じる何か』が、妖乎にはあったのだ。いつもそう感じるわけではなく。時々──ほんの一瞬、ふと妖乎の後ろに姉が重なるのだ。
 そして根路銘は悟った。自分は姉を憎んでいるのではない。殺意を抱いているのだ、と。
 それは決して、妖乎に対して殺意を抱いたということではない。たまに重なり、苦しむ事もあるが──根路銘は、姉に対する気持ちを、そう触発されたのだ。
 正直、根路銘は自分が怖かった。姉に刃を刺されるとき、とても怖かった。同様に、「もし自分がマカだったら、妖乎を殺してまで力を手に入れる」といった自分に、戦慄を感じたのだ。迷うことなく言いのけた──自分自身に。
 妖乎に重なる姉の姿は、確かに苦しい。もどかしく、時にどうしようもない感情が爆発しそうになる。でも同じくらいに、安心する自分がいるのだ。懐かしい過去の記憶を、優しくすくい上げたような既視感。単に同居人が出来たとか、一緒にご飯を食べるとかテレビを見るとか、そういうことが原因かもしれない。
 けど、姉に重なる妖乎はやさしかったのだ。こましゃくれて、いじわるで。大きな問題を抱えてくる割には、自分で全て背負い込んで。苦しんで。酷すぎる宿命を負っているのに、明るく陽気に振舞って。ありありと浮かぶ──彼女の、思いやりの念。
 妖乎と一緒にいる自分は──とても、安らいでいたのだった。
 だからこそ、根路銘は自分の事を疑念に思う。自分は姉に対してこんな醜悪な──そう、醜い己の『本質』を抱いたままでいいのだろうか、と。この感情は消える事は無いかもしれない。でも、何もしないのならそこで終わりなのだ。
 根路銘はずっと、悩んでいた。
 自分という意志は、どうしたいのだろうかと、改めて──。


 目を開けると、晴天の青空が見渡せた。根路銘は体を起こそうとして、ずきりと首筋が痛むのを感じる。ぼうっとした頭で、何とも無しに空を見て──はっとした。
 慌てて体を起こすと、目の前に妖乎がいた。根路銘に背を向け、あぐらをかいている。
 古びた屋上、階段を覆う箱状のコンクリートの上に、根路銘はいた。
 根路銘は、とっさに声をかけることが出来なかった。
 青空を背景にした妖乎の背中が、とても淋しげだったから。いつもの彼女にはない、メランコリー的雰囲気が漂っていた。椿野と何かあったのかと不安になったとき、
「良い夢見たかい、鳴滝?」
 何気ない口調で、妖乎が聞いた。ああ、と答えようとした根路銘は、言葉に詰まる。良い夢……とは、お世辞にも言えないような夢だったから。だが根路銘は、
「そうだね……良い夢だったよ」
「嘘ばっかり」
 いたずらっぽい含み笑いに、根路銘が首を傾ぐ。
「どうして嘘って分かるのさ」
「あたしは、どうやら心理学の方にも進める才能があるみたいだねぇ」
 ヒュウと風が吹く。少し、肌寒い風だった。なんとなく、もう夏も終わりだな、という感慨が湧く。黙っている妖乎はそんな季節の変わり目を、肌で感じているようにも見えた。それは無いかと、すぐに否定してしまったが。
「僕を気絶させてまで、椿野と二人で話すなんて。椿野となんかあったでしょ? 何で仲良くしないのかな……」
「別に何も無いわよぅ。ただ、そうね。『根路銘鳴滝情報』を交換したかなぁ?」
「根路銘鳴滝情報? なにそれ」
「エロ本の隠し場所とか、最近どんなエロ嗜好があるかとか、エロい鳴滝はどんな表情なのかとか──」
「うおおーいっ! ちょっと待った! なんで全部エッチ関係っ? そういうの本当っぽいからやめてくれって言ってるだろ、妖乎」
 ふふふと笑い、冗談よぅと妖乎は言った。本当に、冗談じゃ済まされない嘘である。
「それにしても、椿野華……彼女、すごい良い子ねぇ」
「え、なに? わだかまりとけたの? 本当、何で争ってるんだか解らないんだから」
 一瞬冷たい視線を根路銘は感じ、次の瞬間、わき腹に強烈な一撃がめり込んでいた。
「はぐぅ……! な、なにするのさ……ッ!」
「彼女は、とても一途だ」
 何食わぬ顔で、妖乎は話を続ける。
「一途で、それ以外は顧みないで。とても強い意志をもっていて──だからこそ危険でもある。鳴滝。彼女を大事にしてあげなきゃ、だめよぅ?」
「くっ、シカトですか。──椿野の事は、そりゃ大事にするけどさ」
「今まで以上に。そうでないと、痛い目にあうかもしれないからねぇ」
 どこか遠い言葉に、根路銘は妙な違和感を受けた。
「──で? 妖乎はどんな『根路銘鳴滝情報』を交換したのさ。僕が、どんな料理が得意か、とか? 僕の好物がどうとか?」
「あたしは、そうね……」
 妖乎はそこで、再び押し黙ってしまった。やがて、
「全ての真実、真相を知った──という感じかなぁ?」
「なにそれ。神さまにでもなったつもり?」
「神さま……そうね。そういう風に、全知全能だったなら、全ての苦しみは無かったはずなのにねぇ」
 話がかみ合っていないな、と根路銘は思った。言葉を切り、やがて意を決したように妖乎は言った。
「鳴滝──あんた、前、言ったよね。あたしを殺してでも力を手に入れる自分は、異質かって」
「……いったけど、それが?」
「普通だと、あたしは思う」
 根路銘は驚いた。急にそんな話を振られたことに奇異の念は抱いたが、すぐに吹き飛ばされる。その質問を否定されることはあっても、肯定される事は無いと思っていた。
「妖乎……どうしたの?」
「別に。殺意を抱くほど憎しみが募る事は、誰だってある。そういうことよぅ」
 その後の沈黙は、もはや沈黙ではない、沈黙だった。話を途切れさせるのではなく、もともと会話をする時間ではないような。
 根路銘は歯がゆかった。何かわからないが、こんなに苦しんでいる妖乎を助ける事のできない自分に。根路銘のマンダラを、妖乎は最強だと言った。でも、根路銘はそうは思わない。だって本当に最強のマンダラならば、この妖乎の背中に満ちる苦渋な何かを、ほんの少しでも取り除ける事が出来るはずなのだから。
 根路銘は黙って、妖乎を見守っていた。静かにする事が、妖乎に与えられる唯一の慰めだというように。
 秋風に、妖乎の黒髪がそよぐ。根路銘は静かに、ずれたタンクトップを戻してやろうとし──ふと、その手を止めた。
 おもむろに自分の上着を脱ぎ、その肩にかけてやったのだ。
「……変な気起こしたのかと思ったじゃない」
「そんなわけないでしょ」
 いつまでも、妖乎の背中は淋しげだった。

 その日、マカが襲ってくることはなかった。

          ◆

 根路銘が降りる一つ前の駅の、森よりも比較的田んぼの多いところに、椿野華の住むアパートはあった。建物の中に複数の住居を仕切ったものではなく、一棟の家が独立して連なるタイプのアパートだ。そのため、一棟一棟に小さいながら庭も与えられ、家庭菜園などを出来るようなスペースもあった。もっとも、椿野に与えられた庭は、乾燥した土が無造作に放置されているだけだったが。
 椿野はどこかどうっとして、そんな、自分ひとりが住むアパートへ帰宅していた。
 親は亡くなったわけではないが、近いところに住んでいるわけでもなかった。お金だけくれれば、後は何もいらない。それが、椿野が親と呼べるものに対していった、最後の言葉だった。いまや、親がどうして過ごしているのかさえ知らない。お金が振り込まれ、受け取る事によって、お互いの生存が確認されているのであった。
「あら。華ちゃんお帰り。今日は遅かったのねぇ」
 買い物に行く様子の、アパートの管理人とすれ違い、椿野は愛想笑いで応じた。
「そういえば、この間、何だかすごい音が聞こえてきてたけど……大丈夫だったの?」
 他人の生活に深く干渉しないことを覚えている、遠まわしな言葉だった。
「はい、大丈夫です。ごめんなさい。ちょっと、夜遅くに掃除してたんです」
「そう。掃除はね、日の明るいうちにしたほうが、布団とかも干しやすいから」
 そういって、管理人はお辞儀して去っていった。しばらく見送っていた椿野は、やがて踵を返す。バッグに入れていた鍵を取り出し、ドアの施錠を解き、部屋に入った。
 室内はピンクと黄を基調として、ぬいぐるみなどかわいらしい置物が所狭しと連なっている。女の子にふさわしい物をありったけかき集めたような、やんわりとした雰囲気の部屋だった。椿野は、準備しているのだ。根路銘がいつでも、自分の部屋を訪れてもいいように──。
 バッグをベッドに放り、自分も腰を下ろす。壁にかかった時計を見ると、五時半になろうとしていた。ふと視界に、コルクの詮をした容器が目に入った。数センチほどの、キラキラした粉が入っている、飾り物である。
 手にとって転がすと、鮮やかに光りが反射し──うふふ、と、椿野は笑った。目は恍惚に笑い、口角はすっとつりあがっている。容器の鮮やかさに笑っているのではない。
 支配欲が満たされたときの、人間特有なそれだった。
 引きつった笑い声を上げていた椿野は、やがて、はっとしたように顔をこわばらせた。まるで、今初めて、自分が笑っていることに気がついたように。
 ぎっと奥歯を噛み締め、手の平に転がる容器を、薄いピンクの広がる壁に叩きつけた。詮がはずれて粉が舞い、そこかしこにキラキラと光の雨が降った。
 椿野は──実際、笑っている自分が怖く感じたのだった。容器の中に投影された、妖乎のあの驚愕に満ちた顔を認めて。
 椿野は、根路銘のためにああしたのだ。伏せられていた根路銘の過去を──調べ上げた根路銘の秘密を、妖乎に教えてやった。そうすることで妖乎は自粛し、自分の立場を認識しなおすだろう。これで、根路銘が苦しめられる事も無くなる。
 そう。全ては根路銘の──自分の、大切な人のため。
 それでも、椿野は優越感に浸らずにいられなかった。自分と根路銘の間を裂かんとした、妖乎の絶望を見て。そんな自分が汚らわしいとは分かっている。汚い、ずるがしこい女だという事は分かってる。そんな自分に、自分も驚いて、恐れている。
 だけど、それほど椿野は根路銘を取り戻したかったし──不安でもある。
 妖乎は折れてしまったかもしれないが、根路銘の心は、もはや妖乎を近しいものとして感じている。それは、悔しいが紛れも無い事実。根路銘の性格を、椿野は熟知している。妖乎の微細な感情の変化を、敏感に感じ取り、守ってやる事だろう。
 椿野はとても怖かった。自分の汚い本性よりも、そちらのほうが何万倍も怖かったのだ。
 根路銘の守るものが、自分から、妖乎へ転換される。守ってくれるはずの根路銘が、守ってくれない。別の女を守る。裏切り。嫌だ。そうはさせたくない──『ならば』。
 ならば、どうすればいい? 妖乎ではなく、根路銘をこちらに向かせるためには?
「まだ……まだ……っ」
 小さく椿野は呟いた。その愛らしい顔には、執念と、嫉妬、意地が織り交ぜになった、どす黒い感情が浮き出ていた。椿野の頭はもはや、どうやれば根路銘に愛してもらえるか、ではなく、どうやって根路銘を取り返すことが出来るか、と考えることしか出来なくなっていた。愛が執念に変わる瞬間──それが、まさにこの時の椿野だった。
「どうすれば、どうすれば……」
「徹底的に、叩き潰せばいいんですよ」
 突如、声がした。無垢で無邪気な、まるで楽しむような、幼い口調。
 椿野は仰天し、悲鳴を上げて床に転げ落ちた。椿野が腰かけていたベッドの後方──明け放たれた窓枠に、少年が腰かけていた。ふっと、少年は目で笑う。
 動転しながらも、椿野はこの少年をどこかで見たことがあると思った。
「され、こう……べ──?」
「覚えていてくれましたか。ご名答です」
 そう、この少年。曝れ頭。妖乎が体育倉庫を破壊して現れた、その日の電車で、椿野はこの少年にあったのだ。訳の解らないことを喋り、最後は電車から飛び降りて。
 根路銘が、妖乎に運命をグチャグチャにされて死を遂げる、と言い残して。
「な、何のようですか……ッ? あなたは──あなたは、」
「怪しいものではありません──と言っても、その当事者が自らそう名乗るのならば苦労はありませんね。ボクは、あなたの敵ではありません。味方です」
 味方、と決定的な立ち位置を解説してきた曝れ頭に、椿野の眉間が強くよる。
「そ……それも、あなたのことばでしょう」
「それはそうですが。そうとしか言いようがありませんので。さらに具体的なことを述べましょう。ボクは、あなたがこの数日苦しみ悶えるのを、毎日見てきました」
 椿野が、驚きに目を見張る。
「観察ではありません。同情でもありません。ボクには、その苦しみが分かるんです。殺意を抱くほど、憎たらしいと思う──その苦しみが」
「殺意? べ、別に私はそんなこと……!」
「だからボクは、あなたに手を貸そうと言っているのです、椿野華さん」
「! ……名前、を」
「えぇ、知ってますとも。それこそ、ずっと以前からね」
 クスクスと含んだ笑いに肩を揺らした曝れ頭は、いや失礼と言って、こう紡いだ。
「腕の欠落した──そう、冷艶妖乎を、叩きのめしませんか?」
 驚愕に、椿野は目を剥いた。指先が振るえ、開ききった瞳孔には、マスクをした奇妙な男がほくそえむ光景しか入らない。
 警鐘。頭の中で、それがなった。危険だと。こんな男が『味方』のはずがないと。
 それでも──椿野は、動く事が出来なかったのだ。恐怖もある。しかし。
 彼の言葉にわずかな興味を示す自分が、拒否することをためらっていた。
「あなたには、そうすることの出来る力がある。僕には、あなたのその力を引き出すことが出来る。他でもないあなただけが。ボクだけが。そしてあなたは、『それ』を望んでいる」
「そ……そんなこと……」
 望んでいる? 自分が? そんなはずはない。自分は──そんな、汚い人間ではない。でもならばなぜ、自分はこの少年をいますぐ追い払う事が出来ないのだろうか? 震える手足を押さえつけ、彼の声帯を封じ、部屋からたたき出すことが出来ないのだろうか?
「嘘はいけないですね。人間社会を成り立たせているものの一つは、『信用』です。そして『信用』という言葉には、必ずとってつけられるものがあります。『嘘』です。『嘘』があるからこそ、信用という言葉が出来た。嘘は汚い、醜い、おぞましい。人間という意識体の最大の嘆きが、そこに集約されているわけですよ、椿野華さん」
 嘘。汚い、醜い、おぞましい──? 自分が? そんなはずはない。そんなはずはない。ただ、自分は。
 彼をあの女から取り戻したいだけで──。
「嘘をつくものは、かならず報復を受けます。因果応報というヤツですね。あなたはそうなりたくは無いでしょう? なるべき者は──そう、決まってますよね?」
「わ、私はそんな、そんな風に彼女を──」
「彼女? そう。そうですよね。あなたにとって『報復』の対象とは、常に冷艶妖乎なわけです。当然ですね、愛すべき根路銘鳴滝を取った憎き女なのですから。恨んで当然ですよね、呪って当たり前ですよね。あなたに非はないのです。全てを横取りし、持ち去った彼女が悪いんです。あなたは何も悪くない」
 ヒュッと、椿野は息を吸い込んだ。自分は妖乎を憎んでいる。それは……間違いない。理由などはいくらでもある。でも、殺意を抱くなど──。
 殺意という、どこか遠い世界の呪文のような言葉が、急激に、近しいものに変貌していく。椿野は愕然として、ふるふると弱々しくかぶりを振った。
「違う、違う、違う……!」
「叩き潰しましょう。あなたは望んでいる。ボクは与えられる。ボクにとっても、彼女は倒すべき相手なのです。早くしないと、根路銘鳴滝の運命が、ぐちゃぐちゃにかき回されて──殺されてしまいますよ、冷艶妖乎に」
 愛という純粋なものから生まれた、殺意というどす黒い感情。理由が単純であり、愛という根源的な感情のため、その憎しみの色も深い。しかし。それでも、椿野は。
「駄目……だめ……!」
 薄い、小鳥のさえずりのような声音で、頬に熱いものを流しながら、そう答えたのだった。椿野の中に殻を閉ざして存在する、唯一の理性だった。
 椿野のあえぐさなか──ふう、と、小さく嘆息する声が聞こえた。曝れ頭だった。
「……あなたが、そこまで拒否するのならば、ボクは深く干渉する事はしません。もちろん、だからと言って強制的に従わせるわけでもありません。マンダラは、その人の心が軸になってきますからね。しかし──そうですね。ここで一つ、『確認』してみることにしませんかね? ボクのためにも、あなたのためにも?」
「確認──?」
 軽く押すだけでも倒れてしまいそうなほど、弱々しく椿野が尋ねた。そうですと言った曝れ頭の瞳が、鈍いものをたずさえて細められる。
「ボクの考えでは、おそらくもう、根路銘鳴滝の頭の中にあなたは無く、冷艶妖乎の存在が支配していることでしょう。あなたは彼に、ずっと変わらず守ってほしいと願っている。自分だけを見て、包み込んでほしいと。しかし今、彼は冷艶妖乎をかくまっている。守っている。そして──改めて今、どちらを取ろうとするか。ボクが思うには、彼は冷艶妖乎を取ります」
「……! なぜ、そんなこと──」
 絶望に支配されそうになりながらも、懸命に椿野は質した。曝れ頭は、大根演技よろしく、昂然と肩をすくめた。
「それを、確かめるのです。そしてもし、彼があなたを取ったならば、ボクは身を引きます。あなたの目の前に、現れることもないでしょう。あなたと彼の『とき』は、十分に満ちていると思います。あなたも、結果的にはそれを望んでいるようですし」
「……もし、根路銘君が、妖乎さんを、取ったなら?」
 考えたくも無いことばを、苦しげに椿野は紡いだ。
 曝れ頭はすっと肩をすくめ、決まっている、とでもいうように、言った。
「それはその時の、あなたの気持ちしだいという事です」
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