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第一章 | 第三章 | 目次

まんだら!

第二章

 霊妙集合意識体、通称『意志』はとても巨大な存在だ。
 質量という概念を持たないにしても、地球上を覆う情報量はすごい。が、何よりも巨大なのは、存在そのものなのだ。人類の『生』を観察し、『死』を統括する。客観的に世界を窺い、主観的に取り込むのだ。圧倒的な存在。
 『意志』を束ねるのは、最も意志の強いものだ。そのため『意志』内部では常に争いがあり、しかし矛盾して海のように静かで、深く、暗い。
 戦わないものはしだいに感覚が欠け、自制心が少しずつ欠落していく。怖くはない。海の底みたいに暗くても、情報の荒波が自分を介して奔っても、戦わない限り自由は無いとわかっていても。
 だって、自分は弱いから。戦うほど強い意志も、執念も、力も無いから。
 でもこうしてマカが降り立ち、唯一の抑制者として『個』を与えられた瞬間、その考えは一変した。
 マカを抑制し、『意志』の復活まで根路銘鳴滝を守る。初めて出来た、自分の存在意義である。守り抜いた後、根路銘鳴滝を『意志』がどう対処するかは解らない。所詮自分は末端であり、知る権利もなく──役目を終えた途端、消えなければいけない運命なんだから。
 怖い……これが怖いというのだろうか? もちろん自分も、『意志』に取り込まれる以前は人間だった。でも怠惰から記憶を削除され、今は完全に『意志』の端末として成り下がってしまっている。マカの反抗意識もわかる。『意志』の傲慢さもわかる。
 しかし──だからどうだというのだ? わかったところで、どうこうできる問題ではない。予測と結果は常に別物なのだ。
 そう、所詮自分は『個』を持たされたとしても『意志』に支配されている事に変わりはなく、変わろうとも思ってはいけないのだ。
 自分は抑制者。『意志』の端末。根路銘鳴滝を守る。そして──消える。
 割り切っている……はずなのに。胸にくすぶるこの感覚は何だろう。
 とても苦しい──胸が締め付けられる、この感覚は?

          ◆

 私立村乱中(そんらんちゅう)高等学校、二年一組には、暗黙ではないにしろクラス全員が従う掟のようなものがあった。その掟は誰が定めたものでもなく、自然の摂理とも取れるスムーズな浸透作用を伴って、クラスに溶け込んでいった。今となっては、入学からまもなく発足された掟に疑問を抱くものもなく、また迷惑を感じるものも皆無に等しくなりつつあった。
 『根路銘鳴滝と椿野華が接しているとき、決して余計な差し出口を与えてはならない』。
 小首を傾いでしまうのも無理はないが、そこは『恋する乙女の嫉妬パワー』とでも受け止めるしかない。
 以前その掟をうっかり忘れた女子生徒が、二人の間に割って入ってしまい、『原始本能を慄かせるガン付け』や『水面下での一方的な精神攻撃』が発動。その生徒は三日間ほど登校拒否をしたものだ。
 掟は生徒の周知を逸し、先生の気をつけること一覧に堂々の殿堂入りも果たしている。
 もはや掟ではなく、常識。だから──
 その掟を真っ向から破るような出来事が起こるなど、私立村乱中高等学校二年一組クラス一同は、塵芥も等しく思ってみなかったのだった。


「──ぅわあ!」
「ふぐオッ!」
 ゴズン。と、教室内に鈍い音が響き、ついで訪れた激痛に根路銘は後頭部を抱え込んだ。
 世界が回る。後ろを振り向くと、同じく男子生徒が頭頂部を抱え込んで、床でのた打ち回っていた。机に突っ伏し寝ていた根路銘が勢いよく上半身を起こし、後ろで着席しようとしていた彼と、仲良く頭突きをしてしまったらしい。
「ご、ごめん! 大丈夫っ?」
「大丈夫じゃな、──いや、大丈夫! 大丈夫だから! ハハ!」
 男子生徒は頭を抱え、何かにおびえるようにフラフラと教室を後にした。水道で頭を冷やすのだろうが……なぜ彼がおびえていたのか、根路銘にはわからなかった。
「わあ、大丈夫ですか、根路銘君! 今、ものすごい音しましたよ? ──全く、根路銘君に頭突きするなんてとんでもないです!」
「あー……いいよ、なんとか大丈夫みたいだから。それに悪いのは僕だし」
 電流の走る後頭部をさすりつつ、根路銘は言う。たんこぶはまぬがれられまいが。
 うとうとしたところを、鮮明な悪夢に不意打ちされた。悪夢──ではなく、記憶、か。
 室内は鋭い音に静まり返っていたが、まもなく世間話に移行された。実に普遍的な──いつもの光景である。
「もしかして──昨日の事を、夢で見たんですか?」
 そう、その記憶がなければ。
 翌日の学校は問題なく施行され、早退した生徒も無事に登校したわけだが──現在クラスの世間話の七割方は、体育倉庫についてであった。
 原因不明の倒壊事件。中心部に隕石の欠片でも落ちていればいいものの、当然その欠片はなく、必然的に『怪奇現象』の一項として新聞記者のフラッシュにはためかれていた。
 目新しいものに目のない田舎学生はすぐさま順応。校舎の一部を破壊されたにもかかわらず、事情を説明する先生たちの口調にも興奮がかいま見られた。悪知恵の働いた校長も「生徒に被害が及ばなかっただけでも僥倖である」との偽善者ぶりに、世間の好感度アップに必死らしい。本当に人間というものは、チャンスが訪れればどんな化けの皮でもはいでしまうものだ。
「まあ、昨日の事、といえばそうなんだけどね」
「そうですか……。でも、大丈夫ですっ! あんなの、嘘に決まってますから!」
 曝れ頭という少年の吐いた言葉だろうが。すでに信じるしかない状況に陥っているという事を、根路銘は心のうちに止めておくことにした。
「そのことだけどさ──体育倉庫が壊れたのを目撃したってことと、電車であったあの少年のこと。他言しないようにしてくれないかな?」
「え? それってつまり──私と根路銘君の、二人だけの秘密、ってこと、ですか……?」
「え? うん、まあそういうことになるね」
 はいわかりました絶対に他言しませんと勢いよく首肯する椿野に、苦笑いでありがとうと告げる。
「巻き込みたくはないからね」
 今日も快調なツインテールをひょっこり揺らし、小動物よろしく小首を傾ぐ椿野に、なんでもないよと根路銘は付け加えた。そう──巻き込むわけにはいかないのだ。あんな、実際悪夢となって蘇ってくる日常は。
 昨日はほとんど眠れなかった。命を狙われている緊張感と共に、暇つぶしに部屋をあさりまくる妖乎を止めたりと、なにかと忙しい夜だったのだ。トイレ内部にまでついてきたときは、さすがに訴えようかと思ったものだ。
 当然学校までついてくると宣言する妖乎を説得し、遠くから見張っていてくれという願いが届くまで、一時間とアイス二十本の代償が必要だったのは、ここだけの秘密だ。
 根路銘は強く嘆息した。ノイローゼにかからなければ、それこそ僥倖である。
「それで、あの……昨日は、庇ってくれてありがとうございました」
「え? ──ああ。いや、別に庇ったというか。当然といえば当然なんじゃないかな?」
 こんな頼りなげな少女を見捨てたら、そいつはすでに地球人類ではなかろう。
 ありがとうございますと律儀に答えた椿野は、ほんのり頬を紅く染め、
「それで、あの、根路銘君。あぅ、き、今日、お弁当作ってきたんだけど……よ、よかったらお昼、いいい、いっしょにどう、ですかね……?」
「え? 僕に? 椿野が? ──手作り弁当なんてはじめてかも。もちろん頂くよ。これは昼が楽しみになってきたなぁ」
「そ、そんなに期待しないほうがいいですけどねっ?」
 にこりと椿野が微笑み──ふと、根路銘は不思議に思った。
「でも椿野、好きな人いるって言ってたでしょ? その人にプレゼントしたりはしないんだ?」
 つい二日前くらいの事である。意を決したようすの椿野に呼び出され、好きな人がいると言われたのだ。兄貴分と自負している根路銘はすぐさま対応し、純真な乙女心を応援する事に誓いを立てた。その時少し、椿野の表情に影が入ったのは、やはり自分の恋愛経験が不足して頼りないからなのだろうか。
「えっ? あぁ、えっと──、ぅん、その、なんていうか、ですね……」
 急にしどろもどろになる椿野に、根路銘は首をひねる。ふと、クラス中から妙にいたい視線を感じた。見渡すと、慌ててその気配が去る。……なんだ?
「あ、もしかして相談とか? ははぁ、椿野、告白する勇気がないんだ?」
「え……あ、あぁっと、いや、そうじゃなくて……」
「大丈夫だよ。椿野は可愛いから、どんな男だってイチコロだよ。間違いない、僕が保証する。見つめられるだけで、こう、ドキっとするからね」
 顔を上げた椿野は呆然とし、
「ほ、ほほほほんとうにっ? 本当に根路銘君、そう思う? ですかっ?」
「あぁ、本当だよ。嘘つく理由がどこにある?」
 徐々に耳たぶまで顔が紅く染まっていった。どうやら的中したらしい、と根路銘は判断する。同級生だが、椿野の事を彼は妹のように慕っているため、純粋に心配だった。好かれている相手が、怨めしくすらある。
「だから、さ? 勇気だせばいいとおもうよ?」
「う──うん」
「その為には、そうだなぁ。ひとまず、その敬語をどうにかしたらいいんじゃないかと思うけどね。ほら、同級生なんだしさ? もっとタメ口になったら? なんなら、僕のことも「鳴滝」って呼び捨てでもいいし?」
 どんぐり眼になった椿野は顔を伏せ、薄い唇で小さな深呼吸をしているようだった。ふくよかな胸元に握った拳をそえ、
「鳴滝──」
 掻き消えるほど小さな声音で呟いた。
「──君」
「……君はつけるんだ?」
 道はまだ遠い、と根路銘は思う。
 椿野は出会ったときから敬語を使っていた。理由は知らないし、椿野自身もあまり語ろうとしない。肩の力を抜けば、もっとフレンドリーにいろんな人と溶け合えるのに。彼女に友達が少ないわけではないが……根はとても良い子なのだ。不器用なだけで。
 だからこそ──
 この少女は、田舎であれ平凡な日常を過ごすべきなのだ。勉強して、友達がいて、ショッピングして、彼氏がいて。そんな椿野の日常を、果たして自分が壊す権利はあるのだろうか? もちろん、否だ。いいわけがない。
「昼さえ気を払わなきゃならないって言うのも、きついけど……」
 ここ一週間のしんぼうだ。自分は無事にすごし、そして『普通』にもどる。『意志』などしったものか。自分たちの日常を壊すな。だから早く終わらせて、妖乎も──
「……ちっ」
 舌打ちにかぶり、チャイムがなった。ホームルームの始まりを知らせる電子音である。
 妖乎──実際、彼女はどう思っているのだろうか。確かにマカは『意志』を裏切り、自分を捉えようとしている。妖乎はそれを止め、助けてくれようとしている。でも──
 彼女はその事実に納得しているのだろうか?
 実際に会ったマカは確かに異常だった。怖かった。恐ろしかった。しかし、だからといって、否定できるわけでもない。少なくとも──自分を守ろうとしてくれている妖乎よりは、その行動原理というものも理解できる。明らかな自己防衛なのだから。
 では妖乎は、なぜ自分を守り、『意志』に従おうとする? ──簡単だ。
 彼女は、そうする事でしか自分の存在を確かめる事が出来ないからだ。
 記憶がない。ならば、確固たる存在証明にすがりつきたくなるものだ。
 ──違う、違う。根路銘は首を振って、考えを振り払った。
 なにも自分はそんなこと、考えなくていいのだ。原因は自分じゃなく、彼女らにあることなのだ。責任など感じる必要がどこにある。思い悩む必要がどこにある。妖乎を──心配する理由が、どこにある……?
 ──兎に角。今はとりあえず、かかわるなりの最低条件を守ることに徹するべきだ。なるべくことを隠密にし、椿野をはじめ生徒の皆を関わらせない。
 それがいま自分にできる、唯一の事。
 どこか上の空でノロノロと着席する椿野を見送り、確かな思いを抱きながら、教壇に視線を移し。
 そして、根路銘鳴滝は石化した。
 むろん比喩であるが、呼吸が止まったくらいは事実だ。クラス全員も、ざわざわと騒いでいる。ぽわんとしていた椿野さえ、息を呑んだくらいだ。

 れいえんようこ

 カツカツと軽快な音で、黒板に幼稚園児なみの表現力豊かな文字がつづられた。
「えー……転校生です」
 はげた額に付着する汗をふきとりつつ、担任の先生が言う。
 肩までずれたタンクトップにしなやかなパンツ、統一された艶やかな黒髪、映えた八重歯、妖しくも鋭い瞳──。威風堂々仁王立ちしている、腕の欠落した少女は。
「はろーはろー、こんにちばんは。地球人類のみんな、勉学に励んでいるかねぇ? あたしの名前は、冷艶妖乎。呼び捨てでも苗字でも下ネタでも、好きなように呼んでちょうだぁいな。……あ、自己紹介だっけ? 好きな食べ物はアイスと盗んだ果実、嫌いな食べ物はピーマンとかどうやって繁殖したかわらかない異物、特技は立鎌を使って人を殺すこと、その他もろもろ素敵な趣味を持っていまあす。一週間ほどでまた転校するけど、まあ、よろしくねぇ」
 さも楽しげに、揚々と自己紹介をするのであった。
 ざわざわと教室がゆれ、根路銘は今にも失神しそうになった。よ──
「妖乎っ? 何でこんな所にいるッ? 遠くからみはってろっていっただろ!」
 突如叫んだ根路銘に教室内の視線全てが注がれる。が、かまっている余裕などない。妖乎は根路銘を目にとめると、にかぁ、と笑い。
「やーやー、見てるだけってのも暇でねぇ。いいでしょ? 別に害があるわけでもないし」
「害があるから拒否してるんだよ! 皆を巻き込むつもりかっ?」
「別にぃ。いいじゃん、あたしの鳴滝の仲なんだしさぁ」
 なれなれしい口調で述べた妖乎は、うっふんとわざとらしいウインクを投げかけた。根路銘は固まり、教室から興奮と冷やかしの声がたちどころにわき上がる。
「あー……知り合いなのかな、根路銘君?」
 つい、と黒ぶちメガネを持ち上げた担任の質問に、室内の視線が一斉に収束する。しんと静まり返る教室の中、初めて根路銘は自分のおかれている状況を把握した。
「あ、いや、あの……別に知り合いとか、そういうのじゃなくてですね」
 微動だにしない教室の空気。どういうことか理解できないといったふうな、椿野の視線が心に痛かった。
 しかし、弁解はまだできる。根路銘は自分に言い聞かせた。多少なりの誤解は生むかもしれないが、何とか収拾できる範囲内だ。どうやって妖乎が転校手続きを済ませたかは解らないが、来たものは仕方ない。人間、誤算はつき物である。問題は、どうやってその誤算を挽回するか。
 ギュルギュルと脳が回り、脳内で試行錯誤を繰り返す。たどりついた最上の言い分を口にしようと、根路銘が息を吸い込んだ瞬間──
「あたしはねぇ。そこの根路銘鳴滝とは、相思相愛の関係にあるのよぉ」
 間の抜けた妖乎の声音が、生徒全員の鼓膜に……突き刺さった。
「まあ、早くいえば──彼氏? さらに端的に言うなら、許婚?」
 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだろうと根路銘鳴滝を初め、この空間にいる誰もが抱いた事だろう。妖乎はナイスアシストでしょうといわんばかりにウインクし、グッと親指を突き立てている。ああ、もうなんていうんでしょうね──。
 瞬間、クラスが爆発した。どよめきは叫びとなり、叫びは興奮を呼ぶ。足場が崩れていく感覚に、もはや言い訳を考える気力すら湧かない。挽回どころか、事態は最悪の方向に向いてしまったようだ。満足そうに華やかな笑みを浮かべている妖乎が、憎々しさを通り越し諦念に達しようとしていた──その時。
「そっ、そんなの嘘です! ああ、あなたは根路銘君を誘惑しようとしている、あぁ、あくま! なんですっ!」
 ガダンと椅子をはじいて立ち上がった少女が叫んでいた。椿野華だった。
「はぁん?」
 妖乎が気にいらなげに視線を滑らせる。
「あんただあれ? あくまってあたし? 誘惑は──ま、あながち外れちゃないけどぉ」
 すっと前に出た彼女は、みなの視線を全身に浴びながら、小さく震えている椿野の前に立つ。畏縮しつつも、椿野は戦闘的な態度を崩さない。……ジャンガリアンハムスターくらいの威嚇であるが。
「いいわねぇ、その瞳。猛烈な敵愾心……。好きよ、あたしそういうの」
 ニヤリと一つほくそえんだ妖乎は、スッと外来者用スリッパを擦り鳴らした。背を向け、緩やかに歩きだす。その先には──
「ぇ──え?」
 元凶の全て、根路銘鳴滝がいた。どうしてこちらへくる? 彼と同様、椿野や、いまや固まって動かない生徒全員も妖乎の意図を気づいていなかった。気づきようがなかった。
 だから根路銘は。
 根路銘鳴滝は。
 妖乎が目の前で歩を止め、仁王立ちしても。
 その顔がにんまりと、怪しい微笑をたずさえても。
 すっと唯一の左腕が自分の肩を掴んできても──
「────」

 冷艶妖乎が自分の唇を奪うまで、一歩たりとも動く事が出来なかったのである。

 柔らかい。感触。共に。熱い。感覚が。吸い付いて。突き抜けて。全身に。迸り──
「──うわぁああッ!」
 永遠にも思える硬直をとき、根路銘は妖乎を突き飛ばした。正確には腕をつき立てて体を離した、という方が正しい。そのため尻餅をついた彼は、瞠目して立ちそびえる妖乎を仰いだ。
 ふふふ、と。彼女は、笑い。
「ほおら、どう? 激烈に──興奮するでしょう?」
 楽しさを隠し切れないといったふうに、言い放つのだった。

          ◆

「で……どういうことなのかな、冷艶妖乎くん?」
「はい隊長。私立村乱中高等学校の警備は蜘蛛の巣のように穴だらけだったため、楽勝で侵入できたでありますよぉ。もともとあたしたちは無機生命体を情報で構築しているため、その情報を代償にある程度の隠ぺい工作を行うことができるでありまぁすから」
「──そういうことじゃないよ!」
 まるで罪意識の感じられない妖乎に、根路銘が憤慨した。
「いいかいっ? 僕は狙われている。君は守ってくれる。回りには危険が及ぶ。だから関わっちゃいけない! この簡単な図式、妖乎にだってわかるだろうッ?」
「隊長、うるさいでございますよぉ?」
 はっとして慌ててあたりを見渡し、コホンと一つ咳払いをする。
「もう、来たものはしょうがないとして──なぜあんなことをするの? その……」
「接吻でございまぁすか?」
「……その口調やめてくれないか?」
 ヤイヤイサーと敬礼する妖乎に、もはや嘆息は禁じえなかった。
 場所は、暗くて陰湿感漂う校舎裏である。たちそびえる三階建ての校舎に森が囲む、その狭間。鬱葱と生い茂る木々は金網フェンスで遮られており、ある程度のスペースが生まれている。日が届かずじめじめした感覚が、特に今は不快だった。
 とうぜん一間目終了時直後、かったるい授業に暇をもてあましていた妖乎の腕を引き、根路銘はこの校舎裏に駆け込んだのである。いかんせんこの場所は告白の名所として知られている所であるが、もはやそんなことは蛇足と言うほかない。
「キスはねぇ、なんていうか。──ノリってやつ?」
「ノリっ?」
「そそ。なんだか、ああしたほうが良い雰囲気だったでしょ?」
 にやりと淫靡な雰囲気をかもし出す妖乎の唇に視線がさまよい、思わず根路銘は視線を外した。唇になまめかしい感触が蘇り、うまく目を合わせることが出来ない。まるで妖乎の術中にはまっているようで、自分が不甲斐なかった。
「あぁら? 恥ずかしがっちゃって、かぁわいぃ」
「うるさいな……」
 自分への叱咤も込めて呟き、鋭い視線を妖乎に注ぐ。妖乎はむっとふくれっ面になり、
「どうしたのよぅ。別に、そんなカリカリしなくてもいいじゃん。接近していた方が安全だし、守りやすいし。あんたが狙われてる。あたしが守る。危険が及ぶ。それら全てを守る。それさえ果たせばいいんだから」
「なんだって……?」
 根路銘は怒っていた。行動目的とはかけ離れた、飄飄とした態度に。全てを巻き込まんとする、その行動自体に。それとも──彼女の裏に見え隠れする、『あの女』の姿にか。
 怒りが誘発された。頭に火がついたような感覚に、唇が自然と震える。守るという言葉を安易に、軽くしか受け止めていない妖乎。この少女は──何も解っちゃいないのだ。
「いいか? 妖乎としての使命は、僕を守ることだ。だから僕が危険にさらされる事は仕方がない。それはいいんだ。でも──」
 嚇怒に震える声を押さえつけ、暗闇に映える白い顔を見据える。
「僕の周りにいる人たちは、何も関係がない。原因もなくて、明らかな被害者だ。そんな人たちを危険にさらすこと自体、ダメなんだよ。妖乎はいいかもしれない。『意志』にとっても小さな存在なのかもしれない。でも、僕にとっては大きな存在なんだよっ」
 唐突に言い寄られた妖乎は、戸惑っているようだった。理不尽な、訳の解らない怒りに不満を抱き、強く眉根を寄せる。
「なんでそんなこというの?」
「なに?」
 思わぬ返事に、根路銘の声が張った。妖乎はくだらないという風に語る。
「仕方ない事でしょ? あんたは狙われている。常識外の、地球外生命体によぅ? そんな奴らに攻め込まれて、今までどおり生活できると思う? できるわきゃないでしょ。少しくらいしのいでも、焼け石に水ねぇ。そのうち、あんたの周りの人間が被害をうけないなんて保証はどこにもない。むしろ、被害受けるコト前提にあんたを助けてるといってもいい。どっちにしろ同じ事よ。それなのに──」
 不快そうな妖乎の表情。
「どうして、あんたはそんなにも反論して、抵抗しようとするの?」
「──どうして?」
 なんだ。なんだ、と根路銘鳴滝は思った。その質問は。その表情は。そんな──簡単な答えを。妖乎の、だだをこねる子供のような顔。そんな彼女の表情を凝視する根路銘は──その奥に見え隠れする、『あの女』の姿を見ているようだった。知らず知らずのうちに手が伸び、がしっと妖乎の両肩を握っていた。
「決まってるだろ」
 そう、決まってる。だって、それが──
「僕の意志だからだよ……!」
 自分の意志。自分だけの志。自分だからこそ持ちえる、自分だけの──。
 ヒュッと息を吸い込む音が聞こえ。妖乎がわずかに、たじろいだかに見えた。
 沈黙──。瞳を見据えあい、まるで相手の腹を探るかのような。やがて妖乎が顔をそむけ、根路銘の頭も急激に冷えていった。慌てて手を離す。
「──ご、ごめん」
 妖乎は答えず、気まずい雰囲気が停滞した空気に漂う。じめじめした空気が、肌にまとわりついた。コケの生え、横たえられた岩に腰を下ろし、頭を抱えつつ嘆息する。
 ちらりと妖乎を見ると、まるで──そう、迷子の子供のような顔をしているではないか。不安と、焦りの入り混じる表情。妖乎自身、気づいてはいないだろうが。根路銘はそんな彼女を目にした瞬間、煮え切らない、複雑なものが体にうずいたような気がした。
「……まるで、わがままをいう子供みたいだね」
 ぼそりと呟いた根路銘に、妖乎がわずかに怪訝そうな顔をした。
「妖乎。僕は、改めて君に聞きたい」
「……何よぅ」
「君は──冷艶妖乎とは、一体なんなの?」
 今更ながらの、根本的疑問。当然、妖乎は何言っているんだ今更、と言う顔をし──だが、それでも根路銘は真摯に彼女を見つめた。
「だから、昨日も言ったでしょ? あたしは霊妙集合意識体から離別した──」
「そうじゃないよ」
 鋭い口調が、妖乎の言葉を断ち切る。
「それは、君の立場を表しているだけだ。僕が聞きたいのは──冷艶妖乎という、確かな意識を持った一人の人間として、君は誰なのかと、そう聞いているんだ」
 わざと気炎を吐かせるような挑戦的な言葉に、妖乎は苛立たしげに口を開き、
「だから、それは、──」
 明確な答えに窮したごとく、息を詰めたのだった。当然だ、と根路銘は思う。答えられなくて当然である。ここで答えが衝いて出るようならば、それは嘘と断定されている。
 なぜならば。冷艶妖乎という一つの意識は、完全に腐敗して此処にないのだから。
「君は僕を守るためにここにいる。『意志』の使命に従うためにここにいる。それは仕方のないことだし、僕自身ありがたいと思っている。だってそうしないと、僕はどうなるか解らないから。周りの人が傷付いてしまうから。世界が終わってしまうかもしれないから」
 グッと、意識しないうちに組んだ手の平に力が入る。
「確かに、マカは悪い奴らだ。そうなんだろうね。僕を殺して乗っ取り、マンダラを使って世界を支配しようとしているくらいなんだから。放置していたら、僕は死ぬだろうし、それこそ世界の終わりだと思う。でも──少なくとも、彼らは自分らの意志で動いているんだよ。『意志』が嫌い。自分たちを支配し、記憶まで奪った『意志』が憎い。消し去ってやりたい。とても怖い考えだけど──でも、それって当然なんじゃないかな?」
 真理を探る言葉。真理を説く言葉。偽りを──非難する言葉。妖乎の不満げな表情に、含まれてくる別の何かがあった。彼女は、じり、と湿った土を踏みしめる。
「君はどうしたいの? 『意志』の命令ではなく、君が? いま? これから? 僕を守りたい? 周りの人も含め守りたい? 『意志』を保護したい? マカを殺したい? それとも──僕を殺して、マカのように全てを支配したい?」
「あ、あたしは──」
 狼狽し、しかし答えは出ず、妖乎は強く唇を噛んだ。
「……あんただったら、どうするっていうのよぅ」
「僕だったら? そうだね」
 根路銘は考えるふりをした。考えるまでもないからである。
「僕がマカと同じ立場だったら、僕は妖乎を殺してでも、手に入れるだろうね──力を」
 当然だ。それが人というものだ。苦しいものからは逃げたい。憎いものは呪いたい。
 それに、根路銘は『意志』に取り込まれた感覚というものを、なんとなく解るような気がしたから。昨日マカに捉えられ、気絶させられたとき──根路銘は、見たような気がしたのだ。『意志』を。『意志』の内部を、取り巻く傲慢な気配を。
「消し去る事もできないほど、憎むべき相手なら、僕は殺してしまいたいと思う人種だからね」
 申し訳ないという気持ちが彼の胸で脹れるが、だからこそ強く妖乎を見据えた。彼女は戸惑い、純粋に驚いているようだった。見知ったものの、急激な豹変振りに。
「別に──あたしは、どうも思っていない。あたしがここにいる理由が、『意志』に与えられた使命だから……。だから、あたしはここにいるのよ!」
「妖乎。僕はね、君に出会う前、マカと名乗る少年に会ったんだよ」
 ぇ、と意表を衝かれた妖乎の声が、ひどく弱々しく湿った空気に溶けた。
「曝れ頭って言ってた。そいつは何故か僕を殺そうとはしなかったけど……でも、確実な敵意はあったと思う。そいつがもし、昨日僕を殺そうとしたマカだったら、どうだろうね」
 聞くまでもない。根路銘は乗っ取られ、世界はどうなっていたか解らない。では、その出来事の原因はなんだ? 間接的な、それでいてもっとも重要な原因。
「妖乎──君は、校庭で僕を見つけた。その時、僕を守るという使命が本当に大切ならば、僕を簡単に逃がしたりはさせない。気絶させてでも手中に置き、そして敵を倒したはずだ。そうしないと、敵が……現に、僕の前に現れたんだからね」
「…………!」
 むぐっと言葉には詰まる、『抑制者』。荒々しく塗りたくられていく焦燥と絶望の暗色。滑稽なほど不安定で、爆発するいとおしさに支えてやりたくなり。
 ひゅう、と生暖かい風がふいた。校舎と森のあいまをぬい、ザアザアと葉を揺らす。
「だとしたら、あんたはどうするの?」
 少女は尋ねた。
「あんたが言ったとおり、あたしは本気で守ろうとしていないのかもしれない。それはあんたには決して解らなくて、あたしにしか解らないこと。──だとしたらどうする? あたしとあんたの関係を、どうやって取り繕おうっていうの?」
「あぁ……今度は逆ギレなの」
 つくづく、可愛げない少女だと、根路銘は思う。
「取り繕うなんて。別に、どうもしないさ。今までどおりだよ」
「今までどおり?」
 そりゃそうだよ、と根路銘は答えた。
「僕にはその道しか残されていない。今更妖乎の話が嘘だ何ても思わない。でも──昨日話したとおり、信頼なんてものは簡単に出来るものでもない。一週間だなんて、もとい出来るはずもないと思うし。──それでも、妖乎は僕のためにここにいてくれている。それは事実だろう? 使命だろうと、妖乎がいる事には変わりないし、騙すにしてもこんな大掛かりなドッキリなんて……まあ、一度は考えたけど。僕は狙われているらしいから、守ってほしい。妖乎は使命のために僕を守ってくれる。利害の一致。信頼なんて、所詮は紙一重のものなのさ。どんなに時間をかけてもね。だから、何も取り繕うなんて必要はないさ。守ってくれるという保証をしてくれるだけでいい。今日のことを許したつもりはないけど、それもまた利害の一致というヤツさ」
 饒舌に語った根路銘は、そこでにやりと不吉な笑みを見せてやる。
「妖乎が僕に要求した、アイス二十本。これ、無しにさせてもらうからね」
「えぇっ?」
「それから僕の名前は、あんた、じゃなくて、根路銘鳴滝と言う一文字十画以上のすばらしい名前があるんだからね」
 はっきりと言ってやった。鼻白んだように気勢を殺がれた妖乎は、ふんとあさっての方向に顔をそむけ、
「……覚えてなさい、根路銘鳴滝。──ん、肩ずれた!」
「そんなところも……わがままをいう子供みたいだ、っていうことさ」
 呆れつつも、大きすぎるタンクトップの肩ずれに、根路銘が手を差し伸べた──その時。
 妖乎の目が見開かれた。疑問を口にするいとまもなく、彼女の手が伸びた。根路銘の首筋を鷲づかみにし、ぐん、と例の怪力で押さえつけられる。
「………ッ!」
 そのまま胸部から、もろに地面に叩きつけられ、その上に妖乎の全体重が乗っかった。困惑と非難の声を絞り出そうとしたとき、またもやそれは喉下でつっかえた。
 キィ──ン。
 と。超音波のような耳鳴りが鼓膜を振るわせた。思うや、左手に広がる金網が、横一線に切断されるではないか。長さにして十メートルほどか。半ばから断ち切られた金網は、支えていた木々の重さに耐え切れず、鼓膜を切り裂く音を立てて崩れ落ちた。
「あぁ──我慢できなかった奴さんが、やっときてくれたようだねぇ」
 普段の嘲笑めいた口調にもどった妖乎が、たちそびえる校舎を仰いだ。根路銘もその視線を追い、愕然とする。二階半ばのまったいらな壁に、片手片足だけで人がへばりついていた。鋭い視線には殺気が孕み、荒縄を巻きつけたかのような屈強な腕先には、鈍い光を放つ日本刀が握られていた。
 どうやらあそこから、切れる何かを放ったらしい。そしてその延長線上には──肩ずれを直してやろうとしていた、根路銘と妖乎がいた。どっと、汗が噴き出るのを根路銘は感じた。もし妖乎が押し倒してくれなければ、自分の両足は持っていかれていた。
「妖乎……!」
「ん? あぁ、ちょっと待っててねぇ。すぐカタしてくるからさぁ」
 言いながら、突き出した左手の平に、青白い光が宿り始める。
「鳴滝」
「うん──え、なに?」
「……いや、やっぱなんでもない」
 現れたなんの変哲もない立鎌を引き寄せ、低く腰をかがめて。
「よく見えるところに隠れてなぁ、根路銘鳴滝!」
 叫ぶや、妖乎は跳躍して壁にへばりつくマカに肉迫した。
 『よく見えるところに』──。ふっと、根路銘は可笑しくなった。影響されやすい所も、また子供なのかもしれない。
 屋上の金網が崩れ落ちてきた所で、慌てて根路銘は隠れる場所を探し始めた。

          ◆

 冷艶妖乎は霊妙集合意識体から反抗意志マカを殲滅、根路銘鳴滝を保護する『抑制者』として地球に降り立った。使命のためには自分の身も犠牲にする、それが存在意義。
 ──今まで、そう思っていた。妖乎は自分の存在をそうだと決め込み、疑いすら持っていなかった。でも……根路銘に否定されて、『自分』とは何かと聞かれたとき──答えることはできなかった。
 自分という存在=使命、という図式が成り立たないならば、一体自分は何なのか。考えるだけでも怖い。震える。その答えは、自分には必要ないもの。記憶と一緒に消えてしまったもの。使命があるから必要ないもの。
 学校に来て、キスして──でも、怒らせるつもりはなかった。ただ、なんとなくそうしたかったのだ。守りやすいとか、見張りやすいとか、関係無しに。でも、もっと根本的な、自分はどうしたいかという詰問には、戸惑ってしまった。
 使命は大切だ。自分が唯一、信じられるものであり、目的だから。もう一本の腕が引きちぎられても、両足がもげても、果たさなければならない使命なのだ。学校の校庭で、初めて根路銘と出会ったとき──しかし、どうしてなのだろう。あの時、根路銘の言ったとおり、どんな事をしても視界から外れるところに逃げさせてはいけなかったのだ。
 別にいい。このマカを殺して、後であいつの家にもぐりこみさえすればいい。大丈夫だ。
 そう、心のどこかで思っていた。行動に必然性を持ったわけでもなく。自分の力にうぬぼれたわけでもなく。
 使命は大切──だが、重要という言葉とは、かけ離れた感覚なのだろうか。根路銘ならば、自分を殺してでも力を手に入れるといった。正直、ちょっと驚いた。戦慄した。覚悟──絶対に成し遂げるという、殺気を孕んだ決定的な覚悟がそこにあったから。
 もし自分が、マカだったならば……妖乎は、想像がつかなかった。覚悟を持つのだろうか。殺気を発するのだろうか。自由に──なりたいと思うのだろうか。
 解らない。全てが、自分の回りに存在する全ての意志が。自分自身さえも。ただ──
 一つだけ、解ることがある。それはとても陳腐なものかもしれないし、実に不安定なものだ。思い込みかもしれない──笑ってしまうようなコト。
 こんなくだらない自分を見て、しかしいつもの言葉を、変わらない態度を示してくれた根路銘に。
 妖乎は、うれしかったのだ。感謝した。ありがとうと言いたかった。幸せだった。
 だから妖乎は、ふふ、と笑った。笑って、遠心力を加えた立鎌を、学校の屋上で追い詰めたマカの心臓に、叩き込んでやった。
 根路銘に指一本触れさせないという、強い覚悟を抱きながら。

          ◆

 いじめ。それは立場の弱い者に対し、肉体的、精神的な苦痛を与える、嫌がらせであり──確定的な犯罪行為である。近頃では世間の認知度も高くなり、いまや社会問題にまで発展しているヒトの悪行。
 その理由は多岐にわたり、年齢層もまた様々だ。楽しさを追求するもの、自分の存在、力を見せ付けたいと思うもの、未知のものに対する畏怖や偏見から行うもの、わき上がる欲に身を任せるもの──。しかし全てに通じる事実は、人の欲望、または欲求がそれをなしているということ。つまり、人の『本質』である。
「本当に……じつに醜いものですね」
 季節の変わり目にふく、乾燥した肌寒い風の中、少年は呟いた。曇天が広がり夕闇は濃く、ザアザアと吹きつける風に葉の群れがざわめく。
 いじめ──その事実そのものが、つまりは人間の『本質』に繋がる証明であると、少年は思っていた。人間の『本質』、つまりは、我欲の固まり。
 私立村乱中高等学校にも、そんな負い目に立たされた人物がいた。いじめられ、助けを求め、絶望の淵を彷徨った者。ほんの数週間前、自殺し、この世を去ってしまったが。
 自殺。しかし果たして、その行為に隠された、真実の必然性に、どれだけの人間が気づけただろうか? 愚問──一人もいるわけない。ヒトという下等な種族は身を持って体験し、苦痛を伴って理解しないと、是非の区別すらつかない生き物なのだ。少年は確信してそう思えたし、だからこそ彼は理解する事が出来た。
 何の説明も前触れも無しに、一方的に殴り。家来だ下僕だと罵り、教員の目の届かない所でパシリに使って。気に入らなければ当然といわんばかりに殴り、金銭も我が物顔で奪い取っていく。むしゃくしゃした暁には血反吐が出るまで痛めつけ、気がすまなければ衣服すら剥ぎ取っていく。
 そうしたかったからという、痛めつけることによる快楽の欲求だけで。
 そう──それこそがヒトだ。人間の、隠れた『本質』だ。己の欲求のためには、周りをはばかることなく突き進む、危険なまでの我欲心。絶対的に逃れる事さえ出来ない。
「そしてそれは人間を呪縛する、憎しみの連鎖にも通じ、永遠回帰へと成り下がる」
 起伏に揺れる田舎町を見下ろしながら、樹木のてっぺんの枝に立った曝れ頭は、再び小さく呟いた。闇に落ちた畑や森林に、すうっと目が細められる。正確には、その合間を縫って立てられた、古びた一つのアパートを、だ。人の域を逸脱した、極限まで高められた聴覚が、そのアパートに響く叫びを正確に聞き取っていく。
「くそ、くそっ! なんで、なんでぇ……!」
 少女の涙に歪む声に、何かを叩きつけるような騒音が聞こえてきた。
「どうして、なんでぇ? 何であの子が、学校に来て──根路銘君と、親しげに話すのよぉ! わたしじゃなくて、何であの子ッ? 腕が落ちて醜いあの子! 色気を出して、根路銘君を籠絡するはしたないあの子! なんでぇ、なんで──根路銘君のことを、「鳴滝」って呼ぶのよぉ……! わたしだって──わたしだって、呼べないのにぃ!」
 声にはもはや怒りを衝きぬけ、殺気すら含まれている。家具の破壊される音と共に聞こえてくる叫びには、どうしてあの子がここにいるのか、という疑問はなく、なぜあの子が根路銘鳴滝と親しくしているか、に視点が固定されていた。
「ファーストキスはわたしが貰って! わたしが、根路銘君のお嫁さんになりたいのに、なるはずなのにぃ……! 許さない……許さない、わたしの……。わたしの根路銘君にッ! 冷艶妖乎──冷艶妖乎!」
 少女の名を、椿野華という。
 クスクス、と、曝れ頭は笑んだ。大きなマスクで口元は見えないが。目深に被ったフードでそのほおは見えないが。瞳だけで──その笑みは、凄惨なものへと転化されていた。
 いい、じつにいい。そうあるべきなのだ。人間は、その真の姿は。
 そして、根路銘鳴滝。冷艶妖乎。
 クスクスと、いたずらをしでかしたときの子供のような。これから起こることを待ちきれないといった含み笑いは、ザアザアと葉がすれる音が掻き消すまで、続いた。
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