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プロローグ | 第二章 | 目次

まんだら!

第一章

「なんだったんだろうね、アレ……」
 人気はなく、無駄に冷房の効いた車内。沈黙は、静かに言った根路銘の言葉で破られた。隣に一定の距離を保ちうつむく椿野は、答えない。頬が妙に赤く染まっていた。
 田舎唯一の通学手段、鈍行列車。その車内で、根路銘は数十分前の『怪奇現象』について、改めて考えていた。一定間隔に伝わる電車の振動が心強かった。
 椿野に返事はない。列車に乗って以来、ずっとこの調子だった。ふと気になり、
「椿野……?」
「……、え、ひ、ひゃいっ?」
 途端、なん語のような声をあげ、椿野が勢いよく顔を上げた。
「その、あの時は私、怖くて……! だから、手ぇ握ったのも勢い、といいますか? いや、望んでないといえば嘘になりますけどっ、えぇと、だからその──!」
「? ……大丈夫?」
「え、ぁあ、だだだ、ダイジョブでひゅっ!」
 見るからに大丈夫で無さそうな椿野は、頬を耳まで真紅に染め上げ、再び顔を伏せた。根路銘は訳がわからず、小首を傾いだ。と思うや、椿野がぎゅっとこぶしを握り締め、今度は頬がにやける。根路銘は、ちょっと不気味に思った。
「椿野、さっきのアレ、どう思う?」
「え? っと。う、うーん、よ、よくわからない……ですよね」
「そう」
 見栄えもしない田んぼの続く景観に視線を戻し、ふっと目を細めた。
 『怪奇現象』……そうは言っても、三日以内のわずか二回ほどしか観測されていない。それに原因も詳しくは判明しておらず、実に不確かなものだ。今先ほどの出来事が『怪奇現象』ならば、自分に関係する事ではないし、荷を担ぐには重過ぎる。根路銘はそう確信を抱いている。
 しかし──あれは『怪奇現象』なんて、陳腐な言葉で言い表せるだろうか? もとい『怪奇現象』というものは、自然や、未知の何かが複合して、その結果が生まれるものだ。人の叡智など入る隙間はない、はず。
 では、あの腕の欠落した少女と、巨大な蛇。あの二つで、もはや『怪奇現象』という言葉の守備範囲を軽く超えているのではないか。
 『怪奇現象』ではなく、必然的な何か。とすると、以前の『怪奇現象』、つまり『世界同時地震』や『晴天の霹靂』も、これに準ずる必然的な何かがあったのではないか。
 そう考える事もでき──だが、根路銘はそこで考えを全て振り払った。
 そう。何かがある、というのはもはや確定事項。が、自分が関係する、となれば話は別だなのである。もう死を垣間見るなどという自体はごめんだ。
 自分には関係ない。自分はたまたま現場に出くわした、可哀相な被害者だ。
「まぁ……駆けつけた先生に申し訳ない気持ちはあるけど」
 しかし、引っかかる何かが根路銘を不安にさせた。腕の欠落した少女を見たときの『あの女』にかぶる既視感もそうだし、もっと別の、直感的なそれもあった。
 ガダンゴドン。どうしても生々しい感覚を振り払えずにいるとき、列車が荒々しく停車した。ドアが開放される。椿野と根路銘は、まだ先の駅である。
 少年が、乗り込んできた。
 根路銘と同い年だろうか。この駅で若者が乗る事は皆無に等しく、思わず、根路銘と椿野の視線が移る。
 奇妙な恰好である。古びたジーパンに半そでのパーカを着込み、ご丁寧にフードまで被っている。口元には大きすぎるマスクが覆い、幼さの残る眼差しが根路銘たちを一瞥、静かにその向かい側に腰を下ろした。……夏風、か?
 見ない顔である。ドアが閉まり、列車が発車し。
「こんにちは」
 抱いた疑問を途端に払うほど幼い声音で、少年は話しかけてきた。根路銘は鼻白む。
「こ、こんにちは」
「あなたたちは」
「はい?」
「この世の在り方が、実におかしいものだと感じたことはないですか?」
 ……時が、止まったかにみえた。根路銘と椿野は、思わず視線を交わす。急に現れたかと思うと、なに、世界の在り方。実に気宇壮大な質問をぶつけるではないか。
「なに? なんですって?」
 とにかく訳がわからず、根路銘は問い返す。少年は何とも無しに、
「この世ですよ。本当に歪んでて、本当にくだらない……。例えば、何て比喩はいらない。ただ、人のはびこる駅構内にいるだけで、黒煙に蝕まれる青空を仰ぐたび、そんな小さなことでも言えることですから。原因は何だと思いますか?」
 根路銘は答えず、
「根路銘くん……」
 不安げな椿野に体を寄せた。根路銘も感じた。言葉では言い表せない、奇妙な感覚。例えば──そう、あの片腕の欠落した少女を見たときのような。こいつは──
「人ですよ。奪い、手に入れ、捨て去り、破壊し──実に傲慢な生き物です。もともとそういう『本質』を持ちながら生まれ、否定する力も無い存在。では、その過ちを正すには……正す事は、果たして正当なものでしょうか、全てにとって?」
 この少年は、人間か?
「むろん、そんな質問を、ボクは愚問だとしか受け止められませんがね。良いに決まっている、誰かが統率しなければいけなかった。今まで、数千年にわたり人は進化してきた。ですが、それは本当の意味での進化とはいえなかったんですよ。本質的には間違った進化を、むしろ退化と言っても過言ではない。人は、意志をもつ全ての生命は。本当に醜く──同時に、悲しい生き物だと、そう思いませんか?」
「ッ、ち、ちょっと待て。君は誰なんだ? なぜそんなことを言う?」
 抜本的な質問。この少年の、ひいては腕の落ちたあの少女を含めた。少年はまるで他愛もないことを思い出したような仕草で、あぁ、と頷き。

「ボクは霊妙集合意識体、『意志』から袂別した、独立意識体の『異志(マカ)』というものです」

「意志……マカ……?」
 訳がわからずといった風に、椿野が小さく呟いた。事実、訳がわからない。
「そうです。ボクたちの本体は、この地球上空をくまなく覆い、世界の全てを傍観すると決め込んだ──愚鈍な、意識体です。そしてボクは、そのくだらない意識体から分裂し、この世界をすべての事柄から救わんとする、救世主というわけですよ」
 ファンタジー小説から抜粋したような事を、謳うごとく語る少年。ややあった間の後。
「君……頭おかしいんじゃないか?」
 根路銘はゆっくりと言葉を口にしていた。当然だろう、おそらく誰だって、今のような解説をされたらこんな反応をするに決まっている。──しかし。
 この時の彼の言葉は、『冷静』だった。『冷静』に判断し、選りすぐった言葉の羅列。
 信じたわけではない。だが、断固否定することも出来なかった。巨大な蛇に腕の欠落した少女、『怪奇現象』、何よりこの肌がピリピリとする──恐怖?
 予測をはるかに超え、それでいて直感が訴えかける、異常事態に『冷静』となった根路銘の対応だった。
 彼の言葉を聞くや否や、意外にも少年はぽかんと口を開け、
「しんじ、ないんですか……?」
 と、よほど予想外だったのかそう呟いていた。やがて思い出したような顔になり、
「ああ、ああ、そうでした、そうでしたね。『人』というものは、そういう生き物でした。情報の交換に、『信じるか信じないか』という前提をつける常識。はは、実に懐かしく──実に、くだらない生き物だと再認識されてしまいましたよ」
 いっときひとりでクスクス笑い続けた少年は、いや失礼と咳払いする。
「解りました。ボクの話を信じるも信じないも、それはあなたの勝手。そこまでボクが緩衝する事でもありません。それでいいでしょう?」
 根路銘は答えない。その沈黙をイエスと受け取ったのか、
「では本題へ。ボクがこんな辺鄙な田舎町に来て、あなたにこんな話をしているのにも、もちろん理由があります。ボクは貴方に、警告を告げにきました」
「……警告?」
 問い返す根路銘は慎重で、わずかに腰を浮かせて椿野の前に出る形となっていた。いつでも動けるように配慮した形だ。
「はい、警告です。──いや、といっても、もう回避する事は出来ないと思いますので、宣告、と受け取っていただいても一向に構いません」
 一つ含み笑いをするような間をとった後、少年は。
「あなた、腕の欠落した少女にあったことがありますね?」
 ドクン。心臓が、脈打った。やはりこの少年は、あの少女にかかわりがあったのだ。
「……それが、どうした」
 クスクス、と。少年は、笑い。

「あなたはその腕のない少女に、この一週間で運命をグチャグチャにかき回され、信じていたものに裏切られた挙句、そのものたちを道連れに悲運な死を遂げるでしょうね」

 軽く。楽しげに。平然とした様子で、そんな残酷な言葉を吐き連ねるのだった。
 思わず根路銘が息をつめ、隣でも椿野が絶句した雰囲気が感じられる。
 しぬ? どうして? 僕が? なぜ? 根路銘の頭で、激しく疑問が渦巻く。嘘だと言い聞かせる自分もいて──それでも、脳の大部分が衝撃に揺らされる。
 ガダンゴドンと、何事もなく動く鈍行列車の騒音が、異様に強く耳に刺さった。
「い、一体何を言っているんですか、あなたはっ!」
 全身に針を当てるような沈黙を破ったのは、動揺にわずかな怒りをたずさえて立ち上がった、椿野だった。ツインテールがわずかに震えている。
「さっきから、い、いみの解らないことを……! そ、そんなの信じる人がいるとでも、おおおおもってるんですかっ! しんじるわけないでしょう!」
「それはあなた方の勝手だといっているでしょう?」
「そそ、そもそも、あなた人が悪いとか言ってますけど、あなたの常識もどうかと私は思、いますっ! 失礼だとは思わないんですゅかッ!」
「そうですね。だからボクも、貴方たちも含め、全ての生物が、ということです」
「い、いいわけにすぎません! ね、根路銘君は、すばらしい人なんです! 貴方には解らないくらい、優しくて、良い人でぇ……ッ!」
 必死で、思わず抱きしめたくなるくらいいとおしい椿野に、根路銘は心を打たれた。そして自分も、強い反発を言葉に変換しようとした、その瞬間──
 脳を貫く鈍い音が、車内に響き渡った。絶句する、根路銘と椿野。列車の天井と床をつなぐ鉄製の棒が、大きくひしゃげていたのだ。めり込むは、握ったこぶし。
「いい加減、うるさいんですよ」
 少年が拳を棒に叩きつけ、破壊していた。椿野が腰を抜かし、へにゃりと膝を落とそうとするところを、慌てて根路銘が支えた。
「ボクは、決して脅しているわけではないんですよ? ただ真実を前もって教えてあげいるだけです。そうして、貴方の心の準備をさせてあげているだけです。僕の話を信じるも信じないも、貴方の勝手。近々やってくるであろう、あの少女の話を信じるも貴方の勝手。すべては──そう、貴方の『マンダラ』しだい、という事です」
「マンダラ……?」
 腕の落ちたあの少女も口にした、その言葉。
「そうです。貴方のマンダラはとても醜く──逃れることはできませんからね」
 少年は言いつつ、おもむろに席を立ち、緊急時にドアを強制開放させる装置を操作しはじめる。
「お前は……お前は、一体何なんだ?」
 『誰』ではなく『何』という、抜本的詰問。走行中の列車のドアが開放され、騒音と共に熱風が室内に吹き荒れる。
「ああ、そうでした。僕の名を名乗っていませんでした。名は所詮、モノを示す記号でしかありませんが──同時に唯一のアンデンティティーでもありますからね。僕の名前は、斉……いや。『曝れ頭』とでも名乗っておきましょうか」
「され、こうべ……?」
「そうです。では、ボクはもう話すべきことは話しましたので」
 根路銘は驚愕する。少年は高速で移動する風景に、その身をひょいと投げ出すではないか。
「御機嫌よう、そしてさようなら。──根路銘鳴滝?」
 そして、実に、実にあっけなく、彼の前から姿を消すのだった。混乱を置き去りに。

          ◆

 レールに敷き詰められている砂利を大きく抉り、着地した少年──曝れ頭は、去り行く鈍行列車を眺め、唯一表情を窺える目を細めた。
「ずいぶんと、普遍的な日常を送ってるんですね……」
 口調の裏に含まれるのは、負をもたらす何かか。
 一時そうして、残暑の感じる温かい風の中立ちつくす。やがて緩やかにその目元を、形の違う歪んだ形状へと変化させていった。凄惨なまでの、笑み、だった。
「しかし──これから、ずいぶんと面白い事になりそうですね」
 ズボっと砂利に食い込んだ足を抜き、緊急停車を始めた列車と反対方向に歩き出す。
「ようやく他の『マカ』達も動き出したことですし、あの腕の落ちた『抑制者』」
 誰に語るでもなく、マスクのせいでくぐもった声を少年は吐き続ける。
「加えて、根路銘鳴滝」
 ザッと歩みを止め、彼は振り返る。見えなくなった列車に、思いを馳せるように。
「そして──椿野華」
 クスクスという薄い笑い声は、吹きすさぶ生暖かい風にとけ、消えていった。

          ◆

 地球外生命体、『意志』から分裂した『マカ』という生命体。学校にいた腕の欠落した少女も同じで、自分はその少女に関わるが故に、酷い苦痛を感じた上で死んでいく。
 それは変わらない事実で、あがらうすべはない。
 ──はたして、こんなデタラメな話を信じるものはいるのだろうか? おそらく、何の予兆も無しに聞いたものは、話を中盤で打ち切りさえするかもしれない。
 しかし根路銘鳴滝は、そうすることが出来なかった。自分の生死を軽んじて述べる相手を殴り、話を中断させる事が出来なかった。
 曝れ頭と名乗る少年の一言一言が胸に突き刺さり、暗い根を生やしていった。回避できない現実が、実際に目の前で起こったりもしているから。
「大丈夫。大丈夫に、きまってるさ」
 そう呟いてみても、やはり不安を消し去る事は出来なかった。深い深い、心にこびりついてはなれない、どす黒い不安は──。
 そういうわけで、急勾配を下る根路銘の足取りは重かった。道の両側には深い木々が生い茂り、時刻は日中と言うのに辺りは薄暗い。この荒々しくコンクリートで舗装されている下り坂のした、右折した所に根路銘の住む一軒家がぽつんと佇んでいるのだ。
 椿野の姿は無い。降りる駅が一駅違うのだが、一応降りて家まで送り、そうして彼は帰路についていた。
 根路銘はふと立ち止まり、担いでいたバッグから財布を取り出す。札入れから一枚の写真を取り出し、助けを求めるような視線でそれを眺めた。
 写真は、幼い頃の家族写真だった。ニッコリ笑う根路銘を抱くのは、両側から腕を差し出した両親だ。何の変哲もない、幸せそうな……だが、その写真の右端は荒く切り取られていた。父親の右側に顔を出した、『あの女』の顔を切り取っているのだ。
「…………ッ」
 いつもならば『その女』に対する憤りよりも、両親を思う穏やかな気持ちが勝る。が──いかんせん、今日ばかりはそうもいかなかった。『その女』に対する感情を、腕の欠落したあの少女に掘り返されていたから。黒く重い──それこそ、憎しみ、のような感情が。
 気づくと、もう家の前にたどり着いていた。人間、意識しなくても日常的な行為は難なくこなす事が出来るらしい。目の前に佇むのは、奥ゆかしい、悪く言えば古ぼけた、瓦張りの一軒家だった。あたりに近所の家はなく、ある程度の敷地を取って森が囲んでいる。
 住んでいるのは──根路銘、ただひとりだった。
「……ふう」
 いつものように軽くため息を吐き、写真を財布になおす。いつものようにポストの裏から鍵を取り出して玄関を開け、いつものように靴を脱ぎ、
「ただいま」
 いつものように自分で自分に挨拶をし──
「んぁ、おかえりぃ」
 いつものように挨拶が、か……
「え?」
 って、きた? 根路銘は顔を上げる。
 すべるように滑らかな肌。体のくぼみが鮮やかな、グラマーな体つき。黒で統一されたパンツとタンクトップ。鋭くも妖しい、八重歯が印象的な整った目鼻立ち。肩口で揺れる、漆黒の髪の毛。しなやかな指先には、冷気の漂う買いだめしていたはずのアイスが二本。
「やっほー」
 腕の欠落した少女が、にやりと八重歯を覗かせて笑い、根路銘鳴滝を出迎えた。


「わぎゃぁぁああああッ!」
 日の落ちない夕刻時、静かにそよぐ森の中へ悲鳴が轟いた。普段物音一つしない古屋からの、何事ともいいがたい騒音だ。屋根に羽を休めていたカラスが一斉に飛び立つ。
「こぉらこら、あばれない、あばれない!」
 楽しさ染み出るその言葉は、うつぶせに倒れ付す根路銘の真上から発せられた。
「あばれないッ? あばれないで、だってッ? ふざけるなよ! この状況であばれないやつが、この地球上に存在するもんか!」
 この状況──根路銘は、少女に押し倒され、なおかつ手首足首を荒縄で締め上げられそうになっていた。少女は起用に足を使い、片腕だけで着々と四肢の自由を奪っていく。力任せに抵抗しようとした根路銘だったが、信じられないことに彼女は万力のごとく屈強で、その抵抗を羽虫同然としか受け付けていなかった。
 もがきながら目端で捕らえた少女は、喜色満面に八重歯を覗かせていた。
「だ、誰か助けてぇー!」
 ──数分後。がんじがらめに呪縛された根路銘は、近所づきあいの一つでもしておくべきだったと考え、しかし近所と言う概念自体がこの家にはないことに気づき、怨めしく鼻先に仁王立つ少女を睨みすえた。
「なぜ君はここにいて、こんなことをするっ!」
 少女は背を向け、テーブルの上に無造作に投げ出していたアイスを手にとる。
「あれぇ? あたしが『だれか』、とは聞かないんだ?」
 さも楽しげに、もしゃもしゃアイスをかじりながら、どさりとテーブルに腰を下ろした。
 誰だ──それは当然、問うべき詰問だろう。不法侵入したものに対してもそれは変わらない。だが、根路銘は彼女に対しある程度の知識を備え付けられたのだ。
 自分を不幸にし、殺す存在──そう、曝れ頭と名乗った少年はいった。
「……君は、誰だ」
 だが、問うておいて無駄な質問ではない。この少女が怪しいという事実と同様に、曝れ頭を信じることができないと言う事実もまた、ゆらぐことのない真実なのだ。
「あたしはねぇ」
 我が意を得たりと口角を吊り上げる少女に、思わず根路銘は生唾を飲み込み──
「……誰だっけ?」
 とっさに、顔面を畳につっこむという動作をおさえこんだ。
「な、んなんだ! 自分で聞いておいて、誰だとはっ」
「いやぁ、そういや、名前決めてなかったと思ってねぇ。ほら、武器の名前決めるのに頭いっぱいだったからさ」
 意味が解らない。
「じゃあ今決めるわねぇ。えーっと、やっぱりあたしを想像しやすい名前がいいだろうから……。…………、──うん。そうだねぇ、よし、決めた!」
「……君は、誰だ?」
「あたしの名前はね、冷艶妖乎(れいえんようこ)」
 …………。なんていうんですかね。アホでしょう?
「あれ、どうした? いい名前でしょ? 今のあたしに、激烈にぴったりでしょ?」
「あぁー、いいね。実にいいから、なぜ僕を縄で縛り上げるなんて卑猥な行動をとったのか、早くその行動原理を教えてくれないか?」
 きっぱり言い放ち、むーっと頬を膨らませる少女──妖乎に、話の内容を催促させる。こんな元気なお子様は、相手のペースで話を進めさせたらそれこそ終わりだ。根路銘は理解ではなく、本能でそれを知ったのだった。
 妖乎は一口で二本目のアイスの半分を噛み砕き、
「だあって。そうしないと、逃げちゃうでしょ? 学校でせっかく見つけたのに、『マカ』倒してる最中に逃げられたんじゃ、たまったもんじゃないよね」
 『マカ』。その一言に、わずかに根路銘は動揺するが、すぐに圧する。どうやら、曝れ頭の言っていた事に一握りほどの真実は含まれていたらしい。『マカ』という異端児の存在──そして『不幸にして殺す』という、この少女。外見はどう見ても被害者の立場だが、いかんせんこの世界は外見に騙されたものが負けていくのだ。
「君は、『マカ』ではないのか?」
 冷静になる事。それが、現在最も重要視するべき感覚だ。
「あたし? あたしは違うよぉ。別に『意志』を裏切ったわけじゃないし……。って、言っても解らないか。簡単に言うと『マカ』っていうのは裏切り者で、あたしはそいつらを倒すためにここにいるわけ。信じられないかもしれないけど、ま、信じてよ」
 信じてと言われて信じれば、人と呼ばれる種族はとうの昔に全滅しているはずだ。だがその重要な事柄さえ、臨機応変に調整するのも、また人なのである。
「じゃあ、僕もその『マカ』ってやつなのか? だから君は、僕を殺そうとするのか?」
 ギリ、と後ろ手に縛っている荒縄がしなる。
「いいか、冷艶妖乎さん? 僕は殺されるような事は何一つやった覚えがないし、ましてや『裏切った』など、皆目見当もつかない。僕はここでご飯を食べて、寝て、学校に行ってるだけの変哲の欠片も見当たらない高校生なんだ。それをなんだい? 殺す、倒す? ふざけるなよっ? 僕はそんな理不尽な、利己的な考えで死のうとは思わないからな!」
 胸に込み上げてくる怒りが、語尾を震わせた。捕らえられし獲物の威嚇。妖乎は根路銘の唐突な感情の起伏にぽかんとし、
「殺す? なにそれ。なんであたしがあんたを殺さなきゃいけないの?」
 根路銘が予測していた答えと全く違う回答をよこし、
「あたしはね。あんたを守るために、ここに来たわけよ?」
 さらについた二の句で、逆に根路銘の意表をついてくるのだった。
「ま……まもる? なんで」
「ん。『意志』っていう、あたしの親玉みたいな所から命令されたから。あんたはその『マカ』っていう悪い奴に狙われているからねぇ」
 妖乎は畳に腰を下ろして根路銘の鼻先ににじり寄り、しゅぴっと食べ終えたアイスの棒を突きつけた。
「一週間! あんたのボディーガード役にこんなグラマーな少女こと冷艶妖乎さんが、抜擢されたってわけ! わお、誰もがうらやましがる罰ゲームぅ! 破廉恥な行為だけは気違えてもしないほうがいいわよぅ! あたしのっちゃうからっ!」
 ……。
「…………」
 ………………。とりあえず、沈黙がこの状況のもっとも冷静な判断というわけだ。
「……『意志』っていうのは? どんな機関なの?」
「『意志』は通称、霊妙集合意識体と呼ばれてる。名のとおり意識体でねぇ、魂を宿す肉体を持たない。ただ意識というものが集合、統率され、地球全体をくまなく覆っている。無機であり、あらゆる物質の影響を受けないのねぇ。だから、見つけることも、干渉することも出来ない。干渉されることしかねぇ」
「その『意志』っていう意識体の目的は? なんで地球を覆っているの?」
「監視。といっても、ほとんど観察なんだけどぉ。もちろん、意識体だから地球に手出し出来ない、ってわけじゃない。今のあたしやマカどもみたいに、分裂し、地球に多大な影響を与える事も出来るねぇ。ただ──今、霊妙集合意識体を統率している意識が、地球を傍観することを決め込んでいるだけ」
 そのとき、わずかに妖乎の表情が曇るのを、根路銘は見逃さなかった。
「……ていうことはあれか。傍観を決め込んでいた、なんたら意識体が不慮の事故か何かをおこし、『異志』が生まれた。そのマカと呼ばれる奴らは何らかの理由で僕を狙い、君はそれを抑止するために『意志』から派遣された。いわゆる──『抑制者』ってわけか」
「そそ! わかってんじゃなぁーいのっ!」
「なるほどね、分かったよ。じゃあ、それならとりあえずこの縄ほどいてくれるかな?」
「おっ、物分りがいい男はイイねぇ!」
 妖乎は季節遅れの満開に咲いたヒマワリのような顔で、いそいそと縄を解き始めた。自由になった手足の縄のあとをさすりながら、とりあえずコホンと一つ、咳払いをして。
「そんな話、信じるほうが阿呆だろ」
 どんな花でも一気にしぼんでしまうような、寒々とした口調でそう言い放った。
「え、えぇえっ? 信じたっていったでしょうがよぅ!」
「そんなことは一言も言ってない。縄を解いてくれっていっただけだ」
「『意志』の話も納得したでしょっ?」
「聞いただけだよ」
「うわーん、根路銘鳴滝っていう一文字十画以上の無駄に画数の多い変態が虐める! こうなったら、また縄で……あれ、縄が無い?」
「はは、縄はここに──って、なんで名前知ってるの! しかも画数はどうでもいいし変態でもないし!」
「くぅ、もう縄なんてどうでもいい。この可憐な腕で締め上げてやるからねぇ……!」
「ッ? わ、わかった! と、とりあえず話し合おう! ね?」
 獲物に飛び掛る雌ライオンのような姿勢になっていた妖乎を、慌てて根路銘が静止する。むすっとした妖乎は、じゃあ信じるのか、という視線で彼をねめつける。
「いいかい? 信じるって言うのはある程度の時間と、一定量の実績・証拠というものが必要なんだよ。もちろん相手の人格も、コミュニケーションも。それら全てを踏まえても、足りないくらい信頼と言うものは築くのが難しいんだ。だから、一言「信じろ」といわれて信じられるものじゃないんだよ。しかもそんな話をね。わかるでしょ?」
 必死の説得ではあるが、一通り筋は通っていると、根路銘は自負する。この少女に飛び掛られたら、軽く肋骨の一、二本は砕けてしまうような気は、気のせいではないだろう。
「……じゃあ、信じてくれたら、この家に泊めてくれるでしょ?」
「はあ?」
「駄目なの? ははぁん、自制を抑制できないで、夜這いにきちゃいそうで怖いんだぁ? うぶねぇ、あんた?」
 むぐっと根路銘は言葉に詰まる。ほれほれ、と、それなりに豊満な胸元を見せつけようとする彼女から視線を外し、根路銘は考えてみる。
 一週間泊めろ──信用もしていない相手にそんなこと許されるはずもないが、ここで無下に断るのも気が引ける。彼女の言葉を認めているようで、癪に障るのだ。それに、どうせ断った所で彼女が引き下がるとも思えない。
「……、いいよ。じゃあ、僕が君の話を信じられたら、泊めてもいいよ」
「おお、本当にっ?」
「うん、本当。約束する」
 妖乎はフフフンと浮かれるが、根路銘はフフンと彼女に冷めた視線を向けた。どうやら彼女はこの条件の厳しさを理解していないらしい。『根路銘が信用したら』ということは、どんな事実が突きつけられようとも、彼が「信じない」の一言を発すれば、すべては無に帰すのだ。決定権が相手にある状況──これほど不利なものはない。
 それは多少、根路銘も少女に対して同情を抱くが、所詮は上辺のものだ。曝れ頭と名乗る少年と、この妖乎とやらの話は、多少ずれている所があった。事のディテールまでは知らないが、おとぎ話にでも出てくるような話の数々。恐れはしたが、改めて考えるとそうでもないような気もしてくる。あまりにも常軌を逸しすぎているし、現実的になしえないことでもない。今まで自分が目にしてきた、異常的な数々が、だ。
 全く、バカらしい。あぁバカらしい!
 日本のど田舎高校生はドッキリにはまるのか、とかそういう大掛かりな番組の企画だったり、同じような外国メディアがないとも限らない。そうさ。人の頭はアイディアを生み出すためにある。考え方によっては、どうとも取れるこの状況だ。
 そういうことだろう? そういうことだ。そうなんだよ。だから、さ。もうばれてるんだ。ドッキリの札を持って来るのは、そろそろ潮時なんじゃないだろうか?
「ちょっと僕、トイレ行ってくるから、それまではここにいるんだよ?」
「はーいはい、いつまでもいますよぉ」
 軽く嘆息し、腰を上げた。
「じゃあ、あの『怪奇現象』ってテレビであるやつも、ドッキリなのかな……」
 緊張状態の解けた人間は、トイレに行きたくなるものらしい。新たな発見をたずさえ、根路銘はぼやきつつ廊下に出て──
 右目端を、人影が掠めた。玄関である。二十代半ばの、きれいな顔立ちをした男がそこに突っ立っていた。
 宅配か、ドッキリの種明かしか? 思うが、どうもその気配ではない。男の表情が笑みにゆがみ、瞬間、背骨に寒気の刃が貫いた。
 この男は、危険である。彼の脳が瞬時に告げ、慌てて声を上げようとし──
「──ッ?」
 首筋に強い衝撃が走った。呼吸は喉元でつまり、いっきに視界が白く歪んでいく。玄関に、男の姿はなかった。……後ろ?
 理解が事態におえず、視界が、消えた。

          ◆

 ──どこだろう、ここは? とても広くて、静かで……海の中、だろうか?
 ぼんやりと根路銘は思い、辺りを見回す。見ているようで見えていない、不思議な感覚だった。
 海──のように感じるだけで、実際は違うものなのかもしれない。そういうことを意識するまで、脳の神経細胞が回らないのだ。考えるための意識を収束し、その束を知らない誰かに握られて、管理されている感覚。いや、実際誰かに管理されている?
 完全なる意識体の中に、根路銘はいた。
 手足の自由はない。まるで、動かすと言う概念が無いかのように。
 感覚は無い。五感以上の無意識的感覚まで、残らずそぎ落とされてしまったように。
 自分自身が無い。自分と言う個人を抑圧され、存在を……消されてしまっているように?
 途端、激しい動揺が根路銘を襲う。
 ここはどこだ。海の中。違う。意識体? なんだそれは。何故僕を抑圧する。僕? 僕とは誰だ。それは自分だ。では自分は誰だ。誰だ? 解らない。自分とは何か。人間とは何か。そう、人間。人間の、自分の心の底がここ。本当の自分。人間のあるべき姿。
 こんな。
 醜いものが──?
 所々にひしめき合う、すべてを支配しようとするこの我欲の塊が?
 怖い。怖い怖い怖い怖い。『自分』が世界から見放されていく。助けて助けて助けて。
 じぶん、は──


 はっと、目を開けると。頭上に広がる大きな常緑樹が、視界に広がった。
「ッ、が、ハぁッ……! ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」
 嘔吐する勢いで、激しく呼吸が口腔を衝いて出る。根路銘は、腰を折って激しくむせ返った。かすむ視線で、辺りを見回す。海の中、ではない。
 夢だった。とても嫌な感じの夢。『死』と同等の恐れ。自分が自分でなくなる瞬間の恐慌。とても静かで、でも様々な意識が絡み合っていて、自分もその一つになりそうで──。夢とは言えないほど、リアリティに溢れた悪夢だった。
 頭が、薄い膜をはったように判然としない。──どうやら、地元に多数存在する森の中らしい。生い茂る木々に見覚えがあるのだ。といっても見慣れない光景なので、家裏の森ではないらしいが。広がる木々は樹齢が高いものばかりで、彼が踏みしめている地面には雑草とコケが広がる。湿った感触が、妙に生々しかった。
「……ッ」
 頭が痛んだ。それでもどうにか体を起こし、ぼやけた頭を振って覚醒させると──
 男が、立っていた。
 なんだ、と思うのも一瞬、根路銘は思い出した。自分は玄関にいたはずなのに、どうしてこんな所にいる? そしてこの男は、その時目の前にいた男ではないか。
 気絶させられて、運び込まれたのか? 原因の解らない冷や汗が、米神を伝った。嫌な予感が脳裏を迸る。どうやら、ドッキリの種明かしの雰囲気ではないらしい。
「……誰だ、おまえは」
 根路銘は問う。が、男は答えず、冷徹な光を宿した瞳で、にじり寄ってきた。踏みしめた小枝がパキリと折れる。根路銘は、反射的に後ず去った。
「──マンダラ」
「なに?」
 瞬間、根路銘は息を詰める。男の全身に青白い光が灯ったと思うや、手の甲から昆虫を思わせる鋭い爪が這い出してきたのだ。五十センチはあろうか。陽光がとどきにくい森の中で、滑らかな光を反射した。
 ──チャキッ、と。音が、なった刹那。
「うぉあっ?」
 その巨大な爪が、彼めがけて振り下ろされていたのだ。慌てて左に転がってかわし──男を振り返った瞬間、その喉下を鷲づかみにされていた。男の顔が、笑みに歪む。
 かわしたのではなく、左にかわさせられたのだ。そして予測していたところで、喉下を鷲づかみにする。喉下で呼吸源をたった腕は、てこでも動きそうに無い。だが、この力ならば今のようなことをしなくても、普通に根路銘の喉下を捉えられたはずである。
 この男は、遊んでいる。顔に浮かぶ、卑劣な笑み。
 訳がわからない。家で突然気絶したかと思い、目が覚めると殺されかけている? 馬鹿げているにもほどがある。自分はこの男を知らない。意味も、誰かも知らない男に、自分は殺されるのか? ──ころされる? ここで? ばかな、ありえない。死にたくない、死にたくない。助けて──!
 込み上げてくる恐怖に、頭がおかしくなりそうになった時、
「俺は」
 男が、口を開いた。
「お前ヲ乗っ取って、世界の支配者にナル。そシて、『意志』を殺ス!」
「……!」
 締め上げられ、声は出なかった。危機感のみが頭に警鐘を鳴らし、考えにもならない言葉が頭を駆け巡る。乗っ取る。自分を。支配者。世界の。殺す。意志を。マカ。裏切り。
 解らない、意味が。意識が白い霞に覆われていき──
「ぐッ──!」
 金属同士がぶつかり合ったときのような轟音が、鼓膜を殴った。鷲づかみにしていた腕が離れ、宙に浮いていた体が落ちて尻餅をつく。自由を得た肺が酸素を貪り食った。
「ったく。大便かと思ったじゃない。レディーをまたせたら、いけないのよぉ」
 激しく肩を上下させながら顔を上げると、そこには──立鎌を地面に突き立てて、むすっと頬を膨らませた妖乎の姿があった。すっと、彼女は前方へ視線を刺す。
 樹木の幹に体を半分抉らせた、男の姿があった。男はすぐさま顔を上げ、鋭くしたうちをした後、痛みを全く感じさせない動作で体を引っこ抜いた。
 そこで根路銘は理解する。妖乎が男を吹き飛ばし、自分を救ってくれたと言う事を。自己嫌悪に陥るほどの安心感が、震える体をときほぐしていく。
「あら。かなりタフなのねぇ、あんた」
「殺ス、殺ス、殺ス、殺ス……すべてハ」
「あぁ、それはムリ。あんたたち知らないだろうけど、あたし、あんたたち倒すために生まれた『抑制者』だから」
「すべてハ、俺のものダ!」
 わめき散らした男は、甲の爪をさらにひきのばし、妖乎めがけ一閃した。妖乎はわずかに体をそらし、かわす。しかし爪の勢いはやまず、延長線上には荘厳な木がそびえ立っていた。ぶつかり、爪が圧し折れる──と思うや、逆に木の幹を大きくへこませるではないか。鳴り響く、木の悲鳴。
「なんだよこれ……!」
 なしえないというか、人間業じゃありえない。根路銘は唖然として、対峙する二人を見つめる事しか出来ない。
 大きな爪は、森の中では圧倒的に不利だ。男は悟ったか、爪を短くして地面を蹴った。枯れた葉っぱが舞い上がる一瞬、すでに男の右腕は妖乎の顔を捉えている。
 考えられない反射速度を見せた妖乎は、再び紙一重で拳をかわす──としたところ、ヘドロをかき混ぜるような音を立てて、男の手の甲から爪が這い出した。爪は交わした妖乎の頬を削り、赤い尾を引く。
「……ッ!」
 妖乎は立鎌を逆手に持った左手で反撃しようとする。が、同じ動作で動いた男のほうが、一呼吸早かった。男は殴った体勢から、右の脇に左腕を潜ませ、その甲から数本もの爪をせり出させたのだ。顔面を狙う、爪。妖乎にとって、その攻撃は死角だった。
「おい、妖乎っ!」
 思わず、根路銘は叫んでいた。妖乎は寸前で気づき、慌ててステップを踏む。一蹴りで五メートルは退き、だがそれさえも見越されていた。ワニの顎にも引けを取らない屈強な握力が、妖乎の喉下を鷲づかみにした。
「くぅ……ッ……!」
 妖乎は男の腕を掴んで抵抗する。男は両手で押さえつけ、彼女の体を仰け反らせて窒息させようとする。と、男の甲がうずいた。
 まずい──! 根路銘は目を見開く。男の甲から出でる爪は、ちょうど妖乎の顔面を穿つ位置にあるではないか。叫ぶまもなく、男の腕が、ビクリと脈打ち──
 妖乎の右足が、男の股に叩きつけられていた。男が声にならない悲鳴をあげ、ひるむ。
 妖乎はその隙を逃さない。左腕を地面につけ、もう一度ハイな蹴りを同じ所に炸裂させていた。さすがに男の体が浮き、思わず根路銘の体もビクンと反応する。実に痛そうだ。
「っしょっ!」
 妖乎の掛け声と共に、ブーツでのインステップキックが、男のわき腹に叩きつけられていた。男は吹き飛び、木の幹に当たって地面に倒れる。
「だ、大丈夫っ?」
 どう声をかけていいか分からず、とりあえず根路銘は妥当な言葉を選んだ。
「ゴホッ……、大、丈夫よぅ。ちょっと、油断しちゃったな。あの『マンダラ』厄介だし……それに、体まで甲冑にしちゃって。蹴ったら痛いじゃない」
 妖乎は足をプランプランふり、
「でも、まあ。相手が悪かったねぇ、あたしとあんた、相性ばっちりみたいだから。へいへーい、昆虫人間かむひあー」
 ゆっくり起き上がった男に対し、まるで緊張感の無い挑発をかけた。男が狂乱したかごとく、言葉にならない雄叫びを上げながら、つっこんできた。
「ち、挑発されてるし──ん? よ、妖乎っ?」
 しかし妖乎は立鎌を握り、棒立ちのまま迎え入れようとしているではないか。
「いきますかねぇ。──『まじかる・すてっきぃ』」
 男の得物が、両側から妖乎を捕らえようとし──妖乎はぎりぎりまでひきつけ、しゃがみこんだ。しゃがんでかわし、同じ動作でステップ。右足、左足、右足。軸足を鮮やかに移動させながら回転、遠心力に凶器となった立鎌を、男の胸元に叩き込んでいた。
 鈍い音と共に鮮血が舞い、あまりのショッキングな光景に根路銘が息を呑む。と──、男が今までに無い叫び声を天に放つ。鼓膜と同時に胸を貫く絶叫、断末魔だった。
 男が息絶えて地面に倒れ付し、耳に痛い静寂があたりを包み込んだ。
「こ、ころした……! ひとを、ころした……ッ!」
 絶望に呼吸すらままならない根路銘が、声を絞り出す。妖乎は動かなくなった男から立鎌を抜き、刃についた血を払うこともなく肩に担いだ。
「ど、どうするんだよ! ひとを、ひとをころしちゃったんだろうッ?」
「まぁまぁ、見てなって」
 激しく攻め立てる根路銘にも、妖乎は気のない返事しか返さない。訳がわからず視線を男に戻し、
「な──なに?」
 根路銘は瞠目した。男の体が、胸元に空いた傷を中心に、光の粒子となって空に舞い上がっていくではないか。光は風に揺れる事もなく、まっすぐに天を目指す。影の多い森の中では、さながら精霊が通ったあとの尾のようでもあった。
 やがて男の体は光の粒子になり、霧散し、消えた。
「ど、うなって……?」
「もともと、死んだ後の体を、乗っ取ったものだからねぇ。無機生命体といっしょに、霧散しちゃったんだよぅ。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」
 ぼうっとしていた根路銘は、やがてはっとした。もはや、彼女の話を信じるほか無いという状況に、立たされていることに気づいたのだから。

          ◆

 『意志』はただ、無為に地球を傍観しているわけではない。
 地球上最大の繁殖生物となった人類。六十五億人の中、まれに『異能力』を持った人間が現れ始めたのだ。人智を超えた、計り知れない強力な力だ。
 『意志』はその力を、己を構成する情報と酷似した、または凌駕さえする力だと認識し、観察を始めた。研究目的は、己の、自己存在確率の上昇。進化の糸口だった。
 『異能力』──すなわち『マンダラ』である。

「マンダラの発現方法は、『死』と直接的な接触を持つ事。つまり、死にそうになった事が条件ね。『死』と『意志』は密接に関係しているから、それが原因なのかもしれないけど」
「『死』、ねぇ……」
「具体的な能力は、あたしで言うところの『まじかる・すてっき』ねぇ」
 根路銘は納得する。妖乎が握っていた、あの立鎌だ。あれは何も無い空間から出現させたものらしい。先ほど倒したマカの能力は、全身硬化・鋭い爪、ということになる。ネーミングが自由と言うのは、もはや明白である。
「何その顔。あたしのネーミングセンスに、脱帽してるんじゃないでしょうねぇ?」
「ああ、ずいぶん脱帽しているとも」

 まれにマンダラを持った人間が現れるといっても、統計平均では約十万人に一人とされている。現段階の日本で換算すると、約千二百人もの人間がマンダラをもつべきことになるのだ。むろん、マンダラという超人的な能力を持つ人間ならば、騒ぎになってもおかしくは無い。だが、地球上にそのような人間は現れていない。
 それは、厳密に述べるならば、マンダラを獲得している者は一人も存在していないからである。
 潜在的に素質はあるものの、使い方、ましてや存在を知らないものを会得しようなど、勘違いも甚だしいのだから。

「それはそうだ。実際にマンダラなんていわれても、相手の気違いだとしか世間は受け止めないだろうからね」
「だよねぇ。あたしだったらすぐ信じるのに、なんでだろ」
「……君を都会に放したら、ものの三時間で大量の借金を抱えてきそうだよ」
 意味が解らないといった風に首を傾いだ妖乎は、
「でも、そんなときに、ある一人の女が現れたんだよねぇ」
 コーヒーアイスにかじりつきながら、気無げに言葉を紡いだ。
「ある一人の女?」
「マンダラを完全に理解、覚醒させ、『意志』にコンタクトを求めてきたヤツ」

 決して予想外の事態ではなかった。むしろ、望んでいてすらいた。
 認知できないはずの『意志』を捕捉。干渉できないはずの『意志』へ一方的にコンタクト。異常なほどに強力なマンダラ。
 異常事態であり、待ちに望んでいた事態。自己の発展、進化の糸口。
 『意志』はすぐさまコンタクトに応じ──
 そして、爆発したのだった。
 コンタクトを望んだ人間が、研ぎ澄ましたマンダラで『意志』本体を殺しにかかったのだ。ジャンク情報を大量に送り込んで動きを鈍らせた後、『意志』の根源から全てを絶つ。
 『意志』はすぐさま攻性情報で対応、危うい所でその人間を抹殺した。が、『意志』の損傷は大きかった。構成情報の七割が瓦解、瀕死の状況に追い込まれたのである。
 全知を目指す『意志』が、一人の人間にしてやられた。これほど屈辱的で、滑稽な話があるだろうか?

「爆発……」
「ん。全く、『意志』やマンダラを知っている事すらすごいのに、『意志』を出し抜くなんてねぇ。『意志』の目的を知った上で、命をかけなきゃ出来ないことだよ」
 爆発……地球上で……。根路銘ははっとした。
「もしかしてその爆発、三日前にあったんじゃないの?」
「え? そうだけどぉ?」
 やはり。『怪奇現象』と妖乎たちは関係があったのだ。『意志』の爆発の衝撃で、『世界同時地震』が起きたのだ。では、『青天の霹靂』はおそらく──
「その危うい状況の中、マカが『意志』と分裂し、妖乎が抑制者として地上に派遣された……。おそらく、昨日の早朝あたりに」
「ほーぅ。そうそう、よくわかったねぇ」
 根路銘は強く嘆息した。これでは、一生かかっても常識に縛られた気象予報士などが解ける問題ではない。

 『意志』は現在、緊急回復状態にある。蓄積された情報メモリーを自己治癒能力に特化、現在からおよそ一週間で最低稼動範囲内までに回復する事が出来る。
 また『意志』は、生き残った情報集積回路を総括し、様々な意志との情報交換に明け暮れている。爆発の原因究明、コンタクトしてきた人間の情報、強力なマンダラ、『意志』の存在流出、今後の展開、分裂したマカの存在、現時点での『意志』の立場……。

「だから一週間、ってわけなのか」
 ある程度全貌がつかめてきたわけだが、やはり聞かなければならないようだ。根路銘自身、一番気がかりであり、関係のあること。
「なぜ、僕が分裂したマカに狙われなきゃならないんだ?」
 そうなのである。例え根路銘がマンダラを潜在的に持っていたとしても、それは日本にいる千二百人にも当てはまる。何故マカは彼を狙うのか。
 妖乎はちゅぱちゅぱ舐めていたアイスの棒を、しゅぴっと根路銘の額にあてがった。
「それはねぇ、あんたが『意志』に多大なダメージを与えた人間と、同質のマンダラをもっていたからなのぉ」
「ぼくが?」
 根路銘は素直に驚く。自分がマンダラの素質とやらを持っているのにも驚きだが、何もそこまでとは思ってもみなかったのだ。
「だから、マカはあんたを半殺しにして、あんたのマンダラごと乗っ取って世界を支配しよう、って思っちゃったわけ。殺しちゃったら、あんたのマンダラなくなっちゃうから」
「そう……なんだ。でも──どうしてマカは、そこまでして『意志』に逆らおうとするの? 同じ意識の集合体だったんでしょ?」
 意識体の集合ならば、考えていることも同じなのではないのだろうか。
 三本目のアイスを開封しようとしていた妖乎の手が、止まった。と思った次の瞬間には動き出し、何事も無かったかのように彼女は答えた。
「……マカはね、もともと人間だったんだよぅ」
「え?」
「マカだけじゃない。霊妙集合意識体に存在するすべての意識は、死んだ人間の霊魂なんなのぉ。『意志』はそれらを強制的に取り込み、数ヶ月かけて記憶を削除、自分の進化のために意識を増幅させるメモリーにさせてるの」
 絶句し、思わず根路銘は生唾を飲み込んだ。つまりそれは、他の生命を踏み躙るということに値し、言い方を変えれば──奴隷、という表現もできる。
 非道。その言葉が、最初に浮かんだ。
 己の利益のためだけに、罪の無い人々の意志を喰い、蹂躙する。なんのため? 進化のため。意志を持った瞬間から逃れる事の無い欲望、憎しみ、恨みの連鎖。
 蘇る記憶。直感的感覚──インスピレーション。根路銘が見た夢、あれは『意志』そのものだったのだ。海の中のように静かで、暗く、自分という存在を消し去っていく意識体。ひどく傲慢で、自分でなくなる感覚に根路銘は末恐ろしい不安に駆られた。
 人道に背いたあの意識体が『意志』ならば、マカという反抗意識が生まれるのも必然と言うものではないか? むしろ正当なものとして扱えないだろうか? 弾圧から逃げるのもまた、人の意志なのだから。
 ではそれでもなお支配下に置こうというのは……いかなるものなのだろう。根路銘は考え──脳裏に浮かんでくる、少年の面影に必然性を覚えた。
 曝れ頭。彼もまた、この運命から逃れようとしていたのだ。抗い、逃げようと必死になっているのだ。
『人は、意志をもつ全ての生命は。本当に醜く──同時に、悲しい生き物だと、そう思いませんか?』
 曝れ頭の撫で回すような声音が蘇り、根路銘は胸が痛むのを感じた。
 しかし──それは逆説的に、自分の命を差し出すと言う事に値し、守ってくれる妖乎の存在を否定する事になるのだ。
 妖乎をちらりと窺うと、何の気負いもなくアイスをがりがりかじっていた。先ほどと変わりなく──だが、その姿が躍起になっているように見えたのは、果たして気のせいだろうか?
「さぁて、寝床も決定した事だし、寝るとしますかぁ」
「今現在君にとってのアイデンティティーは何だったんだろうね? ……あ、ほらほら、タンクトップの肩ずれてるよ」
「あぁん、エッチな根・路・銘」
 根路銘は、改めて自分に何が起きたのかという実感が出てきたのだった。
 服を整えてやりながら、無邪気に八重歯を覗かせる彼女を見て。
「よぉし。『根路銘鳴滝争奪戦』──開始だねぇ」
 『意志』を守る妖乎もまた、同じくもとは人間だったということなのだから。

          ◆

「ふぅ──うぅ」
 その夜、椿野華は、何だかとても複雑な気分だった。
 嬉しさと悲しみがごちゃ混ぜになり、自分でもどうすればいいのか解らない。だから彼女は上の空で晩ご飯を食べた後、大きめのぬいぐるみを抱きしめて布団に包まっていた。
 胸の奥がくすぶり、どうやら今夜は眠れそうにないな、と思う。
 まずは一つ、嬉しい出来事。これはもう、思い出すだけで胸の奥が熱くなり、
「いくらなんでも、強引過ぎるよぅ……根路銘君」
 居ても立ってもいられないような気恥ずかしさに、身をよじれずにはいられない。
 校庭や、電車の中──危険が及ぶと、根路銘は自分を庇ってくれた。強引に手を引き、胸の中に抱きとめてくれた。例えその行為に裏がなくても、根路銘の優しさに変わりがでるわけでもない。やはり彼は、とっても優しくて、自分の事を大切に思ってくれているのだ。鈍感でなければなお良いが──そう思うだけで、椿野は幸せだった。──しかし。
 二つ目、不安になる出来事。電車で口論した、あの少年の事だ。
 名前は覚えていない。根路銘を庇おうとしていっぱいだったし、怖かったし、結局はまた庇われて緊張してしまったし──。でも少年の言葉は強く、椿野の心に残ったのだった。
 少年は、根路銘が死ぬと言った。冗談だとは思うが……。女性が占いに影響されやすいと心理学的にも証明はされているが、今の椿野にはわずらわしい証明に他ならなかった。
 それに校庭で見た、腕のなかった少女。あの少女を見たときの根路銘の視線が、椿野は気になっていたのだ。なんだか──そう。
 まるで、根路銘がいつも持ち歩いている家族写真の、顔の切り取られた女性──姉の話を聞いてしまったときと、同じような。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、きっと……」
 自分に言い聞かせるように、椿野は呟いた。明日は通常通り学校がある。いつものように根路銘が来る。一緒に勉強が出来る。そう、いつものように──。
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