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第三章 | 第五章 | 目次

ファーフル・プラネット

第四章

 その夜、テルミとタマはいささか幻想的な雰囲気の中、路肩を歩いていた。
 もうすぐ日付が変わる時間帯のため、人っ子一人いない。小脇の茂みから、遠慮がちな虫の鳴き声が響く。空を仰ぐと、一面に広がる星空が視界に瞬く。ひときわ大きく輝くのは、ひょこっと顔を出した満月だ。広がる光はやさしく、それでいて力強い。
 見慣れた道が、どこかのファンタジー小説に出てくるそれに、姿を変えている。
 静謐で別次元のような、でもどこかほっとする、そんな夜だった。
「ふぁ……。何も、こんな時間帯に呼び出さなくとも。どうせ明日会えるだろうに」
 眠そうにあくびをするタマに、星空を見上げていたテルミは視線を落とした。白い肌と髪飾りが無ければ、危うく見落としてしまいそうになる。あやすようにテルミが言う。
「うん……。でも、桃原の気持ちもわからないでもないよ。昼は同好会、同好会ばっかり。普通の女の子だし、夏休みの一日に夜遊びの一つでもしたいだろうしね」
 夏休み開始時のテルミならば、絶対に言わないであろう言葉だ。
「うぅ……ねむい、ねむいぞよ〜……」
 タマは相当眠いらしく、まぶたは半分閉じて足取りも危なっかしい。先を行こうとしていたテルミは振り返り、一つ笑みをこぼしたあとタマの手を取った。
「おんぶしてあげたいところだけど。ま、それやっちゃったら僕、潰されちゃうから」
 冗談めかして言うテルミに、タマはふくれた様子で眉を八の字にし、
「テルミ、それは『れでぃ』に対して失礼ぞよ。……まったくぅ」
 そう言いつつも、手を握り返してきた。
「ごめんごめん」
 心にもなく謝り、テルミはタマの歩調に合わせて、ゆっくり歩いた。

 本格的にタマの目が瞑り出したあたりで、ようやく目的地についた。教会とは逆方向に位置する、人気の無い駅前。最終電車を残り一本残すだけとなった田舎の駅には、人一人いない。それでも業務を全うする管理室の明かりが、かすかに漏れているだけだ。
 すぐ近くにはあの『森盛り公園』がある。タマの『話』を聞いた、あの場所だ。あの時の事を思うと、懐かしい何かが胸をしめる。
 公園に上るための石段に座り、桃原の到着を待つことに、テルミは、した。
 石段はひんやりとして冷たい。虫の鳴き声が、より大きくなったような気がした。
 隣からは、すっかり気持ちよさそうな寝息が聞こえる。肩に乗せられている頭が、異常に重い。天使のような、それでいて小悪魔のような寝顔を見ていると、自然とテルミも眠気に襲われてきた。
 桃原は、まだ来ていない。遅いな、とテルミはうつろに思う。自分もタマのように、頭を預けて眠りこけたい──

 キュ……ン……。

 ふいに、音がしたような気が……テルミは、した。虫ではない。もっと機械的で棘のある、それでいてどこかで聞いたことのあるような……。
 寝ぼけ眼だったテルミは、だが眠気も覚めるほどに強く、瞳をこじ開けた。
 ──ま、まさか、マ
 考えは半ばから、ザクリと切り落とされた。
 決して、鼓膜を破壊するような音ではない。くぐもり、大岩に木槌を叩きつけたときのような音。それでいて確実に脳内に響き、拡散して視界を揺るがす。
 路面に亀裂を奔らせつつ、眼前に舞い降りた──黒い影。ともすれば、ふとしたことで闇夜に同化しそうなほどの、極暗色。暗闇に浮かぶ、ミドリ色の二つの光輝。
 マギリストロトンが、そこに、いた……!
 テルミの背骨に、電流じみた衝撃が駆け巡る。さぁっと目が冴え、全身があまりの戦慄にザワザワと粟立つ。感覚のなくなりつつある足で、テルミはさっと立ち上がった。
 急速な冷や汗が米神を伝い、生唾を意識せずに飲み込む。
 困惑は無かった。やはり諦めてなかったのかという、悔しさ。焦燥、狼狽。改めて感じる、圧倒的な恐怖──。来ないでほしいという希望があったため、対する失望も大きい。
 マギリストロトンは、何かを探っているようだった。じりじりと距離を詰め、出方を窺っている。じりじりと踏みしめる小石や砂の音が、いやに生々しい。
 シャキン、シャキン、シャキン……。金属をすり合わせる耳に痛い音が、黒マントの中からわずかに聞こえる。テルミはより深く体を沈め、身構えた。
「せっかく……。せっかく、まろはテルミ達と同じ、『ヒト』になれた気がしたのに」
 後ろからの声に視線をまわすと、タマはすでに体を起こしていた。テルミは驚く。体を起こしていたことにではなく──やさしい月明かりを鋭い得物に変える、極限までに高められた殺意の眼差しに。
「おぬしらはどうして……、まろをそっとしておいてくれないのだ……?」
 思わずテルミが戦慄した、その時。
 シャキン、シャキン、ジャギッ。
 擦れ合う金属音が、詰まった。
 撓る鞭のように殺意がのたうつ。二人がこの場を離れたとテルミが認識したのは、軽く舞う砂埃が散り散りになった頃だった。テルミは反射的に後ろを振り仰ぐ。
 本能で解る、この感じ。近づくだけで息が詰まりそうになる、醜悪な何かが石段の向こうで炸裂しあっていた。
「タマ……!」
 思わず口から漏れる、もはや慣れ親しんだその名前。口にすると、さらに居ても立ってもいられなくなってくる。
 力強い月明かりさえもとどかない、深い木々の生い茂る公園の向こうで、ちかっと何かが光った。同時、薄い膜のようなものが頭上を多い、やがて消える。
 ──空間振動音声断絶装置。
 始まった。戦いが、始まったのだ。
 テルミはきつく目を瞑って、ぎりぎりと歯を食いしばった。震える太ももを何度も殴打し、無理やりに感覚を取り戻させる。
「俺が行かなきゃ……、俺が行かなきゃ、駄目なんだ……ッ!」
 気取っているわけではない。そうしなければならないという思いが、テルミの中で確固たる形を築く。偽善だと言われてもかまわない。役に立たなくてもかまわない。
 ピンチになったら──逃げずに、いられるだろうか……。
 本能的に慄く体を押さえつけ、テルミは石段を一つずつ確実に踏みしめた。
 粗雑な芝生を踏みしめると、そこは──
『どうなって、いる』んだろうか……?
 戦いをこの目で見ている。確かに、この瞳で。だが、何も見えない。月明かりが弱い事もある。しかしそれ以前の問題だった。速過ぎて、目に留まらない。
 暗闇に乗じる二つの影が、交錯するたびに火の花が咲く。影が地面に触れるたび、数十センチにわたり土が抉れる。影が樹木に重なるたび、幹の半ばから断ち切られる。
 全く、常軌を逸している光景。自分の入る隙間など、微塵も無い現実。……いや、もうそれは分かっていた事。その上で自分は覚悟を決め、ここにきたのだから。
 金属がすりあう音がなるたびに。地面が陥没し、木々が圧されて梢が大きく揺らぐたびに。顔を、目を忙しく移動させ、状況を見守ろうとテルミは必死だった。
 どんなに現実離れした現実でも、立ち向かおうとする心意気。圧倒的な力の差を見せ付けながらも、立ち向かおうとする勇気。テルミの、善良な心が生んだ行動だった。
 ──だからこそ。テルミは、気づかなかった。
 タマが現状、マギリストロトンに勝っていることを。左肘の向こうを切断し、腹部に扇子を抉り込ませ、紅い痕跡を追うだけでも十分戦えるほどに、勝っている事を。そして──たった今、マギリストロトンの動きに変化が現れた事を。
 テルミにはその変化がわからない。圧倒的な力の差の前に。だからテルミは気づかない。彼の立ち向かおうとする心意気が、マギリストロトンの行動の変化を呼んだという事も。
 マギリストロトンが窮地に立たされ──タマの気勢を殺ぐつもりか。対峙していた体を方向転換し、自分の元に疾風となって踊りかかった事も、彼は知る由も無かった。
「──……ルミ、あぶない、どけッ──」
 そんな叫びが聞こえたのもつかの間、業風となって吹き荒れた砂埃が、テルミを包み込んだ。思わずテルミが腕を掲げてやり過ごした、瞬間。目の前に迫ったのは、不吉に歪まれた二つのミドリ。全てを飲み込む本質的な闇。月明かりを鋭く反射させ、一条の軌跡を残す鋭い刃物──!
「……あ」
 なんとも鈍狂な声が、乾いたテルミの口元から漏れた。自らの死を理解するのではなく、直感するこの瞬間。自分はこの状況を前に一度、体験している。臍山で、タマと出会ったときだ。でも、そのときとは決定的に違う事が一つある。
 タマが泣き叫ぶように悲壮な顔をして、遠くにいるということ。
 死の瞬間。以前感じたとおり、全く現実味が無かった。これ死んだかも、などという、ふざけているとしか思えない考えが頭に浮かぶ。
 テルミはじり、と土を踏みしめる。
 確実な死。冷たい空気がふっと近づく。逃げられない。でも……頭のどこかで、その行動を肯定している。逃げちゃ駄目だ、という言葉に変えて。理由は……、そう、いつものよく分からない感じ。全く、馬鹿な話だ。
 卑下するような考えを浮かべつつも、テルミはきつく目を見据える。
 タマの絶叫が聞こえる。刃物が空気を切る音が、鼻先をかすめる──。
「──逃げて、タ」
 刃渡り二十センチはあるサバイバルナイフが、テルミの喉下に抉り込まされた。灼熱の痛みとともに、噴水のように血が噴出す。さらに深く押し込められるナイフに、肉片が血とともに月明かりの夜を彩った。笑うように細められたミドリの眼光は、邪悪そのもの。血の雨を、祝福していた。全身の力が抜け、膝から体が砕け落ちる──
 ──はず、だった。しかしテルミは今、呆然と目を瞬かせている。
 自分の喉を裂くはずだった得物は、いやそれ以前に、マギリストロトンが──眼前から消えていた。正確に言うと、自分とマギリストロトンのわずかな隙間に、割って入った人影がいたのだ。こちらには背を向け、マギリストロトンのナイフを受け止めている。
 ──肩に掛かる美麗な黒髪は、月明かりを滑らかに吸収し。長身の闇夜に映るシルエットは、滑らかかつ繊細。
 マギリストロトンと対峙していた『人物』は、唐突に身を沈め、入れ替わりに遠心力を利用した足蹴りを放った。骨が軋む鳥肌の立つ音を立て、マギリストロトンは数十メートル後方へ吹き飛ばされた。『人物』は間をおかず、たった一つの跳躍でその跡を追う。
 ──飾り気の無い服は病的に整い。星空をきらりと反射させるのは、機械的な眼鏡。
 右掌をわずかに発光させつつ、『人物』は敵を捕捉する。地面を削りすべるマギリストロトンにサーフィンよろしくまたがって、隙を生むことなくその顔面を鷲づかみにした。ナイフが右腕をざくざく切り刻んで抵抗するも、構う様子すらない。鷲づかみにしている掌が、さらに光を強めた──その瞬間。
 一条の光が、マギリストロトンの顔面を貫き、右掌から放射された。
 一瞬にして昼夜が逆転し、目を覆うほどの発光が網膜を襲った。
 テルミは、この光景を見たことがある。昼と夜でだいぶ違いがあるが、間違いない。これは『レーザー』だ。タマがガイノイドを証明するために放出したもの。そして──。
 光が引くと、頭部を失ったマギリストロトンがピクリとも動かなくなっていた。
 テルミの隣に駆け寄ったタマの視線も、眼前の光景に釘付けだ。
 突然の事態に、理解がついていけない。と同時に、目を覆う激しい発光の中。見てしまった『人物』の正体が、その混乱に拍車をかけているのだ。
 ──神経質で、無表情。自らの発光にも目を瞬かせないその、機能美で端整な顔。感情というものの欠落した、それでいて大人の色気をかんじさせる顔。
 まさか、まさか、まさか、まさか!
 テルミは心中、絶叫を繰り返す。
 光が消え、役目を終わらせたとばかりに手を下ろす『人物』。逡巡の欠片も無い動作で、『人物』はこちらへ足を進めてきた。
 あまりにすごい発光の後か、満月の明かりがひどく弱々しい。それでもしだいに、かつ確実に見えてくる『人物』の顔。
 間違いない。間違えようも無い。間違えようがあるはずも無い。
「な……、な、んで、おぬしが──?」
 激しく動揺しつつ、タマが必死に声を絞り出した。
「──漆間」
『人物』──漆間雫は、テルミとタマから少し離れた位置に立ち、わずかに目を細めた。
「……テルミ、タマ。貴方たちに、話がある」
 ──最終電車が、発車した。

 ◆

 桃原にメールをした。これで、第三者の邪魔な介入は無い。パチリと携帯を折り、テルミはポケットへしまった。
「とりあえず、ありがとう、漆間。助けてくれて?」
「……かまわない」
 いつもの心ない返事。
「じゃあ……どういうことか、説明してくれるかな? ……漆間」
 注視しなければ見逃してしまうほど小さく、漆間は頷いた。テルミのとなりで棒立ちになっているタマは、未だ渦巻く困惑を取り除けていないようだった。
 車道と取れないないほどの小道。敷地を分別する背丈ほどのコンクリート塀が、両側面に立ち並んでいる。小さく響く虫の鳴き声が、所在無げだった。
 田舎の深夜に人だかりができる事は無いと考えたが、あまりにすごい発光だったため、『森盛り公園』からテルミ達は場所を移動した。
 厄介ごとを避けるために──同時に、この状況をしっかりと把握するために。
「ど……どういうことなんだ、うるま? なぜおぬしが、あれを──」
『あれ』とは、おそらくマギリストロトンを絶命させた、レーザー砲のことだろう。
 それをひっくるめてという風に漆間が、
「私は、ガイノイド。人間ではない」
 どこかで聞いたことのあるそんな言葉を、吐いた。
「な……っ?」
 タマが驚愕した様子で、目を見開く。テルミも、驚きはあった。レーザーを出し、破壊の限りを尽くす『悪役』を、意図も簡単にねじ伏せる。しかも中学時代から数年にわたる付き合いならば、驚かないほうがおかしいだろう。
 それでも──胸の奥を裁縫針でチクリと刺されたような……そんな感覚が、同時にあった。欺かれていた──そんな言葉が、根源となり。
「私は、貴方たちの全てを知っていた。タマがガイノイドである事。貴方たちの関係。それによって『幸せ』を求めている事。マギリストロトン教徒に、狙われている事」
 今までテルミ達が必死に直隠しにしていた事を、事も無げに言う漆間にさらにタマの表情がこわばる。
「な……、に? 何故……? もしおぬしがガイノイドだったとしても、そんなこと、出来るはずが……!」
 分かるはずも無い。だって、タマが漆間の正体を見破れなかったのだから。
 同じ考えを、テルミは頭の中で呟く。
「遺伝子。タマの遺伝子が見えなかった」
「……遺伝子?」
 そこでテルミは思いあたった。タマはいつだか、一目で人の遺伝子を見分ける事が出来ると言った。おそらくその機能を応用し、漆間はタマの遺伝子を探ったのだろう。遺伝子などあるはずも無い、ガイノイドを。
 聞いたタマはややあって、「あ」と思い出したような声を上げた。おそらくテルミと出会い、その能力を淘汰していたのだろう。
「じ……じゃあ、漆間はもしかして、タマと同じように目を覚まし、ここへきたという事?」
 そう考えるのが自然だろう。でなければ、ガイノイドという世界認識をされてもいないような存在が、同時に二人も自分の下に現れるはずも無い。
 当然、抑揚の欠片もない動作で、首肯されるとテルミは思っていた。だが答えは返ってこず──そこで、少なからずテルミは動揺した。
 漆間が、逡巡したのだ。ほんのわずか。注視しなければ、見逃しているほどの一瞬。
「……そう」
 塀の為わずかにしか届かない月明かりを、漆間の眼鏡がきらりと映し出す。
「約五年前、私はマギリストロトン教徒の侵入により覚醒させられた。場所はアジアの南。それからは、タマと同じ。テルミを探し出し、『幸せ』になることをインプットされていた」
 普段多くを語らない漆間の饒舌は、心持か違和感があった。それでいて口調は、機械的。漆間に自分の名前を呼ばれたことすら、初めてだ。
 いや、それよりも。気になることが一つあった。漆間は今、『マギリストロトン教徒』と確かに言った。タマに分からなかった事を、漆間が知っている……?
「漆間は……マギリストロトンという教団を、詳しく知っているの?」
 タマがはっとした様子でテルミを仰ぐ。可能性の話だ。すると漆間は、
「知っている」
 事も無げに、さらっとそう言ってのけた。今度こそ、テルミは慨然とした。
 漆間は知っているという。マギリストロトンという教団の正体を、何故タマを執拗に追ってくるのかを、タマの過去につながる何かを──。どうして漆間はそんなことを知っているのか。それはおそらく、自分には分かり得ない事情だ。
 タマに至っては、目を見張って口を固く紡ぎ、言葉も出ない様子で後ずさりさえしていた。心を虜にする漆黒の瞳。その奥に見え隠れするものは、真実を知りたいと思わせる誘惑か──過酷な真相に対する蔑み、か。タマは以前、敵のことを知ろうとは思わないと言った。が、そんなはずは無い。知らなければならないのだ。
 マギリストロトンは、タマの運命を揺るがし続けた存在なのだから。
 テルミは手を伸ばし、少し躊躇した後に、タマの頭にやさしく手を乗せる。
「漆間……マギリストロトンのこと、教えてくれないか?」
 漆間は、小さく頷いた。

 キリスト教から生まれた新しい教団、それがマギリストロトン。カトリックから分離した教派は、おもにプロテスタントで統一される。しかしその教団だけは特例で、カトリックに続く第二の宗派、マギリストロトンの名前を掲げることとなった。
 特例……それは世間的に絶無と言っていいほど知られていない……否、知らされていない理由でもある。
 マギリストロトンという教派は、一片の紛れなく、邪教なのだ。
 始まりは中世。ヨーロッパで錬金術の開発が進む、その時代。
 もともと錬金術は、非キリスト教弾圧を避け、非キリスト教的な知識や行動をごまかすために行った手段の一つだった。その考えは見事的中。むしろ黄金などを精製するということで、権力者などの保護を受ける事も出来た。
 しかし時が経つにつれ、一部の錬金術師たちの考えは矛盾しつつも変わっていった。
 ──何も、そこまでキリスト教を邪険しなくてもいいのではないか?
 キリスト教と錬金術。その考えが融和したとき、マギリストロトンという教団は生まれた。土台はキリスト教。錬金術の思考も、宗教や神秘思想の趣が強くなりつつある事から、融和はさほど難しいわけではなかった。
 錬金術の最もの狭義には、科学的手段を用いて卑金属から貴金属を精錬すること。しかし広義では、貴金属に限らず様々な物質──時には人体や霊魂さえも、『完全』な存在に精錬しようという試みもあった。『完全』……つまり、不老不死。
 神に近づき、神になり、神と合一する方法とも取れる。加えて、キリスト教の絶対的神の信仰。
 自然とその教義は、自己陶酔の闇に呑まれていった。
『唯一理性のある動物、人間。地球上の生物の中で、唯一つ神に愛された存在。神は我々を愛し、我々は神を愛する。そしてその心理を理解し、認識しようとするマギリストロトン教徒は、その人間の中で、さらに愛される存在。神の喜びは、マギリストロトン教徒の喜び。マギリストロトン教徒の悲しみは、神の悲しみ。マギリストロトン教徒は、神唯一つの理解者』
 その教義を貫くためには、人を殺す事すら厭わない。何故ならば、神に愛されているのは自分で、他のものは自分より愛されていないから。
 錬金術師たちの一部から全土へと、脈動する子のように、着実にマギリストロトンが確立されていく。そんな中。人体の完全──つまり不老不死の研究が、成功した。半永久的に腐らせないようにした脳を、錬金術で精製した体に移植する手法。錬金術師が、マギリストロトン教団が開発者を賞賛し、歓喜した。しかしその時、開発者はしてはいけない開発を、同時に成功させていたのだった。
 人工的な脳の開発。錬金術による、新たなる生命の創造。
 神以外のものが生命を創造するということは、神への冒涜。教義に反する事。教徒への冒涜。殺しの対象。
 断固その生命を譲らなかった製造者は、自らの体を錬金術により不老不死にし、教団を脱走、その生命を封印した。教団の追っ手が飛び交うも、その異質なマギリストロトンという教団は衰退化し、しだいにその名を消していく事となった。
 しかしその存在は消えることは無い。信仰人数は少ないが──残った資料を基に、不老不死の力を手に入れたのだから。
 そして今も、その裏切り者の開発者と、在ってはならない存在を抹殺すべく、混沌の闇に身を捧げ続けている。
 それが、マギリストロトン。タマを必要に追いまわす、邪教の正体。

 あまりに現実離れれした話に、テルミは絶句した。タマとて同じで、目を見開いて立ち尽くしている。
「じ……じゃあ、その新しい生命……って……?」
 乾いた唇で、途切れ途切れにテルミが声を絞り出す。質問……というより、確認だった。
「タマと私。そしてその開発者が、雨貝博士」
 あくまで平坦な口調であり、それが現実味を欠落させていた。
 タマを見ると、うつむいて何も考えられないといった様子だった。無理もない。自分を殺そうとしている敵の正体を明確なものとして、目の前に差し出されたのだから。
 テルミはそんなタマに目を細めて一瞥し、漆間に向き直る。
「漆間……何故そんな大事な事を、今まで黙っていたの?」
「……私がタマやマギリストロトンのことを、最初から言わなかったのは……」
 そこで漆間の瞳がわずかに泳いだのを、テルミは見逃さなかった。
「言わない方が二人の幸せだと思ったから」
「………へ?」
 あまりに拍子抜けな答えに、テルミは頓狂声を上げた。よもやこんな場面であの漆間から、感情に物を言わせた答えが返ってくるとは夢にも思っていなかったのだ。
「じ……じゃあ何故、今頃になってそんなことを?」
「今言ったのは、私が貴方たちを心配したから」
「心配……、何で今頃、そんな………」
 そこで漆間の空気がわずかに変わった。今までに無い鋭い光が瞳に宿る。
「つい先ほど、テルミの身近にいる一人の人間が、マギリストロトン教徒だと分かった」
「…………え……?」
 今度こそ、テルミは漆間の答えを図りかねた。
 意味が分からない。自分の身近にいる人間がマギリストロトン教徒? な、何を言っている? そんなこと、あるわけ無いだろう。なぜ? なぜって、だって……だって、
『自分の身近にそんなやついるわけが無いんだから』。
 ……そうだ、そうさ。漆間は何か間違った事を言っている。間違ったことを。
 なのに何故、タマは一瞬息を呑む? 漆間は厳しい顔つきでそんなことを言う?
「テルミを狙っている。殺そうと狙っている。だから心配した。その人物の名前は──」
 どくん、とテルミの心臓が一段と高鳴った。
 嘘だ、間違いだ。漆間は間違っているんだ。でも──聞きたくない。そんなの、聞きたくない。言うな。自分の仲間にそんな奴、いるはずが──仲間? 
 テルミは激しく動揺する。体全体に落雷は奔ったようだった。
 仲間、など自分にはいないはずだ。外見上はそうだったとしても、心は許してはいない。もう二度と、母のように裏切られるのは嫌だから。……だが何故、今こんな気持ちになる?
 いや分かっている。これも分かっている。自分はもう、他人に対し信頼を築いてしまっているのだ。タマが……タマが来てから、自分はそうなってしまったのだ。
 激しく入り乱れる思考の中。漆間の口が、明確に動いた──。
 瞬間。体の自由を略奪する『何か』が、その場の空気を氷結させた。テルミの視界は一瞬ブラックアウトし、何が起こったのか分からない。殺気? ──いや、そんな陳腐なものじゃない。もっと黒く、もっと醜悪で。
「まずい」
 一言漆間がそう呟き、目をわずかに細めた次の瞬間、この空間から姿を消していた。
「……ぇ……、な、なに……? あ、あれ、漆間?」
 急な自体に、状況が掴めない。視線をタマに移すと、逃げ惑う野生中のような瞳をあちこちに配らせていた。
「タ……タマ?」
「おそらく」
 先ほどの悄然とした様をかなぐり捨てたタマが、目先の事に全神経を集中している。
「漆間の言うマギリストロトン教徒が、今こちらを盗み見ていた」
 ゾクッと、テルミは体と思考を凍らせる。見ていた。見られていた。
 嘘だ、そんな奴いるはずがない、そんな。
 テルミの思考は未だ、その辺りを彷徨っていた。
『仲間』が、自分を殺すはずが無い。裏切るはずが無い。だって、だってそうだとしたら、それはまるで──!
「テルミ、家に戻ろうぞよ。……ここにいても、意味が無い」
 タマの声は、テルミの耳には届かなかった。

 ◆

 静まり返った田舎の、乱雑に舗装された路面をひたすらに漆間は駆けていた。そのスピードは、鈍行列車に引けを取らない。すぐに追いつけると思われたが、数十メートル前を行く人影も、ほぼ同じかそれ以上のスピードを出していた。
「誘っているのか……?」
 漆間にしては珍しい、問うわけでもない独り言を漏らした。先ほどから一定の間隔を保ったまま、振り切る事も無い。それが誘っているように、漆間には思えたのだ。
 暗視用の眼球に変化させ、漆間は視界をより明瞭にさせる。
 間違いない。マギリストロトン教団に身を売った、その『人物』に。
 存在を知られた『奴』は、おそらく今日を境に行動を始める。テルミとタマを殺すという、その行動を。だから、止めなければならない。
 漆間の白くなびやかな指先が、自然と拳を作る。こんな気持ちは、初めてかもしれない。今まであくまで客観的に状況を見守っていた。しかし現在、胸の奥が煮えたぎり、どうにも出来ない感情がわき上がる。自分は、テルミとタマを案じているのだ。
 まさか自分がこんな感情に突き動かされるとは、漆間は思いもしなかった。だから──先ほど、とっさに『嘘』というものをついてしまったのだろう。自分も、タマと同じく『幸せ』を望むために起動させられた、という。
 自分はテルミとタマの接触を感知、またはその身を守る護衛役として、後々創られたというのに。漆間はそうして、自分の心に確固たる意思を築く。
 だからその『使命』を全うするために。自分は、彼らを守らなければならない。
 ずっと続くかと思われたいたちごっこは、思いのほかすぐ終わりを告げた。五分ほど走り、たどり着いた場所は……臍山の、頂上付近だった。わりと木々が少なく、柔らかな傾斜が続く。
「貴方がマギリストロトン教徒だと知ったときは、驚いた。でも、彼らの命に変えることは出来ない。それが、私の『使命』だから。だから私は、貴方を殺す」
 漆間が相変わらず、張ったピアノ線のような口調で言う。
 息一つ乱していない人影が、空に浮かぶ満月と直線状につながる。人影の上で光を放つ月が、目を潜めるほど嫌々しく、神々しくあった。
 その人影はしばらくその月に見入っているようだったが、やがて顔を落とし、ゆっくりと首を回した。月明かりの逆行で黒く輝く表情は、紛れも無い邪悪な笑みだった。
 漆間は腰をすえて、戦闘態勢に入る。するとその人影は、ふいに腰から何かを引き抜いた。同時、シュウ……ンという、何かがすれるような音がした後に、紅く輝きを放つ。
 漆間は眉をひそめた。先ほどのも含め、襲ってきたマギリストロトンと何度か交戦したことがあるが、あんな武器ははじめてみた。
 ただの短剣か、それとも何か別の能力があるのか……? と、漆間が考えをめぐらせた、その瞬間。
「──え?」
 柄にも無く、状況把握が出来なかったときのそんな声を、漆間は上げていた。
 銀に輝く月が、鮮やかな赤で侵される。指先の感覚が、なくなる。
 血を模した冷却ジェルが、二の腕の向こう側と一緒に、夜空を舞った。
 いつの間にか漆間の後ろに回りこんでいた人影が、肩越しに振り返る。月明かりに照らされたその顔は、さらに深い、冷酷で残忍な笑みが浮いていた。
「──『冒涜者への報い(バリスタ)』」
 漆間の胸元が、大きく抉られた。

 ◆

「──昨日早朝五時ごろ、長井橋の土手にて、野良犬と思われる犬の死体が三体見つかりました。いずれも刃物で切りつけられた跡が見え、一ヶ月ほど前にも同じような事件が起こったことから、警視庁ではその関連性を調べると同時に、地域住民の目撃情報を下に犯人の特定をしていく方針です。また、」
 プツリと音を立て、冷淡な女アナウンサーの声が失せた。気を紛らわそうとつけたテレビなのに、それが惨殺のようなニュースならば意味も無い話だ。どだい、この状況をテレビで解決しようとすること自体が、無理な話だった。
 一つ息を漏らしたテルミは、ダイニングのテーブルについているタマに視線を向けた。ぽつんと椅子に座っている体は小さく、触れれば崩れてしまいそうなほどだ。タマだけではない。テルミもまた、心身ともにぼろぼろだった。
 テルミも同じく腰をかける。時を刻む針の音が、いやに大きく部屋に響いた。
 家に帰り着いたテルミとタマだが、当然そのまま寝付けるはずも無い。ただ座り、沈黙するほか無かった。……どうしようもなく締まってくる心を胸に。
 ヒュッと息を吸う音が聞こえ、
「うるまが言っていた……」
 タマが呟く。ピクリ、とテルミの肩がわずかに揺れる。
「『裏切り者』……とは、一体……」
 そう、その事だ。こればかりは、ごまかそうとしても無駄だ。自分は、その事で今苦しんでいる。でも自分には、そんな奴がいるようには思えなくて仕方がないのだ。
 夏休みの前の自分ならば、『仕方がない』の一言で片付ける事ができただろうに。
 ふとテルミは、視線を上げた。タマも同じように落ち込んでいる……のだが、その暗い表情に含まれているのは──迷い、だろうか。
「タマ……どうかした?」
「……もしかすると…………」
 タマがそこで間を空け、逡巡するように目を細める。目を背けつつ、言った。
「司教……かもしれんぞよ」
 コンクリートブロックで思いっきり後頭部を殴られたような、つんのめる衝撃がテルミの脳を襲った。
「……ぇ…………?」
「まろは一度、テルミを迎えにいったときに司教を見たことがあるぞよ。その時、何か……普通のヒトには感じない何かを、まろは感じたんだて」
 そこでテルミの眼球裏に、ある記憶の断片が投射される。自分を見送ってくれた司教へタマが向ける、触れるもの全てを惨殺するような殺意に満ちた眼差しを。
「最も可能性が高いのは……、ッ、言いたくはないが……」
 反論することも出来ず。テルミの頭の中は、あまりの衝撃に底が抜けていた。
「なに、を……、ぃ……って……?」
 さながら末期癌申告を受けた患者のようなテルミに、堪えきれなくなったのか、タマが苦々しくも切り口上に言い放つ。
「まろは、実は司教が、マギリストロトン教徒ではないかと、言っておるのだ、テルミ」
 いたわるような表情に、同情じみた視線、口調。自分のことを被害者だと言う。
 胸元に膨らんだ行き場の無い怒りが、その一瞬だけテルミの頭を揺るがした。
「──そんなわけ、あるはずがないだろうっ!」
 湧き上がった感情をそのままに、テルミは叫び散らしていた。タマがビクリと肩を震わせる。しまったと思うも、遅い。歯止めは掛からず、怒りは加速する。
 全てが理不尽だ。来てから一ヶ月も経っていないタマに、よりにもよって信頼する司教様を否定されるのも。再びこんな目に合う、自分も。運命を定めた、神様も。
「何を言っている? 司教様に限って、そんなことあるわけが無いだろう! 急に、何を言って……! 大体、」
 不意に、そこで止まった。今度はテルミが、ヒュッと息を吸い込む。テルミは思い出したのだ。そう、彼は見ていた。
 ──漆間が冷たい視線で、司教を睨んでいた事を。
 激しい動揺が足元を殴りつけた。肺がうまく酸素を取り込まない。眼球が揺れる。
 何で、嘘だ。そんなの嘘だ。二度とあんな思いはしたくない。裏切られたくないのに。
 足が崩れる。腰が砕ける。脳が熱い。手足の感覚が、無くなる。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。そんなの……イヤだぁ……ッ!
「あぁ、ッ、あ、あぁあ……っ!」
 息切れがする。寒い。体が闇へ引きずり込まれていく。
「テルミ……だ、大丈夫か……?」
 タマが気遣って声をかけてくる。数えるほどの日数しか紡がれてはいないが、タマとてテルミと同じような苦しみを抱いているはず。それでもテルミを案じ、心配の言葉をかけているのだ。だがそれは、現在のテルミにとって怨めしい存在の他ならなかった。
 何故他ならない司教が? そんな考えばかりが頭を駆け巡る。司教様だけは間違いないと信頼していたのに。何故いつも、信頼するものが自分の下からいなくなる。僕は何も悪い事はしていないのに、間違っている、マチガッテイル!
 タマが揺れるテルミを覗き込んだ、次の瞬間。
 カーテンを開けっ放しにしていた窓際から、光が滑り込んだ。二人は、弾けるように視線を向けた。闇夜と地上をつなぐ、一筋の光の柱。それはほんの数秒存在を誇示し、薄く消えていく。間違いない、レーザーだ。その方向は──。
 はっとした様子でタマは、凄惨な顔をテルミに向ける。同じく光を認め、タマと視線があったテルミは……潤んだ瞳をそのままに、呆然と顔をそむけた。
「テルミ……」
 小さく響いた声が、耳に痛かった。つかの間の沈黙が、場を支配する。
 やがて、不意にタマが体を反転させた。向かう先は、先ほど通ったばかりの玄関。脳裏に嫌な予感が迸り、テルミは決然としたタマの背に震える声を叩きつけた。
「タマ、どこへいくの」
「……まろは、敵がどんな輩だったとしても、放っておくつもりは無いぞよ」
 ピタリと立ち止まったタマが言い、テルミの眉が苛立ちを孕んで翳る。
「でもそれは決して、自分が危ないからや、ヒーローのように無駄な正義感などではないぞよ。テルミ、おぬしが危ないからだ。まろは絶対に、おぬしを失いたくは無い。例えその敵が──テルミの最も信頼する輩であり、殺す事になろうともな」
 そう言いつつ振り返ったタマは──いつもの陽気な笑みで、はにかんだ。予想外の表情に肩すかしを食らったテルミは、ぽかんと口を開ける。気づいたときには、タマの姿は玄関に続くドアの向こうへと消えていた。
「………………」
 しばらく呆然としていたテルミは、ゆるゆると視線を窓の向こう側へやった。
 複雑に絡み合う事実や心が、迷宮として旨に息づく。
 テルミは信頼するものを失いたくは無い。タマもそれは同じで、そのために彼女は行動する。それによってテルミが傷つく事になろうとも、自分の大切なものを失わないために。失いたく無いという思い、失ったときの辛さを知るテルミは、だがそれを止める権利はあるのだろうか。テルミは自問し、自答は出来なかった。でも一つ、判る事がある。
 自分はそれを知り、とてもうれしかった。
 その気持ちに、偽りは無い。ならばその気持ちが創る導を踏んでも良いのではないか。自分が望む相手よりも、自分を望んでくれる相手を受け入れても──?
 答えの出ない迷宮にテルミが煩悩していると、にわかに玄関が騒がしくなった。ぼうっとする頭で入り口を窺うと、全く予想外だった人物が転がり込んできた。
「テルミン、テルミン! やばい、外がなんか光った! マジ、空に一直線の光が奔ったんだよッ! これはもしかしなくても、『ファーフル・プラネット』かもしれんっ! は、はやく外に出かけるぞ! 第二波がくるかもしれんからなッ!」
 カメラ片手に、しかも帽子付きの寝巻き姿。そのデザイン性豊かな眼鏡に、特有のあだ名の呼び方。転がって歯を光らせているのは、紛れも無く安河内だった。


 自販機から盗ったジュースを一気に飲み干しつつ、タマは満月の夜をひた走っていた。こんなときにジュースというのも不謹慎だが、先の戦闘で電力が残りわずかになってしまったのだ。タマの動力源である燃料電池は、水素分子と酸素分子を結びつけてその時に起こる力を利用し、電力を取る。水素を得るためには媒介となるものが必要なため、致し方ない行動なのだ。ましてや今から向かう所を考えれば、なおさらである。
 教会。正確には、その隣の平屋。そちらの方向に窺えたレーザーが、決定打だった。
 テルミには悪いと思う。でもタマは、それ以上にテルミに危険が及ぶのが嫌だった。……いや、自分がテルミを失うのが怖かったのだ。これが『恐怖』。ヒトの、感情。なんとも痛烈で、胸に痛い。司教が──殺す相手に面識が無い事が、タマにとって不幸中の幸いだった。汚い考えだが、マギリストロトンに情を移したら、確実にやられる。
 じめじめした空気を身に浴びて、うろおぼえの道をひた走る。臍山を通り過ぎ、少し道に迷ったあたりでようやくたどり着いた。
「音の断絶はされていない……ぞよ」
 満月を背に立ち塞がる荘厳の建物を見上げつつ、タマがぼやいた。続いて平屋に目を移す。こんな時間なのに、部屋の一室の窓からわずかな光が漏れていた。ピンと全身の感覚を研ぎ澄まし、警戒網を張り巡らせる。ゆっくりとタマは平屋に近づいた。
 壁に耳を当てるが、物音はしない。漆間が追ったのに、これはどういうことか。考えたくも無い嫌な予感がし、すぐに心を決めた。
 自分が、自分がやらなければ。テルミが殺されてしまうかもしれないのだ……!
 音を立てないように玄関を開けて中に入ると、自分と共に生暖かい空気が滑り込んだ。ピリピリと、緊張で肌が傷む。手に汗を握る事は無いが、まさにそのような感じだった。
 軋む床に気をつけ。光のもれるそのドアを、勢いよくこじ開けた。
「…………!」
 そしてそのまま、タマは硬直した。決して、驚いたからではない。
「ん? ……あれ、どちらさんかな?」
 声を上げたのは、部屋の隅のデスクで、パソコンと睨めっこをしていた人物。──司教だった。蛍光灯の目を覆う光に照らされるのは、値高そうな赤と青の絨毯。アンティークを思わせる戸棚などの家具類に並ぶ、数百冊の資料。子供からのプレゼントなのか、小さなぬいぐるみやおもちゃなどが綺麗に立ち並ぶ。部屋の壁には十字架もあった。
 特に何の変哲も無い、子供好きの司教が佇む、書斎。
 予想していたものとあまりにくい違いを見せた場景に、しばしタマは自失した。
「……ああ、もしかして、君がテルミ君や漆間ちゃんの言う、タマちゃんかな?」
 突然語ってもいない相手に名前を呼ばれ、タマは、
「え? う……む……?」
 反射的にも答えてしまった。しまったと思い、二の句を継ごうとしたタマにかぶせ、
「おお、やっぱり。さ、立ってないでこっちにおいで。そこのソファに座ってなさい」
「あぅ……し、しかし……!」
「いいからいいから、遠慮しないで」
 とても初対面とは思えない対応をみせた。子供から人気のある司教というのも、タマはなんとなく納得する。それはともかく、『やっぱり』とはどういうことだろうか?
「じゃあ、ちょっと待っててね。今、冷たいもの持ってくるから」
 司教はやさしく顔をほころばし、ゆったりと部屋を後にしようとする。すれ違うときにタマは激しく警戒をしたが、特に何が起こるわけでもなかった。拍子抜けだ。
 一応のため、部屋の隅という隅を探ってみたが何も無く、漆間がどこかに閉じ込められているわけでもない。今の司教におかしな所や雰囲気もなかった。数日前司教に対し感じた違和感も、本当にそうだったのかタマには疑わしくなってくる。
 壮大な獲物だと思い釣り上げたものが長靴だったときのような、そんな感じ。
 黒い革張りのソファにぽつんと腰を下ろし、タマは自分のひざに視線を落とした。
「──どういうことだ……?」
 もし司教がマギリストロトンで無いならば、考えたくも無いがそれは一体? 先ほど見えたレーザーの余韻が全く無いのは何故? 一体どこから? もし漆間がそいつにやられてしまったのならば?
 考えても、タマには答えが出てこない。ただ急に浮上してくる感情がある。じわじわと染み出してくる、焦燥感。
 もし自分がそいつの立場なら……存在を知られたため、一刻も早く行動を移すはず。
 そして、テルミは今、家に一人。
 胸を食い荒らす焦りを紛らわすように、タマはあたふたと改めて回りを見回す。漆間はいない。変わったところは無い。何も、無い。
 タマは小さな手をぎゅっと結んだ。もしかすると自分は──とんでもない間違いをしてしまったのかもしれない。


「ちょっと安河内……どこ行くんだよ」
「は? そんなの臍山に決まってんじゃん。ここらで一番高いところっつったら、あそこ以外考えられねぇ。今度あの光が奔ったら、臍山のてっぺんから激写しまくるっていう寸法よ。この古き良き時代のファルムカメラでなっ!」
 叫び返しつつ強引に手を引いていく安河内に、テルミは嘆息した。
 どうやら、漆間が発射したレーザーとファーフル・プラネットを、安河内は勘違いしているらしい。挙句外に連れ出される始末だが……光の正体を言うわけにもいかないのだ。
 しかしとても今、そんな気分であるはずがない。もしかすると臍山の向こう、教会の広場で死闘が繰り広げられているかもしれないのだ。それも、タマと漆間と司教が。
 どんな理由があろうとも、司教は司教だ。過去の自分が崩れなかったのも、現在の自分が存在しているのも。だからこそ、辛い。今まで積み上げてきたものが全て偽りで、吹き上げる風でむなしく霧散してしまったように。
 ──嘘偽りなく、理屈を省き、自分はどうしたいのかという気持ちが全てだと、私は思う。
 以前司教に言われた言葉が耳に蘇り、それが悪戯に胸を刺した。司教が殺される。信頼していたものがまた一人いなくなる。……裏切られる。
 堪れなくなり、テルミは顔を歪めて、安河内の背中から視線を外した。満天の星空や月明かり、吹き付ける生暖かい風、安河内の手の暖かさが無ければ、自分は自分を見失っていたかもしれない。
 視線を周りにやったため、そこでテルミはふと気づく。臍山に行く道を、遠回りしているような気がするのだ。あまり通らない道が、夜のため見知らぬ土地のように感じる。
「……安河内、どこ行くの。臍山なら、さっきの道を曲がった方が早いよ?」
「あ? いいのいいの、こっちの方が良く見えるからさ」
 そう言って安河内はさらに足を早めた。臍山が見え、安物のサンダルで、開けた道を勢いよく駆け上がっていく。不意に、ある違和感にとらわれた。
 いつもの安河内ならば、テルミを連れ出す前に自分だけで行くはずだ。その後で電話でもすればいい。手を握るというのも、どうか。なにより──安河内の家から自分の家までは、どんなに走っても十五分はかかる距離のはず。発光があり、安河内がテルミの家へ訪れた時間は……およそ五分。
「安河内、疲れた。手を離してってば」
「後ちょっとで頂上だから、そんくらい我慢しろって」
 嫌な予感が、掴まれた手首から侵食されるように広がっていく。その温かさが今は不吉な宣告に、テルミには思えた。息が上がる、心臓が高鳴る。足が痛い。
「ちょ、……ッと、安河内っ! いい加減にしろってば!」
 ほぼ頂上という所で、力に任せて安河内の腕を振り解いた。
「お前おかしいって、何なんだよ一体!」
 ここら一帯には、木が少なくだいぶ平らだ。叫びが響き、夜空に吸い込まれた。
「あぁ、クソ、ダメだな。いい加減、ムカついてきた」
 安河内は振り返り、見下ろす形となってテルミに苛立ちのこもった視線を投げかける。
「実はなぁ……テルミン。俺は──」
 次の瞬間起こった出来事を、テルミは理解する事が出来なかった。


「ど……どうしたのかな、タマちゃん?」
「…………」
 タマはまじまじと司教を凝視する。両手にオレンジジュースを抱えた司教は、訳が分からずたじたじといった様子だ。
「……やはり、違うのか……!」
 苦々しげに呟いて、タマは扇子を持つ手に力を入れた。司教には何も感じられない。自分の勘違いだった。だとすると、今テルミを一人にさせておくのは非常にまずい。
「司教! まろは重要な用事を思い出したぞよ! だから、これにて失礼するっ!」
「え、……えぇ? ちょ、ちょっと待ちなさいってば!」
 オレンジジュースをテーブルに置いた司教は、それきり行ってしまおうとするタマの手首を掴んで引き止めた。
「なにをする、手を離せ!」
「なんだか分からないけど、落ち着いたほうが良い。今の君は……なんだか、怖い」
「そんなの関係あるものかっ! 早う、早うせねばテルミがッ!」
 タマの中で、すでにテルミという存在は確立されている。例え敵が国家単位だとしても、全人類と天秤をかけてでも、タマはテルミの方に付くだろう。
 テルミは、自分の世界を変えた大切な人だから。
「まろは、絶対にテルミは失いたくは無いっ!」
 激しくい肩で息をつくタマは、何者も近寄らせない残忍なまでの殺気があった。しかし司教はひるむ様子はない。むしろ今のタマの一言で、さらに心が地についたようだった。
「……私はあえて、その事には首を突っ込むことは、……しない。……、君がそれを望んでいないようだから。でもね、タマちゃん。今の君じゃ、おそらく何も解決できない」
 司教の声は冷淡で、それでいて親が子をなだめるように穏やかで。
「だから、落ち着いたほうがいい。タマちゃん」
 タマは鋭く息を吸い、
「……、……ッ」
 ……喉で詰めて、ゆっくりと吐いた。瞼を下ろし、しばらくそうしていると、体を包み込んでいた熱気が取れた。瞼を上げると、すっと視野が広がる。
「む……すまんぞよ。司教殿」
 気恥ずかしそうに言うタマに、司教が微笑んで見せた。
「それから、タマちゃんに言わなくちゃならないことがあるんだよね」
「む……言わなくちゃいけないこと?」
「うん。伝言なんだけどね、それがあるからこんな時間にタマちゃんが来ても驚かなかったんだよ。タマちゃんがおそらく来るって言われていたからね。漆間ちゃんなんだけど、知っているよね? ついさっき、連絡があったんだよ」
 ドクン、とあるはずも無い心臓が、大きく跳ね上がったように、タマは感じた。
「それは……! それは、一体なんとなっ?」
 先ほど連絡があった、漆間の伝言。考えるまでも無い。漆間が言いそびれた、マギリストロトン教徒の正体。漆間は自分の行動を予測していた。そして手がかりを残してくれた。
「えーと、何だったかな。まず、タマちゃんが今日の深夜、突然ここを訪れるかもしれない、という事。後一つは──何かの遊びなのかな?」
 そして司教は、言った。

「『ユダ』は、桃原鏡子」


「クソが。いい気になって、ベラベラと……。ま、いいわよ。安河内、あんたはまた後で殺してあげるから」
 木の影を踏みつけて立つ人影が、吐き捨てた。その足元にはつい今まで自分と話していた人物──安河内が倒れている。うつぶせに倒れ、意識を失っていた。
 どういうことか。雑草の生い茂る地面に倒れ伏す安河内を見つめつつ、テルミは呆然と思った。安河内は、ついさっきこう言った。
「実はなぁ……テルミン。俺は、こんな事自分の意思でやってるわけじゃないんだぜ? 嫌々ながら……の命令でやってんだ。友常と一緒に今から超特急でテルミを臍山に連れて来いってさ。マジ、わけわかんねぇよ。自分でいけよって言っても、それじゃ駄目だって言うし。大きな光を出すから、それを理由にすればいいとかいいがやって。……のやつ、どういうつもりだ? あぁ、マジムカついてきた、何なんだよ、一体。ドッキリか? だとしたらいい気味だぜ、先にテルミンにネタバレしてやったぜ、ハハ──」
 そして言葉半ばに、安河内は倒れた。唐突に。前兆も見せずに。
 同時、入れ替わりで隣に現れた人物。フリル付きのお茶目な服に包まれた、曲線を描く柔らかな体。幼さの抜けきれていない雰囲気。……印象的な、ツインテール。
「ね、テルミ君もそう思うでしょ? 前々から本気でイライラしてたんだよね、凡愚以下のこの糞野郎に」
 その風貌に似つかわしくない、荒々しく躾の知らない口調。暗闇から出てきた人物、それは──
「もも……はら……?」
 ミルク色に輝くその肌に赤い液体を貼り付けた、桃原鏡子だった。
「さぁ、ちょっと予定外で急になったけど、しょうがないよね。おままごとは終わり、絶望して殺されてくれるかな、テルミ君?」
 普段どおり上がり調子のその口調に、まるで言葉の意味がかみ合っていない。
 テルミは、何も感じる事が出来ない。恐怖も、戸惑いも、理解も、怒りも。ただ意味が分からない。何故安河内が倒れているのか、桃原がここにいるのか、そんな言葉を吐くのか──。テルミには、理解出来なかった。
「ぇ……、も、ももはら……? ど……どうしてこんな所に……え? き、今日はいけないって……メ、メールしたよね……?」
「えぇ? 何、もしかしてまだ判ってないの? テルミ君はそんなに鈍感なはずないんだけどなぁ。だから、私がマギリストロトン教徒なの。漆間が追っていった、盗み聞きしていたハンニン」
 横殴りの衝撃が脳を襲った。桃腹の言葉は理解できる。しかしそれはあくまで『言葉の意味』であり、本質的なそれではない。それにマギリストロトン教徒は、司教のはずではなかったのか。そもそも何故桃腹がその事を……ハンニンだから?
「うーん、もう。理解が遅いなぁ。私はずっと、テルミ君を愛して愛して、殺す事だけを考えて今まで接してきたっていうのに」
 そんな……そんなはずはない。困惑されるテルミの頭の中で、今までの桃腹の姿が弾けては消える。優しい桃腹が。虚勢は張っても、心は傷つきやすい桃腹が。愛らしい笑みを見せるあの桃腹が──そんなことあるはずが無い!
「あぁ……もういいよ。しょうがないな、最後の隠し玉だったんだけど……、ほら、これで信じてくれるよね?」
 すると桃腹は、赤い斑点の散った幼さの残る指先で、ちょいと斜め上を指差した。テルミがなされるがままで顔動かすと──友常が、安河内同様気を失っていた。木の幹に背を預け、まるで眠っているかのように。
 絶句するテルミをチャンスだと思ったのか、桃腹がさらに畳み掛ける。「ほら」と言って、傍らから取り出されたもの。それは、腕だった。二の腕半ばで断ち切られ、赤色の液体を撒き散らす、見る者の胃を激しくかき回す代物。
 さらに自分はそれを、見たことがある。つい先ほど、そのすらりとしたなびやかな腕を。
 手榴弾が耳元で炸裂したかのような、世界が揺らぐ衝撃が脳を殴打した。間違いない、漆間の右腕! 間違いない、本物の桃腹! 間違いない、この状況の危険度! 腰がノコギリで砕かれたように、力なくぺたりとテルミは尻餅をついた。
 心臓が高鳴り、悲鳴を上げる。全神経が緊張し、動かない。体中から、変な液体が流れ出てくる。混乱と恐怖の極致。
「な、なんだよ……! な……んで桃腹が、ど、どういうことだよ、一体! 漆間は……、漆間はどうしたんだっ!」
 自分の体を取り戻すように、桃腹を威嚇するように、テルミが吼える。しかし桃腹は、
「あぁ、いいよ、その表情……! ぁ、たまらないっ! ッ、に、二年の時を費やしてきた甲斐があるよ、テルミ君……!」
 肉食獣が獲物を前にしたときのような、恍惚とした表情を浮かべる。
「あぁ、ッ、いけない、落ち着かないと……! ……、……漆間は、別の所。テルミ君、今の漆間見るとたぶん気絶しちゃうから。そんなことより──テルミ君。私はね、殺人快楽者なの。命を潰すのが楽しくて、殺しちゃうのが快楽で、これ異常ない幸せなの。自分が存在しているって確かめられる、唯一の瞬間なの」
 ざわりと一瞬にして肌が粟立ち慄くのを、テルミは感じた。本能的な拒絶反応。
「しかも私ね、変人さんなの。普通に命を潰すのも好きだけど──何よりも、絶望の淵に立たされた人間を殺すのが大好きな変人さんなんだ。だから私は早くテルミ君に、絶望してもらいたい。私はテルミ君を踏み躙ったのよ? 裏切ったのよ?」
 不意に空気が冷たくなった。指先が震える。息が上がってくる。なんだ、なんだ──。
「フフ……やあっぱり。テルミ君は私に、信頼を築いてたんだ。いや、築かされた、という方が正しいかな? タマちゃん──ガイノイドのあの子が来てから、テルミ君は変わったもんね」
 テルミは驚く。何故その事を、桃腹が知っているのか。
「もちろん知ってたよ、最初から。初めは本当に驚いたけどね。マギリストロトン教団の追っている子が、偶然にも目の前に現れたんだから。……でも感謝してよ? 私は教団にその事は報告せず、その上でテルミ君とタマちゃんを同居させたんだから」
「…………!?」
「私がどんな親密に接しても、テルミ君は全然心を開いてくれなかった。心に付け入る隙がなかったんだよね。二年だよ、二年。我慢できなくなって、野良犬とかもいっぱい殺したなぁ……。状況は変わらないし、仕方ないからテルミ君をそろそろ殺そうと思ってたんだよ。……でもその時に、タマちゃんが来たんだよね」
 いつの間にか桃腹の掌に現れたナイフが弄ばれ、月明かりを煌かせてその軌跡を残す。
「それで、最後の賭けだと思ってタマちゃんをテルミ君の傍においてみたら……なんか簡単に、テルミ君変わってくれちゃったんだよね。タマちゃんを初め、テルミ君はテルミ君が気づかないうちに同好会のみんなと距離を近くして、信頼してくれるようになって。おかげで、テルミ君が唯一信頼していた司教様を殺さなくてもすんだんだよ」
「…………!」
 じり、と桃腹がわずかに足を動かす。震えるテルミの体は、言うことを聞かない。
「だからさっきマギリストロトン教徒がテルミ君を殺そうとした時、本当に心配したんだよ? 漆間が現れなかったら、私が影から殺してた。テルミ君を他の奴に殺されたりなんかしたら、せっかくの二年間が無駄になっちゃう。漆間が私の正体を言おうとしたときも、慌てて殺気飛ばしてよかったぁ。自分の口から言えないなんて、意味無いもの」
「ッ……、な……んで、僕を……っ!」
 テルミは必死に声帯を動かし、鈍く光るナイフを通して見つめる桃腹を、押せば潰されるほどの瞳で見つめ返す。まさに蛇に見込まれた蛙の図だった。
「何で……かぁ。うーん。私はね、テルミ君。本当に貴方の事が好きだったんだよね? 私とテルミ君は似た者同士だから」
 そこで桃腹は、指を差す代わりにナイフでそれをし、茶目っ気に満ちた笑みを鮮血が飛んだ顔に浮かべる。
「テルミ君、父親殺したんでしょ?」
 世界が揺れた。一瞬、意識が飛んだのではないかと、テルミは思った。禁断の施錠が砕かれ、過去の映像が次々と溢れ、理性を裂き殺していく。
「人の良い司教が、テルミ君のことを想った上で同好会のみんなに教えてくれたの。ま、その前からから私は知ったんだけド。それでね、テルミ君。実はね、私もぉ……殺したんだ」
 それは無邪気に。同時に、その裏に見え隠れするのは、それがゆえの悪鬼か。
「自分の両親や妹を、殺したの。それから、私は命を蹂躙する楽しさを知ったの。肉親を殺したもの同士。ねっ、似たもの同士でしょ? 何故テルミ君が、そこからこの楽しみを見つけられなかったのかは分からないけど」
 いつの間にか『あの状態』が、テルミの体を支配していた。
 呼吸がままならなくなった肺を皮膚の上から掻き、心拍は天を突いて地を抉る。体は重力下にいる感覚はなくて酷く寒く、圧倒的な恐怖が脳を支配する。体中から変な液体が沸き出し、拒絶反応に体が痙攣していた。それでいて、邪気を放ち続ける桃腹の存在はきえない。
「フフ……だから私はね、テルミ君にあるトラウマを知って、これ以上ない快感を得るチャンスを見つけたってわけなの」
 その邪気の塊はナイフをドスッと木に衝きたて、恍惚の表情をテルミに向ける。
 いつの間にか、信頼し、仲間だとテルミは思っていた。桃腹を、他のみんなを。自分はその直前で踏み止まっていたつもりでも、すでに後戻りは出来ない状態だった。認めたくない……でも、望んでいる自分もいた。何より、もうそうなってしまっている。みんなを──桃腹を仲間だと、信頼できる相手だと思ってしまっている。
 裏切られるとも知らずに。だが塵芥のようにいとも簡単に。テルミは、踏み躙られた。
 母さん、母さん、母さん母さん母さん母さん──。
「トラウマを再現してあげるよぅ──テルミ君♪」
 ぷちっと。テルミは、押し潰された。
「──ぁあァ……! ゥあああぁぁああ……ッ! ヴァあッ! ッフ、アアアアア!」
「あはっ! あははははっ! ソウ、それよ、それッ! 私が待ち望んでいた感情! ゴッ、この快楽! あははっは、はははっはああッ! もっと、もって苦しんで、テルミ君、ッ! そして私が楽にしてあげる、グッ、殺してあげるからぁ!」
 テルミ体は、指一本すでに動かない。無造作に横たわり、意味の無い涙を流すだけ。
 怖い──でもそれ以上に……テルミは疲れていた。何がなんだか分からない。理解が理性を越え、状況が本能を嬲り殺している。助けて……ほしいのだろうか。周りは闇。目の前には瘴気の奔流を吐き出し続ける死の化身。
「ウゥ、クイタイクイタイクイタイクイタイ! コロシタイコロシタイコロシタイ! あぁ、でももったいない、くるしいくるしい! ──でも、コロス。キャハッ!」
 短くもそう判断した桃腹が、木の鞘から抜いたナイフをなびやかに煌かせる。口角の裂けた髑髏のような笑みを浮かべ、テルミの目玉めがけて勢い良く振り下ろした。
 ──もう……分からないよ、母さん………タマ。


 甲高い金属音が、鼓膜を衝いた。砕けた金属の破片が舞い、星星と同化する。
「あぁ、あぁ………!」
 テルミを仕留められず柄だけになった得物を眺め、うっとりするような吐息を桃腹が漏らす。嘗め回すように瞳が動いた先には──
「タマちゃん……。早かったんだね」
 夜気よりも深い漆黒に身を包んだタマが、扇子を逆手に持ちそこに立っていた。顎を引くと滑らかなおかっぱと共に、皮肉にもかわいらしい髪飾りが艶めく。
「くッ……! 何故おぬしが、モモ……!」
 黒の瞳は爛々と輝いている。その口調は苦々しかった。
 漆間の片腕、安河内、友常、すでに虫の息のテルミを見──さらにタマの顔はきつく歪む。胸を掻き毟りたくなるほどのやりきれない想いが、タマの中で息づいた。それがヒトにとってどのような感情なのか、詮索する隙も今の彼女には無い。
「モモ! 何故おぬしが、マギリストロトン教徒なんぞに……テルミを殺そうとする!」
「そんなの決まってるよ。あの教団の教義はとても私に合ってるの思うのよね。探し出すまでは大変だったけど、殺すには色々と便利だしね」
 屈託の無いいつもの桃腹に、タマの胸が締め付けられる。
「それに、そんなに重く考えなくてもいいよ。タマちゃんだって、蝉とか殺した事あるでしょ? 所詮はその延長線だよ、人を殺すっていっても」
 明らかに、桃腹は壊れている。その意見は的を射ているようで、的を射る矢を装填さえされていない。間違いなく危険な思想、行動。……それでもタマは、どうしても割り切る事が出来ない。女の子の色んな楽しみを教えてくれた桃腹を。偏見も無しに初めてのプレゼントをくれた桃腹を。初めて出来た、大好きな仲間を──。例えマギリストロトン教徒だとしても、テルミを殺そうとしていたとしても、桃腹は桃腹なのだ。
「まろは……、ッ、モモを、殺したくなど無い……ッ!」
「あァ……その表情もいいね。……別にそんなに深く考える事でもないよ、タマちゃん。殺さなくても、戦って勝てばそれでいいことだし?」
「まろは、戦うのも嫌いだっ!」
 正直な所、タマは戦う自分に畏縮していた。殺したいと願ってタガが外れるたび、自分が人の皮を被ったバケモノのように感じられるのだ。テルミと出会い、より人に憧れを抱くようになってから……殺気に支配されることを、自分は拒み続けている。
「私は命を潰すのは好きだけど、それと同じくらいに戦うのも好きなんだよね。よかったね、タマちゃん。私が戦い、嫌いじゃなくて。……これ、なんだか分かる?」
 やれやれとばかりに息をついた桃腹は、ナイフの柄と取って代えた物を、月明かりの光に照らす。きらりと光を放ったそれは──
「まろと同じ……テルミの、髪飾り……?」
「そう。私がやったんだよね、これ」
 パキン、と。呆気も無い音をたて、一瞬でその髪飾りは過去の産物と化した。
 重力に従い煌きつつ四散する髪飾りを、タマは唖然として看取る。
「私が戦いを嫌っていたら、もうテルミ君死んでるところだよ。どうしてもタマちゃんが戦いたくないっていうのなら、残念だけど、無理しなくてもいいよ? 結果は同じだし……。どうする? このまま戦わないで楽になるか、戦って手足を切断された後に、目の前でテルミ君が殺されるのを見るか?」
 自分は、桃腹を殺すのが嫌だ。でもそれ以上に、テルミを殺されるのはもっと嫌だ。
「もう……どうにもならんのか……?」
「どうにもっていうか、これが普通だよ?」
 ──テルミは自分をかくまってくれた。自分を包み込んでくれた。自分を人間のように扱ってくれた。テルミが殺されなどして、いいわけが無い。
「……今……まろは一つ、分かったことがある──」
 それならば、自分が穢れよう。テルミの代わりに、テルミの為ならば、自分はどんなに穢れてもいい。仲間を殺して罵られても、テルミを守れたのならばそれでいい。戦いの恐怖など押し殺し、自分がヒトではない事も認めよう。だから、自分はそのために──
「『好きな人に嫌われているかもしれないという、恐怖』……。今なら良くわかるぞよ、モモ」
「そっ。よかった」
 そのために、自分は桃原を殺す。以前の自分のように何の迷いも躊躇いも無く、殺すことだけを考えて、桃腹の息の根を止める。この手で。──この手で。
「   コロシテヤル   」


 ──此処は深い、闇の中。自分の指先さえも見えず、もはや凍えているという事すら忘れさせる、絶対零度。神経はぶっつり切断されたように、機能を果たさない。
 まるで宇宙に浮いているみたいだな、とテルミは客観的な感想を浮かべた。
 全てがおっくうで、感じる事全てを拒否したくなるこのキモチ。
 と、にわかに鮮明な映像がテルミの眼前に投射された。
 此処よりもだいぶ明るく、その中を縦横無尽に二つの影が入り乱れている。目で覆う事すら困難なスピードであるはずなのに、不思議と見失う事は無かった。
 落ち着く暇も無く交錯するのは、困惑するほど見知っている二人。一進一退の攻防で、互いの肉を削りあっていく──。
 認めたくなくても、瞼が下りない。見たくなくても、視線は外れない。紛れも無い真実。自分を裏切った桃腹も、それを殺そうとするタマも、決して取り戻せない現実。
 不意にちくりと、胸元が痛んだ。余韻の残る、内臓が痛んだような痛み。
 ──タマ、家に帰ろう? 桃腹、今度からいつだってデートしてやるから?
 そんな、子供だましの現実逃避が頭に浮かぶ。無駄だと解っていても、信じたくない事実。去っていく母に重なる桃腹の影。──助けて、欲しい……。
 そう思った次の瞬間、テルミはわずかに瞳を開いた。
 こんな時、いつも浮かんでくるのは笑う母の顔や、優しい司教の顔。でも今は浮かんだのは──大声で笑い転げる、タマのそれだった。いつの間にか彩られていた、タマの彩色。とても深く、とてつもなく広く。
 今までの自分の価値観を変えた、不思議で、なれど素直な少女。
 テルミは不意に──そんな少女を失ってはいけないと、思った。理性を超えた気持ち、奇しくもテルミは本能だと判断する。
『雨貝テルミは、タマというか弱き少女を、失ってはならない』
 希望的観測ではなく、絶対的命令。強い想いが身の内に炸裂した途端、不意に掌に何かが転がり込んできた。太くて、生々しくて……それでいて、温かいモノ。
 そう認識した直後。その温かいものは灼熱へと変わった。あまりの熱に痛みへと感覚が変換され、テルミは声にならない悲鳴を上げた。
 その痛みはのたうち這いずり回り、荒々しく急速に彼の腕を侵食していく。
 急激に捻じ曲がり始める世界。その中で最後にテルミが見たものは、寝返りを打った安河内の掌が、自分の掌と重なる映像だった。ブツっと音を立て、映像が消える。
 細胞の繊維一つ一つを裂いていくような痛みに、さらに悲鳴がかき上げられる。だれも助けてくれない。そこでテルミは、自分が独りだったことを知る。
 熱は胸元を食い破り、頬の皮を剥いで骨を削っていく。
 嫌だ。独りだったと知った途端、自分はここにいるのが怖くなった。嫌だ、独りは嫌だ。
 視界がバシュバシュと、白や赤、緑や黄色へと不順に炸裂していく。
 以前の自分ならば、すでに堕ちていたことだろう。でも今、そうする事の出来ない明確な理由がある。それは強さとなり、気炎を吐かせる。
 熱の端緒である掌を、もう一方の手でテルミは握る。熱を帯びる痛みは、足の爪先まで這い上がった。視界が、バシュリと白に統一された。


 満月を映すナイフが、右目玉を貫く。慌ててタマは避けようとする──寸前。その回避行動を読んでいた桃腹が、左斜め下に回りこみ、手刀を繰り出した。小さくタマは舌打ちする。右は刃物、左は手刀。後ろに飛びぬくと思いきや、しかしタマはそのまま身を乗り出した。得物が頬と耳を裂き、血を模したジェルが闇を紅く彩る。
 空を切って肉迫する手刀に、タマは揺らぐそぶりも見せない。そのまま、左腕一本で手刀を受け止めた。轟音が大気を震わせる。円形の衝撃波が、木の葉や幹を揺らすが、タマの勢いは止まらない。その波動ごと、得物とした扇子で桃腹の二の腕を貫いた。タマと同様の液体が飛び散り、べっとり木に付着する。桃腹の頬が、わずかに歪んだ。
 タマは跳びずさると同じ動作でその扇子を捻り、さらに傷口を荒らす。
 臍山の頂上。地上五十メートルはあるだろうか。誰も来ることの無い草の生い茂った広場で、その殺し合いは続いていた。
 腕に突き刺さった扇子へ、落ちたフォークを眺めるような視線をやった後、桃腹は無造作にそれを引き抜く。赤い液体が荒れた地面に噴出した。液体の勢いが弱まるのもまたずに、拳を握ったり開いたりして問題が無いかを確かめつつ、
「肉を切らせて骨を絶つ……かぁ。タマちゃん、強いんだね?」
 桃腹はクツクツと喉で笑った。「皮肉だなぁ」とつぶやき、さながら瀕死の獲物を見つけた肉食獣のような笑みを浮かべる。
「何で今までタマちゃんを、マギリストロトン教団が全精力を上げて仕留めようとしなかったか……わかる?」
「…………」
 一瞬の気の緩みが、死に直結する。分かっていても、目を細めずにはいられなかった。確かに桃腹の質問は、自分が以前から思っていた疑問だったからだ。
「残されたタマちゃんの資料から、私たちの『完全な肉体』……ま、簡単にいうと不老不死は叶えられたわけでしょ? でもその時、その資料に不可解な情報があったんだって。強力な力を示す情報だったらしいのよね、それが。だから、教団の戦闘員を全員出したときにそれが起こるとまずい。一人ずつ送り出してその力の見極めをする。……っていうのが、教団の偉い人たちの考えらしいんだけどぉ……ホント、馬鹿だと思わない?」
 さらに問われた質問がタマの耳に届くが早いか、桃腹の体は月に重なっていた。寸前で気づき、振り下ろされる鏡のような刃物を桃腹の腕ごと受け止める。
「……だってさ? その結果、こんなにタマちゃんが強くなっちゃったんだもの。漆間なんかとは全然違う。……あ、私はこれをうれしくて言ってるんだよ? だって──」
 不意に顔の横にある刃物が光ったように、タマは感じた。
「──『冒涜者の報い(バリスタ)』」
 次の瞬間、間違いなくその刃物は光を放った。血のように真紅の光。シュウウという音と共に、空気が振動する。
 と、その坂刃に触れていただけの腕が、突如として焼け爛れた。
 反射的に危険を察知したタマは飛びのく。寸前まで自分がいた空間が一閃され、耐えかねた空気が悲鳴を上げていた。
「──だってこれも、タマちゃんの戦闘データから、新しく教団で開発されたものだもの。よく切れるでしょ? 超微振動で、なんかしたりするっていう……どういう仕組みになってるのかは分からないけど、すごいでしょ?」
「……当たらなければ意味の無い代物ぞよ」
 自分でも暗いと思わせる声は、以前の自分のそれだった。闇が含まれ、油断の無い声。
「んん、もう! 今のタマちゃん、全然可愛くないなぁ。せっかく、色々と私が教えてあげたのにィー」
 駄々をこねる子供のように頬を膨らませる桃腹に、タマは冷静に腰を低めた。
「あぁ、ちょっと待って。そんなタマちゃん、なんだか面白くないなぁ」
 桃腹はポケットにしまっていた何かを取り出しつつ、
「だから、ちょっとタマちゃんを驚かせてみようと思いま〜す」
 緊張感の欠片も無い声で言った。気勢を殺がれたタマは小さく舌打ちをする。──が、次の瞬間、桃腹が手にしているものを見つめ、彼女は我が目を疑った。
 即席の首紐に吊り下げられた、滅紫の……お守り、だった。
「偽者なんかじゃないよ? さっき勝手に借りちゃった。私、こっちの方の才能もあるみたいだね。全然気づかれないなんて思わなかったよ?」
「く………ッ!」
 戦闘に集中しすぎてしまったためか、完全に自分以外は目に入ってなかった。そんな自分を、タマは激しく叱咤する。そして今までの警戒心も忘れ、焦った。あれはテルミの大事な……母の形見なのだ、失っていいものか。
「安河内から聞いたよね、このお守りの事? フフ……さァ、どうする? タマちゃん。私の今までの感情の起伏からして……これをどうするのか、分かるかな?」
 その口裏に含まれている毒は、致命的にタマの胸にしみこんだ。
「ウフフフ……いいよ、いいよぅ……! それ、それそれッ! すごいじゃないの、タマちゃん? ヒトの感情、だいぶ分かるようになってきたんだね? いや、もうタマちゃんはヒトだよ、十分ね……っ! だからこそ──イイ……ッ!」
 言葉が、もはや耳に入らない。全神経が不安定に揺れるお守りに集中し、奪還方法が次々と頭に溢れ返す。どうするべきだ、どうしたらしいい、どうやればお守りを取り戻
 お守りが、揺れた。重力に従い、ふっと落ちる。赤く光るナイフが、その振動でお守りを滅却する──
「や、やめろォ────ッ!」
 何も考えず。両手を広げて武器にしたタマが飛び掛る。桃腹がピクリと反応する。卑劣なまでの笑み。悲壮なまでの絶叫。木の幹をも抉る腕か振り下ろされる。大気を焼ききるほどの短剣が振り上げられる。
 お守りと共に、星空に赤い液体が大量に飛沫を上げた。


 混濁する意識の中、テルミは見た。意識を取り戻し、震える腕を押さえつけ、ふらつく足を殴りつけて。群がる木々が開けた頂上広場に、その光景はあった。
 血を模したゼリーのようなものが、びゅくびゅく溢れ出ている。飛沫を立てて地面に池を作り、歪な形に仕立て直した星空を映し出す。白く光る肌を真っ赤に染め、液体は柔らかな指先から滴り落ちていた。ポツリ、ポツリ……。
 艶光する黒髪までも真紅に染める『それ』の中心には──紅く輝く刃が、貫かれていた。
「あ。あれ、テルミ君? もしかして自分で来たの? ふわぁ、すごいね」
 重なっているタマの肩からひょっこりツインテールを揺らした桃腹が、さぞかし驚いたように言う。が、テルミが意識をやっているのはそんな少女に対してではなかった。
 タマの胸から背中にかけて、桃腹の刀が刺し貫いていた。
「………、…………!」
 ──嘘だろ。テルミはそう呟こうとするが、声が出ない。あまりの衝撃に、全く考えもしなかった事態に。桃腹の腕の中でぐったりしているタマと、その背中を貫いて生える紅く輝く刀を、ただただテルミは呆然と凝視する。
 ぐじゅり。身も震える音を立て、刃物がさらに胸をえぐった。赤い液体が噴出す。
 テルミの息が詰まりそうになった時、
「イケナイ……! ま、まだだよ。まだ殺しちゃ面白くないよね……!」
 桃腹が頬まで裂いた笑みを口元に浮かべ、無造作にタマを放り投げた。さながら死体が勾配を転がるように、タマはテルミの下まで草を押し分けた。
「嘘だ……! タマ、タマ!」
 テルミはタマを必死に揺さぶる。真紅に染まった可愛い顔に、返答のしぐさは無い。
「フフ……フ……胸の真ん中刺しちゃったからね」
 テルミははっとした様子で、見下ろす桃腹へ振り仰ぐ。
「多分、もう死んじゃったよ」
 矢で射抜かれたように、心臓が大きく脈打った。
 桃腹が殺される。心のどこかで、テルミはそう決め付けていた。タマが負けるはずが無い。だからこそ、心を痛烈にする桃腹の裏切り。桃腹が死ぬのだから。しかし、実際問題そんな保証はどこにも無い。今までタマがマギリストロトンに負けなかったからなどという秤にかけ、無様にもその結論を見出していたのだ。桃腹が死に、タマが生きる、という。
「……はぁ……ッ、……ハァ……ッ、……ハァッ……!」
 絶望──は、しかし襲っては来なかった。先ほどそれを、看破したからなのか。それとも、それさえも通り越してしまったのか──テルミの中で、新たな感情が芽吹き出そうとしていた。
 空白だったキャンパスが、徐々に紅く醜悪な色に塗りたくられていく。体中の熱気を巻き込み、渦巻くその感情。心に深く根を張る恨みにまで発展する、恐ろしい感情。
 激しい、怒気。辺りの景色が揺らぎ、熱さで頭が爆発しそうになる。
「桃……腹ァ………ッ!」
 テルミは感情のままに喚き散らす。
「絶対にッ! 桃腹ッ! 僕は、お前を許」
 ヒュッ、と。その台詞を言い終わることなく、テルミは鋭く息を吸い込んだ。
 右肩に突き刺さった、鋭い小枝。溢れ出す血と共に、灼熱の痛みが全神経に迸った。
「うッ、アァア、あぁぁあああッ!」
 絶叫するテルミに、打って変わって冷淡な顔をした桃原が吐き捨てる。
「私、絶望してもらうのは好きだけど……怒られるのはキライなんだよ?」
 鋭い痛みと重い眼光に、テルミの体からありったけの汗が噴出し──逆にその慄きが、彼の頭を冷静にさせた。同時──思い出したような戦慄に、一気に肌が粟立つ。決して、桃腹の殺気によるものではない。自分に対する恐怖だった。
 今自分はどんな顔をしていたのだろうかと、テルは思う。おそらく……桃腹と同じ顔をしていたのだろう。表情という仮面の裏に隠された、渦巻く憎しみ。相手を殺したいとまで思う危ない感情。確かに自分は今、桃腹を心の底から憎んだ。殺したいと思った。
 桃腹に『憎しみ』の感情は無いとしても、『殺したい』と思う結果は同じだ。その結果を抱かせられた途端──自分が、自分ではなくなった。『殺したい』という気持ちに押しつぶされ、自分で自分の制御が利かなくなったのだ。
 テルミは改めて客観的に、桃腹を見る。殺すことに囚われた彼女は、悪気を充満させて恐ろしく……でも、とても小さいかった。自分が弱いばかりに囚われて、その本質は人一倍弱い存在なのだ。……そう、自分のように。
「桃腹……、お前は、ッ、……可哀相だな……」
 そして気づいたときには、そんな言葉を桃腹に投げかけていた。とても哀れで……かわいそうだと思ったから。ぴくんと、桃腹の眉間に影が奔る。
「なに──」
「桃腹は……とても可哀相だ。両親を殺して、妹を殺して、様々な生き物を殺して──僕とタマを殺そうとする。そんな事がとてつもない快楽で、自分の存在を確かめる事の出来る唯一の方法……。でも桃腹はそれで、『幸せ』なの?」
 桃腹は訳が分からないという風に、フンと鼻を鳴らす。
「何を言ってるの、テルミ君。当たり前だよ。『幸せ』だから、私はやってるの」
「『幸せ』って言うものはね、桃腹……。絶対に、自分ひとりで得ることなんて出来ないんだよ。楽しい事は、決してそんなことじゃない。桃腹は間違っているんだよ」
 桃腹が先ほどの楽しい顔も忘れ、冷たい視線で場を凍らせる。
 こんな状況に何を言っているのか、自分でも良くわからない。
「僕と桃腹は似ているって言ったよね……。肉親を殺したもの同士だから。でも……だからこそ解るんだ。殺すことで『幸せ』を得ることなんか、永遠に出来やしない。誰も見てくれなくて、誰かに見て欲しくて……だから、殺すことによりそれを得て、自分の存在を自分で肯定しているだけなんだよ。そうだろう、桃腹? 全く意味の無い、哀れな行動だ。僕だからこそ解る。その虚しさが」
「うるさい……! 私は、得ている。快楽も、存在も、幸せも!」
「……『幸せ』は、絶対にそんなことじゃない。誰かがいて、そのまた横に誰かがいて、一緒に何かをして──。前の僕なら、こんな事理解できなかった。ただ空を眺めて、僕の溶け込むことの出来ないそんな世界から、逃げていただけなんだから。でも、今なら解る。それを教えてくれたヒトが──タマが、いるから」
 肩を掴んで苦しげにせき込み、テルミは柔らかい視線をタマの顔へ向ける。
「ッ……、……タマと一緒にいると、いつも妙な感覚が胸にあったんだ。鳩尾の辺りに蟠って、どうしても視線がタマにいってしまう。それが何か僕は分からなかった。……いや、本当は分かっていたのかな。でも、心のどこかで自分がそれを否定して、その答えに鍵をつけてしまっていたんだ。そう、本当はもう……ずっと、ずっと前にわかっていた」

「兄弟って、こんな感じなのかなってこと。幸せって、こんな感じなのかなってこと」

「何を──何を……ッ!」
「信頼したくない、してはいないと思っていた僕がいたけど、タマにもう、信頼しきっている僕がいたんだ。タマが来てから……本当に楽しかった。大嫌いだった人生は、こんなにも楽しいのかって思えた。大好きだった空が、こんなにも色あせて見えたことは無かった。だから、僕は──タマが、大好きだ。それに桃腹、……君も」
「何で……ェッ! 何でそ、んな顔をする……の、テルミ君ッ、……ッ!」
 有頂天だった桃腹は、予想外の言葉に動揺している。──否、上手くいかないものに対しての怒りに、その身を震わせている。
「それを解る事の出来なかった桃腹は──そんなヒトを、感情を得ることの出来なかった桃腹は、とても可哀相だ。僕と同じ境遇に立ちながらも、一歩踏み外したばかりに狂って。本当は優しくて、いい子なのに……。神様がいるとしたら、なんて不平等なのだろう。桃腹をこんな姿にして、神様はなんて意地悪なんだろうね……?」
「うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ! テルミ君なんかに、アンタなんかに何がわかるって言うのッ! 黙れ、黙れッ!」
「解るよ、桃腹。痛いほどに。存在を──愛されて欲しいっていう、その気持ち」
「黙れ、黙レェ──ッ!」
 刻意する事が出来ず、喚き散らす桃腹はなんとも惨めで──テルミは、沈痛になった。
 気づいてほしかった。桃腹にそれは間違いだと、解ってほしかった。認めてほしかった。もう止めるものはいない。タマは気を失い、テルミはその力が無い。
「可哀相な桃腹、哀れな桃腹。命を潰す事などに、何も楽しい事は無いはずなのに。自ら世界との糸を断ち切り、自ら孤独の道を歩んで、自らの首を絞めているだけなのに。そんなことをしても誰も認めてくれず、ただ遠ざかっていくだけなのに」
「もういい、モウイイッ! 殺す、殺スッ! コロシテヤルカラッ! ァアッ!」
 それに気づかない桃腹がもどかしい。それに気づかせてやれない自分がくやしい。
 地面を抉り、大気を裂いて、桃腹が猛烈なスピードでテルミに襲い掛かる。手には刃物、映るのは満月。顔には怒りと欲望、見据えるのはテルミの淋しげな眼差し。
「桃腹は、とても可哀相だ……。僕なんかよりも……ずっと」

 鮮血が、頬を叩いた。

 壮絶な痛み──は、無い。否、それ以前に。テルミは呆然とその光景を、『見る』立場にあった。金属の擦れ合う音と、肉のえぐれる音が絡み合う。
「フゥ……ッ! フゥ……ゥッ!」
 衝きつけられた紅い刃を受け止めていたのは──威風堂々、立ち塞がったタマだった。掌から甲にかけて貫いている刃を、唖然とする桃腹の拳ごと握り受け止めている。
 ぐん、とその腕から桃腹を引き寄せたタマは、零距離での蹴りを炸裂させた。何かが圧し折れる音がくぐもる。桃腹はノーバウンドで広場の向こう側まで吹っ飛び、木の幹を破壊して砂埃を上げた。もはやその蹴りに、仲間に対する躊躇や戸惑いは無い。
「テ、……、ルミ……ッ!」
 泥を吐くように呟いて、再びタマはその場にひざを砕いた。
「タマ……? タマ、タマ……っ!」
 仰向けに倒れたタマは、ゆるゆるとテルミに視線を合わせる。微笑に口元を緩めた。
「ぶ……、ッ……! ぶじか、テルミ……? ほ、……れ。忘れ物……ぞよ」
 赤い液体まみれの小さな手に、ぎっしり握られていたのは、古ぼけたお守りだった。
 衝撃がテルミの頭を叩きのめす。歯噛みをし、テルミはゆっくりとタマの小さな拳に掌を合わせる。
 テルミは自分の弱さを……否、そう決め付ける自分の卑屈ささえも、呪った。
 タマは今、自分を守った。桃腹を敵だと割り切り、桃腹を殺す一手に躊躇いも見せず。
 仲間だという理由でテルミが出来なかった行動を、タマは寸分の狂い無くやったのだ。
 仲間殺し──それを人々は、侮蔑するだろうか。さげすむだろうか。ヒトを殺すということに理由は違えど、根本は同じだ。命を、潰す。自分自身、さきほどその事を肯定した。どんないきさつがあろうとも、殺すということは結果として同じだと。
 それでもタマに迷いは無かった。それはなぜか? 簡単だ。
 上辺だけの偽善ではなく、心に刻み込んだ信念だからだ。大切なものを守ると言ったタマの、頑なな意思だからだ。失いたくないという、ヒトにのみ存在する感情……。
 殺すという結果は同じ。だがタマはそれを踏まえた上で、自分が穢れる事になろうとも桃腹に手をかけた。すべては、自分を──大切なものを守るために。
 人々は侮蔑するだろう。さげすむだろう。でもテルミは、そんなタマに感服した。強くて逞しく……それでいて、健気で一途な彼女に。
 だが、自分はどうなのか? テルミは自問し、その愚問に自嘲した。
 自分は、穢れる事が怖い。分かった上で、全てをタマに押し付けていた。守ろうとせず、守ってもらうだけだ。今も、今までも。なんて情けない。なんて不甲斐ない。自分の大切なものを、自分で守れないなど、勘違いも甚だしい。
 圧し折れた木をどけ、砂埃をまといつつ桃腹が体を起こす。テルミは、キッと前を見据えた。
 そんな半端な気持ち、捨ててしまえ! 目の前に立ち塞がるのは仲間であった桃腹だ。怖い、とてつもなく怖い。威圧感も、命の駆け引きをする事も、その行動が導く結果も……。桃腹が哀れで可哀相で、決心がすぐにぐらついてしまう。
 でも、今はその恐怖以上に大切なものがある。ならば、それを押し殺してでも立ち向かうべきなのではないだろうか? タマはそうした。身を穢してまで。そう、それならば──
「桃腹。僕は、君を絶対に許さない!」
 ──今はゆっくりおやすみ、タマ。今度は僕が、守るから。
「いたた……。あーあ。腕が壊れちゃったよぅ。教団に行って修理してもらわなくちゃ……。許さなくていいよ、別に? むしろそっちの方が私的にも良いんだよね?」
 土埃を払う桃腹を目に、決意したテルミの頭が高速回転する。
 先祖が何故子孫にタマを残したのか。タマが何故自分のところに来たのか。それは決して偶然ではなく、必然的な何かがあったと、今の自分には思える。
「テルミ君のそんな表情……大嫌い。もっと早く、殺しておくべきだったね」
 タマの手とお守りを握り締めたときから、テルミの網膜の裏に、ある映像が断続していた。それは遠い記憶。そして今に蘇る──鮮明な夢。『あの日』の前夜、テルミと母が共に過ごした最後の日。タマが来るまでは忘れていた記憶の欠片。
「でも、もう関係ない。私は、もうテルミ君を殺したくてたまらない……!」
 その時、母は自分に伝えた。呪文のようで、錆び付いた言葉を。先祖から受け継がれているという言葉を。『最愛の者』という意の言葉を。──今なら、解る気がする。
「だから……ねっ? もう終わりにしよウ?」
 タマの、過去と現在をつなぐ唯一のメッセージ。
 証拠は無い。何が起こるかも、もしかすると何も起こらないかもしれない。
 でも、もう一度信じてみようと、テルミは思う。タマが大切だから、母が好きだから。
 もし裏切られても、絶望はしない。命をかけて信じる事の出来た自分を、誇りに思いたい。
 だから、だから母さん──テルミは掌に力を込める──教えて、くれないかな?
「最後は! この剣かっ、レーザーかっ! ドッチがイイっ?」
 桃腹が、さぞ高らかにいう。しかしテルミが目を瞑っているのを見、
「ソ……そんな、怖がらなくてもいいよ……! すぐに、一瞬で楽にしてアゲル! レーザーで、脳漿ごと頭蓋を蒸発させてあげるカラァッ!」
 テルミの行為に含んでいるもの自己解釈した桃腹は、さらにその奇声を歓喜へと導いた。
 桃腹の不吉な哄笑を耳に、テルミは目を瞑り続けた。記憶の断片として浮かぶ母の面影に、静かに呼びかける。
 ──母さん。
「だからっ? 安心して、テルミクンッ?」
 凄まじいまでの殺気が肌を刺し、慄き逃げそうになる気持ちを、テルミは押し殺した。
 ──母さん。
「フフ……テルミクン。バイバイ」
 桃腹の掌が白く輝き出す。それは瞼を下ろしたテルミの瞳にも捕らえられる。
 本能の絶叫、理性の悶絶。
 ──母さん。
 殺気が、揺らめく。桃原が地面を砕くように蹴り、圧倒的速さでテルミに襲い掛かる。
 ──母さん。
 肉薄する猛悪な気配。
 ──母さん。
 シュウウという、かすんだ音。
 ──母さん。
 優しい母の、乾いた唇。
 ──母さん……!
 ゆっくりと、テルミは瞼を上げた。
 桃腹の掌が、テルミの額に当たった。白く輝く。桃腹が、俗悪な顔で哂った。
「……、……そう。なんだか……呪文みたいな言葉だね」
 母が笑ったような気が、テルミは、した。

「『メルキス・ギュレ・クロウラーム・リオ・バロム』」

 瞬間。
 目を覆う閃光が、テルミの網膜を襲った。
 レーザーかっ? ──そう思ったが、どうも違う。意識は飛ばず、ものすごい風が頬を叩きつけている。すぐ顎下から、突発的な上昇気流が起こった感じ。
 あまりの強風に腕をかざしていたテルミは、ゆるゆると腕を下げて瞳を開け──眼前の光景に目を奪われた。
 一面に広がる、目を覆うほどの光の渦。天を覆う光輝は完全に夜気を消失させ、周りに取り囲む木々の影すら作らせない。それでいて優しさを忘れない、圧倒的な光量だ。
 何よりも目を見張るのが、中空にたゆたう数千にも及ぶ虹色の帯だった。鉢巻きほどの大きさで、生き物のように光の海を泳いでいる。さながら、世の終焉を告げるために帳を下ろした、ひと時の幻想を見せるオーロラのようであった。
 おずおずとテルミは指先を掲げ、触れた帯はおっかなびっくりという風にその身を反らせた。重力を無視して地上から天を覆う様は、吹き上げる豪風が成しているのだろうか。
 浪漫の極みと凄んでも言い過ぎではないほど、その幻想的な光景は常軌を逸していた。
 なんだ、という普遍的な疑問が頭に浮かぶ直前、
「あぁぁああ! ああぁッ! あぁぁぁああああアアアアアアアアアアアッ!」
 ものすごい狂騒がテルミの鼓膜を突き破った。視線をやると、その先には光を体中に浴び、苦しみ悶える桃腹の姿があった。付近の虹色の帯に取り付かれ、がんじがらめにされている。否、帯が桃腹と同化し、桃腹の肌が虹色に光沢していた。
「ヤメロ、ヤメロォォオオッ! やメて、オネガイ! テルミクンッ!」
 鼓膜と心に響く叫びに、テルミは思わず後ず去った。同時、その時テルミは気づく。
 溢れる光と、虹色の帯を吐き出している存在に。足元に横たわっている、タマだった。
 体中の傷口という傷口から、光は溢れ出て帯が螺旋を巻き、豪風を生み出している。タマに意識は無いらしく、目を瞑って安らかな顔をしている。
 タマの過去と現在をつなぐ唯一のメッセージ。きっとその言葉が、この光と虹色の帯を生み出したのだ。
 桃腹の叫びが、さらに大きくなった。喉を掻き毟り、皮膚を虹色に発光させて、空を仰いで叫びを放っている。愛らしい顔はどこかへいってしまい、今は苦しみだけに支配され、哀れな顔をさらけ出している。
 この美しい光や帯が、桃腹に苦しみを与えているらしい。テルミには特に何も感じる事の無い、この瞳を奪う光輝が。
「グゥウウウッ、アッ、アアアアアアアアア!」
 苦しみ呻く桃腹が、何とかテルミ達に近づこうと匍匐前進をする。テルミはそれを見ても、動けない。彼は桃腹のこんな姿に動揺し、心の中で涙を流していた。
「もも……はら……!」
 一歩……たった一歩、踏み外してしまっただけなのに。
「テルミクン! テルミクン! テルミクン! アァ、ゥウァァァアアッ!」
 助けを求めるあえぎ声に、決意した心を貫く。乾ききった唇を、一筋の涙が濡らした。
 ほんの一メートル手前、桃腹が唾液を撒き散らしつつ腕を伸ばす。──と、帯に侵食されて虹色に光沢していた腕が、ふいに何の音も無く霧散した。原子レベルでの分解という風に、跡形も無く光の粉となって散っていく。
 桃腹が、再び悲鳴を上げた。文字通り、断末魔の叫び。あまりの惨状に思わずテルミは視線を外したくなる。……が、それは出来なかった。
 この結果を望み戦い、桃腹を殺そうとしているのは他でも無い自分なのだ。桃腹の終焉を見届けないわけには、絶対にいかない。例え、一生癒される事の無い傷が心に刻印されようとも──。
 自分は決意した。これが唯一の方法。桃腹に過ちを理解してもらうために。大切なものを守るために。割り切れ、悔やむな。そして目に焼き付けろ。
 苦しむ桃腹を目に、固めた決心の揺らぎを必死にテルミは押さえ込む。虹色の帯が桃腹の体を侵食しつくし、いよいよ顔まで達しようとした、その時だった。
 叫びのための息継ぎをするほどの、わずか一瞬。桃腹の表情が──変わったのだった。
 悪鬼の叫び散る形相から。
 年相応の涙ぐむ姿になり──ふっと。仕方無げな、不器用で優しい笑みを浮かべたのだ。
 ぐらっと脳が揺れ。
 テルミの中で、抑制していた何かが爆発する。叫ぼうとテルミが息を吸う間もなく、虹色の帯が桃腹の顔を侵食した。その時すでに、桃腹の顔に笑みは無い。絶叫が大気を震わせる。と思うや、次の瞬間には抑制しようとする桃腹がいた。
 せわしなく変化する、桃腹の百面相。体全てが霧散するまでの片時、彼女はその奇行を繰り返した。まるで──優しい桃腹が、殺人快楽者の自分を自ら滅しようとしているかのように。


 腕が光り、指先が霧散していく。激痛が奔って、すぐに何も無くなる。
 桃腹の頭の中では、様々な感情が乱雑に入り組んでいた。破滅を嘆く自分、傷みに悶える自分、自らが死ぬ事にすら快楽を得ている自分……。しかしそれらを押さえ込み、桃腹は安らかな気分であって……でも少し、悲しかった。
 テルミ君にもっと早く会えてれば、私は変われてたかな──そんなことを、思いつつ。
 自分が最初に抱いた殺意は、なんでもない、ただの嫉妬からだった。
 妹に両親を取られたという、長男長女ならば誰しもが味わう感情。
 ──何故妹ばかり? 私はこの家にいてもいなくても、どっちでもいいのかな?
 純粋なだけにその根も深く、幼いだけに上手く伝える事も出来ない。
 ほとんど事故に等しかった。しかしベランダから落ちようとする妹を助けようとすれば助けられたわけで、助けなかった桃腹は、やはり間接的にでも殺したということだろう。
 罪悪感もありはしたが──先に出てくるのは、存在の肯定をされた事による高揚感、優越感。回復した両親の愛情もあったが、何よりも、同じ命を『自分が』潰したということによるそれだった。
 ──そうか、簡単だ。ころしちゃえばいいんだ。
 生き物を殺すという、自己の存在確認。虫を、鳥を、野良犬を殺した。でも妹のときとは違った。快楽が、少ない。愛着が、無い。重大で大切な何かを潰したという感覚が無い。だから、それが欲しい。
 そうくると両親を殺してみたいと思う発想はしごく自然なもので、そんな時桃腹はマギリストロトン教団の噂を聞いたのだ。うわさに聞く教義は、見事に彼女を魅了。一年がかりで噂から真実に塗り替え、自らその本拠地に出向き教徒となった。
 マギリストロトンの技術は現代科学を大きく凌駕しており、その力を借りて両親を殺害。また、その後の手ほどきもマギリストロトンの技術により、両親の自殺とされた。
 肉親を殺すという痛みよりも、潰したという快楽。
 もっと上の快楽、重大な存在が欲しい──。そんな時現れたのが、テルミだった。桃腹は彼の過去を知り、当然近づいた。切っても切れない縁を作り上げた上で、思いっきり蹂躙する。絶望を味あわせるために。自分の存在を確かめるために。
 もっと早くテルミに会うことが出来れば──いや、おそらく変われることは出来なかっただろう。現実問題、テルミがこのようになったのはタマが来てからなのだ。
 視界の歪み始めた桃腹の瞳に、つい先日の幸せそうなタマとテルミが思い出される。
 正直、桃腹はタマがうらやましかった。悪く言えば、嫉妬……かもしれない。テルミの世界観を変えたタマに、対抗心を抱いていた。決して、殺すときの伏線などではなく。
 桃腹は本当に、テルミが好きだったのだ。似たもの同士だからというわけでもなく。理屈も、決定的な理由もなしに。同じ時を過ごしていくうちに、しだいに引かれていったのだ。心に誓った殺すべき獲物であり、心ときめく初恋の男の子。
 夏休みが始まって数週間。桃腹にとって、裏心無しに幸せな日々だった。
 もうこのまま何もかも忘れて、このままでもいいのではないか──。
 いや、それは許されない。文字通り体を売り、心も売った私にそんなの許されない──。
 幸せを願う普遍的な女子高生と、存在を渇望する殺人快楽者との、激しいジレンマ。
 結局は定めに逆らえず、こんな結果に陥ってしまったのだが……。それでも命をぶつけて立ち向かってきてくれたテルミやタマに、桃腹は感謝する。
 もう殺す必要も無かった。存在を認めてくれるヒトが、仲間が現れたのだから。
 それにこの光──すでに見えなくなりつつある視界を、桃腹は懸命に絞る──この中で死ぬのなら、それはそれで本望かもしれない。安河内の情報も、中々信用できるようだ。
 この虹色に輝く美しい『場景』。これはマギリストロトンのお偉いさんたちが言っていた、不可解で強大な力。間違いもないだろう。その名を──

『ファーフル・プラネット』

 三人で一緒に祈る事の出来なかった願い事。桃腹には分かっていた事だ。だから、あの日思い描いた願い事を一人で祈ろうと、桃腹は思う。
 時は待たず、体を食い尽くした虹色の帯は、桃腹の頬を蝕もうとする。
 全てが無に帰す、その直前。桃腹はいつもの愛らしい笑みを浮かべ、小さく呟いた。
「私が死んだ後も、ずっとずっと、テルミ君とタマちゃんが幸せでありますように……」
 一縷の涙を残し、全てが光りに包まれた。


 帯の渦巻く空間に桃腹の残像を見つつ、テルミは半ば呆然としていた。
 桃腹が最後に見せた、あの表情。テルミは見たことがある。つい先日までの、桃腹だ。笑った時、怒った時、悲しんだ時、うっとりした時……。それらと同じ表情だった。
 テルミの胸が、ギュンと何かに押しつぶされそうになる。桃腹は、最初からこの結果を望んでいたのだ。確証は無い……が、テルミにははっきりとそう感じられた。
 テルミを信じ、タマを信じ。桃腹の悪徳を否定し、存在を肯定する事を。
 桃腹もまた、苦しんでいたのだ。自分の身の内に潜む殺人欲望に。それは、どれだけ恐ろしい事だろうか? テルミは想像しただけでも慄然とした。十六歳の少女には耐えられないほどの重圧だっただろう。例え欲望を満たしたとしても、一時的。その後に襲ってくる後悔の嵐と快感の余韻。自分の頭がおかしくなって、どれほど死にたいと思うことか。いや……だからこそ、桃腹はこの結果を望んだのではないだろうか。
 割り切ったはず。こうするしかないと、心を決めたはず。しかし胸に、後悔にも似た愛おしさが溢れかえった。
 もっと別の出会い方をしていれば──そんな考えが、浮かんでは沈む。
 ぶお、っと。耳朶を叩く風が増した事に、テルミは思考を引き戻された。
 感傷に浸ることを許さないという風に、虹色の帯が動きに乱れが生じ始める。光も発光の度合いに濃淡をつけ始め、SFさながらの異空間へと飛んだような感覚を、テルミに与えた。はっと潤む瞳を下し、彼は驚愕する。
 タマの傷口から溢れる光は目標を失い、暴走排出されていた。行き場をなくした光は、タマ自身の体さえ蝕もうとする。複雑に吹き荒れる気流が交差し、狂風となって場を襲う。
 傷口は勢いに呼応して広がり、虹色の侵食範囲を広げていた。光や虹色の帯は勢いは、止む所を知らない。
 テルミの中で驚愕が危惧感に姿を変え、しだいに絶望へと移り変わっていく。
 桃腹の体を滅ぼした現象が、タマの体で再現され始めたのだ。その、顛末は……
「タマ、タマッ? 嘘だろ……っ!」
 焦りと恐怖の入り混じった口調で、テルミはタマの頬を撫で、叩く。タマは目を覚ますそぶりを見せない。
「タマ、タマ! 起きてよ、タマ……ッ!」
 否、そう叫びつつもテルミは判っていた。今この状況からではなく、桃腹に対し憎しみを抱いたその時から。理屈なんて曖昧なものではなく、生物としての直感、常識。
 ただ、テルミは『それ』を認めたくない。認めた瞬間、テルミは自分が壊れるような錯覚に陥るのだ。例えタマの胸元にナイフが突き立てられようとも。桃腹を殺した死の化身が、今度はタマに襲い掛かってきても。
「ダメだ! だめだ、タマッ!」
 タマはもう生きられない。そんな言葉を、テルミはなお拒否し続けるのだ。
 噴出す光と帯を両手で押し込もうとする。その傷跡は、冷たい。あまりの風圧に傷を負った肩が痛み、テルミは呻いた。
 タマの体が虹色に包まれる。
 テルミが嗚咽を漏らす。
 タマの皮膚が砕け散る。
 テルミはタマの胸元に顔をうずめ、目頭に込み上げてくる熱いものを必死に押さえ込んだ。まだ何も知らない、無垢な子供のように。偽りも何も無い、純真な心で。
 彼は虹色の帯と満天の星空が見える天を仰ぎ、叫びを放った。
 それは天を突き。星を刺し。月を砕いて。世界に、こだまする。

 幼い指が、テルミの腕を掴んだ。

 唖然と叫びを止め、ややあって涙の溢れる瞳を、テルミはゆっくりと下ろした。
「なんぞよ……呼んだか……ぁ? テルミぃ……」
 白い肌だからこそ映える紅い唇で、タマがポツリと言った。
 胸につっかかっているものが多すぎて、テルミは答えを返してやれない。
 タマはゆるりと視線を空にやり、漆黒の瞳に鮮やかな色を写し取る。
「あちゃぱー……。なんとも……綺、……麗な……、空ぞよ……」
 タマの小さな肩口にちょんと鼻を宛がえ、テルミは笑うように声を吐き出す。
「タマが出したのに……なんだよ、それ……」
 吹き上がる風が二人の体を包み込み、優しげな光は二人の心を照らし出す。虹色の帯が幻想的な世界へ導き、その中で二人は確実に同じ時間を過ごしていた。
「すまん……」
 ややあって触れるような声が聞こえ、閉じていた瞼をテルミはわずかに開く。
「タマは……『幸せ』だったぞよ……?」
 それは優しく。そして儚く。
 その言葉に含んでいるものを理解したテルミは──静かに、もう一度瞳を閉じた。じっとそのままでいて、まるでタマの残っている体温を心に刻み込もうとするかのように。そして──引き裂かれそうになる心を必死で圧し止めているように……。
 やがて顔を上げたテルミはタマを見ず、そのまま天へと視線を仰いだ。
 光と虹色の帯は力を弱めず、吹き上げる風は重力下である事を忘れさせる。見るものの心を奪う空間──。その時ふと、テルミは思い出す。
 安河内の言っていた『ファーフル・プラネット』。もしかすると、この光景ではないのだろうか。この光よりも鮮やかな場景を、おそらくテルミは認めない。だとしたら例え違おうとも、この場景が『ファーフル・プラネット』であるべきだ。
 そんな言い訳がましい考えに基づき、テルミは静かに瞳を閉じた。以前決めた、上手くまとめられなかった願い事を静かに心の中で復唱する。あくまでこの現実を認めたくない、テルミの最後の反抗だった。
 ゆるゆると瞼を持ち上げたテルミの目端を、一粒の雨が過ぎる。満月の夜に雲の姿は無かったはずで、雨が降るような天気ではないのだが……
 雨粒の軌跡を追ったテルミは驚き、小さな笑みをこぼした。
「タマ……涙流せたな。……良かったな」
 タマの目尻に付いた雨粒が、つうっと柔らかく湾曲した頬を濡らした。
 テルミはその雫を、優しく拭ってやる。いとおしげな、優しい挙措で──。
 光が爆発し、全てが発酵の渦に飲み込まれた。

 ◆

 タマは夢を見ていた。
 いや、正確には違うかもしれない。タマ自身も確信することは出来ないし、おそらく今も今までもこれからも、永久に分かることは無いだろう。事実、タマはガイノイドで夢を見るような機能は備わっていない。
 しかし、夢であってほしいとタマは願う。……願う? 何故? ……わからない。
 夢の中でタマは、浮いていた。何も無い、ただの虚空。……否、在る。正方形の室内が、切り取られたようにタマの眼下に浮いている。
 部屋はとても暗かった。何も頼るものの無い闇を落とした室内は、何も無い空間に現れた黒い棺のよう。陰湿な雰囲気も加えられ、見るだけでも逃げ出したい衝動をタマに奔らせた。それに、なんだか寒い。
 しかし──タマは何か、妙な気分にとらわれていた。自分はあそこを……知って、いる? 自分に対する疑問系という、釈然としない思い。そんな人間じみた曖昧な記憶に、タマは途惑った。それでも、完全に否定する事が出来ない。
 不意に目の端にかすんだ小さな影。背を丸めて膝を抱え込み、小さく肩を震わせている。
 タマは首を傾げ、暗闇と同化しているその姿に目を凝らし──驚愕した。
 部屋の隅に縮こまっていたのは、タマ。もう一人の彼女だった。頬を涙に濡らしつくし、鼻水をすすっている。
 見た瞬間タマは、なんとも知れない衝撃に体を固まらせた。何故もう一人の自分が? 何故涙を流している? 何故そんなに──淋しげな顔をしている?
 答えが出る前に、暗い室内はタマの視界から遠ざかり、消えていった。衝撃の余韻が引いていった後すぐに、ああそうか、とタマは納得する。
 あれは、テルミに会う以前の自分の心だ。名しか知らぬ教徒に追われ、会う人会う人に話しかけたい衝動を抑え、『仲間』を知らなかった頃の自分だ。挫けそうになったときも、自分には感情がないという理由を楯に、がむしゃらになっていた頃の自分だ。
 外見はなんでもない風を装っていた。自分はヒトではない、別の存在──と。
 でも、心は泣いていた。ヒトという存在に憧れを抱き、自分という存在に嫌悪を抱き、自分という存在を認めてくれる存在を欲していたのだ。
 そう思って、タマは納得した。何故これを夢であってほしいと願うのか。簡単だ。これが夢であるならば、ヒトに──テルミに少しでも近づき、理解できるからだ。
 自分にヒトとしての喜びを教えてくれた、存在を肯定してくれた、何もかも全てを包み込んでくれたテルミに。そう、まさに今、この時のように……。
 タマはもはや現在、何もない空間には居なかった。とても温かくて、とても落ち着く……テルミの腕の中に、タマはいた。胸元で交差される腕を通して、わずか数週間のことを思い返し──これからの事を思ったところで、心配になった。自分がいなくなった後も、テルミはやっていけるだろうか? ……いや、きっとテルミなら──
 ふいに、『ファーフル・プラネット』を見たような気がした。一人ではなく、テルミと共に。何故? ──そんなことは分からない。この矛盾だらけの世界に、理屈は塵芥に等しい。
 タマは願い事を唱える。桃腹と三人で唱えられなかった事が、少し心残り。奇しくも、腕の温かさからテルミの願い事も聞こえてきたような気がした。
 テルミの願いを聞くと、タマは思わずニヤついた。この矛盾だらけの世界で、矛盾している願い事。その願いは自分と、全く同じ願い事だったのだから。

『神様、神様。許されるのならばどうか、私たちをずっと一緒にいさせてくださいますように……』
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