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第二章 | 第四章 | 目次

ファーフル・プラネット

第三章

「必殺『不意打ちの基本は後ろから』の術ーぅ!」
 ちょうど太陽を見上げる形となりつつある、冷房の効いたお昼時。
 勢い込んでジャンプしたタマは、トイレから出てきたテルミに死角から飛び掛った。
「ぶげっ!」
 肺から捻り出る呻きを上げたテルミと、もつれ込んでタマは廊下に倒れ込む。すぐさま体を取って返し、高らかにタマは雄叫びを上げた。
「にゃーっはっはっはっはっ! どうだ、テルミ! これで参っただろう?」
 いたずらを成功させ、会心の笑みをタマは浮かべる。さあ、これでどうだ、と見下ろす彼女に、しかしテルミは「……痛いよ」と呟き、
「ご飯作るから、待ってて。……手洗いうがいは、ちゃんとしておくんだよ」
 と言い置いて、のろのろと立ち上がり、キッチンに続くドアの向こうに消えていった。
 えばった体をそのままに、タマは目を閉じて口をへの字に曲げ、改めて思った。
 今日のテルミは、やっぱりおかしい。
 いつものように目覚ましの五分前に目を覚ましたタマは、刺激的な朝を展開すべく、テルミの布団に侵入してこちょこちょ攻撃をしでかした。……のだが。
「うわぁあ! ちょ! タ、タマなにしてるのよっ? や、やめ、もう目ぇ覚めてるから! ちょっとやめて……あ、あはは! あははははっ! やめて、やめてくれぇ!」
 といつもなら反応するであろうテルミの、今日の反応は、
「ん……あぁ、タマ……」
 朝の歯磨きだって、危うく洗顔料でやってしまうところだったし。
 コーヒー牛乳に入れる砂糖を、間違えて塩スプーン三杯分いれたし。
 夏休み宿題で、一学年前の教科書を参考にしてたし。
 昨日まではこんな様子じゃなかった。今日の朝……いや、おそらくは深夜。テルミの見たあの夢が、原因ではないだろうか。タマは考える。そんなに怖い夢だったのだろうか? それともあの後抱き付いてきたことを、後悔してるとか? 
「うーむ……。こういう時、『ヒト』ならばどうするだろうかのう……?」
 タマは改めて、自分のあり方に苛立ちを覚えた。
 率直につっこむべきか。遠まわしに悟らせるべきか。関節技を決めて体に訴えを起こしてやるか。タマは考えつつダイニングに入る。すると、微細な空気の変化が鼻をついた。
「むぅ? ……テルミ、なんだか部屋が……臭くないか?」
 反応はなかった。何だと思ってタマはキッチンへ向かうと、フライパンの上で目玉焼きがどす黒い塊に変化していた。
「あちゃぱー、テルミ! 卵が焦げておるぞよ! おい、テルミ!」
「………え? あ、うあ、いけない」
 ぼんやりしていたテルミは慌て、ガスのスイッチを捻る。すると、今度は隣のコンロの火が灯った。隣のコンロのスイッチだったのだ。二つ、スイッチが切られる。
「あぁ……ごめん、また作り直すから、椅子に座ってていいよ」
 冷蔵庫から卵を取り出し、危うく取り落としそうになるテルミに、もどかしくなってタマは声を張り上げた。
「どうしたんぞよ、テルミ? 今日はなんだか、朝からおかしいぞよ? そんなに昨日の……ああ、今日か? の『ゆめ』が、怖かったのか?」
 するとテルミは、『ゆめ』という単語にピクリと反応したが、すぐに、
「いや……別に、僕はおかしくないと思うけど?」
 期待はずれも甚だしい答えを返した。さらに言い募ろうとした所、にわかにチャイム音が室内に響く。
「あ……もう、そんな時間か」
 テルミが卵を戻し、玄関に向かう。気勢をそがれたタマは、アヒルの口にしてムッとした。これは自分の……気のせいなのだろうか?
 玄関に向かうと、そこには安河内がいた。テルミと、何か話しているようすだった。今日は蒼穹溺愛同好会の活動は休みだと、タマは聞いた覚えがあるが。
 安河内は自分を見つけると、気持ち悪いくらいの笑みで手を振った。取り出した扇子で、ちょいちょいと返事を返す。
 屈みこみ、スニーカーを履きはじめたテルミに、不思議そうにタマが聞く。
「おろ、テルミ。どこか行くのか? お昼はどうするのだ?」
「うん、ちょっとね……。タマは……安河内と留守をしてくれないかな? 今日は一人で、行きたい所があるんだ。昼は、安河内が何とかしてくれるよ」
 安河内が、清々しいジャニーズ軍団よろしくビシィっとポーズを決める。タマは彼を無視し、だが、と詰問する。
「テルミ……おぬし、一人で外に出るのは、ちょっと危険なのではないか? いつ奴らが来るか……。やはり心配だ、まろも一緒に──」
「タマ」
 草履を履こうとしたタマの手を止め、やさしくテルミが言う。
「今は夏休みだからいいけど、学校が始まったりしたら、どのみちずっと一緒ではいられないよ。それに……今日だけは、一人で行かせてくれないかな?」
 そのやさしい笑みに、タマは鼻白み、二の句を継げなくなった。見て取ったテルミは、「さてと」と立ち上がり、安河内に向き直る。
「んじゃ、頼むよ、我らがリーダー。タマに変な事したら、ぶっ飛ばすからね」
「はっはっは。任せられた。例えこの身が朽ちようとも、変質者などにタマちゃんの指一本、同じ空気すら吸わせないぜ」
 テルミは「そりゃ無理だ」と笑い、白い日差しを背中に手を振って、玄関を後にした。
「……ぁ……ま、待て、テルミ!」
 半ば茫然自失だったタマは、追いすがるべく草履すら履かずに飛び出そうとした。なぜだか今テルミを行かせると、もう二度と彼が帰ってこないような気がした。
 そんなタマを、「ちょいちょーいっ!」と掛け声を上げた安河内が制する。そのふざけた感じが、今は異常に腹が立った。
「何をする、どけ、ヤス! テルミが行ってしまうではないかっ!」
 喚き散る子供のようにタマは言い飛ばす。安河内はなだめるように言う。
「まあまあ。タマちゃんがテルミンのこと好きなのは良くわかるけども、ちょっとぐらい、一人にさせてやってもいいんじゃないの?」
「……『すき』?」
 その言葉に、ちょっとタマは戸惑う。この気持ちが、『すき』というものなのだろうか。この、変に怖い感じが?
「しかし……しかし、このままではテルミが、」
「だぁいじょうぶだって。テルミンは、どこにも行きはしないって」
 まるで自分の考えが分かっているような安河内に、タマはヒュッと息を吸い込む。安河内は……こんな奴だったか?
「三時間もすれば、ケロっとして戻ってくるって。アイツにとって、こういう事はたまにあることだし。そのために、俺が呼ばれたんだからな。俺が保証する、だから安心していいよ。……それから、ここは暑いから、中に入ってもいいかぃな?」
 あくまで自信たっぷりに言う安河内に、不審の念を抱くよりも先に。相手を恨めしく思う、変な気持ちが胸に芽生える。これは……おそらく……、『しっと』……というものか。
「む……かまわん、入っていいぞよ」
 が、そんな想いがあっても、現実でどうこうできるものではない。癪だが、タマは安河内の指示にしたがうことにした。彼のほうが、自分よりテルミのことについて詳しく、かつ客観的に意見する事が出来る、と判断したからだ。
 タマは、テルミに何が起こっているのか解らない自分が、腹立たしい。
 冷房の効いた部屋に立った安河内は、大きく伸びをし、息を吐く。
「はぁ〜……。冷房を開発した人にノーベル賞を授けたいぜ。ね、タマちゃん?」
「………………」
 振られたタマはムスッとした顔で、ぼふっとソファに座り込む。安河内の事など頭に入らない。意識もしないのに、なんだかずっとテルミのことばかりが頭に浮かんだ。考えを振り払おうとするのに、無駄だと分かっているのに、どうしても頭がそちらへ向く。なんだ、この変な感じは? 胸が焦がれて、居ても立ってもいられない、この感じは?
 そこでタマは知る。自分の中で、どれだけテルミが大きな存在になりつつあるかを。
「恋する乙女は大変だなぁ。これが強迫観念、ってやつか。うーん、そうだなぁ……」
「……なに?」
 急にブツブツ呟き始めた安河内が、やがて心を決めたように顔を上げる。
「よっし、決めた。タマちゃんにも十分知る権利はあるしな。伝授してやろう」
 安河内特有の、『話の核に何かがある』的な口調に、今日のタマはあまり興味をそそられなかった。いかにも仕方無げに、ちろりと視線をやるタマに、安河内が言った。
「テルミンのことについて、話があるんだけど」


 僕は今、どうしたいんだ?
 自己主張を出来るようになった人間ならば、答えるのに一秒とかからないであろう、そんな質問。テルミは朝から……いや、今日の深夜から、ずっとその考えを頭の中心においていた。エンドレスリピートされる質問。その度にあぐねる、答え。
 焼くように強い日差しや、噴出す汗に気づく事もなく、テルミは淡々と坦路を歩いていた。あてつける蝉の声も、今は聞こえない。
 僕は今、どうしたい?
 タマと過ごして一週間以上は過ぎ、そこで自分は何を受けて頭を抱えている?
 タマの本音を聞き、答えられずに不甲斐ないと感じたから? 今までの自分にはありえない感情に恐れているから? 初めて他人と一緒に住む事になり、戸惑っているから? マギリストロトンに狙われていて、潜在的にいつもビビっているから?
 それとも──自分が今まで生きてきて確立した防壁を、まさに突破されそうになっている事への危惧感か? そのことへの、警戒心の表れか? 分からない想いを溢れ出させている自分への叱咤か?
 あまりに多く溢れ出す自問に、暑さも加わり、頭がおかしくなりそうになる。
 考えても考えても、結局は最初の疑問にぶち当たる。自分自身が、その答えを隠しているからなのか。元来、答えの欠片すら見つけていないのか……。
 どのみち、一人では答えが出せそうに無い。分かっている。だから、ここに来た。
 テルミはそう思い、視線を上げる。
 ここで今の自分を整理すべく、客観的な意見を聞くべく。一人で出歩く事は危ないと分かりつつも、タマに申し訳ないと思いつつも。来なければならなかった、この場所。
 聖製かつ荘厳。それでいて歴史の重みを忘れさせない、白を基調とした建物。天を支えるかのように屋根から突き出た十字架が、何よりも目を引く。教会である。
 ミサが終わった後らしく、老人から小さな子供まで、大勢の人が帰路につこうとしている所だった。田舎町ではほとんどが信者なので、相当な人数が数え上げられる。
 テルミは視線を、教会の隣に構えてある平屋にやる。ミサ使いを終えた子供たちに棒付きキャンデーを配る、壮年男性がいた。一気に何本ももらおうとする子供や、もらい損ねて泣きそうになる子供などを、必死になだめている。その光景がおかしくて、駐車場の縁石に座り、しばらくその様子を観察した。
 世間話に会話を弾ませていた人々が少なくなり、最後の子供が去った頃合いを見計らって、テルミは腰を上げた。
「……ん? おぉ、テルミ君! 来てたのかね」
 近づいたテルミに、子供たちを見送っていた壮年男性が声をかけた。近くで見ると意外に若く見え、活発でとっつき易いイメージを連想させる。実際、子供が大好きで人気者、信者の者にとっても人望が厚い、人格者だった。
 この人こそ、テルミの最も信頼する人物、司教である。
「はい。……相変わらずの人気者ですね、司教様は」
「あはは。それもこれも、君のおかげだよ、テルミ君。君がこの、『飴で重い司教のイメージを打破しよう』作戦を提案してくれたんだからね。それで、元気だったかい?」
「ええ、まあ……それなりに、かな?」
 正直に言うと、あまり元気とはいえない一週間だったのだが、社交辞令ということにしておく。
 ふと見た司教の顔が、どこか疲れた様子があった。
「ごめんなさい、急に……。なんだか、ちょうどミサが終わったあとみたいだし」
「いやいや、テルミ君の相談なら、どんな状況でも受けて立つつもりだよ、私は」
 白い歯を出して笑う司教に、その時、教会内部から苛立ちを含んだ声が響いた。
「司教様、司教様! また子供たちに飴をやらしてたんですか? それもいいですけど、ほどほどにしてくださいよ、司教様はあまいんだから……! それから、祭壇の片付けがまだ終わってらっしゃらないので、早くしてくださいよ!」
「ああ、分かってますよ。すぐに行きますから、待っててください……」
 司教の返事は、妙に小さい。教会から聞こえた声はシスターのものらしい。
「全く……、あの人には慣れないね、私も。もっと緩やかに物事を考えられないものか。ね、テルミ君もそう思うだろう?」
「そうですね」
 まるで同級生の愚痴のような様に、テルミは可笑しくなった。そしてふと気づく。まるで久しく家に帰ったときのような安堵感が、自分を包み込んでいることに。
「……司教様、祭壇の片づけが終わってからでかまいませんが」
「……ん?」
 眉をひそめ、ちょっと落とした口調で、テルミは本題に入った。
「電話でおおよそのことは言いましたが……、相談が、あります」


「早う! 早う教えんか、テルミの何のことについての事なんぞよっ!」
「ぶぐっ……! タ、タマひゃん! ぐ、ぐるじいっ!」
 安河内の首下にロックを決めていたタマは、はっとしてその腕をどかした。
「むお、すまん。つい、まろとしたことが」
「ゲホ、オホ………はあ、はあ、いやいや、かまいませんよ。むしろうれしいですよ」
 意味の分からない事を述べる安河内を、タマは冷静になって改めて質す。
「で……どういうことなのだ、テルミのことについてとは?」
「ん……あぁ。ちょっと衝撃的な……ことなんだけどね」
 首を回して状態を確かめつつ、安河内が言う。
「この事は、我らが蒼穹溺愛同好会メンバーと、地元の教会の司教様しか知らないことなんだ。クラスの奴らも、先生のアホどもも知らない」
 ぼすっとソファに座り込み、彼はその上で胡坐を組む。タマも隣に座り、体を向ける。
「本当はその事を、テルミンは司教様にしか言ってないんだが……。司教様が、テルミンに最も近い仲間で、それを知る権利は十分にあるとおっしゃられてな。同好会メンバー全員に、その事を教えてくれた。もちろんテルミンはその事を知らないし、俺たちもその事を悟られないように普通に接している。だから……この事を知る権利は、タマちゃんにもあると、俺は思うんだ。タマちゃんもそれを望んでいるみたいだしね」
「うむ……なにやら、相当重大な話らしいな。とりあえずヤス、よだれを拭くがよい」
 首のロックによって垂れていたよだれを、安河内はあえて格好よく、さっとぬぐった。桃原がここにいなかったことを、タマは感謝する。
「タマちゃんは、テルミンがあんな性格……。妙に冷めてて、何にでも興味を抱くことなく、近くのものと親しくしようとしない。悪く言えば引っ込み思案のような性格……だということは、分かるかな?」
「…………分からん…………」
 考えてみるが、そう答えるほか無かった。泥沼に沈められ、踏みつけられている気分だった。答えられない自分が惨めで惨めで、今すぐ消え入りたかった。
「まあ、そりゃあ仕方ないと思うけどね。タマちゃんが来てから、だいぶその傾向が薄くなってきた気がするしな」
 タマの変化を見取ってか、安河内があえて気を抜いた風に言う。
「テルミンは、初めからああいう性格じゃなかった……といっても、俺はその頃のテルミンを知らないからなんとも言えないんだがな。ともかく、違った」
 安河内は小さく爪を噛む。いつもの彼はしない動作だ。
「小さい頃に……ちょっと重い、精神的な苦痛を感じたらしいんだよ。それ以降テルミンは、他人と関わりを持ちたくなくなってるんだよ。……だからこそ、そんなテルミンを簡単に塗り替えようとしているタマちゃんに言うべき、一番の理由なんだけどね」
「ちょっと重い、精神的苦痛?」
 タマは答えを催促する。いつにない珍妙な顔で、安河内は頷く。
「タマちゃんは、テルミンの家族が居ない事は、知っているよね?」
「うむ……それは知っておる。『りこん』か……もしくは、小さい頃に亡くしているか?」
 深く語らないテルミに、タマはそう解釈していた。
「それはね……違うんだよ、タマちゃん」
「? ……どういうことだ?」
 今まで見たことのない安河内に、自然とタマにも緊張が伝わる。

「テルミンの両親はね……。父親は、テルミンが殺し、母親は、それを認めたうえで逃げたんだ。……裏切ったんだよ、テルミンをね」

 最初は、よく意味が分からなかった。言葉の示す意味と、今のテルミがかみ合わない。何の冗談かと、タマは思った。が、真剣な安河内の顔にその気配は無い。
 タマは、よからぬ話であろうと、これから聞く話に慄然とした。


「そうか、そんな子がテルミ君の家にいるのか」
 終始、紳士に話を聞いてくれた司教に、テルミは黙って頷いた。目の前のケーキには手がつけられていなく、オレンジジュースが入っているコップには水滴が付着していた。流れ落ち、木製のコースターが効果を発揮する。
 場所は教会横、平屋の客間。整理整頓されて広々としており、大きな窓からは趣のある美麗な庭が見える。精神的にリラックスできる雰囲気が、漂う。触れたら指紋がついてしまうほど艶のあるテーブル越しに、テルミと司教は向かい合っていた。
 あれから客間に招かれたテルミは、これまでの事情を語った。
 タマとの出会い。急激な生活環境の変化、募り続ける不安。自分が明らかに何か影響を受けているにもかかわらず、その原因が分からない恐怖。自分が今どうなっているのか、どうしたいのか、どうしなければならないのか──。溢れる、戸惑い。
 そして──記憶に刻み込まれた過去……トラウマとの、電撃的な既視感。
 ガイノイドやマギリストロトンなど、いささかシュールすぎる内容には着手していない。もちろん、そこに気づかない司教ではない。だが司教は聞かず、話の内容だけを淡々と受け止めてくれる。そんな司教に、テルミは尽くせないほどの感謝を覚えた。
「本当はもっと早く来るべきだったんですが……ちょっと、色々と余裕が無くて……」
 語り終えたテルミは、最後にそう付け加える。頷く司教は、驚くほど冷静だった。
 テルミが言葉を紡がなくなると、室内は沈黙へ誘われる。黙って聞いていた司教は、うつむいてグラスに視線を向けた。
 ゆるり、ゆるり、時間は進む。秒針の音だけが、世界の全て。
「テルミ君は──他の人よりも、ちょっと辛い現実を体験しすぎた……」
 次の開口一番、司教はそう言った。心無しか、その口調は低かった。
「でも、何も悲観する事ではないよ。すぐに深い信頼関係を築く必要性はどこにもない。そのペースも、選ぶ道も、人の数ほど存在する。自分の思うようにやればいい。人々の認識に合わせようとするほうが、間違っているのかもしれないんだから」
 テルミは視線を落とし、浅く頷く。……どうして、司教様は。
「テルミ君は、恐れているんだろうね……。自分が変わってしまう事を。今まで自分が組み上げてきたもの全てを、一瞬ですり替えさせられようとしている事を。自分が自分じゃなくなっていく事を。……潜在的にだが、それはテルミ君自身にも分かっている事だろう? そして──その、原因も」
 どうして、どうして。自分よりも自分の事を知っているんだろう。たった一度相談しただけなのに。根本的な原因まで、言い当てる。が──
 その、とおりだ。司教に言い当てられて初めて意識する。原因を。この悩みの、核を。
『雨貝テルミは、今までの理念や信念、誓いを捨て。ペットのような同居人と過ごす現状を快く思い始めている』という事を。
 明確な形として浮かんだ考えにテルミは慄然とし、組んでいる腕に力を込めた。
「……それでも私は、君の思いを全て理解する事は出来ない。それは他の人にも、他の事柄にも言えることだ。アドバイスというものは、その人の考えている事や行動を否定し、それは違うと言う事ではないと、私は思う。相談者に、より多くの選択肢を持たせる事だと思うんだよ。……ちょっと、ずうずうしいかな?」
「いや……そんなことは、ありません……」
 苦々しくテルミは答え、司教は続ける。
「そうかい? ──だから私は、あえて答えを提示しない。どのみち、テルミ君自身が見つけなければならないことだからね。どれだけ時間が、手間がかかっても良い。結局答えが見つからなくても、自分で考えたという事に意味がある。──嘘偽りなく、理屈を省き、自分はどうしたいのかという気持ちが全てだと、私は思う」
「……自分が………」
 自分が、どうしたいのか。何度考えても出なかった答えを、テルミは改めて吟味する。が……わからない。今はまだ、自分がどうしたいのかわからない。
 ならば。自分自身が納得するまで、自分は──。
「君は辛い現実を持ちすぎた……」
 その悲しげな声に、テルミは顔を上げる。司教は庭へと視線をやり、遠い目をしていた。
 窄める瞳に孕まれているのは、悲痛。火を見るより明らかな事実。
 司教は、おそらくあの事を──テルミの幼少時代の出来事を、思い浮かべている。
 テルミには何故だか、そうはっきりと思えた。


 もう十数年前にもなる、テルミの古い記憶。彩色は、ただ『絶望』だった。

 母が、大好きだった。大好きで、大好きで大好きで大好きで、テルミは母を異常なほどに愛していた。まともに接する事の出来る相手が、母だけだったという理由ではない。幼少時代に誰もが母を愛する事と等しく、特段の甘えん坊だった、というだけの話。
 ──だって、せかいに一人だけしか、いないんだよ?
 ──いつだってぼくを見てくれて、わらってくれるんだよ?
 ──近づくといいにおいもするし、だきしめてくれるし、熱をだしたときなんか、ずっと一緒にいてくれたりするんだよぉ?
 幼いテルミに聞くならば、およそそういう返事が返ってくるだろう。無垢で何も知らない、同時に危険な存在。どんなものでも正しいと思ってしまう、圧倒的な吸収力。
 母の言う事は全て正しいし、絶対だ。母が、正義じゃないはずがない。
 もはやテルミはそう確信していた。揺るぐ事も無く、崩れる事も無い。
 だから『あの日』、テルミは忠実に言われたとおり行動した。母と二人だけの『作戦』に、高揚さえしていた。これをやれば、もっと母が喜ぶに違いない。
 疑う事など、あるはずもない。なぜならばそれは、母が言った事だからだ。母の言ったことに間違いなど欠片もないし、悪いことなどでもあるはずがない。
 例えその『作戦』が、同居する父親──大嫌いな男を、殺す事だったとしても。
 テルミは深く考えなかった。ただ母の顔だけが、頭にちらつき、行動の結果どうなるのかさえ、理解していなかった。理解する必要がなかった。だって、母が大好きだから。
 どういう作戦で、どう殺したかなどは、あまり記憶に刻まれていない。母が仕事だと家を出、男とテルミが二人きりになったとき。おそらく毒薬か何かを食べ物に含ませ、殺したのだろう。そうでなければ、小さな子供が大人に勝てるはずもない。もちろんその毒薬は、母に渡されたものである。
 気味の悪い泡を吹きつつ、苦しみ悶え、テルミの足袖を握り締めていた男は、しだいに動かなり、冷たくなった──。『作戦』を果たして母に喜んでもらえると、テルミは歓喜した。でも、同時に──とても、怖かった。とてつもなく、不安だった。ついさっきまで動いていた人間が、急に死んだ。そして殺したのは、他でも無い自分。
 幼い頭でも、危険な状況だとは判断できた。パニックに陥りそうになったが、かろうじてそれは押し止める。何故ならば、母に言われたとおりにしたから。母は、この大嫌いな男の体を隠せなどという『作戦』は、言っていなかった。このままでいい。後は、どうにでもなる。悪い事でもないんだ。何故? 母が、大好きだから。
 ずっとそう自分に言い聞かせ、テルミは両耳を押さえて、縮み込んでいた。
 どれくらい、そうしていただろうか。母が出て行ったのが、ずいぶん日が落ちた頃。大嫌いな男が帰ってきて死んだのが、もっと暗い頃。今は、もう日が昇ろうとしている。
 蒸し暑さに張り付いていた髪が、テルミの顔に跡をつけていた。テルミはおもむろに、立ちあがり、外に出る。……母は、どこだろうか。
 いつも母がかえって来るのを、良い子にして待っているのだが。『あの日』だけは、どうしても早く会いたかった。
 ──お母さん、お母さん、お母さん……!
 小さく呟きながら、ひたすら知っている道をさまよう。母は、その辺に座っていないだろうか。母も、自分を探していないだろうか。……そもそも、母の仕事は何なのか。
 足がくたくたになり、行きかう人々や車も増え、空に登った太陽が、テルミの肌をちくちくと攻めた。
 公園もいない。食べ物を買うところもいない。一緒に休んだベンチにもいない──。もしかすると、母はもう家にいるのかもしれない。家に帰ろうかと思ったテルミは、だがふと思いつき、歩く方向を転換させた。
 人が多くて、肩がぶつかり、うまく進めない息苦しい場所。駅構内だった。警備員の目を掻い潜り、電車のホームへ足を進める。ここは以前母と来たことがある。あまり詳しく覚えていないが、来たことは確かだった。
 息を切らしながら階段を登り。嫌というほどの人ごみを掻き分け。方向も分からなくなるほどのホームをさまよい。そしてテルミは、見つけた。

 母が、いた。

 いつもの優しい顔に何の感情もない冷淡な表情を貼り付け、ただ整然と、人々の列に並んでいた。一瞬人間違いかと思ったが、間違いない、間違うはずもなく、母だった。
 ──お母さん、お母さんっ!
 テルミは叫ぶ。小さな体で大人の足を掻い潜り、必死に叫ぶ。同時、ホームに電車が到着し、全ての音が耳障りな音に潰される。人々が順番に、到着した電車に吸い込まれる。母もそれに従い、ゆっくりと歩を進める。
 ──お母さん、お母さん、どこ行くの、お母さんっ!
 めまいがする。人が全て、同じ箱に収容されていく。母が、どこかへ行ってしまう。吐き気がする。自分はどうするのか、お母さんはどこへ行くのか。母の両手に下がっているバッグが、さらにその不安感に拍車をかける。必死にテルミは叫び続けた。
 ──お母さん、お母さんどこへ行くのっ? 僕は、僕も連れてって、お母さんっ!
 母が、振り向いた。
 ──祈りが通じた。お母さんが、僕を見てくれたっ!
 母が歩を止め、後ろの乗客が先に電車の餌食になる。あとちょっと、あとちょっとで自分もお母さんの所へ行ける、後ちょっと! ──テルミは、必死に足を前に進める。
 おもむろに、母が口を開いた。一瞬テルミの中で、うれしい気持ちが炸裂する。
 母の口が動き──

「あぁ……テルミ。貴方はもういいの。私は新しい導を見つけた。もう貴方に求めるものは何もない。だから、自殺するなり殺されるなりして、キエテちょうだい」

 ……身も凍るような口調でそう言いって、電車の中に吸い込まれていった。
 テルミは完全に放心していた。鼻先で閉まるドア。窓辺に見える、凍てつく母のカオ。耳をつんざく水蒸気の噴射音。低い唸り。ゆらりと動き始める。電車──。
 はっと我に返り、脱兎のごとくテルミは電車に追いすがる。そして叫ぶ。
 ──『キエテ』って、どういう意味? お母さん、どこへ行くのっ? 僕は、僕も連れてって! お母さん、待って! 僕の何がいけなかった? 怒られるようなことした? もしそうなら、ちゃんと反省するから! お母さん、また帰ってくるよねっ? また優しい顔して、またゆっくり抱いてくれて、僕と一緒に遊んでくれるよねっ?
 もう二度と母に会うことが出来ないかもしれない……。必死に希望的観測を図る心の隅で、そんな絶望的観測がテルミの胸を掻き毟る。
 ──そうだ、お母さんは今から仕事に行くんだよね? だから帰ってくるまで、家に良い子でお留守番していなさいって事でしょ? そしたらいつものお母さんのように、ニッコリ微笑んで帰ってきてくれる……そうだ、そうに違いないよねっ? そのために昨日、僕にプレゼントをくれたんでしょ? それまでの間、我慢強い子でいられるようにっ?
 あっという間に走りゆく電車を境に、テルミと母の眼が、ほんの一瞬交錯した。
 刺して殺すような、まるでえげつない汚物を見るような……そんな、視線だった。
 電車が、行ってしまった。激しく息を吐いている事すら忘れ、テルミは凍りついていた。
 ──……、あ………、そうか。わかった。お母さんは、僕を見捨てたんだ。僕と一緒に生きていくにはきついから、虐めてくる男と一緒に、僕を見捨てたんだ。
 初めての、感覚。
 ──母さんは、僕を裏切ったんだ。
 視野は広がっているはずなのに、脳にその情報は行きつくことなく。それでいて、どこまで広がっているかも分からない闇が、酷く怖い。全ての毛穴が粟立ち、とめどなく冷や汗が溢れ出し。戦慄していた震えは、体全体の痙攣と化する。
 見開かれた瞳から、枯れ果てた涙がこぼれている事すら、気づかないまま。
 テルミは、ただただ、絶望していた。
 最も信頼していたものから裏切られる、死ほど辛い現実。
 寄り添う者が居なくなり、混沌に投げ出され、もうテルミには何がなんだかわからない。
 ひび割れた泣き声が、乾ききった声帯からよりどころも無くもれ続ける。
 全ての……全ての、終焉だった。


「そ……んな……」
 事の顛末を聞き終わったタマは、唖然としてそんな呟きを漏らした。
 信じられない、あのテルミが。親に何かあるとは踏んでいたタマだが、まさかそんなにも──悲壮なものだとは、露も思ってはいなかった。
「俺が司教様に聞いたのは、そのくらいだな。その後、司教様がテルミの面倒を色々と見たらしい。殺人の後の手当ても、カウンセリングも、施設からの独立も。……でも、その出来事からなんだよな。テルミは、誰一人、他人を信用しなくなった」
 安河内の言葉を片耳に、タマは思い起こす。今までのテルミの態度、対応、表情。結果を聞くと、そう思わせる片鱗がかすかにあったように思える。なかなか自分を受け入れなかったのも、お守りを桃原に見せたときに思わず引っ込めたのも。
 同時にタマは、自責の嵐に呑まれる。
 テルミしかいなかったとは言え、融通に乗り込んだ自分。テルミの何を知るわけでもなく、我が物顔で振舞う無神経な自分。とにかく自分の事を解ってもらいたくて、テルミのことは後回しにしてきた、自己中心的な自分。
 誰でもいい。思いっきり殴ってほしかった。目の前の安河内でも、なんならテルミでもいい。顔の形が変わるまで、目も向けられないような無様な顔になるまで。殴られても、タマは痛みを感じない。機械的に抑制され、衝撃のみが伝わるだけ。
 それでもタマは自分に対して怒っていたし、自己嫌悪の圧力に潰されそうだった。
 もし自分が、『ヒト』ならば。『ヒト』というテルミと同じ立場に立ったのならば、ほんの少しでも、分かることができただろう。同じ立場でなければ、同じ『ヒト』で無ければ分からない感情。『ヒト』という存在がとてつもなく遠いものに、タマは思えた。
 ……もしも、『ヒト』なら。もしも、もしも『ヒト』であったならば……。
「でもね、タマちゃん……。テルミは、変わったんだよ」
 いつものお調子な、安河内の声ではない。もっと底があって……真意に迫る感じ。
 つられて、タマは重い頭を上げる。
「タマちゃんが来てくれて、テルミは変わった。外見も、表面上の性格も、読み取る事は出来ないが、でも確かにあいつは変わった。あいつがあんなに、一つのことに肩入れするのははじめて見たな」
 同じような事を、タマは桃原や友常にも言われたような気がする。タマの目には解らないが、安河内たちの目にはそう映っているらしい。
「あいつが──テルミンが、暇つぶしに雲を見ることもなくなったしな?」
 窓の向こうに見える自由奔放な雲を目に、安河内が言った。その奇異な安河内のことを、ようやくタマは悟る。
 誰よりもテルミを心配していたのは、安河内なのだ。同好会ではあまり噛み合っていないような二人に思えるが、二人の心はもっと別の、深い所にあったのだ。少なくとも、安河内は。
 心配……、この気持ちが『ヒト』でいう、心配……。
「タマちゃんが居てくれて、本当に良かったと、俺は思うぞ」
 安河内は独り言のように言う。タマは本当に良かったのか、分からない。でも……
『すき』……。安河内に先ほど言われ、戸惑ったその言葉。今なら、なんとなく分かるような気がした。恐怖ではない。あれは多分、『しんぱい』や『しっと』。
『すき』という感情は、もっとこう、胸が締め付けられて、その存在が居ないとどうしようもなくなるようで……。上手く言葉に出来ないが、今自分がテルミに感じているこの感情が、『すき』という感情なのだろう。
 安河内の視線を追い、タマは空を泳ぐ雲に目をやる。
 なんとも、変な形だった。


「すまないね、テルミ君。偉そうなこと言ったわりに、自分で考えろとか言って」
「いえ、僕のほうこそ急にすみません。話を聞いていただいただけでも、心持がかなり楽になりました。それに、僕は司教様のいうとおりだと思うので」
 玄関口に立って、テルミが言う。司教は、気恥ずかしさの残る笑みを見せた。
「そう……それは、よかった。是非、今度そのタマという子を私の下へつれてきなさい。ちょっと見てみたいんでね。それから、いつでもミサにきなさいよ? 忙しいとは言え、君もれっきとした信者なんだからね」
 冗談めかして言う司教に、テルミは「それじゃ」と笑って別れた。
 結局、何かを得たわけでもなかった。これからタマと住むにあたり、接し方も、心も持ち方も、その在り方も。何もわからずじまいである。
 しかし、それでもいいのではないだろうかと、テルミは思う。
 司教の言うように、他の人からの答えを鵜呑みのすることはできない。それならば自分自身──ゆっくりと、答えを見つければ良いだけのこと。
 出来る所まで心を放ち、駄目だと思ったら引きこもる。そして、自分の心を確かめる。ちょっとずつでも進めればいいし、後退してもいい。おそらくそれが、一番の近道なのだ。
 タマを受け入れようとしている自分を、生かすも殺すも自分自身。ただ、それだけの事。
 そう思うと、胸にたまっていた何かが開放されたようだった。テルミは大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。すべてはこれから──決めれば良い。
「──さーてと。そろそろ家に帰ろうかな。変態一人つかせるだけじゃ不安だし」
 行き道とは大違いの晴れた気持ちで、テルミは足を踏み出した。
 ──と、したところ。ふいに視線がスライドし、その足が止まった。視界隅にちらついた、何かの影。平屋と真逆の位置に聳え立つ木々の、深い闇の中に目をすぼめる。
「………漆間?」
 遠くて影が深く──断定は出来ないが、端整で機能美な顔は、漆間そのものだ。
 何かを見つめているようだ。いや、あれは……睨んでいる、という動詞が正しい。その視線の延長線上をたどると、平屋のドア前に佇む司教へ向けられている。司教の顔にはどこか、冷たい何かが漂っていた。
 テルミは考えてみるが、大して司教と漆間がつながりを持つような事はない。以前何度か、同好会として会っただけのはずだ。
「あいつ……何やってるんだろう……?」
 不審に思い、テルミが漆間に向かい声を張り上げようとした、その時だった。
「テ────ルぅ────ミぃ────っ!」
 真横から響いた叫びが、彼の右耳を介して脳をまっすぐ貫いていた。脊髄反射で体が弾むが早いか、横殴りの衝撃がその体に襲いかかる。一度は経験した事のある、ゴスコン、ダスコンと激しく転がるにもかかわらず、あまり痛くないこの感じ。
 体が動きを止めると、テルミは仰向けで大の字を作り、天を見上げる形となっていた。しかし空は見えず、黒いシルエットが視界一面に覆いかぶさっている。そのシルエットに向かい、テルミは呆れと叱咤の混じった口調で言った。
「……タぁマ。家で待ってなさいって、言ったでしょうが」
「にゃはは。テルミがあまりにも遅いのでのう。待ちくたびれて、来てしまったぞよ」
 白い歯を出してニンマリ笑うタマに、仏頂面でいたテルミも自然と吹き出した。
 こんなお茶目な一面も、自分を揺るがす要因の一つだと分かったから。
「──とりあえず、そこをどいてくれるかな? 動けないんですけども」
「おお、すまんな。ついつい。よっこらしょ……っと」
 ひょいとタマが飛びのき、片手一本でテルミの体を持ち上げる。見送りがああだったので心配していたが、相変わらずの怪力ぶりで何よりだ。
 自分とタマのヨゴレ払いながら、ふと思いつき、テルミは視線を隅の林へ向けた。
 暗い闇の中、すでに漆間らしき人影は消えていた。平屋の方にも首を向けるが、そこにもすでに司教の姿は無──いや、いた。玄関口から見える表情は、背筋の凍るような冷淡な表情だった。え、と思いテルミは目をすぼめる。ふっと目を細めた司教は、察知したかのように、玄関口の向こうに姿を消した。
 テルミは訳が解らず、首を傾げた。
 何だったのだろうか。二人とも話があるなら、顔をあわせればいいのに。ケンカをしたとか? ──ありえない、か。単なる見間違いか、それとも……?
 ──瞬間、ゾクリとした。背筋に電流が奔り、暑さのせいではない汗がどっと噴出し、どの生物にも原初に割り当てられた本能という名の警鐘が、脳内で喚き散る。
 一瞬にして体の自由を奪われたテルミは、流し目でそろりと隣を見た。
 殺気。完全なる、一片の迷いも無い殺人願望。──タマ。
 闇を切り落としたかのような少女に、闇そのもののような邪悪な殺気の嵐。チリチリと、肌が痛む。一秒が、何時間にも感じられる。頭が眩み、立っているのが限界に達そうとした頃。──静々と、それは引いていった。
「む……」
 扇子をバシュっと広げ、引き締まった口元に押さえつつタマが唸る。テルミは震える声帯を励まし、切り口上に尋ねた。
「タ……タマ……? し、司教様が、どうかしたの……?」
「司教? 今のあやつが、テルミの言う司教なのか?」
 雰囲気のまるで違うタマにビクリとし、テルミは頷く。
「そうだけど……それが、どうしたの?」
「…………。……、いや、なんでもない。気にするな」
 そう言って笑ったタマは、すでにいつものタマだった。
「さ〜てと。早く帰って、ごはんを食べようぞよ、テルミ。ヤスの奴、雲の珍しい形を見つけたのどうのこうの言って、どこかへ行ってしまったからのう。……なんにしようかのう。お子様らんちかぁ、鳥の丸焼きかぁ、それとも……ん、テルミ、どうしたのだ?」
 あまりに拍子抜けなタマの態度に、テルミはぽかんと口を開いていた。
 今の迫力は、一体なんだったんだ……?
「……まあ、いいか。──じゃあ、タマ。帰りのついでに、材料かっていこうか?」
「にゃっはーっ! いいのう、いいのうっ。では、まろは、まろは、『しゅーりむくるー』も一緒に買うぞよっ?」
「『しゅーりむくるー』……? あぁ、それを言うなら、シュークリームでしょうが」
「そんなことはどうでもいい! あのとろとろ感が、まろはたまらなく好きなのだっ!」
「良くないし。だって、それが良かったら、──……、まぁ、いいか。どっちでも──」
 今の殺気が何であれ、今の自分が知るすべは無い。ならば、じき明かされるであろう真実に重々と待ち構えるだけだ。

 テルミとタマがスーパーに行きついたのは、それから一時間後。二十分の道のりを、手足の先を泥だらけにした後のことであった。

 ◆

 後日、テルミが漆間と顔をあわせたときのこと。
「ね、漆間。この間、教会にいなかった? ホラ、同好会の休みだった日。司教様と会ってるの? まさか、信者になりたいとか?」
「……しらない。私はその日、そこにはいなかった」
 レオナルド・ダ・ヴィンチともタメをはれるであろう、さまざまな面で天才君の漆間。実の所、テルミはそんな漆間の事を何も知らない。漆間の性格や、家族構成、生活環境……。漆間は何も語らないし、例え聞いても軽くかわされて、はいお終い。
 漆間を知らぬのはテルミだけに言えることではない。学校の先生を含めた全人類が、知るすべも無い事柄なのだ。まさに、空前絶後の謎だらけ美少女。
 が、深追いしてまで漆間の事情を知ろうとは思わないのも、また事実だ。
 漆間七不思議は、謎だからこそこそ価値があるのだから。……知るのが怖い、というのもあるが。
 それでもやはり、一つだけ気になることがある。
 何故漆間は、蒼穹溺愛同好会なんて辺鄙な所に入部したのだろうか──?

 ◆

 それからまた少し、波乱の中の平穏という、矛盾した日々が紡がれた。

 安河内の戯言により、名も無い島への合宿が決定したり。一週間後の合宿なのに前夜祭ということで、未成年チューハイ祭りをしたり。意外にも友常が酒乱だということが判明したり。桃原のデザインした服装をタマが着込み、劇的にビフォーアフターしたり。漆間の読書本が、ついに『百科事典』の域にまで到達したり……。
 そういって紡がれる日々は、不思議とテルミの心に深く刻まれた。時には退き、自分と皆の距離を保ちながらも。それでいて確実に、着実に。
 平穏で。ふっと吐息の漏れるような。忙しい事が常とする。そんな日々──。
 ──だからテルミは、失念していた。滅却し、消却し、忘却して全てを忘れ去っていた。
 今彼らの紡いでいる日々が、どれだけ危ない砂上の楼閣か。
 まさに、嵐の前の静けさ、という比喩が正しい。
 あまりに脆く、和紙のように軽く力を入れるだけで引き裂かれるもの──否、引き裂く者。
 マギリストロトン。自分たちの日々を犯す、敵がいるということを。
 テルミやタマは、すっかり忘れきっていた。
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