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ファーフル・プラネット

第二章

「おおー! すごい、その手があったね! さすがタマちゃん、頭良いっ!」
「にゃーっはっはっはっ! まろとトモの『ちびっこぶらざーず』を嘗めてもらっては困るぞよ! さぁ、どうとでも来るがいい、『いちゃつき夫婦』!」
 良い手を打って黒の領域を倍にしたタマが、意気揚々とふんぞり返る。気おされた桃原は、
「うわーん、どうしよう、テルミくん! 私たちの聖域が、侵されちゃってるよぅ!」
 本気で心配しているようにテルミにすがりつく。テルミは苦笑いで応じた。
「おおーい、テルミ。次の手で挽回しなきゃ、終わっちゃうぞー。……フフ」
 気味の悪い笑い声を洩らしたのは安河内だ。せわしなく、かつ確実に卑しい動きで、自慢のカメラを駆使しタマをあらゆる角度から激写している。桃原の手刀が彼の首筋に炸裂した事は、言うまでもない。
 場所は、例によってテルミ宅。テルミと桃原が並び、その前のデザイン性豊かな白黒オセロを挟んで、向こう側にタマと友常が跳ね回っている。外野のソファには、漆間と安河内がいた。
 今年度夏休みの蒼穹溺愛同好会における、正式な活動内容作戦会議。
 が、志した活動内容はどこへやら。元来、悠々自適な活動をするのは、この同好会には珍しい事ではない。しかし、ここ最近はその内容というか密度というか、そんなものが倍以上になっていることを、テルミは感じ取っていた。
 理由は明白だ。活動目的を忘却する、遊び要因が一人増えたからに違いない。
「にゃはははは。どうしたテルミぃ、頭もお尻もでらんかぁ?」
 もちろんそれは、タマである。テルミは白石を持ち、
「頭とお尻じゃなくて、手と足でしょうが……っと」
 訂正しつつ、マグネット版にぱちっと乗せた。そして石を順に、十二枚も裏返す。桃原と友常が驚きの声を上げた。
「ふみゃ? な、なんと! そんな隠し玉があったのか! は、まさかそのためにまろの石をあそこに置かせたというわけか? くぅ、誘導するとは卑怯な! ッ、不意打ちとは『ぶしどう』に反する事ぞよ! よくもまろに恥をかかせてくれたな、テルミぃ!」
「別に僕、武士じゃないし……」
 テルミにしてはもっともな正論なのだが、嘘泣きを始めたタマを見た安河内が、
「テルミン! なんてことをするんだ、お前って奴ァ! こんなくわぁゆい子(かわいい子)を泣かすなんて、同じ『物』を吊り下げているものとして、許されん!」
 ここぞとばかりに勇敢な男ぶりをアピールした。それにしてもそこでその比喩は、明らかなイメージダウンですよ、安河内さん。テルミは冷静に思いつつ、
「ごめんよ、タマ。今日の晩ご飯はタマの好きなヤツを作ってやるからさ?」
 タマの頭を撫でてそう言った。一週間も一緒に過ごしたのならば、扱い方……どういうふうな対処を取れば良いのかなども、大体解ってくる。妙に隣から、私もして欲しいよ的な視線を、テルミは感じた。聞くや否や、タマは歓声を上げて勢いよく立ち上がった。
 抱擁しようと近づいた安河内は、そのタマの頭に顎を思いっきりぶつけ、悲鳴も上げる暇も無くもんどりうって転げた。……馬鹿だろう?
「じゃあのう、じゃあのう、まろは『おむらいす』とアイスをいっぱいぞよ!」
「いいなぁ、タマちゃん。僕だったら……ケーキが良いなぁ」
「お……おれは、タマちゃんの食べかけガふァッ!」
 卑猥な言葉を吐こうとした安河内に、すぐさま桃原の鋭すぎるつっこみが炸裂し、カーペットの上を派手に転がった。
「キモいんだよ、お前ッ! そんな生理的嗜好があるなら、ネズミと一緒に残飯でも食い荒らしてこい、このキモ男がッ!」
 流石にそんなことを言われる安河内を、テルミは哀れになった。
 そんな大騒動の中でも、漆間は眉一つ動かさず読書を続けている。
 数日前と変わりの無い、仲間を隔たらないタマのざっくばらんな性格。だが──それを見つめるテルミは、内心複雑な心境だった。
 マギリストロトンとの戦いから、約一週間。その夜までは落ち込んでいたタマだが、次の日起きると、あっけらかん。嫌になるまでの元気を取り戻した。傷ついた腕を自分で修理し、「むっきむき」と言って、細い上腕二等筋を見せつけるほどだ。
 表面上はそんなだが、存在を否定されて、すぐ平常心になれるはずもない。おそらくは空元気。タマへの興味を抑制していたとしても、痛みを感じられずにはいられなかった。
 タマとマギリストロトンが交戦した結果、二つのことが分かった。一つは、教徒と言っていた事から、マギリストロトンが何かの教団ということ。二つ目は、タマの何かを狙っているわけではなく、タマ自身を狙っているということ。理由は、いまだ不明……。
 あれから、マギリストロトンからの音沙汰も全くない。タマと自分の関係を知り、すぐに追い討ちを仕掛けてくるとばかりに思っていたが……そうでもなかった。
 とりあえずテルミは、タマが一緒に暮らす事を認めた。物理的にではなく、心理的にだ。
 幾度と無く瞼に浮かぶ、泣く事も出来ない弱弱しいタマの姿。そのたびに感じる経験の無い感覚が、胸を締め付けるのだ。使命感にも似た、何かが……。
 ふと我に返ると、次の手に詰まったタマと友常が、ありもしないルールを行使していた。読書機能だけをかね添えた漆間にすがりつき、オーディエンスを宣言している。
 漆間は機械的に首を動かし、タマを見る。ついで、盤面に目を落として数秒考えるような間を取った後、白くて茎のように細い指で、一つのマスを指差した
「あ」
 まさにそこは、見つけられなかった急所。みなが、同じように呆けた声を上げた。
「よぉし、友常と書きまして、『ゆうじょう』ショットだぁ!」
「うむ! これでまろたちの勝利は、『ふぁいなるあなたー』ぞよ! にゃははは!」
 はしゃぎまわる二人をよそに、漆間はもう定位置に戻り活字マニアと化していた。
 知り合って数年になるが、やはり漆間は何に関しても謎だ。わずか一週間でつかみ所を心得れるタマとは、大違いである。
 ──と、その時。漆間とテルミの視線が合った。否、漆間の視線を感じ、テルミが合わせたのだ。底知れぬ深い輝きを含む双眸。何かを見通すような、そんな視線だった。思わずテルミがどきりとしたときには、漆間は書籍に目を落としている。
 まるで監視していたような視線に、テルミは首をひねった。……なんだ?
 ──神の託宣により、そのままタマたちの自称『ちびっこぶらざーず』が勝利した。そのため、泣きつく桃原を、心なしにもなだめる役をテルミは強制させられた。好かれ過ぎる側もつらいと思うのは、傲慢な気持ちなのだろうか。
「よーし、じゃあ次はトランプといきましょうか、タマちゃん。今度こそは俺とタマちゃんのコンビで、優勝を──」
 痛むあごを抱えつつ立ち上がった安河内が、デレデレとしながらタマへ近寄る。なんとなくその動きにムッと来たテルミは、取り押さえようと手を伸ばそうとするが、
「──はっ。イカン! 俺たちはこんな事をしている場合ではないではないか!」
 手を伸ばす寸前に、安河内はようやく我に返った。気づくまでに一週間、遅いわ、バカ。
「えー、ゴホン……。では今から、大気汚染をする糞野郎どもの撲滅を願いつつ、蒼穹溺愛同好会の会議を始めたいと思います」
 続く、きをぉつけぇ、れぇい、の号令に反応するものはいない。
「今日集まってもらったのは他でもない。世界の正義・環境庁よろしく蒼穹溺愛同好会の夏休みにやる、正式な活動内容を告知する事だ。ことに今年の重要性は、昨年を軽く上回る。今年こそ生徒会の頑固頭どもをひいひい言わせ、我ら蒼穹溺愛同好会の重要性向上と共に、研究会への昇進をしなければならないのだからな。で──その内容だが……」
 そこで安河内は、例による意味ありげな笑みを浮かべた。
「今年の活動内容は、『ファーフル・プラネットの詮索』、だ!」
 途端、罵声とブーイングの嵐が、無防備な安河内に浴びせかけられた。
『ファーフル・プラネット』という単語を拒否するテルミに、タマが聞く。
「なんぞよ、『ふぁーるふ・らもねっと』とは?」
「『ファーフル・プラネット』。……安河内が思い描いている、幻想の風景だよ」
「そうそう。ガリメガネの言う事なんて、耳に毒だから聞かないほうがいいよ?」
 テルミと桃原の侮辱に、安河内はなぜか座り、机をばんと叩いて今一度立ち上がった。
「なぁーにをいうか、この裏切り者ォ! ユダだ、お前たちはユダだ! なァ、漆間もあると思うだろ? 漆間から借りた本に、その存在するって載ってたんだから!」
「……『ファーフル・プラネット』の存在は、他の書籍には記されていないため、デマの可能性が高い。現段階の科学技術では、証明は出来ない。存在を明らかにするには、書籍を下に実物を発見するしかない。……判断材料が少なすぎるため、あまり推測は立てられない」
 空気を読むことを知らない漆間の言葉に、場の空気が白々しく凍った。

『ファーフル・プラネット』
 安河内は愛着を持って呼ぶそれは、実の所、漆間の言うとおり何も解ってはいない。
 胡散臭い古い書籍に、名称と存在が記されてあったのだ。どうやらそれは何かの『場景』らしく、必然やら偶然やら奇跡やら……。なにやら重苦しい言葉の羅列で、説明されてあった。
 書籍には、場所、状況下、あまつさえ場景の詳細まで、存在以外は何のてががかりも記されてはいなかった。しかもその書籍以外に、『ファーフル・プラネット』の存在の片鱗さえ出てこないというのならば、テルミが呆れるのも、桃原が安河内に手刀を入れてしまうのも、仕方ないことのなのだ。
 景色一つ見るくらいならば、ヒマラヤ山脈でも登って下を見ろ、とでもテルミは言いたい。が、残念な事にそれはダメらしい。登るのに数百万いるとか、訓練が嫌だからとか、そんな即物的問題からではない。安河内の目的は、風景を写真に収めて蒼穹溺愛同好会を確立する他に、もう一つあったらしいのだ。
 書籍に記されてあった、手がかりにもならないもう一つの記述。その記述のために、安河内は同好会まで立ち上げて『ファーフル・プラネット』を探しているのだ。その、もう一つの手がかりとは。
『その場景を目にしたもの全てに、必ずや願いの叶う奇跡が起こるだろう』
 ああ、なんともメルヘンチックですばらしいですね。アホか。

「あちゃぱー? それは本当か! ほー、まろも是が非でも見てみたいぞよ!」
 そんな、小学校を出ているものならば、サンタクロースと同じくらいの信憑性のハナシを、タマは大きな目をぱちくりさせて信じてしまった。
「えぇ? あー……え……っとだね、タマ。それは──」
「おお! タマちゃん信じてくれるのか! そうだよな、願い事がかなうということは、年齢や男女を問わずして語り継がれるロマンだよな!」
 言葉に詰まるテルミを押しのけ、我が意を得た安河内が急に饒舌になる。ガシッと安河内の胸倉を掴んだテルミが、安河内を部屋の隅に引きずる。
「おい安河内、タマが信じちゃっただろ! ただでさえ扱いが難しいのに、それに拍車をかけてどうしてくれるんだよ、お前! ……ああ、めちゃくちゃ喜んでるし……」
 夢広がるタマを尻目に、テルミは安河内にひそひそ声で怒鳴る。安河内は、心外だな友よ、という風に、テルミの肩に手を置いて、
「まあまあ、そうヤキモチを焼きなさんな、テルミン。俺は紳士なんだぞ? いくらなんでも、親友のお前をはじいてまで、そんな気にはならないぞ。安心しな」
 うわべ声で言って、オンチな口笛とスキップで、さっさと戻っていった。ヤキモチなんか焼いてない、と反論を飛ばそうと口を開いたテルミは、だが言うことなく口を紡いだ。ヤキモチ……なんかじゃない。ただ、なんとなく……気になるだけだ。

 それからとりあえず、十分間ぐらい適当な話し合いをして。結果はやっぱり分からないという結論に行き着き。みんながダラダラし始めたのを安河内が怒って、テルミに「酔拳じゃー」とか何とか言って攻撃しようとし、足を滑らせて再びアゴをタマの頭に打ち。
 苦しんでもだえているバカをほっぽり出して、そのほか全員でパーティーゲームをわいわいやって。意外なことに漆間が四億円近い差をつけてぶっちぎりの一位になったり、タマの将来像がペットだったり。何もしていない安河内が罰ゲームで買ってきたアイスを食べて、それでまたまったりして。
 そんなこんなで、その日の同好会活動は終わりを告げたのだった。


「全く、安河内は食べたら片付けないんだから……。タマ、取ってくれるかな、ゴ──」
「む、心得ておる! すでにテルミの横に配置しておいたぞよ!」
「ホント? 気が利くね。……、タマ……。僕のバックはゴミ箱じゃないよ……」
「むぅ? なんぞ、散らかったものを詰め込む袋がほしいのだろう?」
 あくまで真面目に聞いてくるタマに、テルミは小さく肩を落とした。
 同好会解散の後、部屋の散らかりようはハンパではない。いい加減、安河内にも他人を思いやる心、というものを知ってほしいものだ。
 テルミは思いつつ、先ほどから気になっているものを肩越しに見る。
「で──桃原は、何故ここにいるのかな?」
「もうちょっと! テルミくんと、タマちゃんと話がしたいから!」
 テルミとタマのいささかシュールな日常会話を傍観しているのは、ソファに鎮座した桃腹だ。同好会が解散した後も、帰らずに居座っていた。自分としては、特段話したい事など無いのだが。断る理由も勇気も無い。
「ふむ、まろはいつでも付き合ってやるぞよ、モモ」
 そう言ってえばるタマの表情は、どこか浮いている。心許ない何かを、テルミは感じる。
「タマ……君は、そんなに『ファーフル・プラネット』というものを見てみたいんだ?」
「むぉ? な、なんと! どうして解るのだ、テルミ? まろはそんなことは一度も言っていないのに。……はっ、ヒトには予知能力があるのかッ?」
 そのニヤニヤした顔を一瞥するだけで分かりますよ。心の中でテルミは呟く。
「でも……そういうものに憧れるのは、女の子の特権だよね。女の子は幾つになっても、白馬の王子様が迎えに来てくれるのを待っている……。私も、あったらいいなと思うな、『ファーフル・プラネット』」
「へぇ……? 安河内にはあんなに言ってるのに、桃原もそう思ってたんだ?」
「それは、あのバカの前ではそうだよう。認めちゃったら、なんとなくムカつくでしょ? どうせ調子に乗せちゃうだけだと思うしね? ……でも、あって欲しいとは願いたいよ。そうすれば、活動の目的も意味があった、ってことになりそうだしね?」
 今の桃腹は、憎むべき安河内がいないため、とても魅力的な乙女の雰囲気を出している。想いとは裏腹に、見惚れてしまいそうになるほどだ。
 桃腹の意外な一面を、テルミは垣間見る。と同時に、安河内へ同情の思念を送った。どんなに正しく夢があることを言っても、彼の言う事全て、初めから否定される運命にあるのだ。
「うんうん、そうだのう……。む、それで、テルミはどう思うか?」
「僕? ……うーん、そうだなぁ……。まず漆間の言うとおり、判断材料が少なくて何もいえないし、信憑性も全然ない。もしあったとしても願い事が叶うなんて思わないし、願ったことが叶っても、『ファーフル・プラネット』のおかげなんて考えない。空は好きだけど、そこまでしてみて見たい情景というわけでも無さそうだね」
 きっぱり言い放ち、テルミは言葉を失う二人をちらりと見回す。
「………と、言うのは嘘で。絶対にあると信じる、というまではいかないけど、桃原の言うとおり、僕もあってほしいと思う。願い事も、唱えてみたいしね」
 途端、空気が緩むのを感じた。
「もう、ひどいよう、テルミくん! 私てっきり、テルミくんが怒ったのかと思っちゃったぁ……!」
 心にもなく、ごめんごめん、とテルミは謝った。作戦成功。
 タマが内容をまとめ上げる学級委員のように、えっへんと仁王立ちをする。
「じゃあのう、今ここでその願い事を決めようではないか! そしてその願い事は、自分の中に閉じ込めておいて、『ふぁーふる・ぷらねっと』を見たときに、みんなで言い合おうぞよ!」
「えへ? いいね、それ、タマちゃん。よーし、じゃあ始め!」
 タマと桃腹が瞑目したので、仕方なくテルミもそれに従った。
 目を開けると三人して目を見合わせ、なぜか分からないが、奇妙な笑いが起こった。
「──あ、そうだった」
 思い出したように、桃原が声を上げた。近くにあった自分のバッグをあさりだす。
「私ね。今日、テルミくんとタマちゃんに、プレゼントがあったの」
「にゃに? それは本当か、モモ! わぁい、やったぞよ、テルミぃ」
「ああ、桃原。そんな気を使わなくてもいいのに……」
 二つの小さな紙袋を二つ取り出し、「私が好きだから、いいのぉ」と言って、タマとテルミにそれぞれ手渡した。バリバリ袋をやぶって中身を見たタマは、ふにゃ、と首を傾ぐ。
「テルミ。なんぞよ、これは?」
「へえ。綺麗な髪留めだね。小さな花が散りばめられていて……って、ええ? 僕のも一緒? 僕は髪留めを使うほど、髪は長くないんだけどな……」
 桃腹は可愛い鼻にしわを寄せつつツインテールを揺らし、小悪魔めいた笑みを浮かべる。
「タマちゃんはね、なんか黒ばっかしだから。かわいいんだから、もっと明るい色をつけて魅了しなきゃ。絶対にタマちゃん似合うよ。……テルミくんは、タマちゃんとおそろいの方がいいかな、と思って。テルミくんにも似合うと思うよ?」
「そう……ありがとう。うれしいよ」
 テルミが礼を言い、桃原が愛くるしく笑った。
 視線をタマに移すと、髪留めをどう使えば良いのか分からず、握りこぶしで髪を掴み、試行錯誤を繰り返していた。小さく吹き出した桃原が、髪留めをつけるのを手伝う。その姿は実の姉妹のように微笑ましく、緩んだ頬をはっとしてテルミは引き締めた。
「ほら、出来た。……うわぁ、かわいいよ、タマちゃん。これならどんな男の子でも好きになっちゃう……。あ、でも、テルミくんは好きになっちゃダメだよ? す、好きになってもいいけど、その、恋愛感情というか、ええと、私より……というか……っ?」
 急にあたふたし始めた桃原がなんだかお茶目で。髪留めをしたタマが、鏡を見て自分の姿を確かめているのが愛らしくて。
「かわいいよ、どっちも。……本当に」
 と、テルミにしては珍しいことを言った。タマは、うふふと扇子を片手にかしこまった笑い声を出し、桃原は耳まで顔を赤く染め上げていた。
「じゃあ僕は……この髪留めは、お守りと一緒に、紐に吊り下げておこうかな」
 にわかに襟元から紐を探り、テルミはちりめんで出来た紫のお守りを取り出した。色あせ、妙に安っぽい。吊り下げている紐に髪留めを挟み込み、具合を確かめた。
 それを認めた桃原が、興味津々という風に近づいて、まじまじと眺める。
「お守りって……テルミくん、どうしたの、それ? 買ったの?」
「なんとも汚いお守りだて。せっかくの髪留めがもったいないぞよ」
「汚いって……。これはね、僕の大切なものなんだ。本当に、一つしかない、大切な……」
 そう言ってお守りを見るテルミの目には、懐かしむ、でもどこか悲しい何かがあった。
「へー……。ちょっと見てもいい?」
 桃腹が尋ね、言うとおりにテルミがお守りを見せてやろうとした、その瞬間。
 テルミははっと目を見開き、さっとお守りを引っ込めた。
「「え」」
 テルミと桃原の声が重なった。しかし、その意味は異なる。
 何故見せてくれず、引っ込めたのか、ということに対しての桃原の声。しかしテルミのそれは、相手に対してではなく、今見せようとした自分への疑問だった。
「む? どうしたんぞよ、テルミ?」
「え……。あ、いや、なんでも……。あ、ち……ちょっ、と、トイレいいかな……?」
 ぼうっとし、上手く言葉が出なかった。やっとのことで声を振り絞り、テルミは立ち上がってリビングを後にした。
 トイレに入り、動揺しつつ鍵を閉め、突っ立ったままテルミは思った。
 ──自分は今、一体何と言うことをやろうとしてしまったんだろう……。


「むむう。なんぞよ、テルミの奴……。は、そうか。まろのあまりのかわゆさに、思わず直視できなくなったのか。そうかそうか、あやつはうぶな奴だったのう、そういえば」
 そそくさと立ち去るテルミをを不審がったタマは、納得して頷いた。ふと気づくと、桃原がテルミの出て行ったほうを見ながら、目を細めていた。
「どうした、モモ。おぬしもトイレか?」
「……え? あ、いや、そうじゃないよ、ちょっと……ね」
 ぎこちなく桃原は言い、ソファに腰を下ろした。タマは首を傾いで、ぴょんと隣に跳び座る。髪留めをつけると、蝉を貼り付けているようでこそばゆい、妙な違和感を覚える。思わずタマは、にやけてしまった。
 起動してこの方、話すことの出来る知り合いなどいなかったし、何よりもプレゼントなどもらった事も無かった。自分がそんな立場になるなど、ありえないと、心のどこかでも思ってさえいた。しかしそれが当然だという風にしてくれる、桃原に安河内に友常に漆間に──そしてテルミに、自分は感謝の気持ちを隠しきれない。
 タマは知る。おそらくこの感情が『うれしい』ということで、同時に──一人だった頃に二度と戻りたくないと思う気持ちが、『きょうふ』というものなのだろう、と。
「テルミくんさ……。変わったよね、前とくらべて」
 桃原は喋り出すのに、タマは気を取り直して視線をやる。
「んにゅ? そうか? まろにはそうは見えんが……。あ、髪の毛がか? あやつは昨日、『びよういん』とやらに行って、髪を切ったらしいぞよ」
「はは、そうじゃないよ。外見がじゃなくて……内面が。タマちゃんが来て、テルミくんはだいぶ変わった。いつもの、どこかにある冷たさが、なくなって……。テルミくんが他人と触れ合うときの、不自然な感じが少なくなったような感じがするの」
「ほへー……?」
 タマにはよく、理解できなかった。テルミは今日もいつものように朝二度寝もしたし、朝ご飯のパンも焦がしたし、自分の悪戯にも嵌ってくれたし、その度が過ぎると叱ってくれたし、お手伝いをすると褒めてくれたし……。何も、変わったところなど無い。
「私ね、いつもあんな強気でいるけど……。本当は、怖いの。テルミくんに嫌われてるんじゃないかって……。解るかな? 好きな人に嫌われてるかもしれないって言う、恐怖?」
「……む、解らん」
 いや、解っているかもしれない。だが、桃腹の言う感情と今まで自分が感じた感情を比較し、よく解らなかったのでそう答える。
「そっか……。でもタマちゃんのおかげで、もっとそこを踏み越える事が出来そうなの。テルミくんの近くに行く事ができそうなの。だから──だからね、タマちゃん……」
 小さくてお人形のような顔が、タマの顔を覗き込んで、はにかんだ。
「ありがとう。……タマちゃんがいてくれて、テルミくんは変わった。もっとテルミくんの事、分かってあげて。……あ、でも私は絶対負けるつもりはないから。……フフ」
「む………わか……った」
 妙な居心地を、タマは味わった。桃原からいつもの天真爛漫さというか、そういうものが感じられず……いや、それともこちらの方が本当の意味での天真爛漫なのか。そこら辺は、恋する乙女の心という奴なのだろう。よく分からない。
 でも、それよりも何というか──タマは思う──いつも気丈にしている桃原からだからこそなのか、「ありがとう」の一言が、変にこそばゆかった。気恥ずかしさが、残る。
 なんだかなんと言えばいいかわからず、視線を虚空へ泳がせていると──そんなタマの両頬を、ぱちっと両手で桃原が挟みこんだ。
「ひゃ……ひゃんだぁ?」
「あはは、そういうところは、テルミくんそっくりだね、タマちゃん」
 それからしばらく、桃原はタマの頬をぐりぐりし、タマは桃原にぐりぐりされ続けた。

 ◆

 それは遠い記憶。そして今に蘇る──鮮明な夢……。

 歩くたびに床がしなり、風呂も付いていないようなボロアパート。あちこちに脱ぎ捨てられた衣服は汚いカーペットとなり、食い荒らされた食器はテーブルや炊事場から溢れ、壁にカビの這う部屋からは、アルコールと生物の異臭が立ち込めていた。夏の蒸し暑さも加わり、お世辞にも人の住んでいる部屋とは言えなかった。空き巣の後でもここまでならないというほど、全てが乱雑な家。足の踏み場もない、まさにゴミ屋敷。
 そんな部屋に、テルミは浮いていた。苦虫を噛み潰し、味わって飲み込んだときのような、苦痛と悲痛に満ちた表情が彼の顔を這う。
 また、この夢か──。
 疑いではなく、もはや確信。しかしそう思っても、この場から脱する事は出来ない。さながら、あらかじめ進路を決められたドミノのように。
 心の奥底に固く封印した、幼い記憶。時を越えて夢という形で現れ、忘れようとするテルミの思いを許さない。苦痛と──喜びを巧みに織り交ぜて。
 何度も見ている夢……のはずだが、この先どういう風に事が運んでいくのか、テルミには分からなかった。妙な矛盾による、妙な感覚。同時にそれが、新鮮な感覚を作り上げる。
 自然と顔が、部屋の隅に向いた。
 何かを恐れているかのようにうずくまる、見るからに弱々しい二人が、そこにいた。
 荒れた長い髪を乱暴にまとめ上げ、何日も洗ってない垢のこびりつかせた服を身につけている、三十路の女性。彼女に抱きかかえる形となっている、幼稚園児ほどの男の子。いずれも浅黒い痣が、露出している肌に数えるほど浮き出ていた。
 男の子の名前は──天貝テルミ。
 見下ろす幼い自分は、ひどく頼りなく、かぎりなく小さな存在に見えた。
 それをやさしく……包み、込んでいるのは………
 ──母さん……。
 声に出したつもりが、出なかった。喉下でつまり、息さえも漏れなかった。
 運命の──というべきか。しかし決定的な人生のターニングポイントになった事に、違いはない。今のテルミは、そう解釈している。……『あの日』の事を。
 これは、そんな『あの日』の前日。脅えるように部屋の隅にいる二人は、だが相反して、その表情は朗らかだった。
 父親──いや、この時のテルミはそう認識はしていなかっただろう。実際的には間違いはないが、心理的には──酒にまみれ、家族を顧みず暴力を振るう、穀潰し。一緒に住んでいる、迷惑他ならないただの男。ただただ、そう認識していた。
 だからこそ、その『男』から自分を守ってくれる母を、テルミは信頼していた。
 世界一、それこそ溺愛していた。
 ともかく、その『男』がいつものように暴力を振るい、金を鷲掴みにして、家を後にしたその後。片時の平穏を取り戻した、その後。母との二人だけの時間に、そして何より、先ほど話した二人だけの『作戦会議』に、この時の幼いテルミは有頂天になっていた。
 何を話したのか、詳しくは理解していない。その結果どうなるのか、幼いテルミは考えようともしていなかった。ただ、母との『二人だけの秘密』という言葉や事実に、幼いテルミは陶酔しきっていたのだ。
 母の表情は柔らかく、聖母像のように全てを包み込むようだった。しかし目を凝らさずとして、同時に抜け落ちる事が困難なほどの疲れが見て取れた。年齢の割には顔にしわが多く、目元は落ち窪み、その笑みを保つ事すらきついようだった。
 見下ろすテルミは不安になり、母を安心させたいと強く思う。傍観する自分も一緒に抱擁してもらい、幸せを分かち合いたかった。
 ──母さん、母さん。僕はここだよ、母さん。
 が、声が出ない。口が空しく、ぱくぱく動くだけ。せめて近づき、触れたいと思う──。
 体は、動いてくれなかった。いつも首から吊り下げているお守りから、何千本もの紐状の触手が出現し、いつの間にか体中を雁字搦めに仕立て上げていた。腕先や足先、胴体などいたるところから伸びる触手の先端は、抜け落ちそうな天井に行きつく。天井から触手によって吊り下げられているテルミの姿は、さながらピエロの支配下にある傀儡だった。
 にわかに、くぅ、という間の抜けた音が響いた。途端に、幼いテルミが顔を赤らめて小さな体をさらに収縮させる。母が、目を丸くする。
「テルミ、お腹すいてたの? なら、言えばいいのに」
 ぶんぶんと、小さな頭が横に振られる。母は、呆れたように小さく息を吐いた。小さいなりに色々と考え、食事するお金すらないと分かっていたのだろう。すると母が、ポケットからビスケットを取り出し、袋を破る。
「はい、今はこんなのしかないけど……。ごめんね」
「おかあさんはぁ?」
「お母さんは……さっき、食べたのよ」
 下手な嘘だった。目が完全に泳いでいる。不器用な母親。自分の子供を安心させる事も出来ず、ビスケット一枚すら安心して子供に食べさせる事の出来ない、でも優しい母。
「だぁめ! おかあさんも、一緒にたべるの!」
「うーん、じゃあ……ちょっと、もらおうかな?」
 二人して小さなビスケットを頬張り、声を出して笑った。
 幸せだった。例え、一緒住み、殴ってくる『男』の行動がどんなに酷くなっても、食べるものが一日に一回だったとしても、ほしいものは絶対に手に入らないとしても。
 おそらく自分は、このころ最高に幸せだっただろう──テルミは目を細める──ただ母の存在が自分の全てで、でもそれだけで満足で、母がそれを受け止めてくれる。
 親子の当然である光景。しかしそんな身近なものだからこそ、気づかない大切なもの。
 最高に幸せだった──でもだからこそ、自分は疑いもせず信じていたのだ。『作戦会議』を称する、異常な行動内容に。幼い自分は、不安など覚える事も無く。
「テルミ……。これを、あなたにあげるわ」
 母がそう言って幼いテルミに差し出したのは、まさに今の彼を呪縛している、古ぼけた紫色のお守りだった。幼いテルミのまん丸に開いた瞳が、きょとんと母を見上げる。
「これ、なあに?」
「ふふ………これはね、お守りっていうの。これをもって、大好きな人を思い浮かべて、お祈りするの。幸せになれますように、って」
「ふぅん。じゃあ、おかあさんは、だれにおいのりしてたのぉ?」
「もちろん、お母さんはテルミが幸せになれますように、ってお祈りしたわ」
「やったー! でもねでもね、僕だけじゃなくて、おかあさんも一緒じゃなきゃダメなの」
「そう……ふふ……じゃあ、テルミ。これを貴方にあげるから……お母さんのこと、幸せになれるように、ってお祈りしてくれるかしら?」
「うんっ! まいにち、僕おいのりするよ!」
 母にもらった、唯一の物。自分だけの、大切な……。だから勢いとは言え、今まで触らせたこともなかったお守りを桃腹に見せてあげようとした時は、自分を疑って、激しく動揺した。
 宝物を受け取ったかのように、まぶしい目でお守りを見つめる、幼いテルミ。母はそんな彼を抱きこみ、小さく言った。
「……それを……母さんだと思って、大切にしてね……」
「うん、ありがとっ!」
 母の顔は、悲しみに溢れていた。幼いテルミは気づかずに、声音を跳ね上げていた。
 傍観していたテルミは、様々な想いに打ちひしがれ、吐き出したいほどの不安感にさいなまれた。今の言葉。母はもう、この時には心を決めていたのだ。……この時には? この先の展開が見えないのに……この先に、何がある?
 よく分からない。でも胸が締め付けられる想いに、テルミは必死に叫ぶ。声は出ない。近づこうとする。触れたいと思う。宙吊りになったからだが揺さぶられるだけで、ほんの少し、近づく事すら叶わない。
 新鮮な感覚があるからこそ、その悲壮も初めてのようで心を引き裂く。
 もう、同じことを今まで何度、テルミはやってきた事だろう。同じ夢を見るたびに。同じ状況に陥るたびに。同じ母の表情を──見るたびに。
 するとそこで、母が思いもよらぬ事を言った。
「そうだ……テルミにもう一つ、言っておかなくちゃならない事があったわ」
「えー? なーに?」
 もう……一つ? なんだ、それは? 思わずテルミは、問えない言葉を自問にした。全く予想外の展開だった。どういう風に事が運んでいくかは解らなかったが、確実に『今までと違う』という事だけは、何故だかはっきりと理解することができた。既視感が、ない。
「お母さんたちの家はね、結構古い歴史があったらしくて……。なんだか、代々受け継がれている言葉があるの。お母さんも、よく分からないだけど、私のお母さん……テルミのおばあちゃんがね、絶対に伝えなきゃダメだって」

「それはね、『      ュ ・   ラ        ム』っていうの……。『最愛の者』って言う意味らしいんだけど……はは、やっぱりお母さんにもよく分からないや」

 幼いテルミは、「なんだか呪文みたいだね」と、首を傾げていた。
 見下ろしていたテルミは、訝しさに眉をひそめた。その『呪文』らしきところに限り、荒い電子ノイズが割って入ったように、上手く聞き取れなかった。
 もっとも、彼はあまりその言葉に興味を示しはしなかったのだが。
 今までと違う夢。いつもすぐ途切れてしまう記憶。今回に限って、何かが違った。何故だ? ──テルミは深く考えなかった。ただ、母の面影を長く見られることがうれしい。母との会話を多く聞けることに心はずむ。
 だが終わりは唐突に、かつ全ての事柄に平等に訪れるもの。
「あ……母さん、もう行かなきゃ。ごめんねテルミ。じゃあ……母さんとの『作戦』、よろしくね、テルミ」
「うん、分かったっ!」
 寝起きから冷水にどっぷり付かされたときのように、見守っていたテルミの体温がどっと引いた。一瞬の自失からややあって、我を忘れたかのように喚き散らす。
 ──母さん! 母さんッ! 行っちゃ駄目だ、母さん!
 ──まだここにいて! 行かないで……そして話を聞かせて、母さん!
 声は出ない。金魚のように、滑稽に口が動くだけ。体は動かない。もはや揺れることもない。
 幼いテルミは、何も知らずに手を目一杯振って母を見送る。母はそれを受け、小さく手を振り返してからドアノブに手を掛ける。ギシギシ音を立てて、開く。暑い夏日の日差しの向こうに、母が行く。所々ある浅黒い痣さえ、全てを包み込むやさしい笑みさえも、白い光が飲み込んで、ドアの向こうに、
 母は──消えた。
 ──母さん、母さん、母さん!
 ──行かないで、僕を置いていかないで、母さん!
 声にならない絶叫を繰り返しているテルミをよそに、幼いテルミは無垢に、ただただ無垢に、お守りをまぶしい目で眺めていた。どうしようもない焦燥が、狼狽が、胸を締め上げて息すらままならない。泣き出したいほどの不安感、嗚咽を洩らしたいほどの恐怖感。魂と自制心が崩壊してしまうほどの──絶望感。
 ──馬鹿、今行かないとッ! 母さんが、母さんが、母さんがッ!
 ──今しか行けないのに! 今行けば間に合うのに! 何故行かない、何故行けない!
 ──今行かないと、今行かないと、今行かないとッ!
 ──母さんが……母さんは、もう………ッ!
 そんな想いが、溢れ出た瞬間。
 全ての悪を取り込んだかのような闇が、触手の生えるお守りから、どぷん、と溢れた。
 それはまるで──我を通す子供の襟首を掴み、去ろうとする親のような、強引さで。心無い言葉によって国を動かそうとする政治家のような、詭弁さで。一つの才能で百万の努力を蹂躙したときにでる笑みのような、悪悪しさで……。
 もがき、絶叫し続けるテルミの肢体を包み込み、やがて彼の全てを闇に陥れた。
 ──母さん、母さん、母さん……!
 ──母さんは……、母さんは、母さんは何で

 ──僕を、裏切ったの……?


「……ールミ……ぃ……。テ……ミ………」
 誰かに呼ばれているような気がする。テルミは重いまぶたを、ゆるゆると持ち上げた。座敷童のような顔が、キョトンと視界に覆いかぶさっている。テルミは数秒のタイムロスを経て、唐突にはっと目を見開いた。
「ふみゃあっ!」
 なん語のような悲鳴が上がったのと、勢いよくテルミが上半身を上げたのは、ほぼ同じタイミングだった。
「ッ……! 、ゲホ、オホッ、……ハア、ハア、ハア……ッ!」
 まるで何かを繋ぎ止めるように、背筋をおって両腕を体に回し、テルミは激しく咳き込んだ。あまりの冷や汗にガタガタと体をわななかせ、剥いている瞳は死んでいる魚のようだった。びっくりして飛びのいたタマに、気づくそぶりもない。
 もう何度目になるだろうか。しかし、慣れる事はない。死海に一人投げ出されたかのような気持ち、酷い恐慌。理性が、本能が、体が、魂が、拒絶反応を起こす。今の夢を見るたび。記憶を鮮明に刻み込まれるたび。
 体の震えは痙攣となり、一度も瞬かない瞳から乾いた涙がこぼれ落ちる。テルミ自身、それに気づかない。
 酷い重圧。周りに何もない空間だからこそ、押しつぶされそうになる。闇が、酷く怖い。カーテン越しのわずかな月明かりがないならば、精神が崩壊しそうになる。しかし矛盾して、頭の中にその光は届くことなく、農質な闇が広がっている。どこまで広がっているのかもわからないし、自分自身、そこにいるのかさえも解らない。……否、いる。が、手足の先や脊髄から、その闇が徐々に侵食し、自分を同色に変えようとてぐすね引いている。
 存在が、存在が欲しい。自分の、そしてそれを包み込んでくれる、温かいものが──!
 パチ、と。
 状況に全く合わない滑稽な音が、室内に、テルミの脳内に響いた。と同時に、網膜を焼き貫く発光が、テルミを襲う。
「うっ……!」
 息を詰めて腕を掲げ、発光源から瞳を守る。やっとの思いで視界を得ると、
「テルミ、どうしたのだ? さっきから唸っておるし、汗かいておるし? そんなに暑かったかのう? ……あ、怖い『ゆめ』でも見たのか? 全く、おこちゃまぞよ、テルミは」
 おかっぱの童顔を最大限に使い、こまっしゃくれた調子でそう言う、少女がいた。遠いようでごく最近に刻み込まれた、鮮烈な名前。──タマが、そこにいた。
 落ち着く気配のない呼吸や、理由も分からず溢れる涙をそのままに──ただただテルミは、眼前の少女を凝視する。見つめられているタマは、小鳥のようにちょんと首を傾ぐ。不思議そうに、上目ずかいでテルミの顔を覗き込んだ。
 自分自身も分からない想いが、のたうつように弾け、炸裂した。
 ──明るい……明るい、明るい、明るい明るい。
 ──ここは……自分の部屋。寝室。僕は今此処にいて──此処に、存在している……?
 圧倒的な僥倖。凍りついていたものが溶け出すような、叫び出したくなるほどの安堵感。自分にも聞こえる、不器用な呼吸がそれに拍車をかける。
 ──存在が、在る。自分の目の前に。それ以上でも以下でもない存在が、自分の事を見つめてくれている存在が……! 闇ではない! 恐怖ではないっ!
 ──僕は、ちゃんと此処にいる!
「どうしたんぞよ、テルみゃっ?」
 何を考えるよりも先に、体が動いていた。タマという存在をかみしめるように、テルミはタマに飛びついて腕を回していた。
「な、何をする、どうしたのだ、テルミ──」
「ッ、……ごめん」
 動揺するタマに、必死の思いでテルミは声を絞り出す。
「もぅ……少しでい、いから……! このま、……で……ッ!」
 しゃくり上げて、言葉になっていない。が、タマは何かを察したのか口をつぐみ、抵抗をやめた。そして、静かに腕を回す。気になりつつも口にしない、そんな気使いが、今のテルミには心のそこからありがたかった。
 温かい……。畏縮してしまっていた体が、徐々に落ち着きを取り戻す。乾いた涙が枯れ、かすれた呼吸が安定する。タマの柔らかな感触に、テルミは静々とまぶたを下ろした。
 温かくて、柔らかくて、力を込めれば折れてしまいそうで……。それでいて確実に、『自分』を証明してくれている。闇夜の灯火が、体全体に広がっていく。
 ──大丈夫、僕は今、此処にいる……。
 いつに無く穏やかな感情が包み込む頭に、ふいにぽんぽんと何かが触れた。調子に乗ったタマが、子供をあやすように「よしよし」と言って、手で撫で下ろしていたのだ。
 ぼんやり靄がかかった頭で、テルミは現在の状況把握を行った。
「──う、わぁ!」
 ばっと後ろに飛びのき、テルミは声を上げた。自分は、何という事をしているのか!
「むぉ。テルミ、もういいのか?」
 全く気にしていない様子で、タマが言う。テルミは先ほどの恐怖も忘れ、動転しまくって手を振り足を振り、しどろもどろになった。
「あ、う、うんっ! だ、ダイジョウブだよ、ありがとう? あ、あの、でも僕は決してそんな気があったわけじゃなくて、むしろ僕自身反対の嗜好と言うか? ああ、いやいや、そういう意味じゃなくて、ああ、ええっと……っ!」
 津波となって襲い掛かる後悔の念に、テルミは押しつぶされそうになる。
 これはまさに、いつしかと全く逆の立場。
 激しい自己嫌悪に、平身低頭謝りつくしたくなった。自分を自分の拳で思いっきり殴打したい。
「テルミ、おぬし、びっちゃり汗をかいておるぞよ? 着替えた方がいいのではないか?」
「え……え? あ、あぁ、そそそ、そうだね、着替えた方が……」
 言われて初めて、テルミは自分の体に目がいった。確かにびっちゃり汗をかいて、乾きつつある。着替えた方が……。
 いやいや、むしろこのまま汗と一緒に自分も蒸発したい! 果てない嫌悪が脳を苛み続ける。そんなテルミにタマが、
「のう……テルミは怖い『ゆめ』を見たから、『なみだ』を流しておるのか?」
 ふとそんなことを聞いた。テルミは、え、と顔を上げる。
「う……うん、まあ、そう……なんだけ──」
 答えている途中で、テルミはその意味を知る。怖い夢……。
 そう、再び、自分はあの夢を見た。思い出したくもない、過去の記憶。
 フラッシュバックが奔ろうと、米神がチクリとする。目を固く瞑り、それを抑制した。
「まろも………そうなりたいのう」
 にわかに聞こえたその声音が妙に落ち込んでいて、テルミは顔を上げた。
「ヒトの誰しもが見る『ゆめ』や、流す『なみだ』……。例えそれが、悲しい事であろうとも、まろはそれを体験したいぞよ。ヒトというものがそういうものであるならば、なおさらだ」
 その内容とは裏腹に、口調にはどこか諦念が入り混じっている。
「そうすれば、ヒトの感情を知る事が出来るし……。なにより──テルミが今どう思っておるのか、解るだろうしな? 何故まろは………普通の人間として、テルミと知り合う事が出来なかったのだろうのう……。もしこの世界に神様がいるとするのならば……なんとも、意地悪好きの輩ぞよ」
 そう言って、仕方無げに苦笑いを浮かべるタマに、テルミの視線は釘付けになる。
 あまりに鮮烈で強烈な衝撃だった。思わず彼は生唾を飲み込む。
 ──何故普通の人間として、知り合う事が出来なかったのだろうか?
 おそらく空前絶後、そんな疑問を問われる人間はいないだろう。問う人間も、また然り。
 生き抜いた上での後悔ではなく、スタート地点から違う事へのふとした疑問。
 小さな少女が抱えるには過酷な、悲しすぎる疑問。
 ではその上で今テルミを救ったタマは、どれほど健気で、強い子なのだろうか……? 今も、これからも彼のことを考えて。己の存在と、足りない思考で。
 瞬間的かつ爆発的に、電気信号がテルミの体を駆け巡る。
 まさに、十七年間積み上げてきた全てのものを、甲殻ごとぶち破られた時のような。
 周りをはばからず、思いっきり叫びたくなる気持ち。そして……矛盾して密度を増していく、罪悪感。
 絶望の境地で助けの手を差し伸べてくれた天使だから? 頼るものが何一つ無く捨てられた子猫のような彼女なのに、それでも他人を思うという、異常なまでの優しさを感じたから? だから、とめどなく溢れ出すこの想いか?
 もっとそうしてほしいと思う、この気持ちか……?
 だとすると自分は、ものすごく身勝手で傲慢な人間だ──テルミは痛烈に思う──のうのうと生きている自分だけを顧みて、必死に生に縋りつくタマを顧みない。なおかつさらに顧みてほしいと思う、馬鹿野郎に他ならない。
 では、それは何故。なぜ──なぜ……? なぜ顧みない? タマを家に入れたときに、最初に決めた事だから? 今までも、意固地になって突き通してきた事だから? 他人と心を通わせることを嫌う、自己中心的な自分だから……?
 いや、違う! そんなのは建前にもならない! 答えは明確に自分の中にある! 誰とも深く関わりたくないと思う、自分がッ! 本当は──本当は、自分は……ッ!
 怖い……、のだ。どうしようもなく怖くて、恐くて、こわくてたまらないのだ……。
 ……タマと会って、テルミは何も変わるはずがないと思っていた。なんとも、安易な考えだったと思い知らされる。こんなに揺るがされるとは。今まで生きてきた中で作り上げた楼閣を、砂上のものにされようとしている。
 未だにテルミは信じられない。何故自分はこの少女を家に招きいれ、こんな気持ちにさせられているのか。考えさせられているのか。初めて会って、まだ一週間なのに……、何故この少女は、こんなにも自分を揺るがす力を持っているのか。
 テルミは目を細める。欲しいものを切望する子供のような眼でうつむいているタマを、じっくりと凝視する。何度見ても、どこにでもいる幸せな中学生にしか見えない。
 いや、それは比喩ではない。自分の眼前にちょこんと座っている少女は、紛れもなく完全なヒトだ。ヒトの感情や気持ちなどが不器用なだけで、体の構造がちょこっと違うだけで、本質的なものは完全なるヒトだ。喜ぶときもあれば悲しむときもあるし、怒られる事もすれば、ほめられるような事もする。
 しかし、そんな少女に今かけてやる言葉が、テルミには見当たらない。言葉は模索するとしても、その気持ちが今の自分には決定的に欠けているのだ。
 苦痛を感じて眉間を震わせ、テルミはぎゅっと目を瞑る。開ける時は反して緩やかに。そっと手を伸ばしてタマの小さな頭にぽんと乗せ、口を開き──だが何も言わず、そっと閉じた。タマの体を引き寄せ、もう一度、今度はテルミがタマを包み込む。
 言えるはずも無い。うわべだけの、偽善的な言葉など。言う資格があるはずも無い。だから腕を回す事は、精一杯の結果。そんな自分が、テルミはこの上なく歯がゆい。
 彼の身の内で──今までに無い何かが、芽生え始めていた。
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