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プロローグ | 第二章 | 目次

ファーフル・プラネット

第一章

「本当なんだってば!」
 午後のにぎやかなファーストフード店内に、蟠らない声が響き渡った。言った当の本人、雨貝テルミは周りから注がれる痛い視線に気づき、一つ咳払いをして、
「信じてくれよ。本当に黒い和服姿の女の子が飛んできて、山を壊しながら、黒いマントの奴と殺し合いを始めたんだってばぁ!」
 小声でそう説明しなおした。同じテーブルを囲むのは、蒼穹溺愛同好会の全団員。といっても、テルミを抜きにしても女子二人、男子二人しかいないのだが。
「……えーとだな。俺としては、テルミンからそういうメルヘンチックな話が出るのは非常にうれしい。ああ、歓迎すべき行為だ。なんせ、テルミンはどんな童話も神話も噂話も信じないとうけうりの、ガチガチ現実的思考だったんだからな」
 テルミの事をテルミンという愛称で呼ぶのは、同好会リーダーこと安河内だ。痩身で背が高く、デザイン性豊かなメガネをかけている。首にだらんと下げられているのはカメラで、どんな状況でも激写できるよう、スタンバっているという入れ込みようだ。
 安河内はフライドポテトを一つ掴み、それをステッキのように振り回しながら続ける。
「だけどな、テルミン。それはちょっと粗雑過ぎやしないか? いくら同好会をサボろうとした言い訳だったとしても、そんな陳腐な言い訳が通じるのは、幼稚園のスミレ組までだぜ。せめて言い訳するなら、そうだな。道角を曲がったときに、死角から現れた食パンをくわえている女の子とぶつかって、口論になった。でもそれは、今日から登校してくる転校生で、自己紹介との時に目があって……くらいの夢がないと俺は信じねえぞ」
「いいね、それっ!」
 いろいろと外れまくった安河内の意見に賛成票を投じたのは、隣に座っている友常だ。身長は多少低いが、そのこぼれ落ちるほどの笑みが彼を特徴づけている。
 彼は足が床にとどかない事を良いことに、せわしなく足をばたつかせながら、
「でもボクはねー。夜中に山に行って、ユーフォーにさらわれて、もぐもぐ、宇宙人に会うほうがいいなぁ。そうしたらさ、何か新しい発見が、もぐもぐ、ありそうじゃん?」
 ハンバーバーを頬張りつつ、妙に間延びする口調でそう言った。するとジュースをチュゴゴゴと吸っていた安河内が、反論を呈する。
「ダメダメ、それじゃ。それはお前が起こって欲しいっていう願望だろ? 話の根源は、どういう言い訳が不自然じゃなく、かつ信用性があるか、なんだからな。そんなの、幼稚園のゆり組みまでしか信じられねえよ。まあ、お前のその発想自体は悪くないぞ」
「そっかぁ。やっぱり安河内君は頭が良いなぁ」
「フフフ、そりゃ、な。なんせ、蒼穹溺愛同好会を創り、団員を集め、その存在を学校全体に知らしめた英雄だからな、俺は。メシアだ、メシア」
 そんなアヌケすぎる会話を聞いていられず、テルミは思わず深く嘆息した。何故自分はこんな所に座り、こんなふざけた実話を、こんなふざけた奴らに相談しているんだろうか。
 テルミは言い返そうと重く口を開いたが、
「うっせぇーんだよっ! テメェらの糞頭悪い話聞いてると、こっちが頭痛くなってくる! 漂白剤でも飲んでおつむ消毒して来い、このガリにチビッ!」
 そんなあからさまな言葉の暴力が、テルミの横から飛び散った。罵声を叩きつけた、女の子──桃原鏡子は、今度はくるりとテルミに向き直り、
「まったく、こんな頭悪い子達がいると困るよねー? あ、でもでも、あたしは平気だよ? テルミくんがいれば、あたしはどんな所でも平気だからね? それにあたしはテルミくんの考えは好きだよう? だって、殺し合いなんて素敵だもんねっ!」
 そういって、愛くるしくにこりと笑った。
「……あ……ああ、そうだ……ね」
 テルミはそれにぎこちない返事をする。桃原はもう一度笑みをこぼすと、「ふみゅう」と言ってテルミの腕に絡みつき、体重を乗せかけた。テルミはそれを苦笑いで受け止め、安河内はというと、体を畏縮させて友常に体を寄せ合い、がたがたと震えていた。
 無論、桃原も蒼穹溺愛同好会メンバーである。しかし絶無と言って良いほどに、同好会やその他のメンバーに興味はない。テルミがこの同好会に強制参加させられているから、という理由だけで彼女は同好会メンバーになっているのだ。そのためテルミ以外のメンバーと会話するときには、多少……多大なりと、その口調は変化する。
 テルミ自身は桃原をそこまで想えなく、たじたじとした気持ちなのだが、「あたしはテルミくんがそう思ってくれるまで近くにいるからねっ!」という言葉により、仕方無しにこういう状況を強制させられていた。
 薄茶色の髪をツインテールにして、それが愛嬌のあるかわいい顔にマッチし、かなりカワイイ部類に属するはずだろう。しかし、何故だが容姿も成績も運動神経も至って平凡なテルミにこびっていた。
「漆間、お前はどう思う?」
 早くも立ち直った安河内が、蒼穹溺愛同好会最後のメンバー、漆間雫に話を振る。
 背が高くボディバランスもばっちりで、ピンと背筋が伸びている様は、見る限りどのグラビアアイドルよりも上質だ。艶やかな黒髪も、さらっと方に流されて美麗だ。分厚い本を読み、下がってくるメガネを上げるしぐさは、一種の『萌え』を連想させる。
 桃原を愛くるしく『かわいい』と形容できるならば、漆間は機能美で『綺麗』と形容できるだろう。
 そんな漆間はあくまで機械的に首だけを動かし、感情のこもらない声で、
「……別に」
 そう言って、再び首を定位置へと戻した。そしてだんまり。
 しかしテルミは、こうなる事をあらかじめ予想していた。なぜならば、漆間という女性は友常に引けを取らないほどの、不思議君だったからだ。
 以前テルミが、ふと疑問に思ったことを口にしたときの事である。
「なんで空は青くて、地平線に向かうごとに色が薄くなるんだろうなぁ?」
 すると漆間は機械的な口調でこう答えた。
「青などの短波長の光が大気中の微粒子にぶつかり散乱するため、空の色は青く見える。青より波長の短い光である紫、藍は、空の上層で微粒子に反射するため、地平線付近よりも真上の空の方が、色が濃く見える。また、微粒子とは水蒸気、塵、ゴミ等を意味する」
 実際にオール百点をとる天才君こと漆間雫のごとく頭の良くないテルミは、もちろん上手く理解する事は出来なかった。そんな出来すぎ君の漆間が何故こんなへんぴな同好会にいる理由も、また定かではない。それを人は、漆間七不思議と呼ぶ(安河内とテルミ限定だ)。性格にも人間性と言うものが欠けており、ちょっとした変人さんである。
 聞いた安河内は腕を組み、うんうん頷いた。
「ふむふむ。そっかそっか。そうだよな、別に……な。うん、よし、決定! 言い訳があろうともなかろうとも、サボろうとしたことは事実なのだ! だから、例えそれが本当の事だったとしても言い訳は聞かん! 蒼穹溺愛同好会の法則にしたがって、厳重処分を受けてもらう!」
 漆間は学年一の天才君なので、その発言力も神の託宣かがごとく効果絶大なのだ。
「安河内、お前言ってる事めちゃくちゃだよ……。じゃあ、なに? その法則に従った、厳重処罰って」
 そもそもその法則というものがあったこと自体、テルミには初耳だった。
「ん。きついぞ、これは。なんと……これから一ヶ月、俺のハンバーガーに入ってるピクルスをもらうこと、だ」
 馬鹿かこいつは。にやりと笑う安河内に、テルミはつっこむ事も忘れ、もはや嘆息することしか出来なかった。それをどう受け止めたのか、安河内は同情するように、
「うんうん……! これはテルミンにとってちょいと厳しい処分だったのやもしれん。しかしだな、テルミン。これからお前の蒼穹溺愛同好会部員としての重い責任をかつぎこすには、このくらいはしないと駄目なんだ。悪く思わないでくれ、友よ……!」
「うわぁ、それボクだったら二日でだめだぁ。ピクルスって、あのキュウリみたいなやつでしょ? がんばれ、テルミくん! ボク、応援してるからさ!」
「そうだよな、これだよな……! 部員同士の篤い友情って、これなんだよな……!」
「ッ、いい加減るっせぇんだよ! テメェらの臭い友情論なんか聞いてられねぇんだよっ! 大体ハンバーガー好きなのに、ピクルス嫌いってなんだよ! 幼稚園のさくら組みかお前は! ピクルスぐらい自分で食え! 口で食えねぇなら鼻で食え、鼻で!」
「むぐぅ! な、何を言うか! そんな事いうなら、蒼穹溺愛同好会リーダーとして許してはおかんぞ! いいか、これはだな、心のそこからテルミンのことを思………ちょ、ちょっとマテ! その振り上げた伝説の拳は下ろせ! な? 俺が悪かった! 桃原様、俺が悪ぅございました! だから! だから、そんな憤死の形相を掲げて、右手を高々と振り上げないでー!」
「うおお! がんばれ安河内くん! これも友達の篤い友情だねっ!」
 テルミは嘆息し、ガラスの向こう側に広がる空に視線をやる。
 馬鹿だった。どだい、他人に相談する、ということに無理があったのだ。友達ではなく、『知り合い』として接する彼らには。ただ表面上だけの──付き合いなのだから。
『臍山』での出来事は、やはり何かの間違いだったのだろう。暑さのせいで妄想を見たとか……昼の学食で、何か変なものを食べてしまったとか。確かにテルミは、安河内の言うように童話も神話も噂話も信じない。今回の出来事も頭の大半は否定している。しかし、網膜に焼き付いて離れない。闇そのものを切り取ったような着物に、艶光するおかっぱ、猫のようにつりあがりつつも開眼した目。そして黒いマントの奴との戦い。
 だからこそ、テルミは『臍山』の惨状を確認しに行きたくない。
 そういえば、とそこでテルミは思い立つ。彼女は自分に何か話があるといっていたような気がする。パニクっていたため、そこらの記憶は定かではないのだ。話とは何か?
 考えれば考えるほど募る嫌な予感に、テルミは体をぶるっと震わせた。
 しかし今のところ何も無いので、やはり虚構なのか。夢なのか。いや、嘘ならばそれが一番良い──テルミは焦点を上空の向こうに合わせながら思う──自分が一番望んでいるのは『普遍的な日常』だ。こんな変態の同好会にいながらも、ぼうっと空を眺める事の出来る日常。『異常事態』なんて熱い衝撃などは、──自分には合わない運命なんだから。
 ……例えそれを、心の奥底に封印した想いが切望しているとしても……。
 結論付け、妙に複雑な気持ちで改めて空を見直した、
 その時だった。
 その瞬間、テルミは何が起こったのかわからなかった。
 理解できた事は、覚えのある甲高い金属音が一瞬聞こえた事。視線をやっていた小さなガラスが、すごい音を立てて突然砕け散った事。ガラスを粉砕しつつ中に飛び込んだモノが、黒かった事──。
 それらの事柄を整理する前に、テルミの体は無重力下にあった。と思いきや次の瞬間には体が地面に叩きつけられ、ファーストフード店兼、デパート内の床をおよそ数十メートルはすべり、何かの商品に当たってようやく止まった。
「………!? ………、………!?」
 テルミはその体勢のまま、しばらく唖然と目を瞬かせていた。テロか、爆発か? しかし、眼前の状況からそれはない。砕けたガラスの破片と、どこからか落ちてきた商品を装飾品としたテルミを、騒ぎを嗅ぎつけた野次馬が人垣を作り始めていた。自分にだけ降りかかったらしい被害。打ったはずの体は、どこも痛くなかった。
「ッ、………な、なんなんだよう……!?」
 とりあえず立ち上がろうと体に力を込めたテルミは──だが、その自由がきかないことに今更ながら気がついた。見ると、脇から肩にかけて何かが絡みつき、また脚も然りだった。テルミは、羽交い絞めにさせられていた。
「にゃーっはっはっはっはっはっはっ!」
 と、そのときテルの耳元から、全店内にも響き渡るかのごとき哄笑が高々と響いた。
「こやつめ、分かったか! どんなに必死に逃げ回ろうとも、このまろからは逃げ切る事など出来ぬぞよ! 例えおぬしがネズミのごとく小さく、雌豹のごとく速うてもな! 全くまろの言うことをきかずに逃げ出すとは、ごんごどうだん! ばんしにあたいするのだ! にゃっはっはっはっはっ!」
 テルミはその耳をつんざくような叫びを、歯を食いしばって耐え抜く。そして、自分を呪縛している奴を背中越しに見て──絶句した。
 それは『臍山』で会った、あの少女だった。テルミは危うく失神しそうになる。
 少女は飛んできたのだ、再び。まさに青天の霹靂のように、窓ガラスをぶち破るなど衝撃的過ぎる演出をかねて。そして何故だか鷲づかみにされたテルミは、そのまま少女と転がった。結果、この按配にテルミは落ち着いている。
 何故? そんなことは、誰にも解らない。少なくとも、この少女を除く人類全体は。
 いや……テルミは、もしかすると知っているかもしれない。少女は言った、『話』があると。黒マントと戦っている、その合間に。が──テルミはこの少女を知らないし、話しなどあるはずも無い。頼まれる事もないし、怒られる事もない。
 では何故、この少女はここにいるのか? それ以前に、やはり夢ではなかった。
 考えれば考えるほど、解らなくなってくる。空白の頭でテルミが呆然としていると、
「君たち! どうしたんだね、一体!」
 割り込む青い影が、全ての問いを集約した。デパート専用の警備員だ。騒ぎを聞きつけ、直行してきたのだろう。
 テルミは胸をなでおろし、状況の打開を要請しようとした……のだが。テルミは改めてこの状況を見直し、青ざめた。ガラスを粉砕して飛び込んだ、黒い和服を着た美少女。その少女に四肢を絡められている自分。その状況に引いた視線を下す、傍観者の人々……。明らかに、どこからどう見ても、この少女とテルミは共犯者だった。
「!……、ええ……っと、ですね………えー……その、あの……!」
 抜け出す方法はいくらでもある。が、この時の彼にはもはや言い訳すら思いつかない。
 と、しどろもどろするテルミから、ふと呪縛を解いた少女がおもむろに立ち上がった。全ての視線が少女に集まる。少女は無言で長く垂れる振袖の中をあさくり、一つの巾着袋を取り出した。尻餅をついたままのテルミの前で。静まり返る群衆の中で。彼女はばっと、袋を警備員の鼻先に突き出す。同時、腹式呼吸でもしたかのような大声でこう叫び、
「爆弾じゃー! 『てろりすと』が外から投げ入れようとしていたので、それを阻止しようとしたのだが、むぅ、しまった! まろもいっしょに飛び込んでしまったぞよ! むをぉ? まずい、あとさんぷんで爆発するではないか! くそう、あの『てろりすと』め! まずい、これは今非常にまずい状況だぞよぅ! ──というわけで、ぽちっとな」
 あろうことか、火災警報装置を押すのであった。途端、脳髄を縛り上げるサイレンが、感覚を麻痺させている客らの頭上に降り注いだ。
 呆然となる人々に少女は、あれ、おかしいな、という風に小首を傾げ、
「むお? どうしたのだ、爆弾ぞよ? 死ぬぞよ? 死にたくないなら、さっさとこの場を立ち去らんかぁーっ!」
 と再三声を張り上げた。それが、大混乱の端緒となった。
 近くで状況を見守っていた野次馬のおばさん。蚊帳の外で状況を把握できてなかった新米主婦。隙間からひょこっと顔を出していた子供。状況を統制しようとしていた警備員。
 悲鳴が、鼓膜をつんざいた。すべての人々が我先へと出口へ押しかけ、自動ドアはパニックの乱流する渦と化した。サイレンは平常心を八つ裂きにし、悲鳴は混乱を呼び、冷静な判断をなくした脳は『生きる』という本能へ帰属する。
 押し倒れる人さえも乗り越えて『生』へ執着し、灼熱荒ぶる出口へ駆け込む人々の姿は、まさに地獄絵図そのものだった。
 すっかり胆を奪われたテルミは、もう唖然とするほか無かった。
「ふ、まったく愚鈍なやつらぞよ。もっとこう、まろのように明瞭な奴はいないのかのう」
 少女はやれやれとばかりに肩をすくめた後、テルミに向き直って、その雪色の肌をにっとほころばせた。テルミはしばしそのまぶしい笑顔に見入るが、すぐさまビクッと仰向けのまま後ろへ蠕動し、距離をとる。
「ば、ばばばば爆弾……!」
「むぉ? なんぞ、おぬしまでだまされる事はなかろうに。嘘ぞよ、嘘。普通にこの場をしのごうとしたら面倒だからに、ちょいとばかり冗談をついたのだ。ほれ、見てみい。この巾着は、まろの全財産なんぞよ。かわいいだろう?」
 身なりも口調も時代錯誤甚だしい少女は、「さてと……」と呟く。するとテルミの手首をつかみ、体重差を感じさせない動作でひょいとその体を引き上げた。ちょいとばかりの冗談じゃないだろう、と思っていたテルミは、反抗する事が出来ない。
「では一旦場所を移すか。ここじゃ五月蝿くてかなわん。……あ、おぬしの友達は連れてはならぬぞ。内緒話だからに、連れたらヌッ殺しぞよ。どこがいいか……おぬし、どこか良い甘味所を知らぬか? 是非そこに案内して欲しいぞよ?」
 少女は「にゃは」と笑い、どこからか取り出した扇子を片手に、くるりと背を向けて行ってしまおうとする。甲高いサイレンの叩きつける中、やっとの事でテルミは我を取り返した。頭に次々と降り注ぐ疑問を跳ね除け、とりあえずこう叫ぶ。
「ちょ……ちょっと、待っ………てよ!」
「むぉ? なんぞよ?」
 聞く事はたくさんある。しかしまず、これを聞かないと今後の話が成り立たないような気がして、テルミはこう聞いた。
「君は………君は、一体何者なんだ…………!?」
 少女は一瞬驚いたように目を見開く。ややあって、無くしてしまった宝物を見つけたときの子供のような、無垢な微笑を浮かべた。
「まろの名前は、タマという! 人間ではない。ガイノイドぞよ」

 ◆

「ぷっはぁー! まずい、もう一缶!」
「……ないよ」
 平均樹齢百年はくだらない、わさわさと生い茂る木々。辺りには、一面に農質な闇が広がっている。白すぎる日差しのせいもあるが、数えるほどの木漏れ日しか落とさない葉がその元凶だった。『臍山』とは別事の、多少なりの陰湿さがある。そんな物寂しげな広場は、さらに皮肉な事に公園と称されている。
 通称、『森盛り公園』。露骨なギャグで、もちろん需要も無い。その割には敷地が広く、少ない遊具が隅の方で物寂しげに佇んでいた。
 その事実を踏まえた上で、テルミは少女──タマをここに連れてきたのだが。思いも寄らぬ犯罪行為(?)の後で、気持ち的に人前に出られる状況じゃない。人がいなく、生い茂る木々で自然の冷却場となっているこの場所を、テルミは今ほど感謝したことが無い。
 落ちてこない木漏れ日の代わりに、降り注ぐ蝉の声がやたらと大きく聞こえた。
「むぅ、おぬしは狭量な小心者だのう」
 ぶつくさ文句を言ったタマは、飲み干した缶を片手で握りつぶした。それはアルミじゃなくてスチールだぞ、というつっこみを寸前でテルミは飲み込む。タマはそれを放り投げ、五十メートルは離れたゴミ箱に捨てた。テルミは目を瞑ってそれもやり過ごす。自分は何も見ていない、という暗示をかけながら。
 身なりや容姿、言動は多少なりと常軌を逸している。が、雰囲気も性格も、いたって普通の中学生だ。態度が無駄にでかく、甘いものをこよなく愛する──。
 しかし、あの子は普通じゃない。テルミの本能が、そう叫んでいる。
 空を飛んできたり、ガラスをぶち破って追いかけてきたり。そんな些細な事は、何かトリックがあってのことかもしれなくて、結局の所は説明できなくもない。……でも、精神的には確実にアブナイ。普通じゃない。自分が最も望まないであろうモノを、確実にあの少女は持っている。
 さっさと『話』とやらをすませ、この場から立ち去らねば。このいささかシュールな出来事から身を引かなければ、取り返しのつかないことになりかねない。
 それは何? ──問われても、明確な答えは無い。なんとも不透明で、矛盾する確信。
 自分を落ち着けるように静かに息を吐き、テルミは思う。やはり、蒼穹溺愛同好会メンバーに保護者同伴として付いてきてほしかった。心持、違うものがある。最も、連れてきたら『ヌッ殺し』と言われれば、そこまでの話なのだが。
「えーと……じゃあ、タマ。何でガラスをぶち破ったり、サイレンを鳴らしたりしたの? 保護者さんに何か言われた? 命令されての事だったの?」
 テルミには今の状況で、一番妥当な質問だったのだが。
「む。まろはガイノイドぞよ。人間で無いからに、親兄弟は存在せぬ。命令もされておらぬぞ。それにまろは、そんな事を話しに来たのではない!」
 口をアヒルにするタマに、テルミは肩を落とす。どうやら今日は、厄日のようである。頑固に言いとおす口調から、埒もあきそうに無い。
 テルミは仕方なく、少女の妄想世界にちょっとばかし足を踏み入れてやる事にした。
「ああー……っと。では、君は一体何者? ガイノイドって言うのは何?」
「ふむ。そうだの、まず話の根本である、ガイノイドを理解せねば、話は前に進まぬか」
 タマはブランコの上に座禅を組み、小さな指をひょこっと立てる。
「ガイノイドというのは、端的に述べると……ロボット……かのう? 今風に言うと、アンドロイドか? それらの乙女たいぷという意で、ガイノイド、と呼ぶ。つまりまろはそれに値し、だから人間ではない」
 テルミは、もっともらしく語るタマに聞こえぬよう、忍んで嘆息した。
 成る程、ロボットときましたか。アンドロイドときましたか。それならばあの常人じゃない身体能力も説明がつく。でもね、とテルミは心で否定を入れる。こんな田舎のど真ん中に住んでいる僕でも、中身は健全な男子高校生なわけで。理論を知った一般人なわけで。童話も神話も噂話も信じようとしない、頑固者なわけで。一人の常識人という意地の名の下に、そんなデタラメな存在を否定しない訳にはいかないんですよ。
 テルミは一つ露骨な咳払いをし、
「タマ、君はどこに住んでいるの? どこから来たの? 親は、兄弟は?」
 と聞いた。これまた普通の少女を前提とした、根本的な質問だ。
「帰り道が分からないなら、僕が警察に届け出てもいい。その後の面倒もしっかりと見てやる。この僕がこんな事を言うのは、かなり珍しいんだけどもね」
「むう? おぬし、まろがガイノイドという事を信じておらぬな? まろはガイノイドだからに、住んでいるところも帰るところもない。『ほうろうしゃ』ぞよ、バガボンドぞよ。それにこれから話す事はそこを理解せねば、前には進まぬ。理解しろぃ」
 全ての反感意識を買う少女に、いい加減テルミは腹が立った。こちとら早く縁を断ちたいのに、何故こんな反駁をせねばならないのか。
「理解しろって……。あのね、タマ。人間、そう簡単に理解できるものじゃないんだよ。例え、致死のダメージを受けて立っている姿を見ても、五百メートル先からジャンプしてきても、ガラスに全身飛び込ませて無傷でいても。ヒトとはそういうものだし、そういうものが常識だ。普通なんだよ。ましてや、君は見るからに普通の少女。理解しろっていうほうが、無理なんじゃないの? どうしても信じろって言うなら、それを明白に判断できる材料を提示してみなよ? そしたら僕は理解しようとがんばるし、首肯するかもしれないし? もちろん火を吹くなんてサーカス団にでも出来るような事じゃ、僕は信じない。現代科学でも出来ない、そうだな、例えばレーザーとかを発射できるならば、話が早いけどね」
 ちょっときついかもしれないが、と思いつつ、テルミは最初から無理難題の要求を突きつけた。レーザーなど、宇宙空間をワープするくらい無理な話だ。しかし、夢見る乙女もある程度の度が過ぎたならば、早めに出た杭を打っておかなければならない。
 親の代わりの、愛のムチと言うヤツだろう。
 ……もとい、この反論はテルミ自身の願望でもある。上空から飛来してきたり、ガラスをぶち破って出てきたりしたら、それはちょっと、『もしかしたら』という可能性を考えられずにはいられない。友常あたりなら、もうすでに信じ込んでいるところだろう。
 それに……本能が、警鐘を鳴らし続けている理由や。同好会メンバーに付いてきてほしかったと願いながらも、『ヌッ殺し』の一言に押さえ込まれた自分……。
 ──だからこそ。世間に知られている理論は正しい、自分の思い描いていた思想は間違いではない。そう望む、一個人の願いでもあるのだ。
 すると思いのほかタマは得心がいったように頷き、
「ふむぅ。そうか。まぁ、そりゃすぐ信じろと言われても、信じられるものではないの。それがヒトというものなのか。無理難題なのか」
 前掲した自らの言葉をあっさりと否定し、「仕方ないのぅ」と言う。
 なぜかその余裕なそぶりに、テルミは不穏な念を隠しきれない。
「それじゃあ今から証拠を見せる。これはいっぱい電力を消費するからに、使うとひどく疲れるんぞや……。まあ、いいわ。後でおぬしにまた食いもんを提供してもらえばいいだけだしのう。絶対に否定できない状況になるからに、その状況で否定したらヌッ殺すぞよ。まろは何度も言うのは好かんからのう」
 言葉の内容と裏腹な柔らかい笑みを浮かべたタマは、公園の隅にあるゴミ箱(タマが缶を投げ入れたやつ)に向き直る。──途端、静かになった。それとは反比例し、なぜか急に増した圧迫感にテルミは妙な息苦しさを感じる。うるさいセミの求愛声と共に、妙に冷たい風が肌をうずかせる。うるさい静寂の中──タマが、動いた。
 どこからか取り出した扇子をバッと広げ。ひらひらとそれを動かしながら、足を交差させて。どこで覚えたのかもしれない、ちゃちな鼻歌を口ずさみつつ。ヒーローが変身するようなへんぴなステップを終えたタマは。左掌に扇子を宛がえ、こう叫んだ。
「はっつどう! タマちゃんれーざー♪」

 一条の光が、迸った。

 タマの掌から奔った、直径三十センチはある太い光線。網膜を焼き、深い闇を引き裂く高濃度の光。まさに天にいる神が、地にいる愚か者へ下す鉄槌のような。宇宙から飛来してくる流星が、テレポートしたような。人工的とは思えない光。それはシュウウウという音を立てて大気を焼き、滑りつつ──目標のゴミ箱に吸い込まれた。
 ──まさに一瞬の発光。数秒後、射した光は徐々に光度と太さを弱め……消えた。貫かれたゴミ箱はぽっかりと穴を開けて、何事も無かったかのようにその場に佇んでいる。
 突然の発光にちかちかする瞳を瞬かせる事すら忘れ、テルミはただただ唖然と凝視する事しか出来なかった。……少女を。
 本当に、レーザーを放ってしまったこの少女を。
「にゃははははっ! どうだ、これで信じないわけにはいくまい?」
 脳内は空白のキャンパスと化し、思考の一つも許さない。感情も欠落し、驚愕──すらなくなっている。何が起こったのか解らない。
 レーザー射出。穴の開いたゴミ箱。人智を超えた行動。真っ白な世界。
 ……唯一つ、明確になったことがある。
 取り返しのつかない何かに、足を取られ引きずり込まれたということ。
 猫のような名前で、猫のような体を揺らしつつ、猫のような笑い声で哄笑を上げる少女。
 否──本当に本物かもしれない、ガイノイド。
 空白だった頭に、滞っていた想いが溢れ返す。数え上げればきりが無い。が──動揺を晒したくなかったテルミは、思っても無いことを口にしていた。
「……レーザーの前フリって……必要ないだろ」


「まろが製造されたのは、中世のよーろっぱで、だいたい……六百年ほど前かのう? しかしそれからずっと稼動していたわけではない。まろは製造と同時に『封印』されたんぞよ。実際に稼動し始めたのは、一年前くらいかのう」
「え? ……、ほ……本気で、そういう話なんだ……?」
「むぅ? なんぞ、信じらんというのか、まだ?」
 小さな顔をぷくぅっと膨らますタマに、テルミは高速で首をスライドさせた。
 日本の歴史でいう中世は、大体……鎌倉時代から戦国時代だ。
「ずいぶん昔だな……織田信長より年上だよ。でも、そんな昔じゃ、ロボット……じゃない、ガイノイド? が創られるなんて思えないな? 現代科学でも、夢のまた夢なのに」
「ふむ。まろは『封印』される前の記憶は『でりーと』されて、ほとんどないんだがの。その事については、多少なりと記憶や知恵は残っておるぞよ」
 ブランコの立ちこぎをしながら、タマが説明する。
「『れんきんじゅつ』とやらが、深く関係しておるらしいぞよ。中世よーろっぱで発展し、表面的には知られてないが、歴史上最高の科学技術を得ていた……らしいんだがの。日本を含む各国の技術者を集めて研究した、とも記憶されておる。今はどうなったのか知らんが、おそらくおぬしの口調では、衰退化したらしいのう」
 聞いて、テルミは重く肩を落とした。錬金術。まさかそこまで出てくる『話』とは、考えもしなかったからだ。先が思いやられる。
 建前を提示して応えられた挙句、『話』を聞かないわけにはいかない。テルミはタマと一緒にブランコにぶら下がり、その『話』を聞くことにした。
 が、いっそのこと、逃げたい。逃げて、全てを無かった事にしたい。でもそれは無理な話だ。「ヌッ殺し」と言われればそこまでの状況に、テルミは陥っており。タマの『話』を信じているという前提で、聞き巧者にならざるを得ないからだ。
 ──錬金術。その存在に、テルミは聞き覚えがある。読書週間の期間中に、暇つぶしで『錬金術の極意』という本を読んだ事があるからだ。
「科学的手段を用いて、卑金属から貴金属を精錬しようとする試み……だっけ?」
「む? ほほう、おぬし愚鈍な奴と思うたが……なんぞ、中々に『ちしき』が豊富ではないか。ヒトは外見によらぬとは、まさにこの事なのか。ふむ」
「……おーい、何失礼な事納得してるの、君……」
 広義では、金属に限らずさまざまなモノを、より完全な存在に精錬する試みもあった。例えば、人間の肉体や魂など。人体の不老不死を目指したり、妙な一面があったのも確かである。
「『れんきんじゅつ』は古代ぎりしゃの学問も利用したため、最もその時代には、正当な学問だったらしいぞよ」
 タマはそう付け加えた。テルミは尋ねる。
「……じゃあさ、タマはもしかしたら、その延長で創られたのかもしれないってことじゃない? 不老不死っていう延長でさ」
「ふむ。まろも、おそらくそうかもしれぬ、とは思うておるぞよ」
 タマは小さい肩をひょこっとすくめる。みはからって、テルミは小さく深呼吸した。脳に酸素をやり、思考回路をより迅速にしなければ、置いてけぼりを喰らいそうな予感がしたからだ。二十一世紀を如実にすごしているものには、信憑性のかけらもわいてこない……それでいて奇妙なリアル感に満たされた、いわく『実話』に。
「──で、その錬金術で開発されたのはいい。もちろん、完全に良いとした訳ではないけども。『封印』された、って言うのは? なに?」
「ふむ。『封印』とは、まあ、まろがそう呼んでいるだけだ。簡単に言うと、起動停止中か? よーろっぱのどことも知れない地下の、機械の中にまろは『封印』されてたんぞよ」
「ふうん……? 起動停止中ねぇ……」
 円柱形のガラス容器に満たされた液体と、その中に全裸で浸けられている人間。ガラス蓋付きのベッドに横たえられ、体から幾本ものコードが出ている人間。そんな妄想を浮かべてしまうのは、思想力の低さゆえか。
「でもさ、どんな理由があろうとも、開発されたからには目的があったわけでしょ? 不老不死とやらの延長で造られたかもしれなくともさ? なんで、開発されてすぐ『封印』されたわけ? そんな必要あったわけ?」
 するとタマは無言でブランコに腰を下ろし、遠心力をかけるのをやめる。
「なぜ開発直後『封印』されたか、というのは……。実の所、封印前に記憶を飛ばされているからに、まろにも正確なところには分からん」
「ん……そっか。それなら、仕方ないね」
「しかし、それはまろが今追いかけられているやつらに関係がしているのではないか、とまろは思うておるんぞよ」
 返答を挟んで二の句を継いだタマに、テルミは視線を落とした。タマは黙っている。テルミに真相を催促されるのを待っているような、そんな間だった。
 だからテルミは視線をやらない。催促すれば、『錬金術で造られた』というのも序章に聞こえるほど、深い泥沼にはまってしまいそうな気がしたからだ。
 テルミがそう思い、しばらく黙っていると、タマがちらりと視線を彼に向ける。
 やがてテルミは嘆息し、怏々としてタマの推測を仰いだ。
「……追われている奴等って……?」
 タマが息を吸い、

「マギリストロトン」

 刹那、空気が変わった。言葉に反応したように、大気が慄く。完全なる憎悪。テルミは始めて感じ、でも、生物の本能で理解する。これは『殺気』だ。絶対的で、圧倒的な。
 投げ出されたタマの視線が、虚空を貫く。
 テルミは眉根を寄せ、意識もせずに繰り返す。
「マギリストロトン……」
「その名は組織名らしい。まろがやつらから力ずくで聞き出した。……しかし、それ以外はまろも知らぬ。どういう奴等で、どんな組織の全容か、何という目的の下行動しているのか、どんな思考を持っているのか、またその存在意義は何のか、何もかも。ただ──」
 そこでタマはヒュッと息を吸い、吐き捨てた。
「やつらがヒトではない事と──、まろを目の敵にし、理由も述べず、宣戦布告もかけず、ただ破壊してこようとしている事以外は……!」
 そこでテルミは思いあたる。最初タマが飛来してきたとき、タマと戦闘をした、あの黒いマントの奴を。おそらくあいつが、マギリストロトンという組織の一人なのだろう。確かにあれは、人間の雰囲気ではなかった。破壊だけを生きる糧とする、壊れた人間のような。何よりも、ガイノイドのタマと引けを取らないあの強さ。
「……まろはもともと、一年前に再起動する予定はなかったんぞよ。よーろっぱのどことも知れぬ場所で、いつまでかも知らぬ眠りについていたはず。再起動される可能性があるとすれば、『れんきんじゅつ』で構成された、まろを封印して調節する機械が壊れたときかのう。まろと同じ『れんきんじゅつ』で構成された機械だ、そうそう壊れはせぬ。六百年も動いていたのが良い証拠だ。……しかし、それは壊れた」
 タマは、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「侵入者が現れ、機材を破壊し、強制的にまろを目覚めさせたんぞよ……」
 あまりにも沈痛な面持ちで語るタマの話で、わずかながらにテルミの心が翳る。
 こんなデタラメな、真実かどうかも疑わしい話に適応しようとする自分の脳に、テルミは自己嫌悪を抱く。思わず察してしまった内容を口にした。
「現在、なぜかタマを破壊しようと執拗に追ってきているのがマギリストロトン。つまりタマが封印されていた所に侵入し、破壊しようとしたが緊急装置が発動し、タマを再起動させたのもマギリストロトン。そう来ると、開発されたときにタマがそれだけの力を持っていながら、封印せざるを得ない状況に陥ってしまった理由は一つ。製作者が、タマと同等の力を持つマギリストロトンにタマを破壊されることを恐れ、否応無しに封印し、タマをその難から逃した。だからタマは封印された。……そう考えたんだね?」
 饒舌なテルミに驚いたタマは目を丸くし、図星だったためか再び顔を伏せる。
「そうだ。……奴らがまろを必要に追い回す理由も分からん。……もっともそれは、まろにはどうでも良いことなんだがな。六百年にもわたり、まろが破壊されようとしている、という事実は変わらないんだからな……。にゃはは、なんとも難儀な話ぞよ」
 もし本当に、タマの話が戯曲で無いのならば。そう仮定した場合の想いは──。
 そんな事実の上に立ちながら、それで苦笑いでも笑っていられるタマに、内心テルミは敬服する。少女の強さを、すごいと思った。
 生まれてすぐ命を狙われ、そのために封印され、そして目覚めたのも殺されかけたから。現在もその目的は失われていなく、何時殺されてもおかしくはない状況。
 殺される理由も分からず。自我を持った瞬間から殺される対象とされ。記憶もない、想い出もない。自分は何故この世界にいるのか解らなくなる。
 まるで、殺されるために生み出されたかのような存在。
『殺される』ではなく、『破壊』としかいえない少女。ずっと一人だったから、『孤独』だったという事を知らない少女。
 まるで自分のようだ──ふいにテルミは思い、しかしハッとしてすぐ今までの考えを蹴散らした。
 所詮は他人。自分は関われない。関わりたくない。そんな危険な少女だからではなく、一人のヒトとして関係を持ちたくない。持ってはいけない。
 テルミは気を取り直し、話の核心に迫る事にし、
「……タマ、君の話は良く出来ているよ。でもさっきから話を聞いていて、全く話の核心が見えてこない。だからそれらを踏まえた上で、一番大事なことを聞こうかな?」
 隣に目配らせたが、すでに彼の視界からタマの姿は忽然として消えていた。
「…………………そりゃっ! こいつめ、暴れるでない! …………ひゃっほう! にゃはははっ! やったぞよ、ほれ、セミゲットだぁ! にゃはははははっ!」
 テルミは声のする方に首を向けると、動きにくい着物などなんのその、でかい木にへばりついてセミをその手に獲得していた。笑い声を響かせる勇敢な少女。……、いや、これも敬服すべき姿、なのだ。なのだ、ろうが……テルミは、嘆息せずにはいられなかった。
 ──木から垂直飛びしたタマに、テルミは全くマンネリした言葉を述べた。
「ふむ、よいぞ」
 タマは頷く。その手中にはセミが握られ、ミーミーうるさかったが、テルミは気にしないことにして言葉を継いだ。
「君はそんな経緯を持ちながら、僕の下へ来た。そして事実を話してくれた」
「ふむ。そうだ」
「でも、それは何故なの? 何故君は僕のところに来て、今のような話をしたのかな? おそらくその理由が、話の核心につながるのだろうけど。僕は君の事を知らないし、どうやら君自身も僕を知らなかったみたいだ。ましてや僕は、君の話を未だに本当かどうか疑っているくらいなんだよ? もしも『話』をして自分の重荷を分かち合いたい、っていうのなら、それはとんだ見当違いだ。どこかの気の良い聖職者か、面倒見の良い家政婦か、いやうちのバカ(安河内)でもいい、そんな奴等に相談すべきだ」
 それから、とテルミは演説する気分で続ける。
「もしも僕の身のうちに存在する潜在能力とかを発見して信じ、自分の手助けになるかもしれない、なんて思っているならそれまた陳腐な話だ。僕にはやつらを追っ払う力なんてものもないし、授ける事もできない。水泳で百メートル泳ぐ事も出来ないし、テスト中カンニングするなんて勇気もない。本当に何も無い、ごく平凡で凡骨な一市民なんだ。そんな僕をなぜ必要に追い回し、話をしようとしたのか? 僕にしか話せないであろう、『話』の核心。僕はそれを聞いてみたいな?」
 一通りの疑問をダブルマシンガンで叩きつけ終わったテルミは、ふうと一息つく。
「つまり要約すると、何故タマがテルミの下に来たか、また話の核心をとっとと話せ、というのを問いたいのだな?」
「う……、まあ、そ……うだけ、ど…………」
 自分よりも対象年齢が低いであろう少女に簡単に話を要約され、思わずテルミは饒舌だった今の自分に頬を赤らめた。
 タマは「まあ、そうあわてるな。では、話そう」と言い、一つ咳払いをする。どっちだ。
「マギリストロトンの輩どもに叩き起こされて、約一年。まろは何度破壊されかけたか、数え上げればきりが無い。いや、正確には五回ぐらいだがの」
 悲痛染み出る内容の話を、タマは淡々と語り始める。
「警戒網を毎日張り巡らせ、ちょっとでも怪しそうな気配がしたら全力疾走、逃げ切れそうになかったら人気の無いところに入り込んで戦い、そのたびに壊されそうになっては自分で自分の体を修理し、癒えない不安を抱いたまま騒ぎが起きないうちに町を出て──。その繰り返しを、一年間ずっとやってきたのだ」
 言葉を紡ぐたび、しだいに口調のトーンが落ちてくる。まるで、その凄惨だったであろう思い出を噛み締めるように。
「……正直、疲れた。町を訪れたならば、すぐに国を出る。国を訪れたならば、すぐに海を渡る。いいものと出会えば、すぐに別れ。休むときもないまま、動き続ける……。まろは、くたびれた。稼動する事がキライになった。逃げ回る前の記憶もほとんどない、まろは何者なんだ、と思った。まろは、………このまま壊れても良いかもしれない、奴らに破壊されて楽になるのも良いかもしれない、とさえ思った。その回数も、それこそ数え切れぬほどにな。──しかし………」
 そこで、タマの声が小さくなる。それは隣でわめき散るセミにすら敵わないほどに。
 テルミは不審に思ったが、すぐに悟り、タマの視線に顔を落として耳をそばだてる。悲しい事を語るのはつらい。自然と声が蟠るのも仕方ないのだろう。
 だが、耳を澄ませたテルミが次の瞬間捉えた声は、華奢な弱りきった声ではなく、
「しっっかあぁぁぁああああしッ!」
 屈強の警察犬でもおののき逃げるであろう、轟き渡る雄叫びであった。
 テルミは脳を揺さぶる声に仰天し、その場に尻餅をつく。
「まろは、諦めはしなかったっ! 何故かわかるかぁッ!?」
「わ、わわわわ、わかりません!?」
 何故だかテルミの声もそれに呼応し、裏返り口調だ。
「使命があったからぞよっ! もちろん簡単に壊されてたまるかという意地もあった! しかぁし! 使命があるからこそ稼動したいと、希望が、望みがあるから、まだ壊れるわけにはいかないと思った一番の理由ぞよっ! それはわずかな記憶の中に残されておる、唯一の手がかりでもあった! 同時に、それがおぬしの下に来て話をした理由でもあるっ! この話しの核心でもあるっ!」
「ちょ、ちょ……、分かっ……! セミ! 分かったから、セミ! 五月蝿いし近づけ……! うわ、ちょっと何してんのさっ! 離して離し、て……! セ、セミィ!」
 瞳に火を灯して熱弁していたタマは、はっと我を取り戻す。テルミの顔に押し付けていた蝉を見つめ、やがて放り投げた。
「すまんすまん、まろとしたことが我を忘れてしもうた」
「い……いや……か、かまいませんよ……」
 溢れようとする憤激を押さえつけ、テルミはふうと息をつく。
「………で? その『使命』っていうのは何なの?」
 タマはキョロキョロと視線を泳がせる。目に留まった、スプリングがついてまたがって揺れるタイプの遊具に飛び乗り、ギシギシとしならせつつ、
「ふむ。それはデータとしてインストールされたわけではなく、じかに聞いたことぞよ。まろがもし目覚めてしまったときの、唯一の指示……」

『インプットしてある遺伝子を持つものを捜しだし、そして──幸せに、なりなさい』

「…………確かに、そう、聞いたのだ」
 途端にしんみりとした口調で、遠い過去を見るような目で、そう言うのだった。
「遺伝子で……幸せに………? それが、どういう……」
 テルミは一瞬意味を図りかねる。脳内の情報処理能力を、最大限に行使した。
『誰でもない、自分の下へ』『重要な話』『話の核心』『インプットしてある遺伝子』『幸せに』……。
 そして下した結果に、──ゾッとした。
 脳が衝撃を受け、思わず足元がぐらつく。背筋に悪寒が奔り、肌が粟立った。平衡感覚が薄くなり、皮膚に膜が張ったかごとく知覚神経が鈍くなる。
 テルミは迅速に、かつ冷静かつ平静かつ慎重に、ことの究明を仰いだ。
「えーっと……。そ、……、その遺伝子っていうのは……?」
「ふむ。どうやら、まろを造った博士の遺伝子らしいのう。つまり、その子孫を探せ、という事になる。全く、無理難題を振り掛けるわ。いくらなんでも世界が広すぎる……。まぁその代わり、一目でヒトの遺伝子を判別できるという機能は付いておるがのう」
 テルミの本能は次の発言を断固拒否している。しかし彼は震え立つ体を抑えつつ、
「その、博士の名は……?」
 と、掻き消えるような声で尋ねた。するとタマはなんでもないという風に、

「雨貝博士」

 ……そう、答えた。
 テルミは心臓が一気に跳ね上がるのを感じた。比喩ではなく、一瞬、全身の機能が停止する。動悸は乱れきり、正確さを取り戻す気配もない。不審に思ったであろうタマがテルミの顔を覗き込んでくるが、それさえもテルミには判断できなかった。
「じ……じゃあ、その遺伝子を持つものって……?」
 愚問。テルミ自身にもそう分かっていたが、最後の望み。一縷の望みだった。
「むむう。やっぱり愚鈍なのか、おぬし? だ・か・ら、それはつまり──おぬしぞよ」
 やはりというべき、一刀両断。テルミは胸を張り、大きく息を、吸い、吸い、吸う。
 ほとんど記憶もない、思い出もない。世界の空を見上げた瞬間から、見覚えも、訳も分からないマギリストロトンという敵に命を狙われて。戦っては体が傷つき、傷を修復しては心が堕ちて。どんなにつらくても、苦痛を感じても、不透明な『使命』だけを信じ込み。希望が、望みがそこにあると無垢に信じて、たどり着いた先が──自分。雨貝テルミ。
 殺されかけているという現実があるにもかかわらず、抽象的な『使命』を果たせばただ解決すると信じ込み、雨貝テルミの下に行けば幸せになれると、ただただ無垢に信じてやってきた少女。
 つまり、そういうこと。
 テルミの目に映っている少女は、それを本気で提示してきている。
 肺の飽和限界を超えた酸素を、吐く、吐く、吐く。ほんの少したりとも残さない。
 そしてテルミは──ふざけるな! と、心の中で叫び、前を見据える。
 そんなふざけた、自己中心的な話があってたまるか。
 覚悟を決めなければならない。例えそれによって自分の人徳が、道徳が、良心が、どれだけ傷つく事になろうとも。目の前にいる少女に、どれだけ厳しい現実を突きつける事になろうとも。それらを耐え抜く覚悟を、決めなければならない。
 決戦だ、とテルミは思う。覚悟は出来た。後は切り離すだけ。
 タマの信じてきたものは全て間違い。自分は全く関係ない。だから立ち去れ。
 そう、切り離すだけ──。

 ◆

「だからごめんって! さっきから謝ってるだろう? ……本当だって! 僕は何も悪い事はしてない。ただあの後に用事があっただけで………え? あの後に警備室へ? そんなの漆間の成績表見せれば、あっちだって納得するに決まってるだろう。……ああ、そう。そうだよ。……何、また罰なの? ピクルス一年分? ああ、分かった。食べるからさ。それじゃあね? 切るよ? はいはい、それまた今度ね、バイバイ」
 受話器口からのわめき声を無視し、テルミは半ば強引に通話を断ち切る。『バカ』との通話時間にため息を吐き、テルミはその場にへたり込んだ。
 場所は彼のマンションの脱衣所である。トイレ別の風呂に、スタイリッシュな洗面器、下着等の詰め込まれているタンス、脱ぎ捨てられた衣服、ずんぐりと佇む洗濯機。何の変哲も無い、いつもの脱衣所。しかしテルミは、そこに比喩しがたいほどの安心感を得た。何も変わっていない光景。今日は、何かと起きすぎた。
 隣の洗濯機に頭を持たせかけ、テルミはもう一つ息を吐いた。洗濯機に触れている右頬が冷たい。七時過ぎの太陽は最後の力を振り絞り、肌にまとわりつく熱気は拭えない。
 テルミは一時その感覚を楽しんだ後、ゆっくりと立ち上がって。
 出し抜けに頭にかかった何かに、仰天した。
「うわぁあ!」
 思わず後ろによろけ、尻餅をつく。天井を見上げたテルミの視界に入ったものは──。
 闇を落としたかのような漆黒の着物に、艶光するおかっぱ、猫の目のようにつり上がり、大きく開眼した目。そして、白い肌に浮かぶ三日月型の紅い唇。
「にゃははははっ! 必殺、壁くっつきの術ぅ!」
 そう、テルミが見上げた天井には、少女──タマがいた。いや、へばり付いていた。まさに蜘蛛のそれのように、重力を無視した超常現象。テルミの頭に当たったのは、そこからだらんとたれた、タマの長い袖だった。
「な、なななななにやってんのよ!?」
「どうだテルミ、すごいだろう? まろがあみ出したのだ! それ、左右にも動けるぞよ?」
 そう言うと、タマはカサカサと壁と天井を這いずり回る。全くどういう仕掛けになっているのか、テルミには想像もつかなかった。いや、想像したくなかった。
「わかった、すごいのは分かったから! 居間に行って、ジュース飲んでなって!」
 言いつけられたタマは叱られた子供のように「ちぇー」と言って、天井に這いつくばったままそそくさと脱衣所を後にした。
 どぎまぎしつつ見送ったテルミは、本日何度目になるのか、深い嘆息をもらした。
「やっぱり……僕は間違っていたのかなぁ……?」
 テルミは誰に話しかけるでもなく、嘆声を洩らす。今タマを追い返した言葉ではない。ほんの数時間前にテルミ自身が下した決断に対して、である。


 遡ること約四時間前。タマの信じていたものを突き放し、否定し、蹂躙したその後──。
「おぬし。何か、勘違いをしておらぬか?」
 テルミのちょっとやけになった熱弁を黙々と受け止めていたタマは、聞き終わっての開口一番、そう言って顔をしかめた。
「え?」
 テルミは自分でも思うほど、間の抜けた声を上げた。全く予想外の反応だった。
 絶望して膝を折るか。そんな事は無いと意地を張るか。泣きわめいて縋り付いてくるか。
 どれにしろ、『勘違い』などという言葉は入る隙間も無いはずである。
「まろの信じてきた『使命』は間違っている。そんな話を聞かされても、自分はそうする事が出来ない。自分は何の関係もない。だから、まろは立ち去れ」
 タマは取り出した扇子を、指揮者のように振り回す。
「しかしのう。そんな事は、今のまろにとってどうでも良い事なんぞよ。いや、どうでもいいとは言いすぎか。もちろん関係はある。大いにな。だが、その『間違っている』という事と、『まろがおぬしの下に来た』という事は、今のまろにとってあまりつながる事柄ではないんぞよ」
「………?」
 意味が分からない。タマは、『使命』があってこそ『テルミの下へ来た』のに、それはさほど関係はないという。
 タマはそれを認めたうえで、詰る所、と集約する。
「まろは『使命』があって、おぬしの下へ来た。そしてもしその『使命』が嘘八百だったとしても、もうまろにはおぬししか頼るすべが無いのだ。より所がないんぞよ。『使命』が嘘で無いならば、それに越した事は無い。しかしそれが嘘だったとしても、まろはおぬしの元に来て幸せになる、という選択肢しかないんぞよ。だからに、『使命』が間違っているという事と、『まろがおぬしの下に来た』という事実はさほど関係してこぬ。判ったか? ……あ、ちょうちょぞよ、待てこらヌッ殺すぞよぉ〜」
 テルミはブラックアウトしていく視界に、タマの姿すら見失ったような気がした。いや、実際問題タマはちょうちょを追いかけ、テルミの視界から消えていたのだが。
 こんなふざけた、自己中心的な話があってたまるか。
「ちょ、っと待ちなよ! それは君の言い分だろう? 例え君がそうだったとしても、僕には全く何の比も無い。だから、そんなデタラメな話、通用するはず無いじゃないか!」
 木を壁蹴りに使って十メートルは飛んだタマは、空中でちょうちょをゲットし、シュバッと着地する。新しい発見をした子供のように、まじまじとちょうちょを眺めた後、なんでもないという風にタマは答える。
「だからにまろはそこを含めて、おぬしは勘違いをしておる、と言うたんぞよ」
「? どういう……」
 ゆったりとした説明にテルミは苛立ちを覚える。
「結局は、それって全然僕の事は考えていないだろう? もしも今までの話が本当なのだとしたら、むしろ僕は危ない。僕の下で幸せになるということなら、一緒に暮らす事になるんだろう? マギリストロトンという敵に狙われているっていうんだから、タマと関係を持った僕も標的にされる可能性もあるって事じゃないか?」
 それに、テルミにはその『使命』とやらを認められない、絶対的な意地がある。自分と他人が共に幸せになるなど──ありえてはいけない、のだ。
「まぁ、確かにそうだが。しかしその場合は、まろがおるからの。心配は無い」
 簡単に懸念を看破したタマは、それからの、と悪戯気のあるイヤな笑みを浮かべる。
「もしまろがあきらめてしまった場合とは、すなわちまろの稼動する目的が失われたときでもある。これが意味するところを分かるか、ということぞよ」
 タマが諦めてしまった場合の、意味するところ……とは?
「まろはおぬしをあきらめたらなば、もう稼動する目的も望みも無い。だから、マギリストロトンに自ら壊されにいくであろうな」
 ややあって、うっ、とテルミは身を引いた。この少女は同情を引こうとしているのではないか。と、
「ちっちっち」
 テルミの考えを読んだかのように。タマはちょうちょ付きの幼い人差し指を、大人の真似事をする子供のように振る。
「なにも、まろは同情を引こうとしているわけではないんぞよ? まろが言いたいのはただの一つ。マギリストロトンにやられるときの残す、『ゆいごん』ぞよ」
「ゆ……遺言?」
 何故だかその続きをテルミは聞きたくない。今すぐにでも耳をふさぎたい。
 タマはそんなテルミの様子を露知らず。三流の役者よろしく大根演技を始めた。
「ああ、もうまろには稼動するすべがないぞよぅ! マギリストロトン、まろを炒めようが味噌漬けにしようが、好きにするがよい! ……あ、まちまち! そういえば、まろとマギリストロトンの正体を知ったあやつは、今頃何をしておるかのう。のうのうとカキ氷でも食べよるころだて。ああ、マギリストロトンの謎とその裏側を知ったあやつが憎いわぁ! まろを見捨てたあやつが憎いぞよぉ!──」
 その体勢のまま、固まる二人。時間が止まったかのような沈黙。笑い転げるように鳴き続けるセミの声だけが、場をリアルタイムに成り立たせていた。
「──とまあ、そんな具合でマギリストロトンはおぬしを殺そうと攻めてくるだろうのう」
 自分の演技を自賛しているのか、タマは「決まった……!」といわんばかりに、すかし顔でいった。
 テルミはその場で、完全に機能停止している。
 つまり。つまりそれって。テルミは、遅まきながらにタマの話の全容を知った。
「つまり──僕をマギリストロトンに売るって事……?」
「むう? 人聞きの悪いぞよ。こっちには何の利益もないからに、『売る』ということではない。ま、『ゆいごん』ぞよ。にゃっはっは」
 ──テルミは反論する気力を失っていた。
 タマを追っ払えば、タマ破壊と共に自分もマギリストロトンに殺される。
 タマを受け入れれば、タマと共に狙われる危険もあるが、それをタマが防いでくれる。
 どちらが安全かは、どちらを選べばいいか、それは火を見るより明らかな事実。
 そしてどちらに転んでも、テルミが現状のレールから、脱線する事は間違いない。
 つまり──タマの話を聞いた時点で、テルミはタマの術中にはまっていたという事だ。
 ありえない。してやられた。
 自称ガイノイドを名乗る少女ことタマの鮮やかな戦略に、そして自分の無能さに、テルミはゆでた昆布のようにその場にへたり込んだ。
 タマは白い世界へと通じる日差しに向き直り、高々と叫んだ。
「さーてとっ! おぬしの家に赴き、『あいす』を食いまくるぞよぉ────っ! にゃはは! にゃはははははははははっ!」
 その笑い声は、しばらく満々と響き続けた。いや、そこまで響き続けたわけではなかったが、テルミにはそう聞こえただけ。
 ただ、それだけの話。


 そういうわけで、タマはここにいる。
 雨貝テルミの、自宅にいる。


 テルミはため息を吐いた後に、妙な緊張感を保ちつつリビングに戻った。
「ん……? うわ、何してるのさ、タマ!」
 そしてテルミは目に映ったタマの有様に、ぎくりと身を引いた。
 テーブルにだらりと腰をつき、一・五リットルペットボトルをラッパ飲みしているタマが目についたからだ。びっくりして声を出したテルミに、何事かと噴出す勢いでタマが反応する。
「ぶふぅ、……、ッ、……な、なんぞよ、テルミぃ!」
「なんぞよ、じゃないよ! 何テーブルの上でジュース飲んでるの? っていうか、何でペットボトルのまま飲んでるのよ? コップも椅子も目の前にあるでしょ!」
 あられもない体勢でジュースを飲んでいるタマに、テルミは驚いたのだ。
 タマは「それがどうしたのだ?」と、真面目に小首をひょこっと傾げる。
「そういうことが許されるのは、お金持ちの家のペットぐらいなの! いや、君は猫のような目をしていて、タマという名前だけでも! ガイノイドという事で、どこかのネコ型ロボットみたいだけども! 君は一応人間としてここにいるわけだから、一般常識のマナーくらいは、しっかりとしとかなくちゃならないの!」
「むぅ……。そのくらい、別にどうでも……」
「ダメ! 家に住むんだから、行儀とか姿勢とか、僕の言う事をちゃんと聞いてもらうからね!」
 テルミは多少熱くなりながらも、タマをそう叱った。
 躾は幼いころからしっかりしておかないと、将来ろくな大人になりはしないのだ。放浪してきた、というのならば仕方ない事かもしれないが、それでもこれはこれだ。
 タマは子ふぐのようにぷくぅっと頬を膨らませたが、自分が悪いと認めてか、怏々と従った。
 テルミは一つ息をつき、タマの向かい側に座って、エアコンの電源を入れた。もちろん、その温度も高めである。……妙に、おぼつかない動作で。
「のう、テルミぃ。ずいぶん広い部屋だが、一人で住んでおるのか? 親はどうした?」
 置いてあったせいべいをバリバリ食べながら、タマがそう言った。
 全身が心臓となって跳ね上がり、一瞬呼吸が止まった。テルミの動きが、わずかに凍る。いきなり物事の核心を突きつけられた……そんな感じだった。
 にわかに蘇るフラッシュバックが、脳裏に弾けては返す。──母さん……。
 眩む頭で無理やりに自分をただし、とりあえず、きつい視線を作る。タマはハッと気がついたように姿勢を正し、小さくせんべいを割って食べ始めた。
「……そうだよ。親とは一緒に住んでいない。………わけありってやつさ」
「ほふーん」
 そんなテルミの態度の微妙な違いを知ってか知らずか、タマは妙な相槌を打ち、
「なるほどの、わけあり………のう……ふむ……うん、うん………そうか、そうだな。……ふぅむ。……なるほど、つまりは『びぎなーず・らっく』というやつだな?」
 どんな思想を繰り広げた結果そうなったのか、そんな事を言った。
「……いや、よく分からないけど……。多分、全然違う……と思う………」
 これは友常、漆間とタメを張るほどの逸材かもしれない。
 次の間には、もうタマはテルミの眼前からさっさと消え、部屋内をうろうろしはじめている。なんともせわしない。なにか、物色しているらしい。初めて他の家に行った時の猫の動きに見えたということは、言うまでも無い。
 タマはダイニングを挟んだキッチン、リビングを回る。ブラウン管テレビの横に設置してある、テルミが愛する小物の数々を展示してある戸棚で、それらを珍しそうに凝視しながらタマは言う。
「それにしても、味気も素気も甘みもない部屋よのう。なかなかに良い部屋なのに。まるで、そのせんべいのようだな。ヒトの感覚はよく分からん」
「ん。なに、それは僕のセンスへの挑戦状と受け止めていいのかな?」
「にゃはは、面白い冗談をいうのう。テルミに挑戦状を叩きつけた所で、『らいおん』の前の『ねずみ』ぞよ。埒も無い事を。まったく、まろが一肌脱ぐしかないのぅ! デザインの『ぷろふぇっしょなる』と謳われたまろが、最高の部屋にしてやるぞよ!」
「意味わかんない。全身黒で統一している奴が何を言うか」
 テルミは嘆声で返してやった。そして、ふう、と肩を落とす。
 タマが不審に思い、ばっと扇子を広げた。
「む、どうしたのだ。先ほどからなんか元気がないぞよ? それに、なんだかおどおどしておるし……。なんだ、悩みか? お、もしかして色恋沙汰か? ふむぅ、テルミはもうそんなお年頃なのか。まろには良くわからないヒトの感情ぞよ。………よし、分かった。まろがその悩みを聞き入れてやろう。ほれ、言うてみぃ」
 まさにその悩みの元凶が、この腕組みをしている少女なのだが。
 あごだけをテーブルに突っ伏して、テルミはぼそぼそと言った。
「……なんでよりにもよって、僕なのかなぁって思って」
「む? 何が? 三角関係の原因が何故自分なのか、ということか?」
「違うよ。いや、なんかむしろ怖いよ。なんで『三角関係』とかまで知ってるのよ」
 するとタマは、「まろは物知りなのだ」といって、えっへんと胸を張った。テルミは反応せず、話を進める事にする。
「君だよ、タマ。何故君がよりにもよって、僕のところに来ることになったのか……って。いや、もちろんその理由は分かる。僕の名も知らぬ祖先が、錬金術とやらを駆使して君を造り、最も身寄りの子孫にそれをゆだねた。君の話が本当だった、ならね。………でも、何で僕の祖先なんだろう。公園で遊びほうけている好奇心旺盛の男の子でも、ちょうど反抗期盛りの女子高生でも、国名も名も知らない外国人でもなく、何で僕なんだろう、って。僕はそんなことされても、困るだけなのに。どうせ何も出来やしないのに。僕は……人一倍、弱い人間だ」
 テルミはあごだけを動かして、独り言のように淡々と言い募る。
「仕方ない理由があるとは言え、そんな僕が君を受け入れるなんておかしいよね……? 僕の祖先──タマの製造者は、選択を間違えたよ。もっと頼りがいのある知人とかで、その子孫に託せば良かったんだ。僕は……弱い人間だ。僕は君に、何もしれやれないんだ」
 さらに言葉を継ごうとし、開きかけた口を閉じてテルミは押し黙った。何故自分は、今日会ったばかりの少女に、こんな事を言っているのだろう。冷静になろうとするように、伏し目がちにしながら息を吐く。
「……ごめん。なんでもないよ、忘」
 と。
「んにゃァああああああああわぁあぁあぁあああっ!」
 あまりに唐突に、タマが意味の解らない叫びを上げた。
 テルミの脳は揺さぶられ、一瞬何が起こったのかわからなくなったほどだった。
「ちょ、な……、に、駄目だって、タマ! そんな大声出しちゃ、近所迷惑……あ。ま、まさか、マギリストロトンが襲ってきたとかっ?」
 テルミは腕を前に身を引き、きょろきょろと辺りを見回した。
 するとタマがパニックに陥っているテルミの前に、ずかずかと歩み寄る。
 タマは切り口上に上げる言葉の節々にあわせ、
「何を! 言って! おるんぞよ! おぬしはァ!」
 折りたたんだ扇子の先端を、テルミの額にビシビシと小突かせた。
「い、た、った!」
 テルミは思わず後ろに仰け反り、思いもよらない被害を被った額を手の平で保護する。
「な、何するんだよっ!」
「さぁ、テルミも同じように叫ぶんぞよ!」
 タマは真剣な顔つきで、テルミへそう要求する。テルミは「はあ?」と、全く理解不能の熱血教師にぶち当たったときのような、いぶかしむ視線をタマへ向けた。
「な、何言って──」
「どうしたほら、やってみぃ!」
 無意識にか、タマの語調は強くなっている。
「『ヒト』のことは詳しくはわからん。しかし、少なくともまろは、道に迷った時や、地域を統率する三毛猫のボスとケンカした時、マギリストロトンと戦った後とか。大声で叫べば、なぜか知らぬがスッとした! だからに、一度テルミもやってみるんぞよ! やってみる価値はある! さぁ、叫べ!」
 テルミは理解に苦しむ。これはコミュニケーションの一環なのか、考え無しの行動なのか。どちらにせよ、自分にそんなことをする義理は無い。しかし……この、否定を許さない鮮烈な眼力。視線に物理的力があったならば、おでこに大きな穴が穿たれている事だろう。
 気づかれないように小さく舌打ちし、癪だがテルミは従う事にした。
 声帯を揺らさず、肺から空気を送り出す。とても弱弱しい響きとして、室内に満ちた。まさに、瀕死の小動物が上げる断末魔として、反感を買わない最高の演技だった。
 拍子抜けしたタマはぽかんとし、やがて小面憎い皮肉な笑みを浮かべて「ハン」と言った。ハンと言って、ハンと言……ハンと……
 はい、ぷっちーん。
 テルミの頭の奥で、何かがきれる明確な音がした。
 何故自分は、こんなこましゃくれた少女になじられなければならないのだ。しかも何だ、その露骨に挑発する言葉、高みから見下ろすその表情。
 無性に腹が立つ。大声で叫ぶのは大人気ないから、なんて関係ない。いい加減の理不尽さに、堪忍袋の緒が焼ききれた。
 テルミは立ち上がり、空前の腹式呼吸で。肺に空気をはちきれんばかりに取り入れて。横隔膜を利用し、思いっきり声を吐き出した。
「うわぁあああぉおおおおおおぉわおあぁあああぁぁあおおぉおおおっ!」
 頭に血液がいってくらっとするくらいに、こめかみに薄い血管が浮き出てしまうくらいに、自分で自分が何を叫んでいるのか解らないくらいに。タマは認め、
「んにゃぁぁあああぁぁあああううぁああああああぁぁあおぉおおおっ!」
 何故だか合わせて叫びを返してくる。
 息が尽きたテルミはまたタマに続き、同じくまたタマも続く。
 二人はしばらく、そうやって叫びあっていた。
 向かい合って全力でわめきあう二人。端から見たら、なんとも珍妙な光景だろう。
 もはや何を目的で叫んでいるのかも、二人は忘れていたくらいなのだから。ただ、顔をくしゃくしゃにして、全力の限りに叫びあっていた。
 その叫びで、落ち込んでくる気持ちがさっぱり消える事は無かった。むしろタマの波に呑まれ、タマの戯事を、『真実』を前提として接してしまっている事を自覚する。思わず焦り、再び身のうちに自らに対する罪悪感が湧く。
 逆にそれをエネルギーとして、テルミはさらに声を跳ね上げた。誤魔化し。少なくとも、叫んでいる間はそれを発散する事が出来る。空を見るとは違う、新たな心の置き場所。
 上等じゃないか──テルミは思う──それならば、釣り込まれてやろうじゃないか。そうした上で、彼女の根幹から全てを打ち砕く。この頑固な小娘を納得させるには、そうするほか道は無い。なに、大丈夫。自分はちゃんと今まで、他の人たちとも距離を置けてきたんだから──。
 意味不明の叫びあいは、その後いっとき続いた。
 無論、彼らの叫びを打ち破ったのは、半ば怒号の、隣人からの苦情であった。

 ◆

「じ、じゃあ、本当に解っているのは、名前だけなんだ。マギリストロトンっていう?」
 粟立ったスポンジを上下に動かしながら、ぎこちなくテルミが聞いた。
 薄く靄の張る室内で、声が独特の反響を保って耳へ戻ってくる。
 彼のシャツは肩まで、半ズボンは太ももまで捲り上げられている。視線はスポンジで磨き上げている対象物から離れ、居づらそうに右虚空へ投げられていた。頬は、紅い。
「うむ。名を一度、奴らのうちの一人から聞き出した以外は、何も解らぬ。……もうちょい下ぞよ、テルミ」
 テルミの左方から声が発せられる。いや、正確には前方だ。テルミの首が右方へ向いているため、彼にはそう聞こえるのだ。
「そっ……か……。狙われている理由だけでも分かれば、だいぶ違うんだけどな。回避する方法も見つかるだろうし。そもそも、考えれば考えるほど引っかかることばかりだ。六百年もタマを追いまわしてるって言うほどの組織なのに、ネットから探してもその噂話すらないし、明確な目的の仮定すら立てることが出来ない。本気でタマを殺そうとするなら、組織っていう利点を利用して、大人数で責めてくるはずだし。マギリストロトンっていう組織は、一体タマをどうしようと──」
 しているんだろう。
 そう続くであっただろう言葉は、テルミの喉辺りで緊急停止を余儀なくされ、飲み込まれて永遠にその存在を消滅させられた。
 タマが発した、不意打ちとしか言いようの無い、
「エッチー」
 そんな、他愛の無い言葉によって。
 そこでテルミは初めて、自分のスポンジで洗っている箇所が、タマのお尻上部だという事に気がついた。
「うわぁあ! ご、ごめん!」
 テルミはあわてて手を引っ込め、勢いあまって、思いっきり壁に肘をぶち当ててしまった。続いて、苦悶の声を上げる。
「にゃはは。せわしない奴よのう」
 テルミは赤面し、そっぽを向いた。一体誰のせいでこうなってると思うんだ。
 二人ではいささか狭い風呂場。そこでテルミは、体を隠しもしないタマの背中を流してあげている。が──これは、本意ではない。それだけは、断言しておきたい。
 ガイノイドも風呂に入る理由を長々と説明された挙句。タマの背中を流すという屈辱を強制されて、この状況に陥っているのだ。
 決して自分は、変な気持ちを抱いてはいない。生まれる事も無い。ロリコンかと問われても、全力で否定する。まだタマの体をはっきり見たわけでもない。だから──
 自分の動悸が乱れているのは、不純な気持ちからのものではないのだ。
「おぬしも『うぶ』よのう。ほれ、どうした。触りたいのならば、もっと触ってもいいんぞよ? それとも何か、そういうことは大切な人のために取っておく『たいぷ』なのか、おぬしは? ほれ、ほれ」
「わわ、わかったっ! わかったから、ちゃんと前向いててっ!」
 タマが体の向きを変えるのを、テルミは全力で阻止する。
 小娘とガイノイドということはあるが……やはり、女性は女性。兄弟でもなければ、昨日今日知り合ったこの体を、直視するわけにはいかない。
 何はともあれ、タマの体が年相応で幼さを残しており、グラマーでなかった事が唯一の救いであろう。
 テルミは、買ってこさせられたシャンプーハットを手にとりつつ、
「と、とりあえず。そんな事は置いといて」
 何度脱線したかわからない話を、再び本題に戻す。
「僕の祖先である、タマの製造者は……タマがマギリストロトンに狙われている事を知っていたはずだ。そのために、タマは『封印』されたんだからね。でも、では何故、それを知りながらタマに『幸せになれ』なんて、具体例も無い抽象的な『使命』を、遺伝子を残してまで願ったのか……」
「それは、たぶん、あれぞよ。まろが、カワイイからぞよ」
 あくまで自信たっぷりに、タマが返答する。テルミは無視する事にする。
「僕の考えでは、きっとタマが幸せになることによって、何かが起こるんじゃないかな? 地価都市が隆起するとか、埋蔵金が突出するとか……。──ああ、違うな。そんな事が起こるはずが無いね。何考えてるんだ、僕は」
 たった半日。それだけで、テルミの思考レベルは極端に落ちていた。ベランダで休息している小鳥を、あれは小型ロボットのスパイだ、といわれて信じてしまうくらいに、落ちてしまっている。これは、非常に深刻だ。
 そんなところでタマは、わしゃわしゃと髪を洗われてゆれる頭で、
「だからに、まろにとってそんなのはどうでもいいんぞよ。そんなことは、実際にやってみらねばわからぬ。今は、此処にこられた事を喜びたい」
 心に沁みてしまうようなことをしみじみと呟いた。思わずテルミは目を細めてしまいそうになる。すぐ我を取り返し、かき回している手にさらに力を入れてその想いを振り払った。ゆるくなってしまった自分の心に、再び強く歯止めをかける。
 何も自分が、そんな感傷に浸らなくてもいいではないか。いけない。例え表面上にでもこの子と近くなったとしても、これ以上心を動かされてはならない。自分の狂い出そうとしている歯車を、鉄骨を貫かせてでも静止させなければならない。自分は知り合い以上の感覚を、抱くわけにはいかないのだ。
 ──それからシャワーで泡を流すと、勢いよく湯船に飛び込んだタマは、服を着たままのテルミも手招いた。真性の心で断りを入れるが、万力に物を言わせたタマに勝てるはずも無い。否応無しに、ヘッドから湯船にダイブしてしまった。
 シャンプーハットと一緒に買った水鉄砲やらなんやらで、しばらく無駄な戯れをした後、ようやく風呂を上がる時間帯となった。体の心までふやけ、意識が朦朧としていたテルミは、とりあえず、タマの放つ水鉄砲が異様に痛かった事だけは覚えていた。
「よぉし! 遅い晩ご飯は、まろが腕によりをかけて作ってやるからに、期待しておれ!」
 そんな事を言ったタマは、勢いよく湯船から這い出した。
 テルミとしては、晩ご飯が、缶詰のオールスターではない事を望むばかりだ。
 しかしそこで彼女は、ふと立ち止まる。そして──思いもよらぬ事を言いはじめた。
「どんな幸せを望めば良いのか……。何故幸せが必要なのか、製造者やマギリストロトンの目的も………まろにはわからん」
 テルミは半開きの目と、ふにゃふにゃの顔をタマに向ける。
「しかし、まろはテルミに名を聞かれたとき、心底うれしかった。今までの苦労を聞いてもらっただけで、それが全て洗い流されたような気がした。一緒に湯に入って、心が安らいだ。まるで、そうだな………。──『ヒト』のようだ」
 テルミはそんな姿のタマを初めて見て、少なからず驚いた。初めてと言っても、会ってまだ一日もたってはいないのだが。
 急激な感情の起伏を晒したタマは、唐突に体をくるりと反転させ、
「少なくともタマは、今『幸せ』であったと思うぞよ?」
 そう微笑んで、脱衣所の向こうに消えていったのだった。
 消えたタマの虚像を見つめるように、テルミはしばらく呆然とする。そして、思い出したように我に返り──ズブズブと、湯の少なくなった湯船に頭を浸け、後悔した。
 いま自分は、穴が開くほどに、タマの裸を凝視してしまっていただろうな──と。

 ほんの一日前までのテルミでは、理解不能の行動の数々。
 夢物語を現実のものとして語る居候が現れ。目的は自分と幸せになるためとほざき。挙句、その巻き添えで命は狙われる……。
 回避しようの無い出来事とは言え、多大に脳は混乱している。上手く整理をつけることが出来ずに、現在の彼自身でも自分の行動を疑ってさえいた。
 しかし、何故だろうか。
 その夜は、思い描く不安などなんのその、泥のように眠りに落ちた。

 ◆

 人間とは、本当に無限の可能性があるんだな、と思わせるほどにあんぐり開けられた口や目、鼻の穴。衝撃を通り越して、憐憫の染み出る視線。──安河内。
 愛嬌のある口元は、卵をすっぽり差し込めるほど開口し。見つめられれば赤面必至の瞳は、せわしなくぱちくり運動。見なければ良かった、と悲愴感染み出る視線。──桃腹。
 身長とその童顔にマッチしたつぶらな瞳は点を作り、文字通り何が起こっているのか解らない、という風な呆けた顔と視線。──友常。
 これ以上と無い整った顔は、上がったのはわずか数秒だけ。確定申告を促すポスターを一瞥するくらいに、まるで興味の湧いていない視線。──漆間。
 そんな、一部を除いて見慣れない蒼穹溺愛同好会メンバーの面作り。
 翌日、午前十時半頃。場所、テルミ宅。いつものように、意味の図れない蒼穹溺愛同好会、集会だ。集会場としていたファーストフード店が、ちょっとした訳でいけなくなったため、急遽場所を変更せざるを得なくなったのだ(ガラスをぶち破り、嘘八百の叫びを上げた挙句、非常ベルを鳴らして店に多大な損害を与えたため)。
 乾いた冷房の音と、遠巻きに聞こえる蝉の声が室内を満たす。
 テーブルを中心に向かい合ったメンバーの、それぞれの反応を再三見渡し。
「えー……と、紹介します。この度、家に居候する事になった『タマ』です。あまり生い立ちには深追いしないで、ほどほどの付き合いでよろしくお願いしたい所です」
「タマという。好きなように呼べ。よろしゅうな、小童ども」
 隣で腕組みをし、仁王立ちをしているタマが続く。自己紹介とは思えない言葉の羅列。
 返事は、無い。蒼穹溺愛同好会メンバーの時は、完全に止まっていた。
 どうするべきか悩んでいるテルミをよそに、あまりの反応の無さに見かねたタマが、
「むぅ。どうした、ほれ、いろいろつっこめぃ。何でそんなに肌が白いんですかとか、どうやったらそんなに可愛くなるんですかとか、タマ様と付き合うには、どうやったらいいんですかとか。ほれほれ、遠慮はいらんぞよ?」
 事前に決めていない台詞で攻め立てた。テルミが流し目で、軽く叱咤する。
 ──沈黙。さて、今日の晩ご飯は何にしようかな、なんて事をテルミは考えた、
 次の瞬間。飛び上がるような怒号が連続した事は、言うまでも無い。
「誰!? テルミくん、誰それ! まさか好きな人じゃないよね? 実は付き合ってました、何てこと無いよねっ? ただの友達だよね、テルミくんッ!」
 恐悸感と失望感にかわいい顔を支配させて叫ぶ、桃原。
「テルミン! お前って奴ァ! 何で早くいってくれなかったんだ、親友よぅ! 隠し子がいたのか、その年で! できちゃった結婚か、略して『でき婚』か! あ、いや! 結婚はまだ出来ないから、出来ちゃった同棲か、母親はっ? っていうか、その子、めちゃくちゃかわいいじゃねぇかぁっ!」
 なぜか狂喜乱舞している、安河内。
「うわぁ、かわいい子だね。ボクは、友常っていうの。よろしくね、タマちゃん」
 脅威の適応力をまざまざと見せつけてくれる、友常。
「…………」
 説明するまでも無いあいつ。
 タマはようやく反応を見せてくれたメンバーに、
「うお、ようやくその気になったか! さぁ、何でも聞くが良い! 何でも答えるぞよ。何せまろは、テルミと一緒に風呂にも入った仲だからの!」
 意味の分からない根拠と同時に、誤解を招きまくる言葉を吐いた。
 目の前から、意味の分からない歓声と悲鳴がわいた。
 テルミは、さてと、と改めて頭を切り切り替える。
 どうやってこの誤解を解くか。良い案はないかな?


「じゃあね、タマちゃん、テルミ君。また明日〜」
「バカ、友常! いや、略してバカ常! タマちゃんなんて、軽々しくいうんじゃねぇ! もっとこう、恭しく言え! ──じゃあ、御機嫌よう、タマちゃん。分かれるのはつらいですが、また、二十四時間後に会いましょう。……あ、じゃあな、テルミン。タマちゃんは、お前の体が紅蓮の炎に焼かれようとも、全精力を持って守りきれビョんッ!」
 ただでさえ狭い玄関で、悪くも無い友常を咎めた安河内は、どこかの執事のようにゆたりと頭を垂れる。決まったかと思った敬礼は、しかし横からのエルボーに阻止された。
「何言ってんだ、お前! ハゲか、ハゲかお前は! テルミくんが怪我するなんて、本末転倒もいいところだろうが! ──じゃあね、テルミくん? また明日だよ? あぅ、明日は絶対、どこにも行かないでね……? あ、それとタマちゃん、あんまりテルミくんに近づいちゃダメだからね!」
 言わずもがな、この見事な二重人格ぶりは、桃原である。テルミは苦笑いで応じる。
「はは……。ま、また明日ね……」
 別の意味で別れを惜しむ二人を、強引に友常が引率していった。天性の天然を持つ友常だが、意外にもそのしっかりとした気質を持っている。もちろんその間、漆間は濁流に流されるままの枯葉であった。
『伯父の曾じいさんの兄弟に当たる、従兄弟大叔父の娘の、はとこに当たる親戚の祖母方の親友が、交通事故で亡くなったために、その娘であるタマが、いろいろ身寄りを回された挙句に自分の所に行き着いた』
 古くてベタ過ぎるというか。意味が解らないくせにバレバレというか。身寄りの中に親友が入って、すでに何のつながりもなくなっちゃってるというか。まあ、いろいろ問題はあったのだが。
 タマの「本当ぞよ」というアシストが入ったとは言え、そんな事を鵜呑みに出来る同好会の器の大きさ──薄さと言った方が良いか──を、今日ほどテルミは感謝した事はない。
 それとは別に、彼は一つ意外な念に打たれた。実は安河内がおかっぱフェチだった、というしょうもない事ではない。奇しくもあそこまで自分にくっついてくる桃腹が、タマの同居をしぶしぶながらも了承した、という所だ。
 考えてみて、しかしすぐにテルミは納得する。桃腹にも、両親がいないのだ。小さい頃になくしたらしく、そこに同情する隙間が入ってしまったのだろう。
 とにかく、タマがみんなとなじめた事は、テルミにとってうれしい事だった。
「のうのう、テルミ。集会したと思ったら、何故すぐに解散したのだ? あの者たちは面白い! まろも仲間に入れて欲しいぞよ……?」
 まるで欲しい物をねだる、無垢な天使のような上目使いで、タマはテルミを見上げた。
 その愛くるしさといえば、今の桃腹にも勝るとも劣らない。テルミは一瞬、うっと身を引く。すぐになんでもないという風に、外出用に身だしなみを整え始めた。
「べ、別にタマを仲間はずれにしようとしているわけじゃないよ。今日は、ちょっと用事があるだけだからね。十日に一回ぐらいしか機会が無いから、今日は安河内に無理言って休ませてもらったの。明日になれば、タマも一緒に参加していいよ。……その代わり、その活動のいい加減さに失望しても、僕は責任取れないからね」
 並みの人格者ならば、開始十五分でその活動内容に脱帽するだろう。悪い意味で。
 しかしタマは、「いいぞよいいぞよ、わぁい」などと歓楽的に大喜びしている。
「むを、ところで、その『用事』とはなんぞよ?」
「え? ああ……。ちょっと、知り合いに聞いて欲しい事があってね。知り合いと言っても、地元の教会の司教さんで、歳はけっこう離れてるんだけど。……僕の両親がいなくなって、いろいろと世話をしてくれた人なんだ。僕にとって、とっても大事な人」
「ほふーん……。他人なのにのう………」
 理解しがたい、という風にタマは頷いた。
 聞いて欲しい事とは、タマの事である。テルミはいまだ、自分の判断が正しかったのか悩んでいた。もちろん悩んだ所で、結果は変わらない。未練がましい、思想上の悩みだ。自分はこれで良いのか、間違っていないのか、これからどうすればいいのか……。
 タマの諦めを誘おうにも、それまでの経緯がある。
 例え明確な答えが聞けなくても、聞いて欲しかった。自分の抱えた問題を話し、心で蟠っているどうしようもない不安感を解き放ちたい。だが、そうそう話せることでもない。
 だからテルミは、司教を頼る事にした。自分が最も、かつ一人だけ信じている人物、司教。彼ならば、どんな世迷言も紳士に聞きとめてくれる。小さい頃から、悩んだ事があったら包み隠さず明かし、答えをもらったものだ。
 準備を終え、テルミは家を出ようとして、はたとタマに目を留める。
 タマの話しをするのにタマを連れて行くのもなんなので、家に留守をさせて一人で行こうと思ったのだが……どうしたものか。一人にさせるのは可哀相だし、一人になるのはちょっと不安だ。なにより、タマは行く気満々という風に草履を履いている。
 テルミは一応、声をかけてみた。
「タマも………行く?」
「ほぇ? 当たり前ぞよ。何でまろが留守をせねばならんのだ」
 なんとも自由奔放な答えでございますこと。別に、支障は無い。
 テルミはタマを連れ、家を後にした。

 薄らながらも、何か希望が見出せるかもしれない。
 そんな淡い願望を胸に持ちつつ、さらに過酷な現実を突きつけられるとも知らずに。


 いつもは自転車で行くのだが、アポイントをとって約束した時間までまだ時間がある。タマもいる事から、今回は散歩がてら歩いていく事に、テルミは、した。
 しかしその判断は間違っていたと、徒歩一分で後悔することとなる。
「あつい……あつい……あついぃ……」
 世界を白く染め上げる、猛烈なまでの陽光。靴裏が溶けてしまいそうなほどの地熱に、陽炎となって視界が歪む。田舎の長所でもある豊かな自然も、効果が無い。むしろ湧き出る虫の鳴き声がより不快にさせた。目的地まで、徒歩約十五分。残り十四分、どう粘るか。
 自然と肩がだれ、少ない日陰を探して歩みさまよう亡者となる中。何度となくテルミは、後ろを振り仰いだ。歩幅の差というものはやはり大きく、少し進んだだけでも距離が開いてしまうので、そのたびに立ち止まってタマが追いつくのを待っているのだ。
 そんなテルミを知ってか知らずか、タマの元気は室内にいるときと変わらない。
 飛び回るちょうちょを一気に四匹捕まえたり、道端に咲く花をむしってそこらじゅうにばら撒いたり、土を穿り返してダンゴムシを捕まえ、体を逆方向に捻じ曲げてみたり、木からとってきた数匹の蝉を川に流して、どれが一番速いかレースをしたり……。小学生低学年レベルの残虐行動を、きゃっきゃとはしゃいでやっていた。
「テルミぃ〜。テルミも一緒に遊ぼうぞよ〜……うっ! しまった、足をくじいてしもうた! テルミ、テルミ、頼む、『だっこ』してくれたもぅ」
「残念ながら、僕に虫を残虐する趣味はないんでね……。それに君をだっこなんかしたら、僕の両膝は粉砕骨折で済むかどうか解らないよ。冗談はいいから、早く歩いて」
 テルミの相変わらずな反応の悪さに、タマは「この甲斐性無しーっ!」と叫び、彼の横腹にアメフトさながらのタックルをかましてきた。冗談にならない、この衝撃。
 司教のいる場所は、教会のすぐ隣にある。信者が何かの集会をしたり、司教の司書室があったり、歴史的な書物が置かれていたりする、大きな平屋だ。また、回り道をしない限り、そこに行くまでに必ず『臍山』を通ることになる。
『臍山』の大きさは、東京ドームと同じ、とおぼろげな記憶にある。町の中心に穿った形となる山は、この町のひとつの名所だ。
 どぎまぎしつつ臍山を見上げたテルミは、予想していたとは言え、その光景に息を呑んだ。けっこうな高度があるにもかかわらず、その頂上付近にまざまざと見える、土が抉れ、木のなぎ倒された、破壊の数々。立ち入り禁止のテープが四方に張り巡らされていた。
 世間的には、土砂崩れ、として片付けられたようだ。そうとしか考えられなかったとは言え、少し無理やりすぎる気もする。
 タマが、土砂崩れに見えるよう、もっとなだらかに破壊してこようか、などと真面目に聞いてきたので、テルミはそれを全力で阻止した。
 ──普通ではない。しかし、わずかにでも平和を垣間見る事の出来る風景。

 打ち破られたのはあまりにも、突然だった。

 キュン、と。
 自然界では決して作れない、レーシングカーが間近を走り去ったのような、透明度のある金属音がなった。
 すぐ隣から聞こえたような気がして、テルミは首を向けると──そこにいたはずだった、タマの姿が忽然と消えていた。しかし、探すまでも無かった。
 十メートルほどの前方。頑強な鉄球が、岩肌に当たったときのような轟音が轟いた。思わず体を跳ね上げた後、テルミはハッとしてそちらへ首をスライドさせる。
 頭までの黒いマント、怪しい緑の眼光──マギリストロトン。
 奴が、そこにいた。タマと腕や脚を組み合わせ、彼女の体を石段の側面部にめり込ませている、記憶どおりの奴が。
 眼前で起こったこの状況を、上手くテルミは理解できなかった──わけではなかった。
 危惧していた緊急事態が、今、起こったのだ。理屈ではわかっているつもり。でも、頭はそれを現実として、なかなか受け入れようとはしなかった。
 全身がピリピリと痛いのに。足がすくんで動かないのに。暑さのせいではない汗が、どっとあふれ出てきているのに。妙な心地で、現実感がまるで無かった。
「タ──タマ」
「来るなッ!」
 思い出したように足を踏み出そうとしたテルミは、思わぬ言葉に、上げそうになった足をぴたりと止めた。タマはマギリストロトンを蹴り飛ばし、続けざまに叫ぶ。
「こやつは今、まろを狙ってきておるぞよ! だからに、まろがすぐ近くの臍山へこやつを誘い込んで倒すっ! だからテルミは、逃──ぐぅッ!」
 言い終わる事さえ待たず、再びマギリストロトンがタマに飛び掛った。衝突してはタマが引き、再びマギリストロトンが追いついては、金属の擦れ合う音と火花を散らす。
 続きを言う間もないタマは、やられるかと思うほどの紙一重の牽制をやりつつ、少ない住宅街の向こうに姿を消していった。
 ──あまりに一瞬の出来事。穿たれた石段と、軽く立つ砂埃。それ以外は、まるで巻き戻しを掛けたかのように、同じ場景を繰り返していた。蝉の声が妙に浮き立つ。それから数秒たって、付近の住民が何事かと顔を覗かせた。テルミは、焦る。
 やはりタマの話は本当だった。命を狙われている。……いや、それよりも。
 どうする、今、この時、この状況。自分はあの少女とは何も無い。言われたとおり逃げるか? だめもとで助けを呼んでみるか? ……いや、それとも──?


 空間振動音声断絶装置は飛ばした。臍山の音声だけ、一時的に世界から断絶された。立ち入り禁止のテープもあるため、外からの介入もまず無い。存分にやれる──はず。
 しかしタマは、押されている形勢にあった。
 肉眼では捉えきれないほどの速度。両者が交錯するたび、鼓膜を刺すような金属音が頭に響く。その都度散る火花は、目を覆う陽光の前では妙に現実味が無かった。
 タマが隙を衝く。火花を散らせ、お互いに引くと見せかけ──すぐにステップを踏み、引いたマギリストロトンに肉迫した。
 ほんの数瞬。逆手に持った扇子を、マギリストロトンの米神に抉りこませる──
 ──と、したところ。寸前でタマは制動を掛け、大きく後ろに飛びのいた。
 赤い液体が、その軌跡を追う。それはタマの腕からあふれ出る、血を模した冷却ジェル。タマの二の腕が、数センチにわたり抉られていた。マギリストロトンが持つナイフにも禍々しくそれは付着し、ぽたぽたと滴り落ちていた。
 隙を衝いたのではない。隙を見せ、誘い込まれたのだ。ほんの少しタマの判断が遅かったのならば、肘の向こうは軽く切り落とされていた事だろう。
 振袖を引きちぎって補強して、激しく舌打ちをする。
 自分は馬鹿だ。甘くみていた。目的を達し、どこか安心していた部分があった。つい昨日襲われたばかりだから、次の日は襲われないと思っていた。いつも一定量保っておくはずのエネルギー充電を、怠っていた。体が、重い。
 そんな情けない自分に、タマは無性に腹が立った。
「バケモノ」
 ふいに、そんな言葉が聞こえた。おそらく。マギリストロトンが、そう言った。
 戦闘では致命的になるであろう、文字通りの意味ではない、軽い思考の機能停止をタマは味わった。──喋った。マギリストロトンが、喋ったのだ。
「何──? 何だと?」
 タマは返す。ふとそこで気づく。目の前のマギリストロトンは、いつもの奴とは違う。いや、外見は同じだ。目的も同じだろう。が、このマギリストロトンは殺気がまるで違う。本気で憎み、殺したいと願う、ミドリ色の眼光だった。
「在ってはならナイ存在。人じゃナイ。お前ハ、バケモノ」
 機械的で、少し低い、男性のような声音。でもどこか、感情の起伏が言葉に出ている、人間のような言葉。名前を聞きだしたとき以来だった。
 タマは情報を得るチャンスだと思い、一本、木を挟んだ向こうにいる敵を見据える。
「おぬしたちは何故──何故、まろを狙う! 何が目的で、破壊しようとするッ!」
「………私達マギリストロトン教徒ハ、お前の存在ヲ認めナイ。神の冒涜ハ、我々の冒涜。我々の冒涜ハ、神の冒涜。だから、お前ヲ壊す」
 いい終わるが早いか。マギリストロトンの身を沈めた一閃で、二人の間にはばかっていた木が切り倒されていた。黒いマントは影に同化しているため、ミドリの眼光だけが飛来する。闇に染まったナイフが、タマの首筋に襲いかかった。
 彼女はそれをはじき返す。超接近戦でもつれ合いながら、激しく叫び返した。
「まろがいつ、神を冒涜した! お前たちを冒涜した! まろの体の中に、何かがあるというのか! だから、まろの存在を認めないというのか、バケモノというのか!」
「違ウ」
 激しくナイフを振りかざしながら、マギリストロトンもあくまで淡々と答える。
「お前の中には何もナイ。ただ、お前ノその存在ガ、我々と神を冒涜しているのダ。お前ハ、この世界に在ってはならナイ存在なのダ。消えロ、キエロ、消えなければならナイ。お前ハこの世界の毒だ。猛毒ダ。失せなければならナイ存在なのダ、失せろ、ウセロ」
 饒舌だった。タマは、ありもしない心臓が、ドクンと跳ね上がったような気がした。
 危うく頭に衝き立てられようとしたナイフをかわし、髪の毛が数本舞う。同時、交わした回転を利用し、タマは思いっきりミドリの眼光に足を叩きつけた。マギリストロトンは数メートル飛ばされ、ぶつかった木と一緒に倒れ込む。土ぼこりと、木に止まっていた虫が盛大に跳びず去った。
 タマは激しく動揺していた。よろめき、手を木に添える。
『存在してはいけない』
 何度、そう思ったことか。何度、従おうとしたことか。考えないようにしていたが、いつも頭の隅にあった……よくわからないモノ。あれがヒトの持つ、キモチ、なのか。
 自分は存在しない方がいいのではないか。消えうせた方が楽になるのではないか。
 否定された事も無かったが、肯定されたことも無かった。──それを今、肯定された。
 果てしなく胸がしまる、この感じ。吐き出したいほど胸が焦がれる、この感じ。
 タマはその答えから逃げるように、ぶんぶんと首を振る。
「違う、違う、何を言う! まろはバケモノなどではない! まろは存在していけなくはない! まろは──」
「──なんだ」
 はっとタマが顔を上げる。急迫していたマギリストロトンの拳が、頬に炸裂した。ものすごい衝撃が襲い、体が回転しながら地面を削る。
「デハ、お前は、いったいなんだ」
 敵との、マギリストロトンとの会話。タマは、妙な気分だった。
 質問に、タマは答えられなかった。自分は何なのか、ガイノイド? それとも──?
 マギリストロトンが指をさす。軌跡を追うと、それはタマの腕の傷だった。模した肉が抉れ、模した血があふれ出る、模した痛みさえもない傷跡。
「人間は、ソンナものではナイ。人間は、傷ヲ負うと呻き、悶エル。人間はそんな速さデ、力デ、戦えナイ。だから、お前は人間ではナイ。ただのバケモノだ。バケモノは人間と違い、神に愛してもらえナイ。神ヲ愛する事が出来ナイ。全ての愛がナイ。バケモノは、幸せになることなど出来ナイ。破壊サレルのみ」
 息を呑み、愕然とするタマの前で、マギリストロトンは、はっきりと、言い放つ。
「──お前は、在ってはならナイ存在」
 ズキン、と。
 現実の産物として、胸が痛んだ。傷など負っていないのに。負ったとしても、その痛みを機械が調整して抑制するはずなのに。
 敵だ、考えに釣り込まれるな。そう思っても、考えられずにはいられなかった。
 自分はバケモノなのか。人間──と同じではないのか。愛する事は、愛される事は出来ないのか。人間ならば、目の前の敵を殺すことなど出来ないのか。幸せになることなど、出来ないのか。
 タマはふるふると首を振る。それは酷く儚く、酷く弱弱しく。
 では、昨日感じたあのモノは何なのか。テルミと一緒に風呂に入り、テルミと一緒にご飯を食べて、テルミと一緒にテレビを見て──。あれが『幸せ』じゃないならば……自分は『幸せ』など得る事が出来るのだろうか? タマは切望する。
 自分はいたい。この世界に存在して、『幸せ』になりたい!
「ナレナイ。お前は幸せになどナレナイ。なぜなら、お前はバケモノだからダ」
 連呼する。まるで、心を読み取ったかのように。機械的な、でもどこか人間特有の憎しみ感溢れる、その口調で。頭に何度も蘇り、自分を叩きのめしては消え、再び現れる。
 そんなはずはない、そんなはずはない、そんなはずはないッ!
 完全に否定しつつも、諦念の視線で傍観している自分がいる。
 そんなこと……そんなこと言う奴は。そんなこと、言うやつは──。
「だから壊レロ。消えロ。失セロ」
 心を震え上がらせていたモノが、漲る激しい何かにとって変えられる。これは──『いかり』? タマは見開いた三白眼で、撲殺するかがごとく、目の前の『敵』を見貫いた。

「   コロシテヤル   」


「うぉおっ!」
 だしぬけの大気の震えに、思わずテルミは両耳を手の平で覆った。腹の底に響く重層な音は、断続して続く。おそらく、タマが発動した空間振動なんたらの領域内へ、踏み込んでしまったためだろう。テルミは、そう推測した。
 テルミは臍山を登っていた。その目的は……言わずもがな。
 助けなど呼べるはずもない。でも、逃げるわけにもいかなかった。逃げろという自分もいたが、そのたびに昨日のタマの顔が思い出され、テルミを今の行動へ導かせた。
 行った所で何も変わらない。むしろ、戦っているであろうタマの邪魔になるだけ。そんなことは分かりきった事。……でも。
 それでも、行かなければならないという想いが勝ったのだ。心のそこからタマを助けたい、などという偽善的な想いではないが。ピンチになれば、逃げてしまうだろうが。
 それでも、中々急な勾配を必死になってテルミは駆け上がった。
 激しい空気の振動にも耳がなれ、だいぶ息が上がってきた頃合いになって、ふいに音がやんだ。テルミは顔を上げる。慣れていた耳が、じんじんと痛んだ。軽く上がる土煙が近くに見え、そこだと思い、再び足に力を入れる。
 普段通らない獣道を掻き分け、もつれる足を叱咤しつつ、その場所にたどり着くと──そこには。
 タマが、いた。
 テルミに背を向けた格好で、空を見上げているタマが、そこにいた。足元には、粉々に破壊されたマギリストロトンの姿がある。マギリストロトンもまた、機械だったのだ。
 大きく肩で息をつきつつ、自己嫌悪を感じるほどの安堵を、テルミは感じた。
「タマ」
 ゆっくりとタマに歩み寄り、テルミは声をかける。返事はなかった。タマは、天を見上げるその体勢のまま動かない。不審に思い、彼女の肩に手をかけようとし──
 かけた瞬間、タマがテルミの胸に、飛び掛ってきた。テルミは反動で大きく後ろに倒れこむ。飛び掛ってきた──のでは、ない。威力はその言葉で良いが、本質的な意味は違う。
 タマは、テルミの胸に抱きついてきたのだった。
「タ──タマ? ど、どうしたの?」
 テルミはタマの顔を覗き込もうとするが、タマは顔を深く押し付け、窺えない。困ったな、とテルミは思い、何気なくタマの腕に目をやる。血が、あふれ出ていた。
「うわ、タマ! ちょっと、腕から血が──じゃ、ない? なんだこれ? ゼリー?」
 固形と液体の半ばくらいの、液体形ゼリーのような感触だった。
「まろは──バケモノだった」
「……え?」
 ほんの十センチくらい近くにいるからこそ分かる、小さな声だった。その声音にいつものタマは無く、それだけでテルミは不安になった。
「まろは、むしゃくしゃして……。我も忘れて、思うがままにあやつを殺してしまった。口車に乗せられてしまったとは言え、殺してしまった。──ヒトは、こんな事しないであろうな……? ヒトは、こんなに簡単に命を潰さないだろうな……? ………まろは、人間にあこがれておった。笑って、泣いて、喜んで、ケンカして……。そうなって、『幸せ』になりたかった。『使命』など関係なく、まろ自身がそう願っておった」
 突然のタマの告白に、テルミは動揺し──そして、沈痛になった。
 実の所──。初め無理やりにでも、少女の正体がガイノイドだと頭に叩きつけた時。ではそれならば、所詮は機械の戯言だ、とまでしかテルミは受け止めていなかった。機械で出来ていて、命も思考も所詮は作り物の産物でしかない、と。
「………しかし、まろはそうなれそうに無い。思いのままに殺してしまった。あやつの言う事を、否定できなかった。……それでもヒトの形でいるまろは、やはりバケモノなのかのう? まろがヒトになりたいと願う事は、無謀なのだろうのぅ。ヒトは……本物のヒトは、こういう時──『なみだ』を流すものなんだろうのう……ッ?」
 しかし、それは違った。
 吐くように苦々しく呻き、腕に力を込めてすがりつく姿は──紛れもなく、少女だ。立派な、『ヒト』である。ヒトとはつまり人間であり、それ以上でも、それ以下の存在でもない。思考もあり、命もある。立派な、一つの生命だ。
 感情を知らないながらも、持っているのだから、怒り狂ってしまったのだろう。
 マギリストロトンとの戦いに何があったのか、テルミは分からない。タマの『使命』も、タマの事情も、知った事ではない。自ら歯止めをかけ、タマに情を移すつもりもない。
 でも、はっきりと断言する事が出来る。今の、テルミなら。
 この現実は、一人の少女にはあまりにも辛過ぎる。
 だから、この時だけは──。せめて、この時だけは。あふれ出そうとする想いを、やさしく自分の身内に解き放ち、身を任せても……良いだろう? ──母さん。
「タマは──、絶対に、バケモノなんかじゃないよ……」
 タマの背中に手を回し、泣きじゃくる事も出来ない少女を、テルミは強く、強く。力の限り、抱きとめてやった。
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