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なとりうむ
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第一章 | 目次

ファーフル・プラネット

プロローグ

 どうして。ぼくの、なにがいけなかったの? ずっと、あまえてたから? たよりにならなかったから? だからおかあさんは、そんなかおをしてるの? ぼくをおいて、どこかへいってしまおうとするの?
 おかあさんはどうして……ぼくを、裏切ったの……? おねがい、おしえて、おかあさ──



 風が頬をなでた。
 停滞する残暑をやわらげる、申し訳程度のやわらかい風だ。風は俗に『臍山(ほぞやま)』と呼ばれる山の、中々きつい傾斜を一気に駆け上がる。町の真ん中にずんぐりと佇む事から、安易にその名で呼ばれる事になった山である。
「……ぁ…………」
 満載の木漏れ日をうけつつ、青年──雨貝テルミは目を覚ます。少年の域を脱し切れていない体に、表情。着ている服は、地元高校の制服である。
 と、次の瞬間、勢い良くテルミは体を跳ね起こした。まるで、衝撃的な何かを思い出したように。体に付いた天然の芝生が、パラパラと落ちる。
 目を見開き、呼吸すら忘れて肩を震わせる。ゆるゆると視線を動かし、テルミは世界の傍観を決め込むまばゆい青空を仰いだ。美しい空。自分の罪を全て許してくれるような、そんな美しい空だった。
 しばらくそのまま硬直していた彼は、やがてゆるゆると肩の力を抜き、パタリともう一度芝生に背をあずけた。大きく息を吐き、眼下に広がる景観に視線を移す。
 平和以外の何物でもない、地元の風景。活気ある町はにぎわいに満ち──しかし、テルミの寝転がる臍山までは響かない、程よい風景。ちゅんちゅうとスズメが鳴き、深い緑の匂いが鼻腔をつく。何者の侵略も受けず、壮大な蒼天にやわらかく包み込まれている。
 そう──この町は、世界は、平和なのだ。自分が再びあの夢を見てしまったとしても。何の障害も受けず、地球は回り続ける。
 遠い記憶であるあの夢は、目を覚ます自分にいつも後悔と、底知れぬ恐怖を持ちかける。忘れようとも忘れきれず。受け止めようとも、絶対に理性が受けつけない。もし頭上にこの青空が無かったならば──テルミは考えて、恐ろしくなった。
 だからこそ、空は良い。全てを包み込み、溶けこまさせ、無条件で開放させてくれる。とても綺麗で、ずっと自分だけを見つめてくれる。ただ、自分の存在だけを──。
 と、頭の中でそんな考えを転がしていると、神経を裂く機械音がにわかに響いた。
 テルミは飛び跳ね、慌ててポケットの中から元凶の携帯を取り出す。『バカ』という簡略化された下卑の文字が、二百万画素の液晶画面に、艶やかに照らし出されていた。
 何のためらいもなく、彼は滑らかな動きで着信拒否を選択する。続けざまにその電源も落とし、折りたたんでポケットに放る。
「……安河内のヤツ。終業式の後すぐにやってられるかっての、同好会なんかさぁ」
 テルミは何の感慨もなく毒づいた。
 同好会とは、テルミの所属している部活だ。正確には名前のとおり、部活の域にまで達してはいない、ほんの五人の小規模な集まりだが。『バカ』とはつまり安河内のことであり、同好会のリーダーでもある。ちなみに安河内の携帯情報を『バカ』で統一しているということは、無論了承は得ていない。
 同好会の名を、蒼穹溺愛同好会という。非常にひょんな名前だが、活動内容、存在意義はまさに名の通り。空を愛する人々が集う同好会だ。テルミ自身その同好会の掲げる理念を全く理解しておらず、またその活動に必然性を感じる余地もない。その事はテルミだけではなく周知の事実のようで、需要は皆無、こうして悪友を持ったテルミが荷を負うことになっていた。
「大体、空を愛して写真に収めるくらいなら、肉眼で認めろっていうんだよ。空はぼうっと眺めるのが一番なんだよ、安河内」
 ぼやき、テルミは再び目の前の心休まる風景に見入った。
 無限大に広がる青い世界は、悟りを説くようにゆるりと時を刻む。これが蒸し暑くうるさい蝉の声がない季節ならば、好感度は二倍増だろう。
 緩やかな風が大気をすべり、湿った肌をふき取っていく。
 ──暇な奴。
 そう指摘されれば、テルミは言い返すことが出来ないだろう。確かに、それは事実だからだ。何に対しても熱くなれなく、さめてしまう自分。人生はかったるいと思う自分。長い年月がたっても変わらず、彼自身変わろうとも思わない。
 ……なぜならその理由は、テルミの中に、明確かつ明瞭に刻印されているのだから。
 だから、テルミは異常事態を望まない。物語の主人公などで、非現実や非日常を望むことはよくある。自ら波乱の渦に呑まれに行くとは、なんとも勇敢ですばらしい。
 しかしテルミは、その波乱とやらを渇望しない。熱望しない。望んだところで、起こるはずもない。起こらなくていい。自分が対処できるはずもない。人生は退屈な日々の連続でいい。空を眺めるだけの日々でいい。いや、自分はそうあるべきなのだ。
 テルミはその考えを肯定し、曲げるつもりもなかった。
 だから。
 この時のテルミには、予測することなど、どだい無理な話だった。
 その『異常事態』が数十秒後、自分の身にふりかかるなどという、予測は──。
 テルミは初め、飛行機かと思った。しかし飛行機にしては音波が高すぎる。空気に振動する、透明な金属音……? 薄く目を開け、何もない空を見つめる。
 何もない。
「……?」
 が、その耳に障る音はやまない。むしろ、急速に近づいているような気さえする。
 空は見るもの全てを虜にする平和の象徴。限りなく広がる楽園の都。濃淡に彩られたスカイブルーも、その穢れを知らな……
 ──と、そこでテルミはその思考を否定した。
「なに? ……鳥?」
 視線の先、約五百メートル。黒い米粒のようなものが見て取れた。それは、こちらに飛来してくるようでもある。一つ……いや、二つ? 白い紙に黒インクをたらしたように、栄える空が影に侵食されていく。間違いなく風きりの音はそれから発せられていた。
 鳥──ではない。鳥はあんな音を出さない。何より、飛来する影のように四肢を持たない。そう、まるで人のような。
 なんだろう。人が飛ぶはずない。……小型飛行機のラジコンかな?
 テルミは不審に思い、わずかに身を乗り出して目をすぼめた、のだが。
 その確認するという行為は、あまりにも遅すぎた。
 時をかわさずとして、疾風のようにわずか数メートルまで飛来した影は──少女だった。黒を基調とした着物と、同色の黒髪を風にたなびかせつつ、まっすぐテルミに向かって飛来、飛び掛ってくるではないか。
 テルミは目を見開き、脳に送られてくる視野情報を疑った。
 あまりにも唐突な事態。脊髄反射でも身を捻る事すらできないほどの一瞬。明らかな直撃コース。反応できず、ましてや考えることなど出来るはずもなかった。
 一瞬の間に交錯した、見るものを引きずり込む深い闇を宿した瞳。次いでその眼差しが、『逃げる』という行為を月の裏側へと放り出し、忘却させていたのだ。
 互いに瞳を見つめあい、時が止まったかのように思えたのは、ほんの一瞬。
 次の瞬間テルミが認めたのは、耳元で激しく炸裂する岸壁の抉られたであろう轟音。そして、鼻先わずか十センチメートルまで接近した、少女の顔だった。
 当然、テルミには何が起こったのか分からない。頭には疑問符の嵐である。降り注ぐ土煙の中、ただ呆然と鼻先の少女の顔を見つめるしかない。

 衝撃的な運命の出会い。
 戯曲の風体に比喩するならば、この瞬間のテルミはまさにその言葉が合致していたことだろう。現在の──そしてこれからの彼の人生においても。

「あちゃぱー、ヒトか。まずいぞよ」
 その中学生を思わせる幼い容姿に、噛み合わない妙な口調でぼやいた少女は、しまったという風に顔をしかめた。
 それはまるで、闇夜の妖精だった。
 綿密に黒地が織り込まれた、一見喪服にも見える着物は、闇そのものを切り取ったかのように降り注ぐ全ての光を吸収し。
 逆に艶光する黒髪は、おかっぱながらに鋭利な印象を与え。
 何よりも特徴的な、多少つりあがり、大きく開眼したその目。触れればそのまま連れ込まれそうになる、漆黒の瞳。それはまるで……油断している獲物を仕留めると決めたときの、捕食者の眼差し。しかし危険な雰囲気は感じられない。幼い表情や仕草が、その印象を腐敗させているのだろう。
 整った顔に映える乳白色の肌に、目立つ赤色の唇を尖らせ、どうしようと少女は呟いた。
 約数秒のタイムロスを経て、ようやくテルミの脳はこの事態の収拾をつけた。
 飛んできたのだ。今自身の体をまたがっている少女は。
 約五百メートル上空から飛来してきた少女は、だがその到着点にテルミがいて、仕方なく彼の耳元の地面に足を抉りこませて急制動、難なくその危機をしのいだ──。
 ありえない。
 テルミは収拾した事態を即否定し、そう結論付ける。だってそうじゃないか? 身を引きつらせて縮こまる自分に覆いかぶさっている、突っ込んできた古風すぎる少女。それも、数百メートル向こうからだぞ? これじゃ……これじゃまるで。
 何かありえない、『緊急事態』が起こったみたいな状況じゃないか。
 困ったような幼い顔でまじまじと見つめる少女に、どぎまぎしつつテルミは視線を折り返す。……と、そこで少女の顔が何かに気づいたかのように、ふっと緩められた。
「この感覚……? も、もしや、おぬし……?」
 そう言ってハッと目を見開く少女に、テルミはなおも視線を返すという行為しかしてやれない。少女の口が開き、言葉を継ぐ──
「あっ……!」
 ──とした所、少女の瞳が敏感にスライドされた。真後ろに視線を回した少女は、すばやくテルミの体から身を翻す。
 テルミはその少女を視線で追うが、なんだ、という疑問を浮かべることはなかった。
 少女が飛来してきた上空。刹那、視認も許さないスピードで突っ込んできたもう一つの影が──急制動をかける様子も絶無のまま、少女に激突したのだ。
 重層な機械をぶつけ合わせたときのような轟音が、テルミの鼓膜を揺さぶり尽くす。直後に衝撃で吹き荒れた土煙を、彼はとっさに腕を掲げてやり過ごした。
「く……!」
 煙が引いてきたころあいを狙って状況を確認しようとするが、そこに二人の姿はない。代わりという風に、森の奥へと土煙が道を作っていた。
「な、ななな……なんなんだよう……っ!?」
 テルミには今これがどんな状況なのかは判らない。判りようも無い。でも、確実にやばいことに巻き込まれているということは、間違いないと判断はついた。そしてたった今、小さなか弱き少女が命を落としたということも。
 テルミは恐る恐る、土煙の渦巻く、たった今出来た道の入り口を覗きこんだ。木々が両脇になぎ倒されているが、土煙のせいで数メートル先しか見えない。
「やばいやばい! これ、警察に連絡した方が良いのか……っ?」
 でも、警察がこんなデタラメな状況を信じるとは思えない。お払い箱にされるのがオチだ。いやいや、むしろ被害者である自分が疑いをかけられる状況じゃないか!
 パニクっている頭は、考えを拒否するようにうまくまわらない。ただ焦りのみが蓄積されていき、「あああ!」とテルミが頭を掻き毟った──その視線上。
 溜まっていた土煙から、垂直に約十メートル上空へ、花火が上るように一筋の尾が引いた。空に舞い上がり、空中で土煙の鎧を剥いだのは、先ほどの少女だった。少女は中空で身をひねって器用に調節すると、猫のごとき柔軟な姿勢でテルミの前方に着地した。音も無く、何事も無かったかのように。
 もちろんテルミは、国宝級の石膏細工の勢いである。
「殺られるぞよ、身を隠しておれ! しかし逃げるな! まろはおぬしに話があるっ!」
 と、テルミが我に返るよりも早く少女は叫んだ。
「え……? な、なん──」
 テルミは意味が分からず聞き返そうとするが、
「空間振動音声断絶装置、散ッ!」
 少女はすでにテルミの存在を忘れてしまったかのようにそう叫び、手中から球体の何かを放り投げた。するとそれは上空で四散し、約百メートル四方に飛び散った。
 ──くうかんシンドウだンゼ……なに?
 しかし今更そんな些細なことを疑問に思わず、さっさと言われたとおり逃げ出せばよかったと、この直後テルミは後悔した。
 少女を越えた向こうに、砂煙をまといつつ出てきたもう一人。全身に黒のマントを着込み、ご丁寧にフード付きで顔をさらすことすらしていない。この炎天下の中、さぞかし暑いだろうな、とどこか外れた意見をテルミは考えた。しかし、その奥から見える瞳はミドリ色の燐光を窺わせ、漫画風に述べるなら、いかにもというべき『悪役』だった。
 その『悪役』は一コンマだけ間をおいた後、猛烈なダッシュでこちらへ襲い掛かってきた。
「ひいいぃぃぃいい!」
 思わず悲鳴が上がる。しかし心中では目の前の少女を心配していた。逃げろ、そうしないと今度こそ殺されるぞ、と。自分はなんていい奴なんだ、と。
 突っ込んできた『悪役』は手に持ったごついサバイバルナイフを逆手にする。少女は腰を据え、その『悪役』をギリギリまでひきつけた後──。………逃げた。
 すっぱりと、テルミの視界から消え、逃げたのだ。そしてテルミはその直線上にいたという理由で、振り下ろされる得物の代わりの餌食、という状況に陥ってしまった。
 ──あ、本当に逃げやがった。
 ほんの一瞬。迫った死を認識さえもできない一瞬。目を瞑ることも、悲鳴を上げる事もできない一瞬。その、ほんのわずかな一瞬の間──
「ぶグぅヲォッ!」
 鼻先に迫った奴の顔面に、毒蛇となりしなった幼い脚が、抉りこんだ。
 カエルが踏み潰されたときのような声を上げた『悪役』は、首をおかしい方向に捻じ曲げつつ、再び森の中に道を作っていった。
 唖然とへっぴり腰で立ち尽くすテルミの前に、少女は動きにくい着物というハンデを微塵も感じさせない、軽やかな動きで着地する。そして、日光をよく反射する白い肌を吊り上げて、笑った。振り返り、テルミに向かって、網膜に焼きつく鮮烈なまでの美しい笑みを見せたのだ。
 その愛くるしい笑みに。ついに危険警報を発していたテルミの脳が、ショートした。しかしそれは幸いにも、テルミの脳全体を覚まし、結果的に冷静な判断へと追いやった。
 こいつらは、人間ではない。尋常じゃない。この世のものではない。アリエナイ。
 テルミは咆哮を上げ、逃げた。体育祭のスウェーデンリレーよりも真面目に、傾斜を全力疾走で下った。
「むをっ! おぬし、逃げるな! おい、おぬ──ちぃ、いい加減にくたばれい!」
 テルミに叫びをよこす少女には、死んだと思った先ほどの『悪役』が取り付いた。しかしそのアリエナイ誤算は、テルミにはうれしい。
 ──なんだ、なんだなんだ! 何が起こってるんだ! 何故人が空を飛ぶ? 何故あれだけの打撃を受けて死なない? 何故殺し合いが堂々とある? 何故簡単に山の土が抉られる? 空間振動なんたらってなんだ? 何故いまどき着物におかっぱなんだーッ?
 テルミは軽いとはいえない現実逃避を起こしていた。それは仕方ないことだろう。なぜなら、たった数分前まで肯定していた自分の思想、理論、希望、常識、他すべてを一気に覆させられたのだから。それも、あまりに唐突に。
 テルミにはもう、現実逃避というあまりにお粗末な結果論にしか頼ることしか出来ない。
 ──嘘だ、偽りだ、これは夢だ! ああ、でもじゃあなんで、走るとこんなに息が切れるんだろう。足裏に土の感触が鮮明に伝わるのだろう。夏の日差しが暑いんだろう。もう、誰でも良い! これは偽りなんだと、夢なんだと、嘘なんだといってくれ! 何ならドッキリでも良い! 嘘なんだよね、嘘だろう、嘘でしょう!
 そしてテルミは轟音の轟き続ける中、眼下に見える町並みに叫びを放った。
「嘘だぁぁあああ!」
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