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その六 | エピローグ | 目次

いんろーど♪

その七

 人は窮地に追い込まれるとどうなるか。
 恐怖に畏怖し、その場所から腰を抜かして逃げ惑う? 友達と身を合わせあって大丈夫だと励ましあう? 逆にその状況が脳内リミッターのタガを外して夢心地になる?
 映画など例え易い例で述べるなら。主人公はどんな状況にも勇気を振り絞り、萌えの塊と化しているヒロインを命綱もつけずに助け、見せつけるようなハッピーエンドを迎えている所だろう。なんとも勇敢ですばらしい。
 しかし、だが、いかんせん。人はそんなにも勇猛なものではないと、この時の俺には断言できた。なんて人は脆いものだろう。
 自分で選び取った道。だが。その状況に直面するとただ信じられないという風に頭のどこかが現実を拒否し、脳内を整理しようとも、しわの隅々まで空白の彩色に染め上げられる。
 全身の感覚は異常域にまで敏感になり、それでいて体感体温は低下、手足を動かそうとしても、まるで神経系の神経伝達が何かの電流によって遮られているように上手く動かず、ただ微振動を連続する。
 結果的に信じられないという思いが炸裂しまくり、軽い現実逃避を起こしたりするのだ。
 こんな状況でも客観的に物事を捉えられるとしたら……相当な場数を踏んでいるプロフェッショナルか、小さい頃から問題のある教育受け続けている無感動少女か、ただ自分の事しか考えない自己中野郎ぐらいしかいないだろう。
 ──と。気分よく語るのは一向に構わないが、やはりその理由を述べないわけにはいかないな。まあ、それは至って単純な理由だ。
 聞こえていた奇声がだしぬけに大きくなって、呼応するように俺の肌に電流のような鳥肌が駆け巡る。
 八月二五日、月曜日。俺たちのライヴ本番まで残り一組。つまり、俺自身今語ったであろう窮地に追い込まれているってことだ。
 現在俺がいる裏方からすぐ横に出れば、数百人の注目を浴びることになるステージへと通じている。ステージには決められた順番の前の組が、二曲目の後半に差し掛かっていた。
 時折差し込むカラーなライトが気持ちをさらに焦らせる。高ぶる気持ちを抑えようと片手を二の腕に回すと、腕が小刻みに震えていることに気づき、俺は哂った。武者震いか。もう突き進むしかないのだ。前に、前に。……それでも自分が今まさに、未知の世界に足を踏み込むという状況に、感慨深さを禁じえない。
「……いよいよだな」
 うるさい静寂の中、答えるものはいない。
 優は何もない空間にドラムを刻み、可憐はモダンなギターに場違いの口笛を吹きつつ、手入れをしている。空気がピリピリと肌に痛い。俺もベースの最終チェックをしようと手を伸ばすが、モダンなカラーのそれに別の不安を感じたため、手付かずで引っ込めた。
 やることはやった。例え短い時間だったとしても、後悔しないだけのことはやった。それでも自然と焦りは湧くが。後はアイツに……ZINに、今の俺を叩きつけてやるだけ。
 その時無意識に耳に慣れていた音が途切れ、スタッフらしき男が出番を知らせた。きタ……! 俺はギクシャクと、油の切れた機械のように立ち上がった。するとふいに優が、
「大丈夫だよ、小護」
 それは撫でるように、柔らかく……。
「大丈夫だから落ち着いて、小護。きっと気持ちはZINに届く。……きっとね」
 何を悟って言ったのだろう。でも、心なしか気分が落ち着いたのは確かだった。俺は微笑で答える。可憐はというと、目を向けるとステージ外枠から顔を半分だけ出して会場を盗み見、ガマンできないように体をばたばたと震わせていた。……何百回目になるだろうな、この感情。どうやらいたようだ、自分の事しか考えない自己中野郎が。
 前のバンドの演奏が終わり、MCが会場を進める。アドレナリンが増大する、とはこういう時のことを言うのだろう。俺は顔全身の筋肉を吊り上げ、笑う。
 MCが俺たちを呼ぶ。臆する気持ちは何故か打ち消されていた。もはや考える事などない。可憐と優が振り返る。
「──インロードだ……ッ!」
 それだけで、十分だった。
 可憐が笑み、優がうなずく。
 ステージへ、確実な『一歩』を踏み出した。
 ──瞬間。何がなんだか分からなくなった。数百人からの地鳴りともなる歓声が肢体に叩きつけられ、感覚器官を麻痺させようとする。俺はひるまずに、押し開いていくように歩いてマイクスタンドへ向かう。壮大。目の前に広がる客席は、宇宙の瞬かない流星のように目から脳、体中に行き渡る。
 慣れないカメラが動くのにも気を止めつつ、配置につく。観客が静かになったところを見計らって──可憐がアイドルのように、愛くるしく首を傾いだ。
「いんろーど♪」
 ──ZIN、眼ェ見開いてしっかり見てろ!
 刹那、挟み込むような形で、前後から大音量の音が俺の全身を包み込んだ。
 優のドラムがパンクロックにも似た激しいリズムを刻み、可憐のギターが重層な音響を迸らせ、俺のベースがそれを支える。サイドの大きすぎるステレオから音が吐き出されて、観客の叫びさえも遠ざかる。一曲目は重くのしかかるようなロックの中のロック。
 まずは客のひきつけ。前のバンド以上の音響で、頭を自分たちのバンド一色にする。客を味方につけて波に乗るためだ。
 ──と、俺は瞠目した。眼前が眩んで混乱し、あわやベースさえも怠りそうになる。歌詞が始まり、とりあえずひねり出すような唄い方で口から吐き出した。観客が飛ぶ。
 音が、半音低い──!
 疑いではなく、確信。すべての音だ。ドラム、ギター、ベース、そして己の歌声さえ。おそらく絶対音感にしか解らないこの不快感は、比喩するならば世界の赤が橙に見えるようなそんな感じ。世界の音が半音変わった……? 何故!
 会場に所狭しと並ぶ人の渦。それが俺たちの奏でる音に合わせ、一つの生き物のようにウェーブを描き揺れ、ただただすごい。
 とりあえず今は考えている余裕は無い! 半音低く耳が認識するために、♯や♭が音符についたということで計算しながら歌っていくほか……道は無い。……くそっ!
 奮然とした気持ちにわずかな狼狽を抱え、横隔膜あたりから声を引き上げる。数十に数えられる霹靂のようなライトが一斉に降り注いでくる。それがモダンなギターをちらちらと反射させて、意外にも後押しするような、鮮やかな光沢に彩られる。何かいい感じかも。
 どこまでも続くかのようなこのステージの端々にまで、腹のそこから歌い上げる。
 俺は体でも大きくリズムを取りながら、足もとにあるセットの踏み付けを蹴り上げた後に、広いステージに身を躍らせた。観客の声援がより大きくなって、肌を粟立たせる。夢にまで見たライヴ。すべての視線が己に集まって爽快感が頭を支配し、最高の気分になる。
 俺の声量に被せるように、可憐のハイトーンなバックボイスがうまい具合に入り乱れた。
 観客は想定外だったであろう俺達に、悲鳴にも近い歓声を上げ続けている。バンドはこれだったのだと俺は改めて認識した。俺はこれを求めていたんだと。本当に心のそこから音楽を愛していたんだと!
 声量、楽器音が低くなっていく。おおっぴら気だった曲が、小ぢんまりと収縮していく。観客の声が減ってきた。──ここだ!
 計ったかのようなタイミングでステージ上の楽器すべてが大音量でなった。俺の歌声も後を追い、さらにその後に人々の歓声が貫いた。曲がサビに入って場の雰囲気は最高潮に達し、俺もそれに乗っかる。実質的な声を故意に押さえつけながらも、懸命に地雷を轟かせるくらいの甲声を迸らせた。
 そういう時、ドラムの激しい音にノイズが入り始める。土台を失いかけ曲が前のめりになり、俺は苦い思いに思わず拳を握った。
 まずい……! 予想よりもかなり早い。病んでいる体の優に、この場所はやはり……。縦横無尽に飛び交うライトがその元凶だろう。
 しかしここで幸いか可憐のギター独奏の部分に入り、何のためらいも無い可憐が思い切りギターの弦を掻き鳴らす。
 総立ちになっていた観客に再び火がつき、怒声に近い叫びが部屋全体に覆う。
 俺が最後の一フレーズを細かいビブラートで締め、可憐のアレンジで曲が幕を引いた。
 観客席から惜しみない拍手(自分で言うのもなんだが)が送られ、会場を支配した。
 ただしこれは、偽者だ。荒ぐ肩を押さえつけつつ、ちらりと館の上階を盗み見て、やはりという思いで眉を寄せる。
 そこには読んで字のごとく、音楽の手練が潜んでいる部屋。その連中は全く表情を変えてはいなく、むしろ翳っている一方だ。
 これでは駄目だ。緊急に合わせた演奏など、曲の五割もそのカタルシスについていけていない。合わせては熟考し、自分たちの色に染め、練りに練らなければ良い曲など出来はしない。ましてや……思い切り本気が出すことが出来ない、この状態。しかも次の曲。
 最後まで投入すべきか考えた次の曲は、ロックでもバラードでもない。強いれば──レクイエムとバラードを融合させたような、完全なオリジナル曲。自分の作った曲の中でも、逸脱して異色かつ珍妙。重要なのは終わった後、印象に残ったかどうか。ロックバンドとして印象付けた後の、聖製されたような珍無類な曲への賭けとも言える曲運び。上手くいけば、意識せずとも脳裏に焼きつくはずだ。
 が、それには非常に卓越した技術、集中力が不可欠となる。それが、この状態で……。
 クソ、駄目か? ──うそ寒い想いを抱いた瞬間、ふいに別種の視線を感じた。反射する。
 ZIN。
 彼は見下ろしていた。はるかな高みから。隣で首を振るほかの人を気にも留めず、まっすぐ自分を。他のものには目もくれず、深いサングラスの奥から、ただただ、俺を──。
 曲が始まった。優が慎重にリズムを取っていき、ほどなく可憐と俺もそれに加わった。
 ──俺は何のためにここへ来た? 認知度を上げるため? デビューするため? 違う、そんなのは二の次だ。俺は、ZINに今の自分を見せ付けるためにここへ来た! 上にいる、アイツに! じゃあ何故こんな所で這い蹲っていられる? また同じ失敗を繰り返すつもりか? 今までの自分と変わらないのか?
 否ッ、違う、違う、馬鹿野郎ッ! それじゃあ何の意味も無い! 勝ちに来た、勝ちに来た、勝ちに来たっ! 俺は勝ちに来たんだっ! 奴に、ZINにッ! クソヤロウにッ!

 ──光が。光が射した。ライトのそれではない。唐突に眼前に現れたそれは、長方形を模った……扉? その向こうは光に輝いて確認し得ない。気づけば、周りの時間はスローモーションが掛かったように、酷く遅い。『瞬間』の狭間にいるような、そんな感じ。
 光の扉が近づいてくる。何故だろう、極限の状況とやらにいるからか、俺にはその理由が理解できた。……お前はどうしたいのか? ──と。
 そんなの決まってんだろ……! 優がいる、可憐がいる、今の自分も認める! だから!
「勝ちたい………!」
 勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい──!
「勝ちたいんだッ!」
 光の扉が業風となり、俺を貫いた。

 世界が、変わった。
 体の中心にぽっかり穴が開いたような冷気が満ち、急速にその面積を拡大させていく。秒を追うごとになんて、悠長な速度ではない。急速に四肢を侵食していく。顔に冷気がむさぼり這い上がるのを感じながら、それは荒々しく頭の頂に達した。
 だしぬけに、体の感覚が無くなった。いま自分がどんな状態で立っているのかさえ、分からな……いや、解らない。思考回路が働かない。視野から彩色が消える。頭上から驟雨と化しているライトの彩りも消え、光も薄くなる。──ただ、一つだけ。
 世界が、変わった。
 白い世界。目の前の映像を目は認識しているのに、頭が認めない。
 広がる、白い世界。何も無い。
 いやに頭がクリアになり、どうしようもないほど冷静になってしまう。それに何故だろう。……音が戻ってきた。いや、これは──
 他の器官とは反比例し、聴力が澄み渡って観客からの声援やノイズが、一遍すら聞こえない。自分たちの奏でる音だけ。
 音が……解る………? ──いける!
 もはや確信。俺の頭声が、かれんに響き渡った。
 何も考えられず、ただ歌うことだけ。先ほどの不調が嘘のように、ひたすら集中できる。
 さきと打って変わり、朗々として不思議と部屋の隅々まで響き渡る歌声に、可憐らを始めとして観客、上階の者達まで驚き、注視し始めた。静かな曲のために騒ぐ客がどっと減り、ただ歌う俺を凝視し、恍惚するものさえ現れる世界へと一転する。
 ……のはずなのだが、俺は音しか解らない世界で思いきり、腹のそこから声を絞り出した。精密なまでに聞こえてくる可憐と優のドラム音が、後を追ってくるのが手にとるように解る。

 会場──世界は思いもよらぬダークホースによって支配された。


「いつも唐突な事するわね、『世界のZIN』は」
 静謐な部屋に、ぶっきらぼうな声が響いた。
 館の三階。先と打って変わって静まり返った人並みがガラス越しの眼下に見える。まぶしすぎるスポットライトの、さらに上部だ。
 ステージにはそのライトを全身に浴びて、栗色の鮮やかな髪をさらに煌めかせ、そしてそれに見劣りしないほどの朗々とした歌声を放っている青年がいる。
 背後の声に振り返ると、そこには仁王立ちの人物──裕子がいた。
「おー裕子。ごめんごめん。ちょっと急に決まったことでね」
「急に決まっても電話くらいできるでしょ。それにあたしを息子の情報収集とかのパシリにも使いやがってぇ。気が病むわよ、全く。……何、あんた笑ってたの? 珍しいこと」
 そういえば、今表情を隠すアクセサリ等を取り、栗髪もさらけ出していたんだった。『あれ』を観るのに邪魔だからな。私は大根演技で肩をすくんでみせ、再び視線を『あれ』に戻した。裕子もその視線を追う。
 ステージで歌う『あれ』──神小護。歌声は今や館内に反響し、何者の追随さえ許さないほどの圧倒的な存在感を示している。一曲目で首を横に振っていた隣の奴は、その歌声に引き込まれ、自分と裕子が会話をしていることすら気付かない。
「すごいでしょう? 小護。アンタに言わせると、面白い逸材……ってやつ?」
 裕子がなじるように言ってきた。私は全く意に介する様子もなく答える。
「まあ環境が良いように気遣っている奴がいたから、かな?」
「どういう意味よ?」
 右手の指を二本重ね、クイクイと捻ってから、からかうような笑みを浮かべてやった。
「やめたんだろ? タバコ。匂いが消えてる」
 裕子が一瞬鼻白み、弁解を述べようと口を開こうとするが、その前に私は言葉を継ぐ。
「でもまあ。そうじゃなきゃこっちとしても困るっていうのはあるけどな。私の遺伝子がお前に負けたことになる」
「なぁに偉そうなこと言ってるのよ、バカ」
 そう言って、裕子がはみ出した私の脚をげしっと蹴り上げた。私が愚痴で口を開こうとしたとき。小護のピッチが一段と上がり、寛闊とした歌声へ変化した。自然と言葉が飲み込まれて会話が途切れ、視線と耳が彼の上に集中する。
 歌い上げる小護は堂々と、そして美しい。
 鮮やかにきらめく小護を前に、旨に溢れ出ようとするある想い。私は戸惑い、ごまかすように裕子に話しかける。
「最初の曲。あれは酷かった。曲自体は悪くない。ギターの彼女の技術には、目も引いた。……が。小護自身に、勢いが無かった」
 私は裕子の投げかけてくる視線を確認し、続けざまに独り言のごとく尋ねる。
「あいつ、ケンカとかしなかっただろうな?」
「知らないわよ、そんなこと。それが何?」
「絶対音感を持っている人間にしか解らないけどな。絶対音感は、狂うことがある。その要因はおよそ二つ。一つ目は、何故かは分からないが咳止めの薬。正確にはリン酸化合物と関係があるが……。飲むと、一時的に音階が外れて聞こえてくるんだ」
 裕子は浅く頷き、反応。
「……もう一つは、耳への直接的衝撃。音に敏感な絶対音感だからこそ、そうなるか。今は夏だから、前者はない。と来ると後者なわけで、ケンカしたときに一番発生しやすい事柄でもある」
 裕子は私の説に対し、「フーン」とあからさまに興味の無さそうな態度で応じる。……何年たっても、性格は変わらないものだな。
「……でも小護はそれを乗り越え、自分と向き合ったようだな。絶対音感の『縛り』を忘れることが出来た。あいつは今、私も幾たび『行った』ことのある──音の世界にいる」
 覚悟に満ちた、小護の顔が思い出される。
 音の世界。それは最高の認識能力である叡智によってだけ捉えられる、超感覚的世界。分かり易く言うならば、聴覚と己の発する声だけにすべての神経、集中力を注ぐことの出来る、つまり可想界。私だからこそ解る。
「──で? それであんたは指をくわえてみてるってわけ? ここで?」
 あざけて皮肉る裕子を、私は軽くかわす。
「お前に皮肉屋なんて似合わないよ」
 しかし………先感じた妙な感覚。それがそうだと指摘されれば、否定はできない。
「そうだな………」
 そう言ったきり、私はステージを見ながら黙り込んだ。裕子の優しげな──だがどこか淋しげな想いを掲げた微笑みに、気づくこともなく。

 白、白、白。穢れることを知らない、白。
 視野が統一されて目の前から消えうせた、広がっていたはずのカメラ、観客、まぶしいスポットライト。否、目の前にそれは広がっている。だがそれを上手く頭が認識しなく、結果、何が目の前に広がっているのか理解することが出来ない。それとは打って変わってサイドから聞こえてくる音が手にとるように解り、歌詞が脊髄反射のように瞬間的に喉元へ運び込まれる。それを、全神経を使って腹の奥底から吐き出す。
 もうどれくらいこうしているだろうか? でもずっとこうしていたい。今ならどんな技術も一発で習得できそうな気がする。絶対音感特有の、音階を頭に言い聞かせて歌う手法ではない。ただ音にあわせて、声を出す。
 自然に。絶対音感に縛られない。
 一段とピッチを上げた。普段の自分では信じられない程のハイトーンが、空を貫き、空気を切り裂き、空間を揺るがす。一瞬、観客の視線がさらに集中したような気がした。
 すべて自分中心の世界。自分を中心とした異世界。歌にだけ集中できる、心地よい──。
 唄い、歌い、詠う。
 馳せる思いをそのままにうたう。
 そして──音は静かに、無くなっていった。
 白い世界からしだいに視野が広がっていき、大雑把にぽつぽつと色も灯っていく。
 次に拍手が聞こえ始め、俺はようやく曲が終わった事を理解した。激しい自分の息継ぎと、遠巻きながらMCの声も聞こえてくる。
 いたかどうか覚えてもいない、多くの人々が視界全面を覆っている。絶え間なく続く拍手が細胞を吹き抜け、豪爽にも似た感情をくすんだ脳が鈍く受け取る。体の感覚はない。
 ──俺は…………。
 全身の力が一瞬にしてふっと抜け、視野が下がっていくままに俺はその場で卒倒した。
 頭上に熱さを感じさせるスポットライトが降り注がれ、外から聞こえてくるノイズがおずおずと尻すぼみに小さくなっていく。
 視野の端にいろいろな人の顔がわずかに映ったが、降り注ぐ光がしだいに大きくなり、視界を覆い尽くした。


 重く開いた目に映った映像は、くすんだ天井と無機質な蛍光灯。……ゆるりと首を傾けると、頭の向こう側に記憶されている少女がリンゴをむいていた。………りん。
 頭が上手く働かず、すべてが混沌としている。時間がいやに緩やかに流れ……ている。遅い……。いま自分が寝ている場所が、病院の大部屋らしき部屋ということに気づいたのさえ、目をあけて数分後のことだった。隣のベッドには半身起きている優の姿も見えた。
 おれは何でこ……んな所に……。あぁ、ラ……イヴが、あ……って……うたっ、て……。
『倒れた』。
 脳の中枢に針をさしたような痛みが奔った。ッ……! ……そぅ……か。たおれたのか。……なんでたお、……れたんだっけ………。かっこ………わりぃな……。
 そんなことしか頭に浮かばなかった。が、その頃になって半ば無理やりに、脳が正常に稼動し始めようとする。まるで……そう。忘れてしまった何かを取り戻すように。
 途切れ途切れに思い出される、緊張感も入り混じった爽快感と高揚感、溢れんばかりの人並みに満たされる視線とリズム。さらに色とりどりのライト。………いろ?
 そこを頭の何かが否定した。
 色とりどりのライト……? 違う。色は無い。白い何か。物……? ──いや、空間。まず思い浮かぶのは居心地のよさ。誰もいない。ただうたっていた。宙に浮いて。きもちよかった……。それに自分が自分じゃなくなったようで、妙な──。……あれはいつ……どこ……なんだった……? ……なにが、そ
『ライヴ』
 脳に、浸透した。そうだ……そうだ、そうだそうだ。何故自分はこんな所に……寝ているんだ。ッ、ライヴは……どうなった……!
 頭に鋭い痛みが幾度か貫き、次々と浮かんでくる考えを強制的に中断させる。そのまま頭を抑え、俺は重力を倍感じる体を起こした。
「………ッ」
「え? あ、うわぁ! し、小護さん!?」
 声が発せられたのでおっくうに首を傾けると、凛があわやリンゴを落としかけ、それを両手で押さえ込んでいる所だった。優が叫ぶ。
「目が覚めたんだね! よかった……!」
「……ゆ………ぅ……。ライヴは……!」
 身を侵食するような焦燥を抱きつつ、俺は言うことを聞かない体を懸命に操り、質そうとする。が、それは勢い良く開かれたドアによって遮られた。可憐だ。俺が上半身を起こしているのに気づき、小走りで近寄ってくる。俺も対象を可憐に変えた。
「かれん、ライヴぁはあッ!」
 しかし俺が次の瞬間見たものは、ジャンプからの見事としか言いようの無い、とび蹴りだった。俺の上半身は激しくベッドに叩きつけられ、続いて下半身には可憐の全体重が落下する。
 かれん……あれ? 胸が痛い。脚が重い。あれ……。蹴り? 体がきしむ。……あれ?
 薄れていく意識の向こうで、凛の凶弾のような悲鳴が聞こえたような気がする。あ、今一瞬、輪と羽をつけた人がいたような……。

「──ってなわけなんです」
 ライヴでの出来事を一部始終説明し終わった凛が、ありきたりな言葉で締めくくった。
 聞いた俺は、恐る恐る、窓際で眉根を寄せて憤然としている可憐のほうへ振り返る。見守る優と凛の表情は硬い。
「結果的には途中棄権だけど……。一応曲は最後まで歌い終わったんだから、良いんじゃないのですか? 何でムカ……怒っていらっしゃるんでございますか、可憐さん?」
 口調は怒りを逆撫でないように慎重だ。
「よかないわよ!」
 配慮むなしく、眼力だけでジェンガの一つでも崩せそう眼差しが、ズバッと俺の脊髄を裂いた。可憐が憤死の勢いに震える。
「いい? 本来このライヴの根本的な目的は、バンド告知のためにもライヴ後のインタビューを受けて、雑誌に載ることもあったのよ。途中棄権じゃその紹介枠が小さくなっちゃうのよ、バカ! いやいやむしろ、あたしが雑誌のカバーになる予定だったのにィ!」
 確かに今可憐が言ったとおり、雑誌に載ることはかなり重要だ。可憐の言う通りかもしれない。だが、この怒りかたは異常だ。いつもの可憐ならば、ここらで条件付の許しを出すはず。この剣幕は、もしかして……。
「せっかく、リオネスの目に留まるかもしれなかったのにッ!」
 ああ、やっぱりな。ともすれば可憐の怒りは爆発しかねない……! くッ……フフ、だ、だが大丈夫! 俺には仲間がいるんだ! 優というすばらしい友が! 俺は助けを求めるようにさっと優へ視線を移した。優は……布団を頭いっぱいに被り、安らかに胸元を上下させていた。こーこここここ、こいつッ! 危険を察知して嘘寝しやがった!
 視線を可憐に戻した瞬間、眼差しの燐光が、鋭くなった。ヤ、ヤバイ! 可憐の口が勢いよく開かれる……! ──そこに。
「それは! それは大丈夫です、可憐さん! 私がリーダーと話をつけましたから!」
「……え、な、何!? どういうことだ、凛」
「ええっとですね。こんなときの事を考え、前もってリーダーに話をしたんです。そしたらリーダー、『このままデビューしてもライバルがいなくなるからな』って柄にも無いこと言って! だから、ダイジョブです!」
 何、それは本当か!? 凛が最高にナイスな機転を利かせてくれたっ! 可憐の考えを先読みしたのだろう。それにリーダーとはあのアフロの事か。腹を一度殴られはしたが、可憐のそれにはかえられない。ありがとう!
 ──危なかった。可憐が押し黙る。非常に危なかった。今ほど彼女の存在を感謝したことは無いだろう。まさにメシアだ。
 可憐がムッとして口を尖らせているのを、俺はほっとしたきもちで盗み見た。……優のヤツ。絶対に後でとっちめてやる。
 憎々しげに心に誓ったとき、ふと可憐の目が動いた。何気なく俺もその視線を追う。……油性黒マジック。可憐と俺の目が交錯した。
 次の瞬間、両者が我先にとそれへ、バッと飛びかかった。コンマ一秒の差で可憐に軍配。キュポっとキャップと外す。笑みがヤバイ。
「罰ゲームはコレでいいわよねぇ、小護。将来の思いで増やしもかねて、イイんじゃなぁい? 大丈夫、安心してェ。モダンに決めてやるから。ねぇ……小護ォ……!」
 目がイッってる! オーラがヤバイ! 可憐が近づく! 世界の音が消えた! 緊張しすぎているだけ! 脳内警報がノイズに達する! 掲げられた腕が、空を裂いて振り下ろされた──!
「ギャアアアアアアアアァァアアァアッ!」
「アーッハッハッハッハッハッ!」
「わぁー! 可憐さん……! 優さん、看護婦さんを! 呼び出しボタンをぉ!」
「え……? ……うわあぁあああっ!」

 その後、可憐の携帯メモリに一枚の画像が登録された。放心している俺の顔に、モダンなイレズミが奔っているという、空前絶後の特徴的な一枚が。
 …………もうヤダ。
 
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