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その三 | その五 | 目次

いんろーど♪

その四

 空は雲ひとつすらない澄み切った清夏。蝉の鳴き声は相変わらず断続し、太陽の放射熱も相変わらずの灼熱ぶりだ。目を瞑ると白い光だけを網膜が受け取り、どこか夏から一時的に隔離した場所にいるような感覚を、脳髄が受け取る。風が触れる程度に凪ぎ、わずらわしく乱反射する髪を掻き上げた。
 視線は総合デパートの屋上、兼小さな遊園地となっている場所で遊ぶ、十数組の親子連れを追う。眺めているわけではない。動くものを見るという、動物的習性なだけだ。
 世界はいつにもまして正常な日常を繰り返している。俺の心とは、裏腹に、正確に──。
 数日が過ぎた。時は確実に俺の心を冷静にさせ、平静にさせた。同時に、その中に渦巻く闇をはっきりと明瞭にしたが。
 あざとい訳ではない。心を取り巻いてある闇はおそらく一時的なもので、むしろすっきりとした感覚がある。粘りきった何かを、思い切り断ち切ったときのような感じ。
「はぁ………」
 でも、なぜかぼうっとして気力がわかない。胸にぽっかりと開いた穴は、生活の中心を引き抜かれたという事実を改めて意識させ、そして改めて悟らせる。優がどんな気持ちで今まで生活してきたか、どんな気持ちでああいうことを言ったのか……。
 雲の手から逃げ出した朝日が、影の中にいる俺へ、間接的に眼球を刺す。そんな時。
 自然界では作れないであろう、整ったおたまじゃくしの順列が聞こえてきた。
 店の中からの曲か? ……いや、電子音を一度通した違和感は無い……な。味のしないジュースを一口含み、音源の方へ体を運ぶ。
 三人組のバンドが暑すぎる太陽の下、数えるほどの親子連れに、ライヴ……いや、演奏会を開いていた。ふと一瞬浮かぶうれしい気持ちを故意に押さえつけ、聴………くが、
「…………下手ぇ」
 その曲や彼らの技術は見ていられなかった。
 基本は出来ているが、……多分組んだばっかりなんだろうな。でも、ただ。すごく……楽しそうだ……った。何だ、この感覚。──彼らの姿が、以前のヴィルスとデジャヴを起こす──可憐がリズムに乗って、優が笑っている。俺も、楽しそうだ……。
 いろいろな想いが浮かぶうち、ある一つの想いが浮き彫りに突出した。
『うらやましい』………という。
 ハッとし、頭を振ってその考えを振り落とす。……クソ、何を今更……!
 俺はバンドに背を向けて出口に向かい、まだ中身のあった缶をクズ入れに投げ捨てた。
 俺は、音楽は、もう………!

 家に帰り着くと、可憐がいた。母とトランプをはさんで座っている。そして俺が帰ってきた途端、目を輝かせた。……ああ、クソ。
「小護、おかえり! そしてあたしもただいま! いやー、久しぶりでございますなぁ。リオネス率いるジャニーズめぐり、結構かかったからねぇ」
 今更ながらの余談だが。可憐は重度のビジュアル好きだ。最高値が追っ駆け扮するストーカーだとしたら、その一歩手前。いつ最高値へ進化してもおかしくはない勢いだ。見守る俺が精神的にきついのは、何故だろうな。
 そんな可憐が早速目を輝かせた理由を言う。
「小護! ポーカーしようよ。勝ったらリオネスのグッズ三割やるからさ!」
 可憐の言う良いこととは、イコールを挟んで最凶な事態へとつながる確固たる証拠だ。
「そうよ、小護。母さんからもお願いよお」
 母までも。しかし無論、今の俺はそんなことをする気分ではさらさらない。俺は、
「嫌だ。そんなの二人でもいいだろ。大体なんで俺がいなきゃならんのか、意味が分からん」
 と、一蹴した。すると母が「可憐ちゃーん」と同年代の姉貴分を慕うような口調で、可憐にすがりつく。……おい。可憐はというとそれを受け取り、愛くるしい笑みを浮かべ、
「どうしてもイヤって言うなら、一発小突いちゃうぞ。テヘ」
 同時に勇ましい握り拳を掲げた。
「やります。やらせてください」
 もちろん、俺は即答しましたよ。そうだったな、決定事項だったな。……ああ、クソ。

「ロォイヤルストレートフラァァッシュ!」
 母の雄叫びが室内に轟いた。可憐のそれも後を追い、
「くっ! ストレェートフラァッシュ!」
 二人の視線がちらりと俺の上に落ちる。俺は顔を隠すようにかざしていたトランプを、決め手のようにパシッと床に叩きつ
「よっしゃ────! 五連勝ッ!」
 ける前に、ハハが雄叫んだ。
「俺まだポーカーハンド言ってねえだろ!」
 しかし母は意に介する様子もなく、「五連勝、五連勝♪」と母の威厳も感じさせない言葉と共に、キッチンへ去っていった。
「裕子さんだけには勝てる気しないなぁ。あの強運はどこから出ているんだか……。事実上二人の勝負の軍配は、完全に裕子さんかぁ」
 可憐は肩をすくめ、難しい顔でそれを見送った。裕子さんとは、母の名だ。
「事実上ってなんだよ! 俺はどこの異世界に飛ばされてんだよ、おい」
「だあって、どうせ小護またブタなんでしょ。……ほら、やっぱり。五回連続ブタじゃん。どうしたらそこまで駆け引き弱くなるんだか。ほら、文句言ってないでトランプ片付けないさいよ、負けイ……負けブタちゃん」
 俺はトランプに手を伸ばしながら、「言い直さんで良い」とわずかながらの反抗をした。
 確かに五回連続ブタというのも悪いが、最強のポーカーハンドを連発する、母と可憐にも問題があると思うのは自分だけだろうか。
 ──そんな小面憎い可憐がとっぴに、そしてあまりにも唐突に声を上げたのは、その時。
「ん? なんだこりゃ。なんかの名刺かな? 『MUSEUM』って書いてあるけど……。なに? これなんなの?」
 可憐の手にあったのは、あの日、訳の分からないものたちから渡された名刺だった。
 唐突で、不意打ち。瞬間、痛みを伴う電流がドッと神経系に迸り、心臓がドクンと一度跳ね上がる。目の前も一瞬、ほんの一瞬解らなくなり、手中のトランプすら取り落としそうになる。さっと堅く目を瞑ってやり過ごした。一階に置きっぱなしにしていた事を悔やむ。……が、もう回避のしようはない。
 いぶかしむ可憐の視線。俺は上手く動かない声帯から絞り、吐き出すような声で、
「……なんかこの間、訳の分からないやつに因縁つけられて……。……いろいろあって、今度あるミュージアムに出たいなら……そこに電話しろって言われて……」
 一週間近く前にあったことが昨日のように眼に浮かぶ。虚空に投げ出されたときのような、不安感や絶望感がふっと胸をよぎる。
 途端、可憐は「ハァ?」とそんな俺に気付く様子も無い形相を浮かべた。
「なにそれ。あたし聞いてないわよ、そんなこと。はっ? いつそれ? え?」
 一瞬にして問い詰めてくる尋問警察のような可憐に、俺は掻き消えるような声で、
「………一週間ぐらい前……」
「嘘? アジェンデが出るあれでしょ? 何で……? ていうかいいじゃん! 出ようよ、小護。電話したんでしょ? これがバンドのターニングポイントだよ。キューピッドという名の神がチャンスを下さったのよ! そう、すべてはリオネスのために!」
 ビシィっと親指を立ていかにも古いOKポーズが、俺の目と鼻の先に掲げられる。あまりのハイテンションに俺は引き、ややあってうつむいて、力無げにつぶやいた。
「……出れないだろう……ドラマーがいない。それに……出れたとしても、俺は出ない」
「え、なんで?」
 はっきりと……言ったほうが良いか。
「お前らに迷惑だろう。優の言うとおりだ……。俺がバンドを続けていても何の役にも立たないし、上を目指すこともできない。絶対音感が……あるから」
 求めることすら、許されないのだ。
 露骨にあてつけるように言うと、可憐は悟ったように眉根を寄せた。
「……もしかして、アレ、見ちゃった?」
 アレ、とはZINの載っている──絶対音感を否定している、あの雑誌の切抜きのことだろう。俺は黙って浅くうなずき、再びダイニングのテーブルに重く腰を下ろす。肘をテーブルに置き、両手でうつむく頭を支えて深くため息を吐いた。
 絶対音感は音楽をやるものとして不必要。それを持っているやつは絶対にその世界では伸びることは無い。大好きな気持ちだけでは乗り越えられない、大好きだからこそその道を妨げてはいけない。……仲間の……ために。
 それを知った途端、進む道が濃い霧に包まれた。今はすでに何もかも見えはしない。
「あ〜もう、優の次はあんたかい。毎度毎度手が焼ける。だからライヴなんて出なくても良いって思ってるんだ?」
「……そうだよ。俺だってやり続けたいよ。でも、俺がいると駄目なんだよ……! そういう定めだったんだ……っ!」
 すると可憐は俺の前に座し、似合うはずも無い『考える人』のポーズをする。
「えーっと。そうだね、まず……。うん。例えて言うなら、お菓子についてるオマケかな」
「……はぁ? なんだよ、急に……」
「あんたの絶対音感よ。小護っていう人間に、絶対音感っていうオマケがついてるってこと。ほら、グリコとかついてるじゃん。あれ」
 オマケ? 何なんだ、それは。意味を飲み込めない俺に、可憐は業をにやす。
「ああもう。つまりあんたは、絶対音感を強く意識しすぎだってことよ。音楽の上でね。たかが音がパッと分かるぐらいで……。お菓子についてるオマケって所詮はオマケなのよ。だからあんたについている絶対音感も所詮はオマケ。それ以外のなんでもないの」
「……オマケって………お前……」
 しかし何故か上手く言い返すことができなかった。ついその考えにつり込まれる。
 過去一秒たりともそんな風に考えたことは無かった。自分の中心、信じるもの、誇り……すべてそう思い込んでいたが、自分がそう信じていたものは、そんなちっぽけなものだったのだろうか? ただ音をパッと分かることが出来、音楽上ではあっても無くても変わらなく、そして……お菓子のオマケとさほど差は無いオマケ。
「でも……じゃあ何であの記事隠してたんだよ」
「そりゃ、あんたの今見ればわかるっしょ。こうならないために決まってんじゃん」
「う……」
 なんだ、この全てを見透かされている感じは……。
「まあ大体、あたしはあのZINとか言う奴、怪しいと思ってたのよねぇ。ちょっと売れたからって。目を見せない奴は、信じちゃダメ! これあたしの常識だヨ!」
 再びぐっと親指を立てる可憐に、俺は「しらねぇよ」とつっこんだ。可憐は頭のキレはあるが、やはりどこかずれている所がある。
「まあそれに。あんただって絶対音感があったからバンド始めようと思ったわけじゃないでしょうよ」
 確かにそれは……そうだ。俺は単純に曲を聴いて、歌を歌う人を見て、自分もそうしたいと思っただけだ。始めたきっかけは自分に絶対音感があったからではない。やっていくうちにそれが糧となっていっただけで……。
「だからさ。ほい」
「……ん? なんだこれ」
 目の前に差し出されたのは、一枚の紙切れ。住所と何かの部屋番号が記されてある。
「優がいる病院。行ってみぃ、今日」
「? 入院してるのか、あいつ!?」
 あの日以来、優とは電話さえもしてはいなかった。「そう」と言って可憐はうなずく。
「何でかはその目を通して見てきなよ。……あ、じゃあ、あたし帰るけど。最後に一つ」
 するとおもむろに可憐は立ち上がり、近づく。何かと顔を上げる俺。可憐の顔を認める前に俺が認めたのは、変形した左頬肉と、めり込んだ手のひら。次いで、気持ち良いまでのはじけた音。俺の体は役者よろしく鮮やかに弧を描きつつ、宙を舞った。ぐふっ。殴られた。……でも、これは──平手……!?
「今度そんなこと言ったら、容赦しないから」
 激しく倒れた俺にかけられたその声は、いつもの可憐のイメージからはかけ離れたものだった。可憐は言ったと思うや、もう用は済んだとばかりに出口へ向かいはじめる。
「飛べないブタは、ただのブタだからねェ」
 後ろ手を振りながら、ドアの向こうに消えて行った可憐はすでにいつもの可憐で、残したのは妙になった場の雰囲気だけで……。俺はドッキリを受けた直後の芸人の気持ちを噛み締め、体勢を立て直すことも出来ない。
 すると、黙ってプラモを創作していたかと思っていた母が急に含み笑いをして、
「良い仲間もったね、あんた。幸せモンだよ」
 だとさ。ひりひりと痛む頬をかばいつつ、
「………そうなのか……?」
 まだ頭上で回っているひよこを掃い、俺は呟いた。平手……の方がきついかも……。
「………あんた、知らないよね」
「……んあ? 何が?」
「ZINがバンドを解散した理由」
 ……は……? 突然口を開いたかと思えば……何? ZIN? ZINってあのZIN? しかも何だって、バンドを解散した理由? 急に何を言い出す。カレーの件もあるように、古き良き時代以上の単純一途すぎる母から、何でそんな話題が出るんだ。ましてや可憐の一発で、今脳波が入り乱れているのに。
 俺がどんなリアクションを取るべきが悩んでいると、母は関係も無さそうに続ける。
「『面白くなくなったから』。だって。人は常に新しい面白さを求め続けなければ、腐ってしまう。今の音楽界にはそれがなくなったから。そして新しいそれを見つけたから。だからバンドを辞めるって」
「バンドを……?」
 思った疑問はすぐ話にのまれて消えた。いくら母でも、こんなタイミングで嘘などはつくまい。ならばそれが、ZINがバンドを解散した本当の理由……。そんな、単純な理由が。
「だからさ、小護。あなたも頑張りなさい」
 そう言って、母は微笑んだ。と思うと、再びプラモ作製に没頭し始めた。……何だ?
 でもなぜか、何かが胸に何かがひっかかったような、釈然としないこの思い。
 今俺の、求めているもの………。
 うつむいて俺の目に留まったもの。それは、握り締められ、くしゃくしゃになった一枚の紙切れだった。
 俺は──。

「……いつも、こんなうるさいのか……?」
 最寄りの電車で三十分。駅の近くにある大病院は、ひどい喧騒に覆われていた。病院独特のにおいが走り回る人ごみでかき回されて、落ち着いた雰囲気は片鱗も無い。
 俺は足早に広場を抜けて、エレベータに乗り込み、三階で降りる。そこからまっすぐ行って右側。
 紙に書いてある部屋番と、プレートの名前を確認する。一致。額に浮いていた脂汗をふき取って、大きく一つ深呼吸をする。
 予想以上に胸が高鳴っている。落ち着け、落ち着け、落ち着け………。
 そっとドアをスライドする。中は大部屋のため、複数の患者と見舞い人がちらほらといる。俺が目を留めたのは、一番右奥のベッド。優が窓に向かって座っていた。
「………ふぅ」
 紙をポケットに入れて、ぎくしゃくと体を運ぶ。優の隣まで歩いていき、足を止める。優の顔が、ゆっくりと俺を仰いだ。
「ゆ──」
「小護」
 言いかけた言葉は、だが想定外な言葉によって、意味を灰燼に帰せられた。
「……でしょ? その擦るような足音だけでわかるよ。そのくせは全然変わらない」
 やんわりと微笑んだ優の瞳には包帯は無く──目は瞑っているが──先日の出来事を、みじんも感じさせない安らかな笑みだった。
 俺は意表をつかれ、何か言おうと口を開くが出ず、口ごもりながらそっぽを向いた。
「わ……悪かったな………」
 優はもう一度微笑み、再び瞑った目を窓から窺える上空へ向けた。
「………………ごめん……」
 ゆっくりと。独り言のように、優が呟いた。
「あんな事言って。まずそれを謝らなきゃいけないから。……ごめん」
「……………」
 俺は……答えない。優はそんな雰囲気を嗅ぎ取り、薄く苦笑いを浮かべて語り出した。
「怖かった。どうしようもなく怖かったんだ。朝目が覚めても、身をよじっても、どんなに大丈夫だと自分に言い聞かせても……。僕は本当に自分に何も無いって思ってた。それを持っている小護と比較して、ああ、本当に僕はいらない存在だとか思ったりもしたし……。それに小護もきっとそう考えていると思ったから。本当に、怖かった。不安だった」
 やはり……優を追い込んでいたのは自分だった。それも分からず、深く考えさえせず、そうだと決め込み、のうのうとやっていた自分がひどく利己的に感じる。
「バンドにいらない存在で、足を引く以外の存在の何者でもなくて、バンドのためなら辞めよう、辞めろって何度も言い聞かせたけど、辞めたくない自分もいて……。混乱して、あの時の僕はどうかしてた。そして耐えられなくなって、我慢できなくなって、小護にぶつけてしまったんだ。………でも!」
 何かをぶつけてくるように、優が振り仰ぐ。
「でも可憐がそれは違うって教えてくれて、悩ませてくれて。こんな僕でも役に立てるなら、ヴィルスの一員としていられるなら、こんな人並み以下の何もできない僕だけど、やっぱりバンドをやりたいから。ほかの誰でもない、小護達と続けたいって思ったから」
「………………」
 俺はなおも答えない。しかし表情は歪み、拳は固め、肩は揺らぎ、心臓は握り締められ。
 公行と響き渡ってしまっている声に、あたりの視線が集中している。が、優はやまない。
「僕には才能は無いかもしれないけど、自分に嘘はつきたくないから。小護はそう教えてくれた。思わせてくれたから」
 ああ、ああ……。
「小護がそれを認めてくれるなら、僕はどんな努力だって惜しまない。どんな勇気だって出してやる。そう思うことが出来るようになれたから!」
 ああ、ああ、ああ! 胸が──苦しい。締め付けられる思いに、上手く肺を満たすことができない。優と同じような境地に立ったからこそ解る、その信念の太さ。自分はこんななのに、何でお前はそういうことができるのかという一種の嫉妬感。身が刻まれるように、首筋がズキッと痛む。焦るような思い。
「うれしかったよ。自分がまだそんな考え方できるんだって思ったときには。でもだから、手術を受ける決心もついたと思うんだ」
「……何? 手術!?」
 手術、だ……と? ……何で……何であそこまで手術を怖がっていたのに、急に手術なんて。俺達とデビューしたい? それが何だ。そう思うことができた? それが何だ。本当は震え上がるほど怖いんだろう? 逃げたいんだろう? そんなもの手術に変えられるものか。何で、何で優は──
「可憐に聞かなかったんだ? ……でも決まったことだから。二週間後に手術がある」
 ──そこまで、勇気が出るのだろう……?
 何も無いのに。自分には何もないと判っているのに、何で、何で……? 何で──。
 夏日の鋭い光が、やさしく微笑む優の顔に反射して、柔らかな光に変化している。
 その時俺は、眉を寄せ、呆然と思った。
 優の言葉、一つ一つ。そしてその笑みが、まるで太陽を転化したようにひどくまぶしい……と。

 もう比喩することさえも面倒くさい、この暑さ。ならば家にいろという声が聞こえてきそうだが、そうすると妙に落ち着かない。
 目的地は無い。しかし、体が無意識のうちにあの場所に向かおうとしているのに気づき、あわてて進行方向を反転させた。こんな状況だからこそ、向かうあの場所。……しかし、あんなことがあった後などに、行く気になどなるはずもない。
 ──俺は、どうすればいい?
 優の告白から三日。一度ゴールを決めたはずの迷宮に、俺は再び足を踏み入れていた。
 確かに優との確執は取れた。しかし、いかんせん、人はそんな簡単に頷けるほど物分りのいい生物ではない。
 優が一緒にやりたいと言った。俺も優とバンドを続けたい。
 すると突如、トラウマのような記憶が走馬灯となって頭を駆け巡り、頭に刺すような痛みを置き去りのだ。
 思い描いたそれらの希望がアジェンデ、ZINの言葉によってかき消されていく。
『ダメだ、頼っている、絶対音感、腐ってる、お前、あの、ああ、糞だ──』
 そうなのか。そうなのか? ZINはそうだといった。優はそうじゃないといった。絶対音感はダメだ。でもそれはオマケだ。自分にとって、たいした物じゃない。だがそれがあると将来がなくバンド仲間を悩ませる。僕は、それでもバンドを続けたと思ったから。
「クソ………。………クソ、クソ……ッ!」
 続けたい……けど、仲間を圧しつけ、意見を矯正し、挙句の果てにはその足を引っ張る……。そんなのは、もうたくさんなんだ。
 ──なら俺は、どうすればいい?
 自分の気持ちと反する事実。現実問題で乗り越えられない壁。さまざまな想いの矛盾。
 蟠り。頭が痛い。何故俺はこんなにも悩んでいるんだ。この牢獄から逃げ出したい。どんなことをしてでも。もう考えたくない。忘れたい。──そんな時だった。
「おい」
 声がしたのは。ゆっくり振り返ると、三人の男がいた。内一人は、見覚えのあるイカツイ顔だった。俺は瞬時に事態を把握する。
「小護ォ……! ちょっと、ツラかせ」
 と、その考えを肯定する男の言葉。ここでいつもの俺ならば即逃げたり、言い訳をしつつこの面倒ごとを対処したりするはずなのだが。
「………あぁ?」
 俺は三白眼に加えて低い声で、これに乗っていた。理由など、なかった。

 全く需要の無い公園。悠々と生い茂る深い森が影を作り、木漏れ日の差し込まないそこには、陰湿な空気が漂っていた。使われていない遊具には独特の不気味さが染み出ている。
 見覚えのある男がリーダーらしく、仁王立ちで威厳たっぷりに言う。
「お前に殴られた傷が夜もうずいてよぉ。今日はちょっとその仕返しに来てなァ」
「ふーん」
「今はあのアマもいねぇんだな」
「だから?」
「っ……しっかりと脳髄の隅までしつけなきゃなア……!」
「お前、脳髄って言葉の意味知ってるのか」
 易い挑発なのだが、あの男には実に効果覿面だったらしい。顔を染め上げ、憤怒に肩を震わせてやがる。
 ──そんなやる気満々の言霊を吐きながらも、俺は内心激しく逡巡していた。俺はケンカに絡まれることはあっても、それに乗ったことはほとんどない(この前の、目前の男とのいざこざは例外として)。怖いからではない。可憐のいうプロ意識のせいでもない。
 もしケンカをして音楽を一時的にでも出来なくなったら、苦しいから。死にたくなるほど、もどかしいから。音楽を取り上げられることは、俺の存在価値を否定されるのと同じことだから。だから俺はケンカをしない。音楽を溺愛しているから、俺はケンカをしない。
 でも………今の俺は。今の、俺は──。
「行け! ババ! ウル!」
 男が妙な名前を言うと、側近の二人がこっちに向かって、早歩きで間合いを詰めてきた。ババといわれた男は小さく、ウルといわれた男はなかなかがっしりとした巨躯。俺は拒絶反応を起こす脳を押さえつけ、体をかがめて迎え撃つ体勢に入った。
 ──数メートル手前。ババという男が肉迫してきた。同時に迫る、風きりもならない拳。遅い。俺はそれを軽く引いてかわす。ババの拳は空を舐め、前のめりによろめいた。
 体勢を立て直し、めげずにこちらへ攻めかかってきた。俺はそれも軽々しく避け、ババは遮二無二にパンチを繰り出してくる。
 ……こいつ、ダメだな。
 バランスを無理やり立て直した直後のパンチは弱い。俺は拳を紙一重でかわし、右にそれた体の腹に、膝蹴りを一発かましてやった。鈍い音に小さく呻く声、つんのめる体。
 ババなる男が地面に伏す──寸前。ほんの一瞬。背後に揺らめいた、微かな気配。
 チッ……! すぐさま体を取って返し、ババの腕を肩に抱える。
「ぅおりゃアッ!」
 そしてそのまま、背負い投げの要領で思いっきり体をぶん投げた。
 予想通り背後にいたウルなる巨躯の男。二人は体をもつれさせ、地面に倒れこんだ。埃っぽい土煙が盛大に舞う。巨躯の男が上体を起こそうとしたところに、止めの凶音。癇に障るえぐい感触──。
 この結末までに六秒足らず。ほんの一動作だ。名残の沈黙が妙に浮き立つ。リーダーの男は驚愕に目を点にしている。
 凄惨な状況に慟哭する理性を切り裂き、わき上がる久々の気分。この……高ぶる気持ち。爽快感。思いっきりになぎ払い、ねじ伏せ……踏み潰す。今まで悩んできたことが、なんだか小さいものに思えたような気がした。
 自然にこぼれてくる歪んだ笑みと、くぐもった含み笑い。鋭い眼差しに、………うっすらと曲線を描いて落ちる、一縷の涙。俺は残った一人を睨み吸える。
 残った男は、現状にか、俺の状態にか、予想外というふうに焦り始める。すると男は急にあたりに視線を配り、目についた──一本の鉄棒を持ち上げた。同時に掲げる、自制心の無い、崩壊した薄ら笑い。
 ……チッ。面倒だな。だが、あんな状態の奴など恐れるに足りない。
「俺はなァ、中二の頃までは……!」
 瞬間的につま先に力を込め──踏み込んだ。
「可憐より空手、強かったんだよッ!」
 低い体勢で男の前に躍り出る。奴は逃げ腰で棒を横に一閃するが、当然のごとく、俺はかわす。男がもう一度棒を振ろうとしたときには、俺の手はすでにその棒を捕らえていた。
 そこから男の手首をたどり、捻って背後に回りこむ。締め上げると「ヒィ」となんとも非興な声が、農質な闇をさらに不吉に彩った。
 俺はそのままその背中を、思いっきり蹴っ飛ばしてやった。男はヘッドスライディングで、砂埃をまといつつ派手に転がった。
「雑魚が。粋がりやがって……」
 俺はさらに追い討ちすべく、仰向けのまま後ずさる男の胸倉をつかみ、強く締める。
 射程内に入り、引き攣る男の顔。
 拳を掲げ、哂う俺。
 豪腕が毒蛇のようにしなり、顔面を薙ぐ──と。直前。視界の端を、何かが掠めた。
 もはや、直感と脊髄反射。頭を守るように腕を掲げる。しかしそれさえも、遅かった。
 世界が揺れた。身内に轟く、比喩しようのない轟音。次いで訪れる、気の遠くなる痛み。
 俺の体は頭部を横殴りにする衝撃で、なされるがままに路面へ放り出された。
「がぁ……ッ!」
 耳を撃たれた!? 何だ、何が……!
 頭を振って覚醒しようとするが、痛みが奔り、視界がぐわんぐわんまわる。三半規管がやられたか……! そんな視界を窄めると、ウルなる男が大破した木片を投げ捨てていた。
 クソ、油断した……!
 冷静になれ、冷静に。俺は目を瞬かせ、頭を伏せて回復を待ち……眼光を光らせた。
 …………よし、大丈
 刹那。衝撃が眼に飛び込んだ。
 攻撃じゃない。映像だ。ウルなる男が、イカツイ男を気遣っている……その映像。端から見なくても、何の変哲も無いはずの映像。
 しかしそれは俺の網膜に焼きつけられ、脳髄の隅まで鮮明に刻み込まれてくる。

『仲間に、助けられている』

 突然脳内の一角に何かが収斂し──弾けた。
 俺は、ハッとした。俺のやってること、俺の立ち位置、グロい感触のこびり付いている触角、耳から垂れ流れる真紅の流血──。
 呆然と、自分の今の体たらくを見つめて。
 俺は何……をやってる? 何をや……った? ……憂さ……晴ら……し………。……馬鹿か。馬鹿か………俺は……ッ!
 足元が抜け落ちるような感覚。急速に攻め込んでくる、自責の嵐。
 自分と戦い、悩むならともかく、それをケンカで放出しようなんて……! 馬鹿か、俺は……! 優だって自分で悩み、考えて答えを出したって言うのに! 俺は……俺はッ!
 視線の先ではババなる男も腕を回され、抱え上げられていた。なんだか無性に、くやしかった。自分がくだらないと思った。自分なんか………消えてしまえと思った。
「──なんだよ……!」
 低い声。三人が、こちらに反応した。
「なんだよ、俺ばっかり! 俺ばっかりッ! どいつもこいつもッ! 何でッ!」
 それきり、俺はその場から走って逃げた。
 俺は、負けた。

 ……どれくらい……歩いただろうか。沈まない太陽が、俺の体内時計を狂わせている。商店街には人がちらほらいるのに、一人でいるような気分だった。流血していた耳から痛みは消え、耳鳴りもどこかへいった。
 店前にあるベンチに、のそりと座った。
 もう、考えるのに疲れた………。何もする気力が湧かない。体も疲れて、このまま力一つ入れずに放置していると、何か溶け込んでいきそうな気分だ。もうこのまま、ずっとここから動きたくないな……。……消えたい。俺の存在を消してくれる人に、すがりたい。
 そんな時。ふと視線上の視野情報を脳内が認識した……否、認識させられた。
 視線上の視野情報。ずんぐりとたたずむそれは、いつしかの──奇館だった。

 魔が差してしまったのだろう。それで無いならば、行く当てが無いからか。自分の心はやめろ、行くな、と連呼しているのに。
 やはり理性に反する好奇心というものは存在するらしく。店内の変わらない場景に片時の安心感を求めてしまって。
「ああ、気持ち良い……」
 冷気の渦が俺の体を包み込み、その快楽にハマってしまったわけで。
 俺は躊躇しながらも嫌な思い出しか残っていないこの奇館に、足を踏み入れてしまっているわけである。
「どうする。行ってみるか……」
 頭の中で再び理性と好奇心が一騎打ちをしている。この間の件もあり、理性が優勢。好奇心が押されている状勢にある──
「きゃっ!」
 ──と。そこへ、予想外に第三の乱入者が。棚の死角から俺の体にぶつかってきた、小さな影。確か……凛、といったか。
「──ああっ!」
 はい、強制的にこの子に軍配。……って、うわぁあっ! 凛は驚きに目を見開き、
「な、ななななななんでここに!?」
 そんな泥棒みたいに。で、でもどうする。目的があってきたわけじゃない。なんとなく来た、じゃ駄目なんだろうな。……えーと。
「そうだ、あの、名前教えてください! あ、いけない髪が……!」
 ええっと、……。は……? 名前?
 凛は慌てふためき、何故だか急に身だしなみを整え始めている。な、何だ? 何で名前? 俺は意味の分からない奇行に戸惑いつつも、一応「小護だけど……?」と答えると、
「し、小護……さん? キャー、名前読んじゃった。あ、えと、なんていえばいいか……。あの、とりあえずこの間はすいませんでした。決して悪気があってしたわけではないんですよ。むしろみんないい人達で。その、えっと、ちょっと悪巧みを考えた人がいて、それで、──ああもう、私何言ってるんだろう!」
 予想外のマシンガントークの雨あられ。俺は動揺して言葉に詰まってしまう。そんなテンションの全く噛み合ってない俺たちに、ナイスな助け舟をよこしたのは、
「まあ、凛。そこら辺で終わりにしなさい。お客さんも困っているだろう」
 見覚えある店長と同じソファに座っていた、怪しげな男だった。どこかで見た感じの、己を隠すような色の深いサングラスに帽子、ギラギラと輝く髑髏の指輪やネックレス。
 男はサングラスで見えない瞳をまっすぐと俺に見据え、軽くお辞儀をする。
「すいませんね。どうやらこの間、凛たちがお世話になってしまったみたいで」
「え? あ、いや、まぁ………はい……」
「ということは君か。君のバンドがミュージアムに出るんだってね。はは、うちのリーダーが推薦したらしいじゃないか」
 そのことも知っているということは……ライヴ関係者の人なのだろうか?
 そんなやさしい物腰。まるで包容するような、やんわりとした声音。初対面からそんな対応をされたから、不覚にも俺はつい気を緩めてしまった。混沌とした心を救われたような錯覚にも陥って。脳内の暗色系のキャンパスに、鮮やかな彩色をもたらしてくれたような気もしたから。だから、だから。
「君は、『一生のクズ』だな」
「………え…………………?」
 俺は次の彼の唐突な言葉を、すぐさま鵜呑みにできるはずもなかった。男の言葉が、意味なく頭の中を駆け回る。な……に……? 何で急にそんな事を言われ………え?
「な、ななななななんて失礼なことを!」
 呆然と狼狽する俺の代わりに、当然すべきであろう反応を見せてくれたのは、傍らの凛だ。しかし男は聞く耳を持たず、
「小護君。私が誰か、わかるかな?」
 などと突発的奇問を質してきた。しかし俺の頭は現状整理の真っ只中。上辺だけの考えで解ける問題ではない。……というか、そんなの深く考えても解けるはず無い。
 すると男は、あらかじめ反駁する気も無かったように。改めて深くソファに座りなおして。友達との世間話を興ずるかがごとく。軽く、軽く。
「私は、ZINだ」
 軽く、言った。
 
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