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その二 | その四 | 目次

いんろーど♪

その三

 暗い箱の中。味気のない風景。
 ロイヤルストレートフラッシュ!
 よく見慣れた金髪の美少女が叫んだ。俺は喉を鳴らし、言った。………ブタ。
 途端、世界が暗雲に包まれた。何故か少女が追いかけてくる。長く、だがそれ以外の道はない。必至に走って逃げ切り、立ち止まる。目の前にマンホールが現れた。ふたの隙間からすうっと影が出でる。ぼこぼこと原形を止め始めるとそれは先の少女となり、気づくと周りには同じ金髪の少女が取り囲んでいた。逃げ道はない。助けを呼ぼうとしても声が出ない。少女が詰め寄る。──だめだ! 思った時、音響の妖精が世界に現れ、舞い踊った。

 ゆっくりと目を開ける。
 カーテン越しに、やさしい光が天井を照らし出していた。部屋に満たされた軽やかな曲が聴覚を刺激する。コンポから流れ出る『{{半角}}perfect*パーフェクト{{半角}}* {{半角}}pitch*ピッチ{{半角}}*』の軽やかな曲だ。
 しばらく目を閉じてその曲に浸った後、枕越しに手探りでリモコンを探し取り、コンポの電源を消す。
「うー………ん。……んん」
 壁に掛けてある時計を面倒くさく見ると、八時半を示している。………まだ早いな。そう判断し、そそくさと布団を被る。と、何か人影のようなものが視線をかすったような気がした。布団から目だけを出して確認する。そこにはわずかに光っている金髪が美しく、冷めた眼で自分を見下ろす……可憐がいた。
 ……なーんだ、可憐か……。そう思い、再び毛布に潜りこむ。まだ俺は夢の中にいるのか。それにしても悪質な夢だ。可憐がいっぱい追いかけてくるわ、自分の部屋で仁王立ちしているわ……。
 ………ん? ……自分の部屋………?
 俺は遅れた理解をするが、遅かった。
「スマッッシャァァアアアアア!」
 直後、何かを撃つ鈍い音と耳に痛い悲鳴が、閑静な住宅街に早朝をしらせた。

「ちょっと母さん!」
 俺は荒々しい足つきでリビングに入るなり、テーブルの上でプラモを組み立てていた母に怒鳴り込んだ。俺はそっと腹を抱えているが、声の反動でアバラが軋む………ぅ。
「ん? なあに?」
 何と間の抜ける返事なことか。
「もう、何で可憐を勝手に上げるんだよ! 俺に一言言ってあげろって、いつもいってるだろ!? しかも俺の部屋にまで!」
「え? 良いじゃないの別に。知らない人じゃないんだから」
 これだ。母は悪気が無い分、逆の悪質さがある。純粋なゆえに。悪気は無いんだが……。
「そういう意味じゃなくて……!」
「そんなにグチグチ言わないの。腹衝かれたぐらいで。本当に器の小さい男ねェ、アンタ」
 母と会話しているうちに母の隣に座った当事者が、呆れ口調で言い放つ。
「それに、別にアンタの部屋に変なものがあるわけでもないでしょ。あっち系の本以外は」
「な、ななななんだよ! そ、そんなもんおいてあるかッ!」
「いやね。何を勘違いしてるのかしら、小護」
 母と可憐の哄笑が部屋に満ち渡った。
 起きて数分。常人ならば、一日分の精神的体力をどっと使ったことだろう。
「………ああ、もういいよ、どうでも……」
 俺はもう言葉を紡いだ。胸にエルボーをくらい、これ以上無駄な反抗をして体力を摩耗するのは得策ではない。あぁ、こうして物事を物理的に考えられる自分さえも嫌だ。
 俺はキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して口をつけ、
「………で。可憐は何しに来たんですか」
 お返しというふうにわざと白々しく聞いてやる。が、可憐は気づくそぶりも見せずに、
「え、なあに言ってんのよ、あんた。優の家行こうって言ったの誰よ?」
 と質問返しをしてきやがった。……あ、そういやそんなこと、言った……な。優の体調を気遣い行こうと言ったのだが、クソ。言った過去の自分を抹殺したい。く、とにかく。今は九時前。では十時ごろに出発をするとしようか。今日は優の調子がいいといいが……。
 リビングへ戻りざま、流しにカラフルな置手紙が放置されているのを発見した。見ると朝早く出かけた妹からだった。
 ──お兄ちゃん&お母さんへ。朝と昼は、残りのカレーを温めて食べてください。一日熟しているのでおいしいですよ。{{半角}}PS・カレーを食べるときはご飯をカレーのほうによそいながら食べると、食べたあとにカレーがついてなくきれいに見えるんだよ。
 ……新婚の夫婦じゃねえんだから。それに追記みたいな変なこと、誰がするか。
 心の中で妹の文章に毒づき、洗面所へ向かおうとした所、流しに置かれている一枚の皿に目が止まった。その皿は水で流した痕跡も無いのに、カレーの跡がついてなくきれいだった。…………ああ、そうだったな。
 家の中には他人に影響されやすく、分かりやすい人物が一人いたんだった。純粋なだけ。純粋なだけなんだけどなぁ……。

「それにしても、結構曲作ったわねえ」
 朝食にしてはハードな食べ物を、口に運ぼうとしていた手を止め、俺はソファに座っている可憐に顔を向けた。温めたため、部屋にカレーの刺激的なニオイが充満している。
 可憐は数枚の楽譜を、ダイニングに見えるように掲げながら言う。
「特にこれなんか。良い感じじゃん」
 ああ、それのことね。
「活動できないって言っても、曲は作れるしな。今の優でも十分弾けるような曲になってるよ。あとはあいつ次第なんだけどな」
 優の目が弱視になって、全く活動が出来ないわけではない。ずっとドラムをやっており、ましてや目はうっすらと見えるため、優はやろうと思えばドラムが叩けるのだ。……現在は、やはり手術のことが負担になってしまっているらしいが。はやく、この楽譜たちを自由に羽ばたかせたいものだ。その時のことを考えるだけで、顔がほころぶ。
 可憐は得心がいったように無言で頷きながら、再びギターを手に楽譜の確認を始めた。
「……………」
 沈黙が訪れた。話題が尽きて、雰囲気が張り詰める感じではない。
 可憐の柔らかな音階が部屋を一人歩きし、合間を縫って母のプラモを作るカチャカチャという音と、俺のスプーンが陶器に当たる音が共に踊る。
 何のとどこおりもなく静謐で、まさに楽園のそれが具現化したかのような朝だ。今日は何か良いことが起きそうな気がするな。が。
 そんな考えを打ち破るかのように、一本の電話コールがその空間を裂いた。……二回……三回……。誰も受話器を取る気配はない。
「母さん、近くだからとってよ」
 俺は咎めるように言う。コールは続く。
「今、母さんは手が離せないの。ちょうど頭部のカラーリングしてるんだからぁ……」
 ああ、そうですか。それは仕方ないですね。
 肩を落とし、仕方なくスプーンから受話器に取って代える。
「はい。神です。どちら様ですか?」
「………小護?」
 か細く聞こえてきた声は、すぐさまこの間の彼を思い出させた。
「優? お、どうした? ちょうど今から行こうと思ってたんだ」
「ちょっと、聞いてほしい事があって……」
 その声はいつもよりトーンが低く、ひどく疲れて聞こえた。ので、出来るだけ明るい声で答える。
「ああ、俺も。後三十分ぐらいしたらそっち行くからさ、その時に──」
 ヒュッと鋭く息を吸う音が聞こえ、
「…………もうやめたい」
 荒い電子音を通じて、わずかに聞こえた。
 やめたい? 俺は優の言っている意味が分からず、笑顔を持続したまま首を傾げる。
「ん? なにを?」
 ギターを抱えた可憐と視線が合う。優は続ける。
「……いやなんだ……。小護や可憐の背中を見て……うらやましさを感じるのは。僕はもう……疲れた。………もう疲れたんだ」
「優……どうした?」
 笑みはすでに無い。頭に一筋の不安がよぎる。優は答えず、声音を抑えて、唐突に。唐突に、それでいて決然とこう告げた。

「僕は、バンドを辞める」


「優ッ!」
 ドアを横暴にはじき、優が俺のほうに顔を向けるが早いか、躊躇なく俺は優に飛び掛った。反動でベッドがきしみ、優の背中が壁に叩きつけられて鈍い音がくぐもる。
「どういうつもりだ、お前ッ!」
 全力で走ってきたせいで、息が上がりきってしまっている。ドアから続いて誰かが入ってくる気配がしたが、気をはらう余裕もなく俺は勢いのままに怒髪天を衝く。
「どういうつもりだって聞いてんだよ! 優、お前!」
 さらに腕の力を入れ、優の胸元を引き寄せる。しばらく俺の荒い息だけが空間を支配した後、優は包帯の巻かれた顔をわずかに上げ、俺を見た。そしてさめざめとした口調で、
「電話で言ったとおりだよ、小護。僕は──バンドを辞める」
 言い放った。目の前がくらっとし、宙を漂う。今の言葉が脳内でこだまするように連呼される。頭が熱くなり過ぎて痛い。
 何……を。……何を言っ……ている。
 まるで脳に紅蓮の炎が点火したような。わいては返し、ごちゃごちゃに混雑する。
 ふざ……けるんじゃねえ。俺が今までどんな気持ちで、お前のことを……!
 解らない。解らない。ワカラナイ。ただ。
 それを『辞める』だと? 何を、何を……!
 ただ、目の前の男が俺の気持ちを裏切り、憎むべき存在になりつつあるということ以外は……ッ! 憎しみが渦を巻く──!
 ふざけるな、こいつ──ふざけるなッ!
 気づく暇すらなく、俺は拳固めをかざしていた。もはや、プロの意識など頭の片隅にもない。体ごと拳が優の顔を鋭く薙ぐ。
 ──と思うや、それは後ろから伸びた腕の羽交い絞めにより、寸前で静止された。
 それが誰のものによることなど、確かめもしない。俺は、最大限に身を動かして憤激のままにわめき散らす。
「どうしてッ!」
「………どうして……?」
 うな垂れてそのままの形となっていた優は、何かを吹き込まれたかのようにピクリと肩を震わせる。
「何が気にくわないの? 小護と可憐は足手まといがいなくなって、うれしいんじゃないか。………そういう立場でしょ?」
 いつもと変わらないそのトーンが、高ぶってしまっている俺の感情をさらに逆撫でる。
「そういうことじゃねえ!」
 優の姿を頑として見貫く。
「お前はこれで良いのかって、そう聞いているんだ! 俺たちじゃなく、お前がッ!」
 こいつ、今自分が何を言っているのか解ってるのか!? しかし優はどこか嘲るように、
「そういうことじゃない………か」
 哂う。口角を吊り上げ、哂う。さらに頭に混乱と憎しみの溶岩がわく。
 何を言っているんだ、こいつは! いきなり辞めるとはどういうことだッ! こいつが何を考えているのか全く分からない。何を言っている! こいつ、解らない。解りえない。
「お前ふざけるのもいい加減にしろよッ!」
 後ろからの可憐の呪縛を解き、再び優の胸倉を掴み、締め上げる。
「お前自分のことばっかり考えてんじゃねえ! 今まで俺たちがどんな思いでお前を、」
「そういうことだろッ!」
 優の叫びが、室内に轟き、耳に突き刺さった。優の……優を知って、初めて聞く金切り声だった。俺は目をみはり、虚を衝かれて唖然と力を吹き返したような優を凝視する。
「デビューすることが目標なんだろ、小護の! ライヴの中心に立って歌うことが目的だろ、小護の! だったら、ただ手術を怖がって逃げてばかりの、こんな負け犬は足手まといだろ! ッ、そうだ……! そうだ、そうだ! せいせいするだろ!」
「な……なんだと、お前! 俺はそんなこと、一度も思ったことなんて無い!」
 なんだと? 初めて聞いた。これが優の本音? そういう風に自分を見ていたというのか? 膨れ上がった疑惑を胸に抱いたままの俺に、さらに優は声をはねあげ、胆を奪う。
「違うッ! そんなの嘘に決まってる!」
 俺もそれにひるまずそれを否定する。
「何で解らない!? 俺はずっとお前のことを考えて……誰よりお前のことを思って!」
 そう、俺は、ただ、おまえと──。
 優が俺の腕を振り解き、怒りに柳眉を逆立てる。次に優が放った震える言葉は、それまでの俺の声量を大きく凌駕していた。
「僕がどうかなんて、デビューすることをふまえた上での口実に過ぎない! そんなこと思ってもないくせに……! ずいぶんな体裁だな! そんな言葉、ただの偽善なくせに!」
 な……。デビューしたい。思っていることは皆同じだと思っていた。俺はその道を押し開いて、導こうとしていただけだったのに。そんな自分を肯定されることはあっても、否定されることはないと思っていた。こいつは今何を感じて、どう……何を思っている?
 優の目は包帯で見えないが、明らかに俺の迷いが生じ始めた目を睨みすえている。包帯には、かすかに透明なものがにじんでいた。
「でも、違う……! 偽善なんかじゃない! 俺は本当にお前のことを考えて──」
「じゃあ、自己満足に浸りたいだけだ!」
 徐々に弱くなりつつある叫びが、優の凶弾に押しつぶされる。
「それにそれなら、そんなに焦ることないじゃないか! そんなにイライラすることないじゃないか! 分かったようなことを!」
「なん………だと……」
 俺はすでに、言い返す言葉を捜すのをやめていた。否、正確にはそこまで頭がまわらなかった。優の叫ぶ言葉一つ一つが胸に突き刺さり、そうだったのかもしれないという記憶を引き出させて溢れさせる。
「小護が絶対音感があって……! 彼に認められたからって……! 特別だから、僕の気持ちなんて考えたこと無いくせに……! 小護………小護なんて──」
 優が、身を、乗り出した。

「小護なんて、絶対音感がなければ何も出来やしないのにッ!」

 真っ黒になった。目の前が。何も考えられない。視野がねじくれて平衡感覚が無くなり、世界が世界じゃなくなっていく。胸に激痛が奔った。現実の痛み。鼓動に応じて痛みを刻み込み、回を追うごとに痛みは増していく。
 これが優の感じていたこと、思っていたことのすべて。真実であり、事実。
 優の顔が一瞬、言い過ぎた言葉を後悔するようにしかめられた。しかしすぐに可憐の平手が優を張る。その事実さえ上手く頭に入らない。映像が遅い。意識せずに体が後ずさる。
 ──自分ガ崩レテイク。
 気づく隙も考えもしないまま、俺はその場を駆け去って行った。とにかくあの場所から出なければ、自分が狂ってしまうような気がした。………自分ガ……。

「ハア……ハア………ハアッ………ッ!」
 暗い。がらんとしている。母はいない。可憐も追ってこない。暗い、暗い。怖い……。
 俺はリビングのドアを閉めたところで、崩れ落ちるようにひざを折った。
 頭の中で熱が渦巻いては返し、思考を上手く捉えさせない。暑さのせいではない。先ほどの優に言われた言葉一つ一つが頭に浮かんでは直ぐに消え、再び現れてくる。
 言い返すことなど出来るはずもなかった。それらすべてが………当たっていたから。
 イライラしていたのも、焦っていたのも、良い曲を見つけた後のわき上がってくる嫉妬感も。いつの間にか俺は──デビューだけを考え、ほかの何も顧みることをやめていた。結果が今に至ることさえも分からず、淡々とそれを信じて。それを先ほどつきつけられた。優の言うとおりだ。そして同時に……。
 ──小護なんて、絶対音感がなければ何も出来やしないのにッ!
 優の涙ながらの叫びが耳に蘇る。
 俺は抜き手に思いっきり拳を壁に叩きつけた。何も無い部屋に鋭い振動が拡散する。
 全て打ち抜かれた瞬間だった。自信も、誇りも、信じていたものも、音楽に対する確信も。何もかも。その瞬間、何もない空間に投げ出された。捉えようのない恐慌。何も頼るものがなく、不安と恐怖が頭を支配する──。
「……はぁ……はぁ……」
 重くなり、思うように言うことをきかない体を持ち上げ、ソファに投げ出した。流れでそのまま横へ倒れこむ。──と、頭に何か硬いものが当たった。……クソ、何だ……。おっくうにそれを抜き取る。可憐のバッグ。
 何でここに可憐のが………。ああ……そうか。可憐……ここにいたんだっけ………。
 それさえもうまく理解できない。
 そのままプラモデルの散乱しているテーブルに投げ捨てる。すると、今度はくしゃくしゃに丸められた紙らしき物が、中からぽろりと脇にこぼれ落ちた。
「……なんだよ……くそ……」
 なんだかもう、今存在するものすべてが自分をいらだたせる。それをバッグへ押し戻す。
 ……と、なんだろう。なんとなく……ただなんとなく、気になった。
 だるく開く。なんと、そこには大見出しでZINが取材を受けている記事があった。俺は少し助けられたような気分になる。パンクファッションの重層なアクセサリに、深い暗色のサングラス、赤い付け毛。見える外見は少なく、数年前の時をそのまままとっているかのようだ。荒々しい切れ端は、この間見た可憐の雑誌の切り取られた部分を思い出させた。
 何でこんな所に? さまざまな過程から結果に辿ろうとするが、考えがまとまらない。とりあえず、だるくゆっくりと、さらに頭をかき混ぜる記事を読み上げていった──。

 ──脚が破壊者となり、錆び付いた長いすを襲った。長いすが内に籠もるような悲鳴を吐く。ぐにゃりと体裁を変えて、倒れこんだ。
 大きな川をまたがった橋の下。橋の上を走る車類と川のせせらぎが薄く響く。暗と化した空の落とす闇が、さらに陰影の密度を上げる。まるで、今の俺の気持ちを顕著に映し出しているかのように。
 俺は破壊した長いすから目を離し、目の前で流れを刻む川を眺める。情報は入らない。
 ここは俺が何かあったときに来る、特別な場所だ。先生に怒られてムカついている時、曲に行き詰った時、精神的に堪えている時……。心が穏やかになり、ホッとする。
 頭上を見上げる。暗い。いつもは得意げな顔の髪も、今は所在無げに萎縮している。
 行き場の無い怒りや、深い絶望感はどこかへ行ってしまった。この場所であるからか、それとも、………それすら通り過ぎてしまったのか。気力が全く湧いてこない。傍観者のような自分すらいる。ただ。
 胸に刻まれた傷は修復されること無く、ほんの風くらいの反動に呼応してズキズキと痛みをもたらす。優からの予想外の言葉もあったが、あわせて別のそれも混ざり合い、もっと深い痛みをもたらしている。
 俺は意識的に、右手の拳を締め上げる。その手中には雑誌の切抜き。微かに『絶対音感』という文字が見え隠れするそれは、次のように………続いていた。
 ──あれは駄目だ。持っている者を疎んだりしている奴がいるが、それは全くの誤解だ。あれは音楽をやっている、特に俺のようにバンドのヴォーカルをやっているものとして、最も不必要な能力で逆に不利に働く。あれを持った奴は、そうだな。選ばれなかったものの中の選ばれし者……とでも言うか?(笑)
 それに優の悲痛な叫び声が重なるのだ。
 痛みしか感じない。確信、信条、誇り、信頼、友……音楽。積み木のように軽く突き崩され、腐った果実のように踏み躙られた。
 それも、最も親しい友と最も尊敬していた者によって。
 優と、ZINの言葉によって。
 鼻でため息のような息を吐く。そして気付いたら──歌っていた。意識して上手く唄うわけではなく、体から漏れ出す、唄いたいという気分にならって声を出す。歌っている時は何も考えないですむ。少しでもこの痛みから逃れたかった。すると、混沌としていた心の中が少し救われたような気がした。
「なんだぁ?」
 声がした。現実に掴み戻され、声のしたほうを仰ぐ。世界の雑音と共にやってきたのは、三人の男と一人の女の子だった。
 その中のリーダーらしきアフロをした男が近づく。
「どんな野郎かと思ったら……妙な髪色してやがる。カラオケ代も出す金がねぇのか? 実力も無いのに恥ずかしくもないのか」
「……なんだ、お前」
 何だ、この唐突で、不自然すぎる絡み。
「お前、もしかしてヴォーカリスト目指してるか? 歌い方が、知った風な感じだからよ。……胸糞が悪くなってくる」
 もともと俺自身、掲げている髪の毛のせいもあり、見ず知らずの奴らに絡まれることなど、珍しくもない。しかし、これは明らかにそれではない。まるで、なにか………裏がありそうな。不自然な言葉の順列に、つっかかりそうになる言葉の発音。
 もっとも、今の俺を逆撫でるには、十分すぎる言葉だったが。
 と、視線は男の両端を越え、奥で気まずげに佇んでいる女の子に止まった。それはおかしな店であった、あの女の子だった。その顔と、先日可憐の雑誌で見た顔がダブる。
「アジェンデ……!」
 俺が憎々しげに呟くと、男は軽んじた笑みを深くする。
「おお、知ってたか。光栄だな。まあ、それはどうでもいい。──お前、絶対音感持っているだろ? 典型的な腐った歌い方かましてやがる。音に自由が全くねぇ。自分を磨くこともせず、ただそれと仲間に頼りきってる感じだな。そう、そうか。お前もその部類か」
「なんだと、お前……!」
「自分の力は間違いない。仲間が、運が足りないだけ。でもそれを否定することはできない。仲間だから、仕方ないから──だろ? どいつもこいつも、同じような腐った考え方しかできねえ。中途半端な雑魚どもが。所詮は他人。同じ考えなんてもてるはずねぇのによ。それでも信じ続けて、結局落ちるだけ。体裁だけ考えて、中身のことは何にも考えちゃいない。糞だ」
 何だこの男は。うそ寒い感覚が背筋に奔る。反論しようにも言葉が出ない。自分はそうだったのか。仲間に、優に負担をかけ、そんな考えをしていたのか……。さまざまな思いが断片的に浮かぶ。所詮は通じ合えないのか? 同じ目標を持っても、理解しあおうとしても。………いや、そんなはずはない。そんなはずは。仲間ならば、いつか必ず──
「解り合えるに決まってる……!」
 言って、俺はその言葉がいかにも自分の胸の奥でむなしく反響するのを感じた。
 転じて男はどこか癇に障ったように舌打ちをし、顔をしかめさせる。そして汚らわしい物を見るような眼で、高くから見下ろした。
「お前みてぇな分かったようなヤツ見てるとムカつくんだよ! その糞イラつくその考えも。消えろ、この青二才がッ!」
 ──やめろ、ケンカはするな! 怪我をしたらどうする!──
 頭に響く、理性の絶叫。俺は音楽が大好きで。大好きで、大好きでたまらない。バンドが好きでたまらない。そのためならなんだってする。……でも。だからこそ、それを馬鹿にしたこいつらを、許すわけにはいかない!
 頭の中で、ついに何かが切れる音がした。
 気づいたときには、いけないという意識よりも先に、拳が男の顔面に急迫していた。
「やめてぇぇええええええっ!」
 紙一重。届きそうなとき、女の子の声が脳を揺さぶっていた。橋のコンクリートで何重にも鼓膜をつんざく。思わず拳のスピードを緩めて躊躇する。その時には、男の放った拳が、鳩尾にめり込んでいた。鈍い音がくぐもり、反動で骨がきしむ。しばらくの後……俺はゆっくりと、その場に倒れ伏した。
「……ケッ。見掛け倒しか。だがまあ……面白い。俺たちを知ってるって事は、今度のタイバンの事も、ZINの事も知ってるな。出場者枠が何でかしらねぇが一つ空いてる。ZINに良い奴がいたら、誘って来いって言われててな。ちょうど良い。……ホラ」
 視線上の動かない風景に、一枚の名刺が紙ふぶきのようにはらりと舞い落ちる。
「気が向いたらそこに連絡しろ。無条件で出場させてやる。……まあ、恥かいてでも出たいなら、という条件付きだがな」
 やがて男達の気配が去り、しばらくしてとどまっていた女の子の気配も去った。腹は痛くなかった。でも俺は立ち上がらず、生温いものを頬に流していた。
 ──ZINの事を知っているか?
 ……ああ、もちろん知っているさ。知らないわけがないだろう。
『実に良い能力』『絶対音感』『感嘆した』『うらやましい』『選ばれし者』
 知らないわけが。彼は自分の最も尊敬する存在で、憧れの対象。そして──
『アレはダメだ』『絶対音感』『誤解』『選ばれなかった者』
 ──過去、自分の絶対音感を肯定し、自分の存在を間違いなく高みにいると教えてくれたのは彼。と同時に、同じ部分から自分をたった今突き崩してくれたのもまぎれもない彼、ZINなのだから!
 信じてたのに、今更! 何で今になってそんな事を言うんだ、ZIN! 信じていたのに! 誰よりも! 誰よりもッ!
「うわああぁぁああああぁぁあああああああああぁああああああぁぁぁあああああッ!」
 慟哭。忘れていた時間をすべて取り戻すような深い絶望感が全身を襲い、何も感じることの出来ない混沌に投げ出された。自分の存在さえも感じ得ない場所に。
 だから叫んだ。自分の存在を確認するように、大声で。大粒の涙が頬を押し分けて流れ落ちる。なんだ、なんなんだ。すべてが、わからない。どうなっている。だれか……。

 悲痛が染み出る叫び声は、やがて降り出した大粒の雨によって、殺され、消えた。
 
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