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その一 | その三 | 目次

いんろーど♪

その二

 上がるたびに微かに鳴る軋みに細心の注意を払いながら、爪先立ちでいなすように階段に足を踏みつけていく。上りきって横に伸びた廊下も、同様に忍ぶ。扉の前で静かに止まり、耳に被った髪を払った。
「可憐はいないのか……?」
 思わず俺は自問した。部屋の中から話し声が聞こえない。待っていなかった可憐は、すでに優の家に来ていると思ったのだが、そうではないということか? ……どちらにしろ、可憐が言い訳を聞くことはないけど……。
俺はある種の勇気を振り絞り、まだ新しいノブを持った。開けると、狭間から逃げ出す冷気と窓越しに聞こえる蝉の声、そしてベッドに座っていた優がその身を出迎えた。
「…………小護?」
 可憐がいない。俺は超硬質化していた肩から力をほどき、冬の持久走大会を走りきった後のような爽快感を持って、口を開いた。
「ああ、優──」
 ……無事言い終わることは無かったが。
 ドアの死角からぬっと美少女が現れ、金髪を前に鋭い眼光を光らせる。瞬間的に俺の体は、摂氏三百度の空間へと投げ出された。と思うや、全身から溜め込まれたかのような汗がどっと噴出すのを感じ、手足は金縛りにあったかのように動かない。俺の視線は金の形相から、引かれた伝説の右腕に止まった。
「ちょ! ちょっと待、」
「チェェストオォォオオッ!」
 言葉と同時にためらいも焦りも感じられない右ストレートが、空を叩きながら俺の鳩尾へ吸い込まれた。直後、ジャストヒットした証に、腹のそこに響くようなこもった凶音が、冷気の満ちた部屋にこだまする。
 ……妙な間。誰も何も動かない。悲鳴すらない。うつむき、可憐の拳を抱え込んでいる形となっていた俺は、静寂の後ひざを折って、瓦礫のごとく崩れ落ちた。優の小声がなるが、
「……ちょ、ちょっと可憐、小護……?」
 当然ここに答えを提示するものはいなく、
「いい度胸やなぁ、小護。あたしを置いて勝手にどっかいってしまうなんてなあ。どこ行ってたんやァ、お前」
 可憐の見下す言葉に、俺は痛む腹を抱き、言い訳よりもとりあえずこうつっこんだ。
「お、お前………。か……関西行ったこと無いだろ………。へ、変だぞ、その関西べぐぉおッ!」
 すぐさまその突っ込みは封じられた。可憐の足がこめかみに叩きつけられたのだ。横倒れになった俺の頭がぐりぐりとなじられる。
「ほーう。まだそんな気力あったか。いっそのこと、蹴りの一発でもかましてやろうか? クリゲ」
 可憐の足が頭から退き、大きくかぶりをとる。その時、ついに頭に響いていた危険警報が頂に達した。鈍器と化した足の甲が、疾風迅雷、叩きつけられる──!
「ギャアアアァアアアアアァアアアア!」
──と、それはあわや紙一重という所でぴたっと止まり、音もなく下ろさ……れた?
「……今度消えたら……覚えとけ」
 背を向ける可憐に、俺は半ば放心状態のまま、改めて可憐の恐ろしさに戦慄した。
 こいつ絶対にSだ! というかすれ違いになっただけでここまでしないだろ、普通! 文字通り『ど』がつくほどのSに違いない! クソクソ、このいじめ大好きの魔性女めェ!
 ──心の中でそう叫び、腹を抱えたままゆっくりと立ち上がる。怪光さえ窺える、日本刀のような切れ味の鋭すぎる眼光を向ける可憐に、俺は悪さをして怒られたガキ大将のごとく「ゴメンナサイ」と頭を垂れた。
「ちょっと何してんのさ! 二人とも」
 優がわだかまらない声で辺りを見回す。
「ああ、大丈夫よ、優。ちょっと小護を小突いただけだから」
 ちょっとじゃないだろ! ──思わず叫びそうになったが、言葉を呑み殺す。腹の痛みが原因ではない。倍の惨状を垣間見ることになるからだよ、ハハ。……………。
「………そう」
 優はどこかさびしげに顔を傾けて微笑んだ。……はずだが、その目は笑ってはいない。いや、正確にはそれを窺うことができない。
 ふいにちくりと胸が痛む。腹を衝かれた痛みとは別のものだ。その痛みも、当初に比べればずいぶんと感じなくなったものだ。むしろ逆にそれが、俺の胸に暗い闇のような罪悪感をもたらすのだが……。この瞬間いつも思う。優が病気にさえならなければ──と。
優は目の病気を患っている。
発症したのは今から半年も前にならないだろうか。ヴィルスのバンドを組んでちょうど一年くらいで、同時に絶好調の時期でもあった。文化祭でも歌い、それなりのライヴにも幾度か出、雑誌にも少なからず載った。
 そんな中、優の目は視えなくなった。
正確には弱視の状態だが、かなりぼんやりとしか視野を確保することができない。
 絶望した。ライヴに出ることもできず、活動に明らかな支障が生じる。『VIRUS(ヴィルス)』というバンド名を呪いさえした。
絶望するほか、何があるだろうか? いや、無いだろう。……でも、救うことは出来る。
 俺は優の復活することを信じ、待つことを決意した。それはひどく重大な決断にも思えるが、現実そうではなかった。目が見えなくなると診断されたときに、同時に、限りなくもとの状態に近く持っていくことが出来る、と。そう聞かされたのだ。
──手術。
 話によると優にかぎっては症状が浅いため、悪くなった部分を人工的なもので補う、という単純な手術らしい。手術の成功する確率は高く、ほかに選ぶ道もない。が。
 聞かされた優は手術を拒んだ。
 手術をすれば治る。だが手術をして失敗すれば、完全に目が見えなくなる確率もある。手術をしなければ結果は同じなのだが、それでも優は手術を拒み続けた。
 あれから、もう数ヶ月──。ここまで来て、もうあきらめるなんて事は出来るはずがない。突き進むだけ。デビューへ、自分の目指している世界へ行くために。
 でも………解るだろうか。『信じる』という言葉の不安感を。こんなので良いのか? ………裏切られるかも……いや、そんなはずはない。優はいつ絶対にやってくれる……はず。信じるんだ、あいつを……。さまざまな思いの狭間。もしかしたらという可能性。
 考えたくも無いが、俺はその『もしかしたらという可能性』に陥ったら、どうするのだろうか。理性の行動ではなく、感情の行動として──。
「──ちょっと、小護? 聞いてんの?」
 不審げな可憐の声で、我に返った。可憐が不満げに眉根を寄せており、だがすぐ何か思い出したような顔を造って、
「あーはいはい。今日告られた女の事考えてたんでしょ。アンタのお家芸だもんねェ」
「なっ!?」
俺は可憐の衝撃暴露に目をひん剥き、
「違ぇよ! 考えるか、そんなこと!」
 ちらりと優をうかがうと、気まずそうに朱に染まった顔をそむけていた。……うう。
「じゃあ、どこ行ってたのよ、あんた」
 こいつは………。
 相変わらずざっくばらんな態度の可憐に落胆しつつ、口ごもりながらも一応答える。
「……楽器屋行ってたんだよ」
「楽器屋ぁ?」
 可憐が眉根を寄せ、聞いた優も首を傾げる。
「学校からの帰り道にそんな所あったっけ? 新しく出来たの、可憐?」
「いやあ、無いと思うけど……。あ──ま、まさかっ!」
 可憐が腕を前に大仰に身を引き、大きな目を何度も瞬かせて尋ねてきた。
「あんた、もしかしてあたしの言ったあの店に行ってきたの?」
「………そうだよ」
 回答にさえ何故か恥ずかしさを感じる。察しかねた優が、可憐のいる辺りに首を動かす。
「あの店って?」
「うん。外見がやばくて、噂では闇の商売に関わっているから近づいちゃいけないんだって。あたしの予想だと韓国マフィアとか、」
「! ちょ、ちょっと待てよ!」
 なんだと、こいつ今なんていった! 近づいちゃいけない!? だってこの間は確かに、
「あそこ有名な所って言ってたじゃないか! お前、近づいちゃいけないってどういうことだよ!?」
 こいつのことだから、まさか──!
「あぁ、あれは、ウ・ソ♪ 本気にしてた?」
 俺は、全身の力が一気に吸い取られるような錯覚を覚えた。ええ、ええ。ハマらせられましたよ。こいつのご期待通りの展開へね。
「なになに。それで? どうだったの小護ぉ」
 優が喉を鳴らし、目は見えないが可憐と一緒に俺を凝視する。
 こいつら、絶対に覚えとけよ!
すでに好奇心の塊と化した可憐を押しのけ、ゆでた昆布のようにソファにへたり込む。
説明する気にもならなかったが、可憐のこぼれ落ちるほどのほころびが思ったよりウザイ。……もうどうにでもなれや。
「なんか男と……俺たちと同じくらいの女の子がいて言い争ってた。チューナーがどうとか言ってて………。部屋は防音も出来てて、ポスターがあったり……あんまり他の店と変わったところがなくて……」
「じゃあ、その二人がヤバいの?」
「その可能性は高いわね。でも意外に何も知られずに雇われている愚民とか」
 二人の予想をほったらかしに、俺は続ける。
「でまあ……成り行きで俺がギターのチューニングすることになって……。二人は人柄よさそうだったけど、なんか男の奴は意味分からんこと言い出して、俺を引き止めようとしたり、女の奴は名前を聞いてきたりして……」
「えー! どうしたの、それで!?」
「………まぁ、なんだ、それで──」
 可憐と優が喉を上下させる。沈黙が漂う。
「…………帰ったん……だが」
 別の妙な沈黙が落ち、ややあって可憐が身を乗り出す。
「はあ? 帰ったの、それだけ? 他には?」
「な、なんだよ、それだけって。他にはない。それだけ」
 拍子抜けとばかりに隣へ座り込む可憐と、同じく肩から力を抜いた優はため息を吐く。
「あーんた、空気考えなさいよ。それだけ期待させたなら、もっと何かしなさい」
「何かってなんだよ! こっちは必死だったんだぞ。お前らの想像しているようなことが目の前で起こっているんだからな!」
 可憐がもう一度深くため息を吐き、背もたれにベロンとうな垂れる。優もベッドに両手を置いて悪かったとばかりに微笑む。
「いや、でも小護が無事でよかった。変なことが起きなくて本当に良かったヨ」
 ………あ、これ皮肉だ。可憐と知り合って約二年。明らかに優の性格は、可憐のそれに侵食されている。頼むから、これ以上自我を崩壊しないでくれよ。
そんなことを俺が祈っていると、隣の可憐は興味も失せたように天井を見上げていた。
「どうした可憐。お前がそんなしらけた顔するなんて………珍しくもないか」
「んん。可憐ぱんち! ってか、この話を最初に持ち出したの誰よ」
 俺は脛に叩きつけられた裏拳の衝撃に耐えつつ、何事もなかったかのような可憐の呟きを聞く。………ぐぉおっ。
「どういうこと? 可憐」
「普通の楽器屋でしょって話。常識的に考えて、そっち系の奴らがあのヨボヨボ商店街にいるはず無いじゃん。誰よ、最初話振ったの」
「お、お前だるぉんッ!」
 さらにもう一度同じ箇所を手刀ではじかれた俺は、そのまま上半身が崩れ落ちる。
 やはり空手県大会優勝は伊達ではない。もしも脆弱な体つきならば、今頃、痣だらけの捻挫男になっていたとこ……ろだろう。
 そこで俺はふと考える。
ヤバイ業者とばかり考えていた彼らが、もし可憐の言うとおり普通の人ならば、かなり失礼なことをしたのかも……しれない。先入観で、つい……。よくよく考えると、確かにアレは親切な上での行為だったとも言える(店長の意味の分からない言動は置いといて)。それにむしろ、そっち系業者ということ自体の方が、『もしかしたら』の場合だ。
……今度、また行ってみるか………。
「それにしてもアンタ、チューニング早かったわね。また腕上げたんじゃないの?」
「ん?」
 褒めるなど、可憐にしては珍しい。妙な感情を覚えつつ、俺は少しばかり得意げになる。
「ああ、フフ……まあな。俺の絶対音感を使えば、楽勝楽勝。朝飯前だよ」
 可憐が「調子に乗るな。可憐ぱーんち」と言って、俺のアバラを衝いた。
『絶対音感』
 多々ルーツがあるが、集約すると、あらゆる音声を正確に聞き分けることのできるという能力。難しく聞こえるが、端的には世界に存在する全ての音を、ドやミなどに言い分けることが出来る、ということだ。無論、例外も存在するが。五歳くらいまでに特殊な手法を講じなければならなく、それでも持つことの許される人間は限られてくる。
特別な人間にこそ与えられる能力。
 神小護は絶対音感を持っている。それがあるから音楽を続けていけるし、何より最高の自信につながり、ともすれば確信すら得ることができる。周りより確実に高みにいるという優越感すら。今の自分にとって一番の支えかもしれない。そのため、さっき店長らしき男に一瞬で見破られたときには、酷く驚いた。
──しかしだが。そんな最高な能力を持っている自分と、今のバンドの現状。そこから来るギャップが自分を苦しめさせてやまない。
 だってそうだろ? 大好きな音楽をやることの出来ない苦しさ。進める確信があるのに、それができないもどかしさ。絶対音感を肯定したのは、自分の最も信頼する彼。だからそうに違いないのだ。違いないのに……。どうして自分は、まだこんな所にいるんだろう。絶対違うのに、何で………。
「でもまあ、それのおかげで楽譜作りがスムーズにいくんだけどね。……あ、それでこの間頼んでたやつできた?」
「ん? ……あぁ、出来てるよ。それに出来てないと怒るだろ、お前」
 ここで言う楽譜作りとは、俺たち独特の手法のヤツだ。可憐が思いつきで弾いたギターの良かった部分だけを俺が楽譜に収める、という仕組みだ。当然発案スピードに追いつかなかった俺は、暗記した音符を楽譜に収めることを義務付けられていた。無論、強制的に。
「よし。じゃあ今日取りに行くから。この後」
「ええ? 今日? また今度で……──いや、来てください。是非今日取りに来てください」
 すぐさま放たれた雌豹の隻眼が、後の言葉を殺したのだ。……今もし『バンドを組んで得たものは?』と聞かれたら、必ず「惨劇の対象にならないようにするベストの対応」と、即答してしまいそうな気がする……。
「良し。じゃあ、あたしジュースでも買ってくる。なんか喉かわいちゃった。あんたたちもいるでしょ?」
 答えを待たずとして可憐は部屋を後にした。
 俺は慎重かつ逃げ腰で気配を探り、確認すると交感神経を副交感神経へと切り替えた。
「もう、あいつにはホント困るよなぁ……。なんか体中が痛い。精神的にも痛い」
 これで体が軋まないって、俺ってすごいな。
肩をならしながら優へ視線を移すと、顔を歪ませ──いつに無い不快な表情をしていた。
「? ……おーい、ゆーう。どうした?」
「え? あ、ああ、なんでもないよ。何?」
 何だこいつ……。何かあったのか?
「ん、いや、なんでもない」
「そう」
 沈黙。エアコンの涼やかな音と微振動がつたい、セミや子供の声が遠巻きに聞こえてくる。目を閉じて、何かの余韻に浸りたくなるような感覚。こういう時、改めて夏と感じる。
「なあ、今日もドラムやってた?」
「やってない。今日はちょっと………」
 優の家には、防音完備の地下室、いわばスタジオがある。自宅にスタジオ……。これだけで、優の家がどれだけ大きいか想像がつくだろう。優の父が興味本位で作ったらしいが、今はほとんどヴィルスの拠点となっている。
「でも目が見えなくてもドラムが出来るって、お前すごいな」
「そうでもないよ。場所さえ覚えれば。このくらい誰にだって……」
 そしてまた沈黙。何故か言葉も途絶えがちだ。何でだろう、変な居づらさが張る。
 その時、ふいに気がついた。
 優の頬から縦に一直線。何か、白い跡が乾いている。逆光で上手く見えない。何だ……?
 眼をすぼめて見ていると、視線を感じたのか、おずおずと優が口を開いた。
「小護、今日は……帰ってくれないかな?」
「え? なんで?」
「いや………その、ちょっと……」
 気まずそうに顔をそらす優。何だこいつ?
「……そっか。まあ、じゃあ今日はこれで。また来るよ」
 体の調子でも悪いのだろうか。まあ、現在の優にはさほど珍しいことでもない事だな。
 ──外に出ると、先感じていた風流で良いな的な考えは一変、ただの憎たらしい灼熱地獄と化した。蝉、直光、地熱、蜃気楼、馬鹿なガキ。癇に障るだけだ。家の前の路地に出た所で、缶ジュースを三つ抱えた可憐と鉢合わせになった。可憐が驚きの声を上げる。
「おわ、小護。どうしたの?」
「優がなんか帰ってだって。調子でも悪いんだろ。無理もさせられないし。家に行くぞ」
「えー。せっかくジュース買ったのにぃ」
 俺は面倒くさい文句を垂れる可憐を置いてけぼりにし、無言で歩を進めた。可憐のとび蹴りが俺の後頭部にジャストヒットした。

一向にやむ気配のない、自然騒音のざんざん降りを注意するように、頭上のレールで電車が空を斬った。都会ながらに落ち着いた雰囲気の路地が続く。家への帰路の途中、引き連れる俺に可憐が尋ねた。
「ちょっと小護。何でこっちから行くのよ」
 俺の家へ行くには、先ほど通った道を引き返さなければならない。そう、あの商店街を、だ。当然俺は遠回りの道を選択したため、そのことについての可憐の問いだろう。
「い、いいだろ別に。たまにはこっちでも。気分転換なんだよ、気分転換」
 商店街──あの店の鼻先を掠るぐらいなら、少しの遠回りなど訳も無い。謝るとは思ったが、………それはまた今度の話だ。
 可憐の訝しい視線をやり過ごすために、わざと視線をせわしなくまわりに配った。
ふいに旋律が耳朶を叩いた。視線を移す。レールが敷いてある橋の下の、軽いふれあい広場のような場所に、楽器を持ち込んだバンドがいた。曲を組み立てるための音出し、または演奏に一体感があるかどうかの確認だろう。同じ音楽をやっている者として、バンドをやっている者を見ると心躍る。
 すべてはいかにしてこの音の群がりをまとめ、統率させるか。単純だがそこに曲のすべてが詰まっている。俺一人では、それを最大限に引き出せない。そしてその鍵を握っているのは、同じ作曲者の優なのだ。なのに……。
今日は優の調子がおかしかった。優はいいものを持っている。それが必要だというのに……。あいつは今、何を思い、何を考えているのだろう?
そこで俺は思いあたった。
そういえば、優はだいぶ変わったような気がする。というのも、幼馴染みである自分はいつも優と時を過ごしてきた。いつも一緒。いつも同じことをやり、感じ、考えてきた。少なくとも自分はそうだった。それからか、優の考えを手にとるように分かることも多々あった。
でも、何故だろう。不思議と今は分からない。今日の優はいったい何を考えていたんだろう。変わってしまった、優は。目が悪くなってさらにそうなったような気もする。……ならばなおのこと手術を。それが優の為であり、なによりバンドの為なのだ。
それとも何か。変わってしまったのは自分の方なのだろうか。……いや、それは無い。
視線の先で、四人組バンドの笑い声がコンクリートに反響した。かぶせて上空を電車が貫くが、不思議とその笑い声のほうが強く頭を突き抜けた。
──だっていつも俺は、一番にバンドのことを考えているんだから。
視線上のバンドへ、無意識の内に眼を細めていた。それは彼らの下手さにではなく、もっと違う、別の所にあるような気がした。

母親や仲間は、もともとどういう存在なのだろう?
俺にとっては珍しくもない考えを、今一度疑問符付きで頭に転がしてみた。
子供にとって母という存在は世界そのものであり、依存し、慕い、守られることによって、一番深く初めての信頼関係を築く。よしんば甘えん坊だったとしても、しだいに人は母という存在から離れ、自立していくこととなる。その過程で親友という名の仲間を手に入れ、次の信頼関係を作るのだろう。母を、子を支える陰の柱としたら、友は互いに協力して成長しあう存在。
現在、俺はそういうふうに両者の存在を認知しているのだが、間違いだろうか?
「暑い暑い暑い暑い〜〜………」
 火炎放射器を、直接地球全体に当てているような地獄絵図的猛暑に、お相撲さんに同情してしまうようなごった返す人込み、聞きなれてしまって、幻聴として夜に十ヘルツくらいの周波数で現れる蝉の鳴き声。
僅かなひさしに、ぼうっと突っ立っている俺の両手には大きな紙袋が下がり、アニメ系のマニアックな品物がぎっしりと詰め込まれてある。言うまでもないと思うが、俺のものではない。母に買いに行かされたのだ(母の趣味は、秋葉原に住んでいなくてよかったと思わせるほどのOTAKUぶりだ)。
「いっけない、私ったら。欲しいグッズの正式名称、各個数と共に、それを売っている店名を事細かに記載したメモ用紙を、買いに行くときのために製作、生産して忘れないようにお財布の中にまで入れたのに、そういえば今日担当さんとの重大な打ち合わせがあるんだった。今からダッシュで行っても、引きこもりクイーンと謳われた私が、無事家にたどり着けるはずも無い。ああ、困ったわ、どうしたものかしら。(少女漫画よろしくキラキラとした眼)」
 ましてや買いに行かされる時に、
「よ、小護。遊びに来てやったよん」
 鎌(財布)を携えた、死神(可憐)がふらりと降臨したため、自動的に買い物地獄へと断定されたのだ。かくして現在可憐の買い物につき合わされ、目的さえ見失ってしまうほどの炎天下の下に、永遠とさらされてしまっているという状態に陥ってしまった。
 誰か、教えてくれ。これは子を支える陰の柱と、互いに協力して成長しあう存在といえるのだろうか?
 考えて三秒足らずで俺は、いや、愚問だったな、と断定した。どうやら今までの認知が間違っていたらしい。………パシリだ。
もはやどうでもよくなりつつある考えを頭の中で転がしていると、瞑った眼からさえも窺える白い日差しがさっと陰った。
片目だけを薄く開く。ピアスだらけの顔に、ガッチリ固めた髪の毛、細すぎる眉。
「ハッ。やっぱし小護だったか。その髪でわかったぜ。そのクリゲでなぁ」
 あからさまな挑戦的台詞と、見ているだけで胸焼けがしてくるイカツイ顔。
それらを掛け合わせて、脳内の情報処理能力を最大限に行使、眼前の男の正体を探った。
「…………誰だお前」
 結局、解らなかったが。男は鼻白んだような顔になり、顔全体を紅潮させていった。
「……ハッ! 面白いじゃねえの。いい度胸だ。この俺様を忘れたなんてなァ」
 知らんもんは知らん。いまどき俺様って言うやつも全然知らん。俺は、変な奴に絡まれたな、と面倒くささMAXで顔をそむけた。
「その髪も生意気でムカついてたんだがなぁ……。どうやら、根性も腐ってるらしい。ちょっとツラかせ」
 よっぽど暇なのか。全くもって貸す時間など無いので、手をひらひらと振って追っ払う。……としたが、両手が塞がっているために、代わりにあごをしゃくって言い放った。
「消えろ。バカ」
 男はさらに表情をゆがめた。が、ふと思いついたように気味悪くニヤリと笑む。
「ああ、そうかそうか。お前には時間が無いのか。そりゃそうだろうな。バンドをやっていて、しかもその仲間がクズなんだからよ」
 さすがの俺もその言葉にカチンと来た。
「……なんだと」
「あ? 聞き返すんじゃねぇよ。てめえの仲間だよ、あの病気の奴。お前も大変だなぁ、病気の奴を仲間にもって。俺だったら即クビにして、ライヴにでもなんにでも出るがな。お前もお前っつーことだ。ハッハッハ……」
 ぷっつーん。
 次の瞬間、気づいたときには、目前の男の顔は左後方にぶっ飛んでいた。次いで靴を通して足裏に、理性に障る鈍い感触が追う。割れる人並みの中に転げ落ちた男は、「ヒィ!」となんとも滑稽な声を上げた。
 俺はさらに距離を詰める。男は仰向けの状態で後ろに蠕動する。暑さのせいもあり、完全に頭にきていた。俺はともかく、優がクズだと? ふざけるんじゃねえ!
もう一度男の鳩尾に照準をつけて、踵を突き出した状態で足を振り上げた。──と、足を降下させるが早いか、俺の脳は横殴りの衝撃を受けていた。反動でもろく左へ倒れこむ。
「……ッ! 誰だ!」
 そうだな、まさに鬼の形相だ。まばゆい光さえも反射してどす黒い邪念へ変えている。太陽に熱せられているにもかかわらず、俺の脳内の隅々まで、すぐさま絶対零度へと導かれた。かかか、可憐様! お早いおつきで!
「こっちこい!」
「うわっ!?」
 それきり万力の力で無理やり袖を引っ張られ、俺はいやおう無しのその場を後にした。チンピラの男は、唖然とそれを見送った。

「おのれは何しとんのじゃ!」
 頭突きを食らわせる勢いで言った可憐に、俺はぎくりと身を縮めさせて、ぷいとそっぽを向いた。
「アイツが悪りぃんだよ。俺だけじゃなくて、優のことも言うから。俺は絶対に悪くない!」
「……はぁ、気持ちはわからないでもないけど。もっとほかにも選択肢はあるでしょうが! 警察沙汰になったらどうなることか」
 それは確かにそうだが、と俺は言い返し、
「でもアイツ、優のことボロクソ言いやがって。優のこと何にも知らないくせに! ただでさえ優は今神経質なんだからな、この間の優は調子おかしかったし……。優に負担は掛けられないんだよ」
「それなら、なおのこと警察沙汰なっちゃダメでしょうよ、あんた」
「……う……」
 つまりは頭にきたから殴った、ということが肯定されて、俺はだんまりを決め込んだ。
 俺じゃない。アイツが悪いんだ、アイツが。
「だいたいさあ、ケンカするなって、あれほど言ったでしょ。音楽をやるものとして、体は資本なのよ。特に指とか怪我したら、とんでもないんだから。プロ意識ってのが、アンタには欠けてるのよ!」
「むぅ。でも俺は、さっき手は使ってないぞ」
「だから! そういう問題じゃないのっ!」
 ビシィっと鼻先に指された指先に、俺はまたも押し黙った。なら可憐の、いつもの俺への拳はどうなんだよ、と聞こうとしたが、やめておいた。愚問だと分かっているからだ。
可憐はしばらくしげしげと俺を眺めた後に、戻ろうと踵を返した。なんだかすっきりしない気持ちで、憮然と俺はそれに従う。
──とした所、ふと可憐のバッグからはみ出ている音楽雑誌に目が止まった。いつも雑誌を持ち歩くとは可憐らしい。気づかれないようにひょいと抜き取り、気を紛らわせるべくペラペラとめくってみる。俺にとって偏頭痛の原因となりそうな音楽情報が、ところ狭しにズラーッと述べられていた。
途中、不自然に一ページ切り取られた部分があった。不審に思ったが、直ぐその後ろのページが目に留まり、注意が集中する。
──伝説のタイバン『MUSEUM(ミュージアム)』開催! 提供者の中には、なんとあの……!
 そういうふうなことが見出しに大きく書かれ、詳細が事細かく記されてあった。
「可憐、これ……? もしかして」
 ミュージアム。それには聞き覚えがあった。可憐が何勝手に抜き取ってんのよ、と怒った後に、雑誌に目を落として、ああとうなずく。
「あの有名なヤツだよ。もうすぐ九月末だしね。やっぱり今年も開催されるらしいけど」
 ミュージアム。つまり大規模なタイバンだ。タイバンとは端的に述べるとライヴである。プロでないバンドが客の集まらないときのことを考えて、それを合同で行うものだ。
 メリットとしては、やはりさまざまなファンを獲得できるチャンスがある、という所だ。費用も節約できる。デメリットは、メリットの逆、つまり他のバンドにファンを取られることもある、という所だろう。
ミュージアムはそういうタイバンながら、音楽の大手企業からの投資があるために予選選抜制度があり、もはやタイバンという域を軽く越えている。
放送も深夜に行われるながら、音楽をやっている新人として最高の晴れ舞台となれる場所であり、かなり有名だ。知ったのは一昨年だが、実力面での問題で予選にことごとく散ってきた。が、今のバンドの実力ならば、すれすれながらも合格ライン上にいるだろう。
動揺しつつ、目を落とす。すると、眼に飛び込んだ事実が、まだ驚くのは早かったことを告げた。
「ッ! この女の子。あの店で会った……!」
 ページの下部。出場がすでに決まっている注目のグループとして『アジェンデ』なるバンドがあり、そこの四人の中にあの学級委員長風の女の子がぽつんといた。
「へー。もしかしてあの怪しい店で? ……どうやら、本当にすごい店なのかも。ま、問題はそこじゃないんだけど」
可憐の伸びた指先に、視線が吸い寄せられる。
「ここ読んでみて」
 俺は眉根を寄せつつ読み上げ、
「『このバンドの実力は一目瞭然。アメリカで現地特訓を受けたこともあるが、何よりそのプロデューサーだ。その人物がここで開かれるタイバンの投資も補っている。プロデューサー、つまり、彼らを集めた人物がなんとあの、ZINなのだ』……え? ZIN!?」
瞠目した。眼前の文字と頭の中の決定事項が噛み合わず、上手く事態を収拾できない。
なんだって。ZIN? バンドをやり始めてその名を忘れた日など無い。ロックの革命グループとまで言われ、海外でもミリオンを達成した、かの有名な『perfect(パーフェクト) pitch(ピッチ)』のヴォーカリスト。……にして、自分が唯一尊敬している人物なのだから。もはや神の域にまで達し、雲を掴むごとく手が届かない……。
「そう、彼。引退宣言をして何をしているのかの情報さえ入らなかった彼は、そんなことをしていたらしいわね」
 ……………出たい。
 ドクン、ドクン。心臓が大きく脈打つ。
 これに出れば、今一番望んでいるものが手に入るかもしれない。このイライラする日常から脱出でき、新たな一歩を踏み出せるかもしれない。前に進めるかもしれない。ましてや、ZINの前で歌えるんだぞ。どんなに嬉しく、気持ち良いことか! ……が、それに対しすぐさま重い罪悪感がのしかかる。
 何を考えているんだ、俺は。今の優がライヴに出られるはずが無い。優がいなければ、バンドに何の結果ももたらしはしないんだ。それにあいつのことも全く配慮していないではないか。これでは先の男と全く同じだ。何様なんだ、俺は! ………でも……でも!
 出たい。心のそこから出たい! どんなことをしてでも、彼の目の前で思いっきり歌いたい。自分の存在を認めてもらいたい。
 苦しい、胸がしまる。
絶対音感を生かした自分の音楽を聴いて欲しい、認めてもらいたい! 他の誰でもないんだ。ZINだけに。自分が絶対音感を持っていると、彼に、どうしてもッ!
 優の、文字通り目のない笑顔が過ぎる。
 しかし。そう、そうなのだ。しかし自分たちには出ることすら願わないのだ。ただ指をくわえて見ているしかないのだ。他のバンドの活躍を見守るしかないのだ。

 優が、いるから。
 
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