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プロローグ | その二 | 目次

いんろーど♪

その一

 チャイムがなった。学校中に響き渡る、鐘を真似て面白みも無い音階。
 隣の教室から急に雑談や雑音が聞こえ、曇りガラスに廊下を横切る生徒の姿が出始めた。さらに、逆側の教室も同様に雑談が聞こえ始め、ホームルームの終わりを知らせる。
「あー……つまりこの夏休みは、あなたたちのスタートを決めるための期間であり、少なくとも思い出を作る重視の夏休みではありません。これをふまえた上で──」
 しかし、やはりまだ教壇に立った山本の話は、無遠慮に続いている。こいつには、耳と脳がきちんと直結しているのか疑わしい。こんなどうでもいい話しを聞くならば、公園のベンチで曲作りをしている方が遥かにマシだ。
「………チッ」
 蒼く澄み渡る快晴に向かい、小さく舌打ちを鳴らす。するとそれに返事をするかのように、風が優しく滑り込んできた。
 髪が舞い、目にぱさりと被る。黒目を寄せ、なんとなく髪に視点を合わせた。
 淡い栗色。鮮やかに根元まで統一されてある。カラーリング剤のそれとは比べ物にならないくらいにふわりとしており、自然かつ滑らか。モデルでもこうはいかないだろう。………と、この間友達に言われた。
 白すぎる日光にさらされて、たまに所々虹に光沢して自己主張をしている。まぁもちろん、その異質な髪のせいで、近寄りがたい雰囲気はぬぐえないらしいが。
「おい、小護! 聞いているのか!」
「ぅえ? あ、ああ、はい」
 うお、なんと急な振り。俺は内心あわてた様子を押し隠し、気無げに返答する。
 周りの生徒の視線が、一瞬にして俺こと神小護の上に集まった。禿頭になりかけの山本が、軽蔑とも取れる視線を下す。
「外なんか見ているヒマがあったら、しっかりと前を向いとけ。特に進路先がまだ決まっていないお前はな。どうせバンドか何か、くだらないことを考えていたんだろう」
「むぅ……、まあ……そんなもんです」
「分かってないな、どうやら。小護、お前ホームルーム終了後、職員室集合な」
 と、先生が軽く言い放った。
 はいはい。職員室集合ね、職い………え、職員室集合!?
「ちょ、ちょっと待った、山っ……じゃない、先生! 俺、分かってますって、先生の言ったこと!」
 職員室だって? 冗談じゃない! 体育館で校長の言ってたことの繰り返しを、耐えに耐えて聞いていたのに! これじゃ必ず、また職員室で同じ説教を受けてしまうじゃないか! 三度目の正直なんているもんかっ!
 が、山本の返答は至って淡白なものだった。
「あぁ? 何か? 俺の言うことが聞けないのか?」
「い、いや、そういうわけじゃないですけど………。でも、」
 言葉を遮るように、山本がパンと音を立てて出席簿を教団に置き、
「んならば文句無いだろ。ちょうどお前の進路についても、二人で話したいところだったしな。一時間は覚悟しろよ。よーし。じゃあ、終わるかな。みんな、今言い聞かせたこと一ヶ月間忘れるなよ。号令!」
「え、ちょ……!」
 微かな笑い声が満ちていた教室に、鋭い号令が終止符を打った。教室すべての椅子が引かれる耳障りな音は、俺の戸惑いさえも押し隠す。礼が強制執行され、教室に喜怒哀楽の雑談が交わされ始めた。
 なので俺はしばし、呆然と目の前のみなりを見つめるしかなかった。
 ……な、何だあの先生は!? 毎度毎度、俺だけを鋭く注意して! さっきの反応だって、警戒していたとしか思えない速さだった。やはり、この髪か。この髪が、あいつの反感意識を刺激しているからか!
「くそぉ…………」
 だるく、やる気をまとわない視線を、再びとなりの天空に上げる。遠くの山が展望できる快晴の中、ぽかんと一つ浮いていたのは、大きく歪な枠をかたどっている雲。まさに、今の俺をあざ笑っているかのような。
 夏日がまぶしい。
 嗚呼──イライラする。

「あー……。えっと、その……ごめんなさい」
 俺は腰を折り、ぺこりと頭を垂れた。
 体育館と、テニスの壁うち用に建てられた、大きく立ちはだかるコンクリートの狭間。
 日が強すぎるせいで、辺りから隔離されたかのような深い闇の中での、俺の一言。まさにその日陰を顕現したかのごとく、気を病む重い空気が、どさりと肩にのしかかった。
 眼前には頭二つ分は小さい少女が立っており、胸元のリボンの色は、一つ下の学年を主張している。外野からの雑音が沈黙だけは残しつつ、風と共に吹き抜けていった。
 女の子は俺の一言からうつむき、顔を上げない。しばらくの間。しかし次の瞬間、唐突に顔を上げる女の子に、俺は肩すかしをくらってビクついた。彼女は何かを振り切るように会釈をし、小走りで光の向こうへ駆けて行った。
 姿が見えなくなったところで、俺はとろけ落ちるほどの力を体から解き放った。
「もう………。終業式なのに、何でこんなハードなんだよ……」
 職員室でたっぷり先生と話し合った後、脱力して部屋を出た俺は、待ち伏せさせられていた先の女の子に誘われた。正直帰路につきたかったのだが、断る理由も言い訳も見つからず、ヘロヘロのままマンツーマンの舞台に連行されてしまった。あげく、彼女はピンポイントで、俺の嫌いな状況ベストワンを再現するではありませんか。
 あぁ、もう嫌だ。もう何度目になるだろう。あんな空気に慣れてきている自分も嫌だ。こういうものが世間的に言われる、青春、なのだろうか。もしそうだとしたら俺は一生その領域へ足を踏み入れられそうに無い。
「ニャリーン」
 俺が自嘲ともならない考えを頭の中で転がしていると、だしぬけに、明らかに場違いであてつけるような声が鳴った。無論、言うまでもなく猫のそれではない。
 俺は一瞬驚いたが、すぐその元凶を思いつき、冷めた様子で声のしたほうを見回す。
 こんなことをする奴は、一人しかいない。
 すると、体育館倉庫の影でまぶしい何かがキラリと光り、さっと隠れた。
 ああ、くそ、ずばり当ててしまった。
「…………可憐」
 露骨に白々しく、その名を口にする。
 すると数秒後、影から金髪の派手な髪をした女の子が、さして気に留めた様子も無くひょこっと顔を出す。
「やるね、栗毛」
「栗毛って言うな。何してんだよ、おまえ」
 金髪の妖女こと可憐(俺が影でそうよんでるだけ)は、その姿を隠す様子もなく悠々と、そしてニヤニヤと笑いながら近づいてくる。
 可憐は俺のネクタイと同色のリボンだ。
 すっと通った目鼻立ちや、吸い込むように開眼した目。じっとしていれば、相当かわいい部類の女の子なのだが、いかんせん、可憐はそんな奴ではない。その良い証拠が、髪だ。
 暗闇でも一目置く、肩までのサラサラの金髪が、可憐を強烈かつ激烈に特徴付けていた。俺とは違い、カラーリング剤での賜物だ。
 学校では毛の彩色は禁止なのだが(自色である俺の髪の毛は例外として)、可憐は学校内で上位の成績と、優秀な生徒として先生を丸め込み、この髪色を整えている。……あ、もちろん『優秀な生徒』とは先生の前で、という意味だ。
 俺にとっては煙たい存在のミリオンを更新し続けている、厄介者以外の何者でもない。
 しかしそんな俺と可憐を切っても切れない縁にしているのが、可憐が俺たちのバンド『VIRUS(ヴィルス)』の一員だ、という所だろう。
「別に覗く気は無かったんだけどね。職員室の前で小護待ってたら、先にあの子にとられちゃって。それで面白そうだったからさぁ」
 どこか達観したようにうなずく可憐に、俺はあきれ返って頭を落とす。
「人のプライベートを面白がるなよ……本当に全く………。うちの連中には内緒だからな。言ったらしつこく五月蠅いんだから……」
 可憐の辞書に、『他人のプライバシー』と文字は無いに違いない。……うん、無いな。
「え〜、どうしよっかなぁ」
 と、可憐は小悪魔めいた笑みを浮かべる。
「それはそれで、面白いよねェ」
「お前なぁ。だから、」
「おおっと! ウソウソ! ウソに決まってんじゃん。言わないヨ、ゼッタイ」
 反論しかけた俺を、可憐がぎこちなく制す。
 ああ、こいつ、影で絶対に言う気だな。
「それにしても、あの女の子かわいそうだったなあ。フラれるって決定事項あったのに。気の毒。今度、リオネスのライヴに連れて行ってやろうかな」
 可憐がごまかすように言葉を紡ぐ。余談だが、リオネスとは可憐の恋人(になる予定らしい)である、今一番の売れっ子モデルだ。もちろんその二人に面識などは、ないない。
「まあ、あたしには小護のどこが良いのかわかんないんだけどねぇ。バカだし、鈍いし」
 同情うんぬんの話の前に、内容とは裏腹なお前の口調をどうにかした方が良いぞ。そんな意識、ベッド下のほこりほども入っているようには聞こえはしないからな。
「お前なぁ……。一応俺の前なんだぞ? ちょっとは遠慮しろよ。明らかに失礼だろうが」
 闇の密度が高いトンネルをくぐると、ちょうど反抗期盛りの太陽が眼球を刺す。腕をかざしてやり過ごすが、地熱と直射日光からの蜃気楼が、さらに頭をかき混ぜるようにくらくらさせた。あちーっ。
「まあまあ。あたしとバンドのメンバーって仲じゃないの。こんな程度のこと無かったに等しいよ。照れてんナ、小護!」
 いけしゃあしゃあと口にしつつ可憐が後をついてき、首を振って髪を払う。その度に反射する光も気分を不快だ。イヤなまでに開放的な性格、是非秘訣を知りたいものだな。
「あ、そうだ」
 思い出したように、可憐が声を上げた。
「この後、優のとこ行くんでしょ?」
「んん。まあ、そうだけど……もしかして、お前ついてくる気?」
 優とは俺と同級生で幼馴染み、そして可憐と同じくバンドメンバーの男だ。今はわけありで学校には行かず、自宅療養中となっている。……正確には、行けず、だが。
 あからさまな態度をとってやったのだが、可憐は気にする余地もなく深くうなずく。
「もちっ! そのために、一時間もあんたの説教待ってたようなもんだからね。行かないって言っても、強制連行よ」
 強く肩を叩く可憐に俺はただ、「ああ……そう」とだけ言って深くため息を吐いた。
 どうやら、俺の意見は小鳥のさえずり。どんなに反抗しても、無に等しいらしい。
 ──暑さのせいか、可憐のせいか。自然と肩がだれる中、校門近くまで歩いていたとき、ふと心地よいメロディーが宙を漂ってきた。……幻聴か? 可憐が腕を掲げて日光をやり過ごしながら校舎を見上げる。
「ん……? ああ、吹奏楽部か」
「………この曲、アレンジしてあるな。自分達で。いい感じになってる……」
 近頃出た新曲だ。この間の音楽番組では、初登場で上位にしめていた。有名なグループの曲なのだ。……と、可憐から聞いた。
 これはおそらく、先生など音楽に長けた人がしているんだろうな。でなければこんなまとまった感じは出ないし、このシングルが公式に発表されての日数から考えて、かなり早い。もとい、良い曲なので下手をしない限りそこまで悪くなることは無いが。聴くと思わずにやけ、踊りたくなるような、不思議な曲だ。
 でも。でも、これなら──。
「小護?」
 となりから声が聞こえ、俺ははっとする。
「どうしたの? いつも以上の仏頂面して」
「え……。いや、なんでもない。……行くぞ」
「あ、ちょっと待ちなさいよぉ!」
 可憐の叫びを置いてけぼりにしながら、俺は今の自分の感情に戸惑いを覚えていた。
 良い曲に出会ったときの高揚の後に訪れた、多少なりの苛立ち。それに対する嫉妬。違う、そんなはずはない、そんなはずは……。
 俺は知らず知らずの間にきつく、歯噛みをしていた。

「あー、そうだった」
 優の家まであと中腹という所まで来て、可憐が声を上げた。商店街のど真ん中。ひさしである程度直射日光は防がれてあるが、込み合う人並みが別の圧迫感を引き立てている。けだるげに、そして嫌な胸騒ぎを感じつつ、
「………あ? なんだよ」 
 振り返る。可憐が近寄りながらウサギ柄の財布を取り出し、中身を確認し始めた。
「今日雑誌の発売日だった。ちょうどそこに本屋があるからさ、ちょっと寄ろうよ。……あ、小銭あった」
「ええ〜? 本屋ぁ?」
 何を言い出すかと思えば、こいつは。
「いいだろ、そんなの後で。優の家までもう直ぐだから、それ終わったら一人で買いに行けよ。あとあと」
 本屋など、現在進行形で大嫌いだ。マンガなどは解らなくも無い。が、雑誌さえも、ましてや文だけの本など、どこに面白さを発見できるのか。元来、なぜあんな全自動脳内混乱装置ともとれるようなものを、読む気になるのかさえ理解し難い。好きで読む奴は、頭がおかしいのではないか?
「なあに言ってんのよ、アンタは! そんな事言ってるから成績上がんないのよ。それにあたしの家は逆方向なの。レディーに気を払うってこと学びなさい!」
 つんとして言った可憐は、
「これ持ってなさい!」
 と命令して無理やりバックを預け、地団太を踏みつつ、向かいの本屋へ消えてしまった。
 ……ええ〜……。なにこの、迷子の子猫になったような気分………。
「……ていうか、何でおれが怒られるの? はぁ、もう、これだから可憐は、」
 へたり込んでの愚痴は、最後まで言い終わることなく月面の裏側へと消えた。
 そうだ。でもこの近くには、たしか──。
 すぅっと立ち上がり、取り付かれたように足を踏み出した。数十歩歩き、立ち止まった五メートル手前。防音式の重そうな扉に、紫と橙、黒の配色された外装。いかにも古い『Music Market(ミュージック マーケット)』と書かれた看板。どう世辞しても頷けない、型破りな音楽店がそこにはあった。正面以外はほとんど隣家と接触して闇の居住区となり、全体的に暗い塗装も手伝ってか、案外見落としやすい。
「やっぱり。ここ……だよな?」
 俺は思わず自問した。なんだ、このベタ過ぎる外装。絶対、ここの店長は商品売る気ないだろ。俺は握り拳で頭を抱え、混在する曖昧な記憶から必要な情報だけを引き抜く。
『隠れた名店』。可憐の声音に重なって、その言葉が頭に蘇った。視線を上げる。何度見てもその異質ぶりは、常軌を逸している。……茶道に通うスキンヘッドの極道並、か?
 向かい本屋を見直すが、やはり可憐が出てくる気配は無い。可憐は一度本屋に入ると、一通り新刊をチェックしないと気がすまないという、妙な癖がある。つまり、これから十数分出て来る事はないだろう。もちろん、それ含めた上での反論だったのだが。
「本屋で待たされるよりはマシ………か」
 と、振り返りざまにぽつりと言い、改めて正面の突然変異した建物を見上げる。
 その時の俺の頭には、何故か本屋に行くか、この店にいくかの二択しか選択肢がなかった。おいでおいでのような、甘いひきつけのオーラが漂っている感じがする。
 瞬間的に心を決め、大きく足を踏み出した。
 重い取っ手を持ち、静かに、ゆっくりとドアを開ける。内部の人間に気づかれたら死ぬ、ぐらいの心持で行け、神小護ォ!
 安っぽい鐘の音が、響いた。
 心臓が跳ね上がり、ドアを半開きのまま硬直する。来客者ベルがなったのだ。
 さっと小ネズミのようにして辺りを見回す。部屋の奥から話し声が聞こえてくる。……ふう、どうやら死なずに済んだみたいだ。肩を緩め、外から遮断された内部をうかがい見る。
「…………中は意外と普通なのな」
 正面に一つ道を残して、こちらへ向かってくるように並んだ数十の棚。そこにズラーっとならんだギターや改造品は、パッと見るだけでも軽く数百を超えるだろう。スピーカーからもリズミカルな曲が降り注ぐ。冷房は効いているが、物質量のせいか、外の人並みとどこか酷似した圧迫感を与える。
 おそらく、部屋の一番右奥にレジが隠れてあるのだろう。そして、発せられる声も。
 パッと見ても、そういう専門店と特に変わったところはない。外見以外は、ね。外見以外は、外見……。き、気を引き締めねば!
 再びベルがならないように気を使いながら、ドアを閉める。奥の方の話し声が大きくなった。声質から、どうやら二人いるらしい。
 行くかどうかためらった。が、好奇心と理性が一騎打ちをした結果、二勝一敗で好奇心に軍配、足音なくその場へ近づく。背丈の高い棚から、そっと様子をうかがった。
 櫛も通したことのないようなぼさぼさの頭に、背が高く痩身。不健康成人男性のよい例になりそうな男が、背中向きに立ち塞がっている。その向こうには頭二つ分は低い、黒髪をゆるく一本のみつあみにした黒ぶちメガネの、可愛らしい女の子が立っていた。俺より少し年上か、同じくらい。学校では風紀委員をやって「学校治安のために!」とか言ってそうなタイプでもある。……うう、ちょっと苦手なタイプかも。
 女の子と男は何かもめあっており、女の子の方が一方的に言い募っている感じだ。男は、それに対してせわしなく無精ひげをさすりつつ、ため息を吐いている。
 麻薬、取引、闇、金融、コカイン、少年少女への密売、脳の侵食、変声機の甲高い声、緊迫感漂うレポーターの張った声、マフィア……。さまざまな画像、文字が疾風と化し、頭の中を駆け去っていった。
 絡まると、なんだか嫌な予感しか頭をよぎらない。あ、手に汗が……。残念だが、さっさと退散した方がよさそうだ。いや、決して怖くなったわけではないのだ。決して、ね。
 ──ぱさっ。
 なんとも滑稽な、音がなった。
 仰天した。足元を見る。そこには三種類のピックが入った商品の袋。膝元に同じ商品があるからに、見当はつく。矢継ぎ早に再び視線を上げると、同じく驚いた表情の二人と視線が交錯した。比喩ではなく、現実問題として、心臓が、止まった。
 ぬ、ぬわにぃぃいいいい!?
 考えるよりも先に、体がしゅぴっと動く。
「あ、あー……。こ、こんにちは?」
 男の目が驚いたように見開かれ、「その髪……」と聞こえたような気がした。と思うや、すぐさま取り持つように首を傾げる。
「どちらさんかな?」
「え!? ……あ、ええっと」
 こ、ここは正直に答えた方が良いよね?
「中が気になったんで入ってきたんですけど、なんかお取り込み中なようで……。あ、すいません! 直ぐに出て行きますから!」
 俺はきびすを返し、そそくさと立ち去ろうとする。大きく三歩目を踏み出そうというときに、背中越しに声が掛かった。
「あ、ちょっと待ちなさいってば」
 ドキリとして立ち止まり、困り気味の表情で振り返る。内心は、先の考えが交錯しまくり、失態した自分を呪いたいくらいの気分だったが。嫌な汗がこめかみを伝う。
「な、何か……?」
「いや、もう終わるからさ。ゆっくりしていってよ。ここにお客が来ること自体まれなんだから」
 そりゃそうでしょうな。思いながらきっぱりと断ろうと開きかけた口は、だが状況を見守っていた少女によって遮られた。
「何言ってるんですか、店長! 全然問題解決してないじゃないですか! どうしてもチューナーが必要だって言ったのに、店長が取り寄せないのが悪いんですよ!?」
「あ、ああ、悪かったよ。チューナーは、また明後日にでも仕入れるからさ。そんなに怒んないでよ。……それに僕は、君の笑っている顔のほうが好きだなぁ」
「な、なななななに言ってるんですか! そ、そんな事言ったって惑わされませんからね! 大体店長は、──」
 本当にあの男はこの奇館の店長なのか。
 取り寄せるように頼んでおいてチューナーを、この不手際店長が忘れていた。そういう感じだろうか。……というか、何故ここでチューナーの話が出る? 心配するほどの店ではないということなのか?
 チューナーとは、言わずもがなチューニングするために必要な機材だ。チューニングとは、ギターを始めとするさまざまな楽器の音あわせみたいなもので、楽器を扱う上での一番の基本であり、一番の重要事項なのだ……って、そんなことはどうでもいいんだよ!
「あの、本当に俺……!」
「あー。ごめんごめん。そこら辺に座ってていいから、ちょっと待ってて……」
 何故にっ! どうしてこう、今日は事が上手く回らないのか! ベテランの女アナウンサー、アンタ今朝の正座占いで、おとめ座は一位だと断言しだだろう! 信じてこそいなかったが、裏切られたような空しさを覚える。もう絶対に、占いなんか信じるもんか!
 二人の言い合いに蚊帳の外で、妙な緊張感を保ったままうんざりしている俺……だが。
 その時、脳内会議を行っていた、最高峰の賢者こと数人の俺が、ある奇策を起草した。
 …………ふむ。なるほど、それいいかも。
「あのー……ちょっと良いですか?」
 二人の視線が、痛かった。
 
 曲が聞こえなくなった店内に、弦をはじく微かな音が舞う。それは順に高い音になって正確さを落とさず、最後に弦を一連に引く音がなって、すぐやんだ。
「んん。これでいいかな」
 赤と黒で配色された派手なギターをなで上げながら、俺は満足して頷いた。
 ネックにピックを挟み込み、向かいのソファに座っていた女の子にギターを手渡す。彼女はその出来栄えに感嘆した。
「うわ、本当だ。音がちゃんと取れてる!」
「へー。本当だ。すごいなぁ、君」
 脇に立っていた男も同じく驚く。俺は作り笑いを顔に貼り付け、あえて陽気に言った。
「いや、これくらいなら直ぐですから」
 奇策。それは、二人の間を取り持ち、代わりに自分がそのチューニングをしてやる、というものだった。そうすることでいざこざから開放され、牢獄(店)から出ることができると踏んだからだ。
「あ、あの、私、凛といいます。調律師の勉強でもしていらっしゃるんですか?」
「え? いや、まあ、そんな感じ……です」
 時計から目をはなし、頬を染めてきた女の子に、俺は思わずぎこちない嘘をついた。
 調律師の勉強など、生まれてこの方やってみたことなど皆無だ。でも、今の経過時間から早く話を切り上げた方がよい。
 時計の長針は、可憐と分かれて無常にも二十マスは進んでいた。もうとっくに本屋を出ている可憐は、足取り荒く優の家路についている頃だろう。可憐は怒ると、口より先に手が出てしまう派なのだ。さらに、彼奴は空手県大会優勝経歴があるという実力者。おのずと、どれだけの威力か想像がつくだろう。
「………嘘だね」
 と、背後から声がした。男……店長だ。
「え?」
「君、高校生だろう? 調律師の勉強なんてやるはずがない。それに、チューナーの正確な音声認識能力がいる状態のギターを、君は正確に音をとった」
 店長はまるで演説するように語る。
「調律師は自分の感覚で音をとったりはしないしね。そしてその迷い無い鮮やかな動作。これらから考えられることは、おそらく君は……あの能力の持ち主だろう?」
「……な、なんですか、それは?」
 俺は急に饒舌になった店長を、振り返る。店長はその不精な顔を笑みに歪め、言った。
「『絶対音感』だよ」
 心臓が、大きく脈打った。
「ぜったいおんかん……?」
 凛が思い出すように繰り返す。店長は感慨深く頷く。
「これを覚醒させるのは、まれに等しいんだけどねぇ……」
 俺は固まって返事の一つも返していないのに、店長と思しき男は勝手に結論付けて、凛は、へえ、とばかりに頷き返している。
 く、一体なんなんだ、この人達!
「しかし……君はそれで挫折し、崩れ落ちてそこで終わってしまうか。それともそれを乗り越え、なお前へ進むか。『あちら』の世界を見ることが出来るか。それに、あの髪色……。俺には関係ないことだが……。報告した方が良いかな? 『アイツ』に……」
 そしてついには意味の分からないことまで呟き出した店長に、今度ばかりは流石にゾッとした。
 アイツって誰だよ! 報告? なんじゃそりゃ、勝手に決めるな! うわ、怖い。やっぱりそっち系だったか! ほら、俺の脳内アラームがひときわ大きくなってるし!
「………あの」
 俺は意を決して、まだ感慨深く頷いている店長を振り仰ぐ。店長が顎ひげをさすりながら首を傾いだ。
「ちょっと俺、急いでるんで。これで失礼させていただきます」
「あ、ちょ──」
 店長が何かを言おうとしたが、遮るように勢いよく立ち上がって会釈をし、無理やりその場を後にした。こうでもしなければ、この奇妙な牢獄(店、ね)から脱獄はできない! 悪しからず、だ! アゴヒゲ店長!
 出口付近にさしかかった時、背後にぺたぺたという足音が走り寄って来た。女の子だ。
「あ、あの!」
「…………何か?」
 無視していくわけにもいかず、後ろ髪を引かれる思いで立ち止まると、
「せめて、名前教えていただけますか?」
 女の子が顔を紅らめて言った。そういや、俺と話すときずっと顔が紅いよな。瞬間、脳の一部がはじけた。………あ。これって。
 や、やばい。やばいやばいやばい!
 これを聞き出して、絶対何かに悪用する気だ! 先の店長もグルで、そのためにこの場にとどめようと、躍起になっていたのではないか? このために? マジかよ。
 頭の中には女の子の笑顔と、先ほどの恐ろしい単語集、テレビの特番で見た、さまざまな思惑の絡まる悪徳業者の実態が連なる。
 ──教えるわけにはいかない!
「ぁ、いやー、えっとですね。そのー………ですね……。なんと言うか……ぇー……」
 女の子の顔がさらに赤らみ、どこか必死さが漂っているような気がする。
「な、名乗るほどのものでもないんでっ!」
 俺はそう言ったきり勢いよくドアを開け、それが完全に開くのさえ待ちきれずに、肩をぶつけながらもその場から駆け去った。
 おぼつかない足での百メートル走。息が切れ始めた所で、近くのベンチにへたり込んだ。
「た、助かった……!」
 奇跡の生還だ……! とにかく助かってよかった。もう絶対、占いと、間違った好奇心と、本屋の待ち時間などに気を許したりするもんか!
 俺は自分の理性に誓いを立てつつ、呼吸を整えて改めて辺りを見回す。いつもと変わらない商店街。俺は今、戦から生き抜いて母国へ帰って来た戦士の気持ちを、猛烈に理解しているところだ。
 本屋付近へ目を細めるが、やはり可憐が待っている様子は無い。もう優の家に向かっているのだろう。……もう一回戦場行きだな。
 可憐の顔が、目に浮かぶ。
「ああ、ああ、何で、もう──!」
 どうしてこう、今日は物事が上手くいかないのだろう。
 
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