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なとりうむ
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造り花のワタシ

 移り変わる風景には何の変化も無い。芸の無い田んぼが永遠と続き、取り巻く農家が軒を連ねるだけの光景だ。
 窓越しの日差しもさることながら、一定感覚に起こる振動が既視感をかもし出す。
 無機質な鈍行列車室内は、がらんとしていて人影も少ない。平日列車を陣取った地元のおばさんたちが、他愛も無い雑談話を興じる。
 平凡な、何の変化も無い世界の一角だった。
 不意にそのおばさんたちの声が潜んだ。視線を感じ、紗枝(さえ)は眉をひそめる。自分のことを何か言っているのか。
 一瞬ムッとしたが、すぐ自分の身なりを見直してふっと息を漏らした。そうか、仕方ない事だな。
 骨格は掌に収まるほど小さく、目鼻立ちもくっきりとして美しい。瞳は大きいながらも鋭い何かを含み、だが肩に触れる髪は酷くパサついている。化粧も濃く、確かに田舎の鈍行列車には浮いていた。だがもっともの原因は、そこではない。
 彼女が身にまとっているものは、真紅のワンピースだった。しなやかとも萎びれとも取れる肢体を包み、どこか淫靡な雰囲気をかもし出している。
 また隣の座席や足元には多数のリュックやトランクがあり、それもまたどこかずれた印象を与えていた。
 明らかに異質の、近寄りがたい雰囲気が紗枝から漂っている。……はず、だったのだが。
「あの……すいません」
 不意に声をかけられ、紗枝は変わらない風景から視線を外した。
「ちょっと、よろしいでしょうか?」
 狭い通路に佇むのは、列車の揺れさえ転倒の原因となりそうな、老婆だった。やや屈み気味で、やさしい顔を紗枝に向けている。
「……なんでしょうか」
 紗枝は無骨に返す。空席ならたくさんあるだろうに。雑談に華を咲かせていたおばさんたちの声が、一段と低くなった。紗枝に話をかけてしまった老婆に憐憫の情をやっているのだろう。
「実は、電話を貸してもらえれば、と思いまして」
「電話って……携帯?」
「あ、はい、そうですそうです。どうしても今、目的地の息子に連絡を取りたいもので……。よろしいでしょうか?」
 紗枝は老婆をまじまじと見詰め、やがて視線を外した。窓辺に頬杖をつき、風景に嘆息する。
 たむろするおばさんたちから「やっぱり」的な声が聞こえ、目の前の老婆も肩を落とす。やがて去ろうとした老婆の眼前に、紗枝は腕を突き出した。正確には、手に持っている黒い携帯電話を、だ。
「どうぞ。私はメールとか使わないんで、ゆっくり話して良いですから」
「……あ、ありがとうございます」
 しばらく紗枝を見つめていた老婆は、やがて折れた腰をさらに折って、恭しく携帯電話を借り受けた。使い方は知っているらしく、たどたどしい動作で番号を入力していく。
 紗枝は瞳だけを動かして老婆を見た。息子の所………か。大きな荷物を持っていることから、けっこう遠くから来たのだろう。
 紗枝は、視線を窓の外に戻した。
 彼女は広いところを捜していた。人気が少なく、静かで、空が良く見えるところを。だからこれといった目的地を決めていない。
 約束を果たすために。隆光と、また自分のためにも。
「……いけないな」
 自分でも認識できないほど小さな声音で、紗枝は呟いた。
 どんなことを考えても、結果的に思い浮かぶのは、いつもあの事。ほんの一ヶ月前の果てしなく遠く、心に刻まれ永劫消えることの無い過去の記憶。
 隆光との、出会い。
 決して忘れてはいけない事なのに、辛い事だと忘れようとする自分は、果たしてどうなのだろうか──。

          ◆

 一ヶ月ほど前。肌寒い寒気がしつこく停滞し、桜の蕾が今か今かと時を望む、そんなある日。
 指先の感覚をなくした紗枝が、かじかむ指でいそいそと玄関の鍵を開けた。
「ただいま」
「んぁ……朝帰りお疲れぇ〜」
 ドアを開けて紗枝が言うと、室内からやる気の纏わない声が聞こえてきた。部屋に入ると、コタツに丸まりテレビを見ながらケラケラ笑う女が目に入る。
「恭子、お前仕事は?」
「終わった。あのオトコすぐ帰るから」
「あっそ」
 生返事もそこそこに、紗枝は部屋を見渡す。
 畳式のワンルームは、散らかったゴミで乱雑としていた。チカチカ光るテレビはゴミの山に設置され、片付けられる事の無い布団の上には衣服が散らかる。コタツに佇む恭子も、そのゴミたちの一部になろうとしていた。異臭が、漂う。
「じゃあお前、掃除くらいしとけってば。またゴミ増やしてんじゃねーよ!」
「あははー、ごめんごめん。ついさー」
 まるで謝ってない恭子にバッグを投げつけ、紗枝は冷蔵庫から缶ビールを取り出す。一気に飲み干し、迷わず二本目に手をつけた。
 とても、むしゃくしゃしていた。
「おっ、荒れてるねー。どうした? 商売相手(オトコ)にでも逃げられたか?」
 ムッと眉間にしわを寄せ、紗枝はそっぽ向く。
「……値切られたんだよ、糞野郎に」
「はは、そんな男気の強い口調じゃあ、仕方ないっしょー」
 何がおかしいのか、再び恭子が笑い出す。
「チッ」
 舌打ちし、紗枝は酔えない二本目のビールも一気に飲み干した。自分だって、好きでこの口調になったわけじゃない。
 一緒に住む恭子は、紗枝にとって兄弟でもなければ親類関係でもない。大学中退前に知り合った、同じ仲間だ。同じ考えの下、同じ結果にたどり着こうとする──腐った同類。
 紗枝と恭子は二人で一つの部屋を借り、生活していた。
「今度その糞野郎に、お前を紹介してやるからな、恭子」
「あはは、勘弁勘弁」
 恭子は振り返らず、ひらひらと手を振って申し出を看破した。紗枝は彼女に視線をやる。
 まるで身だしなみを気にしない服装に、ぼさぼさの長髪が印象的だ。
 紗枝は恭子の事を嫌いではない。しかし、好きでもなかった。平たく言えば、さほど意識をやらずにすむ相手なのだ。
「それにさぁ」
 テレビの音量を下げつつ恭子が振り返る。口調に含まれる何かを気取り、紗枝は傾けていた缶を止めた。
「どうせ片付けたって、一緒でしょ?」
 開口一番の恭子の言葉で、紗枝は悟る。これは文字通りの意味ではなく、確かめ……二人の目的を諭す、恭子の言葉だった。
 続く恭子の言葉が、紗枝の考えを肯定に導く。
「いくら外見を綺麗にしたって、中身が綺麗になるわけじゃない。見るやつがいるわけでもない。……約束したよね? とことん穢れて、この世界を恨もうって。穢くなれば、その事すら忘れる事が出来るって」
 恭子の言葉には、胸を刺す何かがあった。
「だからあたしたちは一緒にいて、好きでもないオトコの相手なんかもしてる。あたしは正しいと思ってる。紗枝もそう言った。だから……間違いないよね、そうだよね、紗枝」
 何の前触れも無く懇願するように言う恭子に、対応しかねて思わずさえは言葉に詰まる。
 恭子の顔は、それこそ見ていられないほど悲しい表情だった。その表情を、恭子自身気づいているのかいないのか。
 紗枝は恭子を安心させるべく、すぐさまヒュッと息を吸い、……だが、言葉が出る事は無かった。肺に空気を入れたまま、紗枝自身驚いたようにゆるゆると息を吐く。
 恭子の顔がさらに悲壮に、しかし予想していた最悪の答えを見つけたときのような、諦念にも似た表情に歪む。
「約束、したよね。本当、だよね」
 紗枝は思わず、生唾を飲み込んだ。彼女も驚いていた。答えられなかった、自分に対し。
「紗枝……やっぱり、この頃変だよ。おかしいよ。……どうしたのさ、一体?」
 この頃変……それを確かめるために、恭子は改めて今、質問をぶつけたのだ。紗枝は、今更になって恭子の真意を悟る。
 紗枝は恭子の過去に何があったのかを知らない。大学で知り合ったとき、自分の考えに共感してくれた。ただ、それだけの関係だ。
 紗枝は恭子の事を何も知らないし、知ろうと思わない。自分の事も知られたくないから。恭子も同じで、その事は暗黙のルールとなっていた。
 だからこそ、唯一のつながりを揺るがしたときの衝撃は、あまりにも大きかった。
 紗枝は答えず、瞳が不自然に泳ぐ。脱ぎ捨てたジャケットを拾うことすらせず、バッグの中から財布を引っ張り出した。
「……朝飯、買ってくる」
「紗枝」
 財布を掴むが早いか、手首をつかまれ紗枝の心臓が跳ねる。紗枝は十分に時間をとって手を掴み返し、
「大丈夫、だよ」
 自分でも白々しいほどの言葉を吐いた。テレビの電子音が、むなしく室内に響く。
 玄関にとって返す間、恭子はもう止めはしなかった。外に出ると、寒くて日差しの強い空が広がる。
 腹は、減っていなかった。

 紗枝は、この世界が大嫌いだった。
 自分の住んでいるところから、知らない土地までの地球全体、限りない森羅万象にまで嫌気が差していた。殺気すら孕んでいた。
 存在そのものが腹立たしく、全てが癇に障る。体が痙攣するほどの、爆発する想い。
 裏切り、妬み、欲望、野心、偽善、心──。本質から美しいものなど金輪際無く、全ては騙し続けるための虚像。
 当然、そんな世界にはびこる生物もまた同じだ。どだい、その生物が現在の世界を創り上げたのだから。近づくだけで嫌悪感が湧き、思わず自らの指を噛み千切りそうになる。気づかないうちに唇を噛みきったことも、少なくなかった。
 特に紗枝は、人間が嫌いだった。理性という名の、あらゆる欲を取り込んだ醜い自我。わずかな幸せを望むために、この吐き気のする醜い世界で懸命に生きる愚かな生物。
 穢い世界に増殖し、はびこるあざとい生物の、何が良いのか。何が叡智か。
 こんな生き物、さっさと滅びてしまえばいいのに。
 もちろんその思想は紗枝自身にも当てはまり、同時に彼女は否定しない。故に紗枝は呪う。この世界に自分を生み出した、肉親を。人類を。世界を。彼女自らを。
 ──何故?
 そんな質問を、紗枝は聞き飽きた。
 決定的な理由があるわけではない。今まで見てきた世界の汚い部分が蓄積され、爆発しただけ。
 それに理由などそこらじゅうに転がっている。人の込み合う駅構内にいるだけで、世界そのものの存在に矛盾を感じる。蒼天を衝く無数のビル群を仰ぐたび、人類の傲慢さに目眩がする。世界の在り方そのものを考えるたび、吐瀉物が喉に込み上げる。
 世界は、命は、自分は、ヨゴレテイル。
 世界全域に絶望する紗枝が、世界から足を踏み外したのは、もはや必然だった。そして変わることなく世界を呪い続ける……はず、だったのだが……。
「あぁ、クソ!」
 空き缶が落ちていれば蹴っ飛ばすほどの勢いで、紗枝が毒づいた。その原因は、今行こうとしていたコンビニの前に、ヤンキー風情の連中がたむろしていることに対してではない。もちろんそれもあるが、今考えていたこと対して、である。
 紗枝は少し遠いコンビニに目的地を変えながら、唇をきつく噛み締める。
 この存在意義の無い無価値な世界。必要性も、意味も無く生にこびりつくヒト。
 そんなくだらない所に居座る自分は、ならば穢れればいい。どす黒く染め上げられ、芯から腐ってしまえばいい。
 そうしてしまえば自分は何も感じる事が無くなるし、ほかに良い手段があるとも思えない。悲観することはない。希望を持つ事も無い。
 自分が、この世界と同じように腐ってしまえば──。
 しかし……ならばなぜ、今さっき自分は恭子の質問に答えられなかったのか。紗枝は考えて、答えは出なかった。解れば苦労はしない。
 恭子の言うように、近頃、自分はおかしいと紗枝は感じていた。自分自身にも解らない感覚が、胸のうちで脈動している。こんなに世界を憎んでいるのに。自分を恨んでいるのに。何かが引っかかる。
 以前は違った。紗枝は自分をもっと腐敗させようと、この世界にふさわしい穢れた存在になろうと、迷いは無かった。その為には何も厭わないし、何でも捨てられた。なのに……
 紗枝は堪らなく嫌だった。胸に蟠る想いも、そうやって悩む自分も。
 強い自己嫌悪に陥りながら、紗枝は冷気と排気ガスの渦巻く歩道に歩を刻む。
 上着を忘れた事を後悔し始めたあたりで、ふと、目端をかすめる何かに気をとられた。
 落ち着きの無い車道の向かい側に佇むのは、一軒の花屋だった。何かのみ間違いかと視野を広げるが、他に目につくものは無い。
 外装に飾り気は無く素っ気ない感じだが、室内に窺える幾千の花は壮観だった。
 何でまた花屋なんかに? そんなこと解らない。ただ──目端をかすめたとき、ふと気になる何かを感じ取ったのは確かだった。
 だから紗枝の足は、不思議とその花屋へと向いていた。取り付かれたように、ゆっくり、確実に──。
 一戸建ての花や店内は、誰もいなかった。客を始め、店員も。だが花屋は世界に確実に存在し、とても変な感じだった。ドアをくぐった先が異世界だった、などというありきたりなSFモノのような感じである。
 その感覚が心地よく、紗枝は花を見渡した。
 適度な湿気を帯びたつつじの花、どこか淫靡な雰囲気をかもし出すゆりの花、蕾のまま刈られた桜の梢──。
 とても美麗で、思わず紗枝は見惚れてしまった。しかしふと、同時にわき上がる感情に紗枝は戸惑う。胸が苦しい。
 この感覚は……嫉妬、だろうか……?
 その時不意に、ある一つの花に目を奪われた。部屋の隅にちょこんと活けられている、真紅の花だ。今までの花とは違う不思議な感じを受け、紗枝は近づく。手にとるとそれは、
「……造花……?」
 布で造り上げられた、造花だった。そして紗枝は気づく。
 造花をまとう不可視のオーラが、自分をこの花屋にひきつけた何かに酷似している事を。
「……なんだ?」
「んぉあ? ぁ、いけね。いらっしゃいませ」
 突如背中に声をかけられ、紗枝は飛び跳ねた。レジの下から顔を出した店員が、どこか抜けた笑みを紗枝に投げかけていた。
「何かお探し物ですか?」
「え? あぁ、いや、その……」
 なんとなく来ました、とも言えず、紗枝はしどろもどろになる。先に言葉を発したのは、予想外にも店員の方だった。
「あ。その花」
「え? あ、あぁこれ?」
 紗枝は手に持っていた造花を掲げる。
「あーっと……じゃあ、これでいいや」
 勢いだった。買おうとも思わず、ただ手に持っただけだったの、だが。
「え。マジで? そ、それ買ってくれるの?」
 途端、顔の筋肉を完全に解き放った店員が、頓狂声を上げていた。意味の解らない反応に、紗枝は反射的に眉を寄せ、
「……いや、じゃあ買わない」
 何とも無しにそう言った。今度は店員の顔が、末期癌告知を受けたときの患者のような顔にひしゃげる。忙しい店員である。
「冗談だよ。はい」
「やった! ありがとう! ──そうだ、僕は隆光! 君は?」
「……は?」
 子供さながらのはしゃぎっぷりに、意味を図りかねた紗枝が聞き返す。
「名前だよ、なまえ」
 紗枝は反感を通り越し、現日本の接客業務状況にさえ危惧感を覚えた。何故今日会ったばかりの、ましてや店員と客の間柄で、名前の交換をしなければならないのか。
「お願い、お願いっ! この造花を買ってくれた人の名前、聞くって決めてたんだ!」
 意味が分からない。合掌して懇願する店員に、紗枝はムッとしてそっぽを向く。
「……紗枝」
 そしてポツリと、呟くように名乗りを上げた。自分でも解らない何かが、紗枝にそう言わせていた。
「へー! 良い名前だねぇ。実はさ、この造花、僕が造ったんだ! 綺麗でしょ?」
 だからそんなに喜んでたのか、と紗枝は納得する。改めて造花を見直すと、確かに本物の花に見劣りしないほど良く出来たものだった。深みのある紅色に、雌蕊などを模したビーズが光り輝く。太陽にさらせば、騙された蜂が羽を休めに来ても不思議ではない。
「その造花、外から見やすい出窓の所においてたんだけど、誰も見てくれなくてさ。僕ちょっと落ち込んでたわけなの。店長にもスペースがもったいないって言われて、もう下げようと思ってたんだけど……その矢先、君が買ってくれたんだ!」
「……ふーん」
「でさ! この造花、とってもいい布使ってるんだ! なんたって、あの兎参句斎(うさんく さい)先生が監督した布なんだよ? しかも──」
 なんだ、この店員は。紗枝は混乱に焦燥を加えた感情に、眉根を寄せた。客の前で一喜一憂するし、なんだか抜けてるし、そのワリにはちょっとカッコイイし……。
 しかもこの男を前にすると、落ち着かない自分に紗枝は気づく。なんだかこそばゆく、視線が泳ぐ。──落ち着かない?
 紗枝は衝撃をつけて立ち尽くした。
 落ち着かない。自分はこの男の動向を気にし、そわそわしている。話を聞き、名前を答えている。面と面で向き合っている。
 自分は、この男に嫌悪感を抱いていない。
 紗枝の心に引っかかっていた何かが、すっと抜け落ちていく。そうだ。さっきから自分が感じていた、新鮮な感覚。それは大学を中退して以来初めて、何の裏表も無く人と反駁した事によるものだったのだ。
 人間と触れ合うときの嫌悪はなく、恭子のように──いや、それ以上の自然体で接する事が出来る。
 その原因は何? 紗枝は自分の心を探るが、答えは出なかった。何故こうも、答えが出ない。しかし……
 今感じているこの感覚は、以前から感じていた自分の考えを揺るがす何かに、つながりがあるような気が、紗枝は、した。
「……ねぇ、聞いてる? 紗枝ちゃん」
「ぁあ、いや……って、紗枝ちゃんっ?」
 考えから覚めるや否や、聞きなれぬ接尾語に紗枝は顔を紅く上気させる。
「うん、紗枝ちゃん」
「な、何で私がお前なんかにちゃん付けで、」
 驚いた表情の店員──隆光の顔が目に入り、思わず紗枝は言葉を呑んだ。言葉が継げない。
 紗枝は代わりに視線を外すと、ややあって隆光が身を乗り出し、聞いた。
「紗枝ちゃんってさ、なんか……造花、みたいだよね?」
 紗枝は視線を外したまま、目を見開いた。先ほどとは比べ物にならないほどの衝撃が、体中に迸る。
「いや、外見が、じゃなくて。なんだか……自分を隠しているみたい、っていうかさ」
「なんで………」
「なんで、って、うーん……」
 何故、この店員は──
「なんで、お前にそんなこと言われなくちゃならないんだよっ!」
 自分よりも、自分の事を知った風な言葉を吐くのだろうか。
 紗枝は叫び、脱兎のごとく店から飛び出した。背後から隆光の声が追いかけるが、かまわない。クラクションの嵐を受けつつ反対側の歩道に駆け寄る。そのまま花屋の見えなくなるところまで走り、紗枝は膝を折って激しく息をついた。
 脳が回る。視界が揺らぐ。息が整っても、胸の高鳴りが収まらない。
 なんだ、なんだなんだなんだ──
「ふぅ、う……っ」
 紗枝は呻き、強く拳を握り締めた。

 この失礼極まりない出会いは、偶然か。自分の考えに紗枝が疑念を抱き始めていたこの時期に出会ったのならば、それとも必然か。
 どちらにしろ、紗枝は隆光に、特別な何かを得ていたことに間違いはない。
 造花のようだ──そう言われたとき、紗枝は驚いて、そして怖かった。どんなに考えても解らなかった答えを、たった一つの言葉で串刺しにされたような感じ。その原因は、……よく、解らない。
 造花といわれて慄きさえした紗枝だが、その原因がわからないとは何事だろう。……おそらく、自分でも解らない何かを『造花』の一言が刺激したのだ。何故、どうして、でも、あぁ、だけど──当たってると、思った。
 その理由も解らない。解らない事だらけで、頭がおかしくなる。自分の無知を、初めて屈辱に感じた。頭の回らない自分を、初めて歯がゆく感じた。
 原因を知りたいという好奇心を、……初めて、抱いた。
 紗枝は帰宅すると、すぐ毛布に包まった。体中が振るえ、鳥肌が浮き立つ。決して、寒さのせいではなかった。
 やがて、勢いで持ってきてしまった造花を眺める。吸い込まれるような真紅に花開く造花は、どんな花よりも綺麗に見えた。それでいて、どこか──親近感が湧く。
 理性はやめろ、と言う。捨てろ、と言う。好奇心は、どうする、と聞いてくる。
 紗枝は強く造花を握り締める。
 私は、私は──
 その夜、紗枝が寝付くことは無かった。突然の事態で、困惑する脳に苛まれつつ。

「……ぁ……」
 思い出したような声を上げて、紗枝は刻んでいた歩をはたと止めた。
 真横を横切る車類が、排気ガスを撒き散らしつつ紗枝の言葉を掻き消す。お昼時のためか、歩道を歩く人の多さが目につく。自転車に二人乗りするカップルが鼻先をかすめ、紗枝のまつ毛を揺らした。
 彼女はうつむいていた顔を上げ、思わず目を細める。人目にもつきにくい陳腐な建物は、しかし紗枝にとって近寄りがたい荘厳な建物と化していた。店は、花屋であった。
 翌日、夜の仕事をすっぽかしつつ一睡もしていない紗枝は、散歩に出ていた。ずっと家にいると、混濁する頭がおかしくなりそうだったから。見送る恭子も、今日は何も言わなかった。
 そして、たどり着いた先が花屋だった。意識したわけでもないのに行き着き、思わず紗枝は鼻白む。
 思わず視線が泳ぎ、あたふたと体を回れ右させる。しかしふいに目端を掠めた花屋は、
「……、……休み、か…………」
 ショーウィンドー越しにシャッターが閉まり、閉店の様子を呈していた。
 紗枝は肩の力を抜いて安心し──だが、残念がる何かを身の内に感じていた。紗枝はその感覚にも、ここに来てしまった自分にも、強い自己嫌悪を抱く。
 店が閉まっていることに気を緩めてしまったためか、紗枝は店内を覗いてみたくなった。ほんの少し逡巡し、近寄る。
 シャッターの隙間から光は漏れておらず、人の気配も無い。観音開きのドアも鍵が閉まり、建物の側面にある窓も当然のごとく鍵が閉まっていた。
「……はっ、イカンイカン」
 紗枝は自分を叱咤し、慌てて建物から離れた。革ジャンを来た女が、裏口のドアの隙間から内部を盗み見るなど、変質者以外の何者でもないではないか。
「クソ、私は馬鹿か……あぁ、もう!」
 まるで自分らしくない自分に紗枝は叫び、敷き詰められている砂利を蹴飛ばした。
 変な気分だった。何故だかとても虚しいような、理不尽な感情。意味が分からない。自分は、一体何を──
「痛ってっ」
 紗枝のすぐ手前から、声がした。男が自転車を抱え、うずくまっている。紗枝が蹴飛ばした小石に直撃してしまったらしい。
 まずいな、と思ったと同時、どうやって逃げようかと紗枝は考えた瞬間、
「「あ」」
 自分でも間抜けと思えるほどの声を上げていた。そしてその声は、石を頭にぶつけた男とかぶる。
「お、お前……」
「あ、君は」
 紗枝の心臓が、大きく脈打つ。
「紗枝ちゃん?」
 半ばなみだ目の男は、隆光だった。

「どうしたの、座れば?」
「…………」
 気さくな隆光の申し出に、紗枝は強く眉根を寄せた。
 暖房の聞いた室内。上限人数の七割をしめる人々。唾液の分泌を促進する刺激的な匂い──。紛れも無い、ファミリーレストランである。込み合う人間が紗枝の神経を逆撫でる。
 紗枝はあれから隆光に昼食を誘われた。紗枝は驚きつつも無視する事で断りを表明し──だが彼はまるで話を聞かなかった。それはもう、聴覚が欠落したと言わんばかりの独断専行ぶりで、だ。
 どうしても断れという理性の絶叫に対し、やはり例によって行ってみてもいいという感覚も押し寄せ──。
 かくして紗枝は、またしてもよく解らない感覚に自分を動かしてしまうのだった。
「どうしたの?」
 隆光の言葉に、遅まきながら紗枝は憮然と腰を下ろす。
「言われるまで待つなんて、真面目だねぇ」
「ま、じめなんかじゃねえッ!」
 ここ数年言われた事の無いことばに、口調が荒ぐ。動揺──したわけでは、ない。ウエイトレスの痛い視線に、ぷいと顔をそむける。
「素直じゃないんだね。ま、今回は僕のおごりだから気負わなくていいって」
 気負ってなどいない、との叫びを、寸前で紗枝は飲み込む。いけない、相手のペースになってる。紗枝は、妙な対抗意識を胸に宿していた。
 隆光が不器用に注文を始める。
「えーっと……あ、これおいしそうだね。海……老い……うな…………うみお……?」
 いい加減、この男は本気なのか冗談なのか。
「えび、だ!」
「へー、おぉ、紗枝ちゃん頭いいね。えぇと、じゃあそのパスタお願いします。……あ、二つね」
 変な客を持ったウエイトレスは注文を復唱し、キッチンの方へ消えていく。紗枝は先が思いやられ、内心嘆息する。
 沈黙が落ちる。やがて隆光が、
「いや、急にご飯誘ってごめんね、なんだか昨日、気に障ること言っちゃったみたいだしさ。謝らなきゃ、と思って」
「……別に、怒ってない」
「そう? なら、いいけど。……まあそれとは別にも、懸案の事項はあるんだけどね」
 意味ありげな声音に紗枝は視線だけを動かし、無垢な笑みを浮かべる男を見る。本当に人畜無害そうで、何故この男のことが引っかかるのか、改めて疑問に感じる。
「なんだよ、別の懸案事項って」
 あくまでつんと張った声で紗枝が質す。隆光は紗枝のポケットを指差し、「それ」と何気ない口調で言った。目を落とす。
「あ」
 革ジャンのポケットに無造作に詰め込まれていたのは、真紅の造花だった。隆光の──花屋から代金を支払わず、持ってきてしまった品物。
「こ、これは、だな……! その、えぇと」
 紗枝はまずいと思い、言葉を詰まらせた。自分としては奪ったつもりは無いが、店側としては無断で持ち去られた盗品に他ならない。慌てふためく彼女は、しかしクスクスと小さく笑う声ではっと我に返った。
 隆光が吹き出すのを必死にこらえて腹を抱え、ついには爆発した。途端に、今の自分の狼狽ぶりに耳の先まで熱が迸る。
「な、何笑ってんだよっ! おかしいか! そんなに私がおかしいか!」
「い、いや、ごめん、あはは、そんなんじゃないんだけど、はは、だって、君……!」
 謝りつつも隆光の笑いは止まらない。
 紗枝は喉元に込み上げてくる憤懣をどうにかこらえ、お冷を鷲づかみにして一気に飲み干した。……駄目だ、完全にこいつのペースだ。

「ごめんなさい」
 隆光がテーブルに額を擦り付け、平身低頭謝った。紗枝はそれを冷たい視線で一瞥し、フンと鼻息荒く窓に視線を戻す。外は雨雲が広がり、とても寒そうだった。
「いや、どうしても紗枝ちゃんの外見と慌てぶりが一致しなくて、可笑しくなってね。紗枝ちゃんは、やっぱり実は真面目なんだね」
「ッ……、謝ってんなら、その紗枝ちゃん、ってのやめろ」
「え? いいけど……じゃあなんて呼べばいいの? 紗枝っち? 紗枝ぽん?」
 全く悪びれの無い隆光に紗枝は固く目を閉じ、「普通に呼べ」と切り口上に言った。紗枝ぽんなど、呼ばれた瞬間鉄拳の勢いである。
 約十秒呻いた挙句隆光は、
「じゃあ、紗枝さん」
 本題に入るといった口調で言う。
「その造花は、君が持ってていいよ。僕もどうせ、お金をとるつもりは無かったんだ。気持ちだけでうれしい、ってやつだよ。そのほうが、その造花もうれしいだろうしね」
 造花に目を落とすと、真紅の花びらは光に反射するわけでもなく、輝いて見えた。
「……造花、好きなのか」
 何とも無しに、視線もあわせず紗枝は聞く。
「お、やっと質問してくれた」
 驚いて隆光を見ると、してやったりという風にニンマリ微笑む。紗枝は「フン」とお決まりの台詞を吐き、再び顔をそむけた。
「……あぁ、そうだね。大好きだよ。嫌いなわけが無い。綺麗で、あでやかで、美麗で──それでいて、どこか妖艶で。紗枝さんもわかるでしょ? その花の美しさが。……創った本人が言うのも何なんだけどね」
 今までと違う湿った口調で言う隆光に、紗枝は小さく眉根を寄せた。何か……こいつは何かを……? 紗枝は思い、
「お前……お前は、何故私を誘った?」
 核心を突くような口調で言った。隆光は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。
「何故って……そりゃ、謝りたかったし、その花も……」
「本当のことを言え」
 心の通った強い口調で紗枝は言った。隆光は空気を読んだのか真顔になり、紗枝はそんな彼を睨みすえる。
「……。……僕は君の事を、造花のようだ、といったね。造花は……僕にとってかけがえの無いものなんだ。それは簡単に作れるし、本物の花には引けを取るかもしれないけど……。でも僕の大切なものに変わりは無い。そしてそれらの造花と変わらない雰囲気をまとう君は、夜も眠れないほど興味の湧く存在だったんだ。君が、君だからこそ。親近感……といったほうが、早いかもしれないかな」
 何でだろうな、と苦笑する隆光の言葉に含まれるのは、自分のことを自分で解れないというもどかしさから来る闇、か。
「実際僕は、君から造花のような雰囲気を感じ取れる理由が分からない。曖昧な──それこそ『感』のような、どうしようもなくいい加減な感覚なんだ。だから僕の勘違いかもしれないし、元来、僕が感じている感覚が別のもので、それを僕が勘違いしているだけかもしれない。でも僕は気になって……だから、君にもう一度会いたいな、って思ったんだ。例えそれが、意味の成さないことでも」
 饒舌に語る隆光は違和感があり──それでいてしっくりきた。『海老』という漢字が読めなかった、いや読まなかったのは、おそらく自分に探りを入れるため──紗枝にはそう、思えた。
「本当は、そんなつまらない事に君を誘ったって思われたくなくて、ごまかそうとしてたんだけどね。どうやら君は、真面目な上に──するどいらしい」
「…………」
「ハハ、ごめんね? 変につき合わせちゃって。ご飯食べたら、もう──」
「私は」
 声が、出ていた。意識とは別に。それでいて確実に。ゆっくりと。隆光を仰いで──
「くだらない……くだらない、この世界も、人間も、大嫌いだ。自分の存在も嫌いだし、感情や思いを考えたり、悩んだりする自分はもっと嫌いだ。でも──確かに。私は確かに、この造花を綺麗だと思った」
 そうだ……自分も、そうだったんだ。おそらく。いや。確実に──自分は、隆光と同じ感情を抱いていたのだ。相手が気になる何か。
 親近感。それは、何の隔たりも無く。憎むべき人間の中でも、例外に位置する存在。
 造花にはともかく、何故隆光に? 作り手の隆光に、近い何かを得るものはあるのか? いや、そんな事はどうでもいい。どうでもいいほどに、わき上がる感情。高揚する、これは──うれ、しさ?
 昨日会ったばかりの。ただの他人なのに。何故自分は。あぁ。でも。こんなにも──
 紗枝は渇望していた何かを見るような目で、柔らかく微笑する隆光の瞳をのぞく。
 ──恨んでしまうほど理不尽に、冒されると決めた自分の心を、問答無用にぶち破って、とめどなく罪悪感を溢れさせ──
「素直に、思えた。だから私は……お前の言う事は、なんとなくわかる」
 こんなにも、安らかな気持ちを与えてくるのだろうか……?
 気恥ずかしそうに言って頬をほのかに上気させる紗枝に、ぽかんとしていた隆光が強く微笑んだ。
 紗枝も上目使いでそれを認め、心が刻まれるほどの罪悪感と共に封印したはずの感情が溢れ出す。とても久しぶりの感覚だった。新鮮で、いつまでもこうしていたいという感情を。痛いほど、感じていた。心の、底から。
 次の、瞬間までは。
「本当? ありがとう──。あ、そうだ! それじゃあ、家に来る? 君が持ってる造花のほかにも、もっと綺麗なものが──」
 バシャリ、と。隆光の二の句を、意図した何かが半ばで断ち切った。
「え……?」
 胸元をびしょぬれにした隆光が、呆然と呟く。瞳は一点に固定され──その視線の先には、同じく唖然とする紗枝の姿があった。
 コップの中身を隆光にぶちまけたまま、呆然と固まっていた。
 隆光はおそらく解っていない。何故紗枝が、途端にコップ中身をぶちまけたのか。紗枝も同じく解っていない。何故隆光が、「家に来る」という単語を吐いたのか──。
 否、解っている。解っている、そんなこと。隆光は好意で、紗枝の事を思ってやったのだ。喜んでもらえると、善良な心で。
 でも、その言葉は紗枝にとって──今までの自分、いや、今の自分を思い出させる特効薬に他ならなかった。
 家に来る。つまり、夜通しで行為をし、穢れろ。穢れつくして、腐ってしまえ。そしてこの世と同化し、全てを忘れてしまえ。人道を滅却し──沼となれ、泥となれ。
 その考えを肯定するほか、隆光の口にした言葉は意味を持たなかったのだ。紗枝にとって。今まで全てを、意図的に混沌に投げ出してきた少女にとって。
 体の芯から震えて痙攣へとつながり、ありえないほどに肌が粟立つ。
 だから紗枝は水をひっくり返した。意図せずに。反射的に。脳髄の奥、隅々にまで冒された深い闇が起爆剤となって。
 憤怒を、呼び起こしていた。
「わたしは……もう、かえる………ッ」
 やっとの事で声を絞り出し、紗枝はギクシャクと立ち上がった。他の客の視線が集まっているが、気にする余裕すらない。
「ぇ……あ、ちょ、ちょっと、紗枝ちゃん?」
 隆光の手がかかる前に、紗枝が悪鬼の形相で振り返る。刺し殺す眼光で彼をひるませた後、紗枝はすばやく店を後にした。
 店の外で立ち止まらず、早歩きで当ても無く歩を刻み続ける。幾度と無く転びそうになりながらも、目じりにわき上がる熱いものをこらえつつも、かみすぎて紫色になりつつある唇に気を払う事も無く──。
「ぅ、ううっ……ぁあ、ああぁぁ……!」
 何故だか、とても悲しかった。外はとても寒いのに。頬を流れる雫はやけどするほど熱く、脳みそは深い傷が走ったように熱かった。
 もし先ほど隆光に触れられていたら、彼を殴り飛ばしていたかもしれない。店内に居座っていたら、暴虐にわめき散らしていたかもしれない。我慢していたら──自分が、壊れていたかもしれない……。
 とても苦しくて、悲しくて、もう何がなんだかわからなくて──。隆光は悪くない。自分が、闇が、自分の心が。
「……そうか」
 そうだった。自分は、もはや普通の人間ではない。深海の暗闇よりも濃厚な闇が、自分には宿っているのだ。自分が望み、植え付け、育てた──醜いモノ。
「そうだな。馬鹿だった。……馬鹿だった」
 この世界は、すべてが醜いと解っていたはずだ。穢くて、吐き気がして、殲滅されればいいという。綺麗なものなど何も無く、全ては虚像。自分の気のせい。あるはずがない。
 希望を持ったものが馬鹿をみる。解っていたはずだ。解っていたつもりなのに、解ろうとしている、解っているはずなのに──
「なんで……なんで、なんでなんでなんで」
 こんなに、裏切られたような気持ちになるんだろう………?
「ぁあぁああああ! うぅあああ! あああああああッ!」
 紗枝は一人、むせび泣き続けた。それは子供のように周りをはばからず、純真な心で全てを洗い流すかのように──。

 この後紗枝は、決意すると共に理解した。
 世界の不条理さを、自分の醜さを。どうあがいても、もう後戻りできない所まで自分は来ているのだと。例え今まで自分が呪っていた世界が、人間が全てじゃなく──隆光のような奴がいたとしても。
 自分はもう相容れない存在なのだと。だから──穢れている奴は、汚らわしい道を歩まなければならない。変わらずとも、変えることなく。
 そして紗枝は決意する。それはとても脆く、煙のように不確かなものだけど。
 自分はもう、自分自身に希望を持たない。
 そう──今の紗枝には、決意するほかなかったのだ。世界ではない。穢いと思い込んでいた、思いたかった自分に紗枝は絶望した。
 だから、もういい。迷わなくていいんだ。自分は自分らしく、腐ってしまえばいいんだから──。
 紗枝は濡れた頬を拭い、腫れた目蓋に苦笑を浮かべた。そして足を踏み出す。はっきりと、迷うことなく。否、迷わないように。
 どこへ? 決まっている。
 そこはいつもの場所。光が届かなくて、陰湿で、埃っぽくて──汚らわしいみだらな雰囲気が染み出して止まない、
 自分をケガス場所。
 結局自分にはここしかない。どんなに疑念を抱いても、決定的に駄目だと思っても、結果は同じなのだ。
 気の早い夜は帳を下ろし、人影も無い。とても寒く、体が震える。紗枝は身を縮ませた。寒さのためか、それとも──。
 紗枝は歩を刻む。土埃を踏みしめ。ポケットの造花を握りつぶし。蟠るかび臭さに鼻を歪ませつつ。泥沼を這う毒蛇のように──。
「……何?」
 そして紗枝は目を見開いた。ようやく目的地が肉眼で見えるほど近づき、だが気になるものを見つけ、立ち止まった。
 この時間、店の前に客がいることは珍しくない。面識の無いものと近しい存在になるため、餌場にたかるハエのような下衆がいるのだ。そして──オトコはいた。
 見覚えのある客が。『恭子』と共に。
 恭子も紗枝と同じ仕事をしている。故に、彼女がここにいることに疑問は無い。しかし。
「……なんだ?」
 恭子とオトコは古ぼけたラブホテルには入らず、店の前で立ち話をしていたのだ。それも、かなり親密そうに。
 換気もままならない、密集した裏路地だからか、二人の声が反響して聞こえてきた。紗枝は思わず耳をすませる。
 ──ずいぶんと遅かったじゃん。
 ──あぁ……。ここに来るときは、いつも人目につかないよう、遠回りしてるんだ。
 ──そっ。で、持ってきたんでしょ、金? ちょっと見せて。確認よ、かくにん。
 ──……これだ。
 紗枝は強く眉根を寄せた。
 金? どういうことだ? シゴトならば、いつも終わった後にもらうのが普通だ。
 しかも恭子が貰った封筒は、かなり分厚い。オトコもいつに無くおどおどし、まるで落ち着きが無い。なんだか──おかしい。
 ──で、その子はいつここに来るんだ?
 ──さぁ。でも、最近あのコ、シゴトさぼってるみたいだし。一時ここには来ないかも。だから、あたしが家で言付けしとく。日にちは? いつがいいの?
 ──そ、そうか……。では、三日後の二十五時。場所は、ここのすぐ近くに空き家が一つあるだろう? その二階だ。
 ──オッケ。んじゃ、そういっとく。
 ──もちろんカメラや……、伴う仲間はたくさんいる。それでもいいんだよな?
 ──全然問題ないよ。ノープログレム。
 なんだ? どういうことだ? 紗枝は激しく動揺し、自問の嵐を振りかける。意味が分からない。これは普通のシゴトではない。
 何か──とても、ヤバイもの。だってあんな大金見たことないし、何より。
 あんな恭子の表情、見たことが無い。
 愉悦に満ち、世界の全てを憎む──昔の、自分のような顔。人間の顔ではない。
 恭子の見たことの無い表情に驚愕していた紗枝は、しかしそれが序章に過ぎなかった事をすぐに知る事となった。
 ──可哀相だけど。まぁ、仕方ない事だよね。最近のあのコをみてると、本当、嫌になるの。なんだか悩んだりして、それでいて苦しんで。人間臭いしぐさして、自分が何してるのか判ってないようで。だから、これはその罰。私との約束を忘れさせないように、目を覚ましてあげるの。だから、ね? やるときは、思いっきりやってあげて? それが、あのコのためなんだから。
 ──そうか……あ、そういえば、そのこの名前を聞いてなかったが。
 ──あぁ。
 恭子の口角が、愉しそうに歪んだ。

 紗枝。紗枝って、言うの。

 紗枝は瞳孔を開き、吸った空気を吐くことなく詰まらせた。壁に触れている手が震え、力を抜くと膝が砕けそうになる。恭子の言葉と吊り上った口が頭の中で螺旋を描き、収斂して彼女の頭を叩きのめす。
 何──な、んで………、……え………?
 頭の中は真っ白になり、理解する事など到底出来ない。
 視線の先でオトコが笑う。恭子が笑う。さも愉しげに、紗枝が見ていることも知らず。
「ぃ……や、……、あぁ、あぁああぁ……!」
 初めて、怖いと思った。
 どんな事も恐れない。どんな汚いことでもやる。どんな──裏切りをされても、心は揺らがない。
 願望だ。そんなの、自分がそうありたいと思って止まない願望だ。そうなれば、苦しむ事は無いから。だから自分はそう思い込み、逃げていただけなのだ。
 自分は今、恐怖を感じている。底知れぬ闇に、おののき震え上がっている。どうしようもない、どうする事も出来ない恐怖。
 何が汚れる事を望むか。何が穢くなれば全ては忘れられるか。
 自分は、ただの人間だ。怖いものは怖い、穢いものは嫌、裏切りで脆く傷つく……ただの人間だった。闇に落ちてもそれは変わらず、ただ自分が傷つかないと思い込んでいただけなのだ。
 何て馬鹿。何て苦しい。何て──助けてほしい、のだろうか。
 紗枝は自由を恐怖で束縛された体で、思わず後ずさる。触れているもの全てが恐怖に感じるこの時、後ずさる道を壁に阻まれ──
 カコン。
 滑稽な、音が鳴った。紗枝は驚愕し、足元を見る。放置された空き缶を踏みつけていた。
「──誰!」
 鋭い叫びが前方から聞こえたときには、紗枝は走り出していた。歯の隙間から染み出るうめき声に、処理機能を失った鼻水と唾液が飛び散る。それ以上に涙があふれ出、視界は酷く歪んでいた。
「うぅあぁ、ああぁぁああ! あぁぁあ!」
 何度も何度も転びそうになりながら、紗枝は走った。怖いものから逃げるために。本能の欲求に従って。
 やがて明かりが世界を支配し、人通りも多くなったところで──紗枝は力尽きたように、その場で膝を砕いた。行きかう人々は、紗枝にかまわず通り過ぎていく。とても、悲しかった。辛かった。誰でもいいから、優しく包み込んでほしかった。
 傲慢なのは解ってる。でも、それでも──
「紗枝ちゃん?」
 聞いたことのある声が、耳朶を叩いた。
 しゃくり上げ、呼吸すらままならない様子で紗枝は顔を上げる。歪みきり、視野は正確な情報を読み取らない。それでもすがるように目を凝らすと、見覚えのある顔が飛び込んできた。
 まだ見慣れても無いのに、わき上がる理不尽なまでの安堵感。それでいて、その心をくすぶる罪悪感。
 ──りゅう、こう……。

「どうしたの? 上がれば?」
「………………」
 どこか既視感のある言葉に、突っ立っていた紗枝は足を踏み出した。泣いたせいか頭がぼうっとして、そのためか靴下裏に感じる畳の感触が妙なリアル感に溢れていた。
 室内は整理整頓されているが、物が多いせいか狭い印象受ける。
 隆光が上着を脱ぎ、コタツの電源を入れるのを、紗枝はぼうっとしつつも警戒を怠らない瞳で眺める。その緊張感は皮肉にも、紗枝が自らを穢すことによって得た賜物だ。男の家に上がるときは、警戒を怠ってはならない。
「座ってていいよ。お茶、入れるからさ」
 言い置き、隆光は埋め込まれているキッチンでお茶の準備を始めた。ワンルームのため、一メートルほどしか移動していない。
 紗枝は言葉に甘えるつもりは無くも、部屋の隅に腰を下ろす。
 場所は花屋の向かい側にあるアパートの一室。それほど広くない、紗枝の住んでいるアパートと同じくらいの大きさだ。
 慣れた手つきでお茶を炒れる隆光の背中を、見るとも無しに見つめる。
 自分は何故ここにいるのだろう。考えて、紗枝は遅い理解をする。あぁ、そうだ。隆光に誘われて、彼の家に招かれたのだ。
 全く──。
 なんて、馬鹿な話だろうか。自分で構築した世界が予期しない方向に転がり、裏切られ、恐怖を感じて逃げ惑い。挙句、見知っている相手に手を引かれ、のこのことついて行くなど……。
 笑い話にもなりはしない。拒否感はありつつも……傍に誰かがいる喜びを感じている、自分なんか。
 紗枝は悄然としたしぐさで、遠くない室内の一角を見やる。右手に広がる壁全体に、大量の造花が張り付いていた。
 原色を初めとする様々な色の花に、葉や茎を模した緑が鮮やかに調和する。数え切れないほどの造花は密集して花広げ、あまりの多さに、壁に取り付けられないそれらが床に溢れかえっていた。蕭然とした明かりにも関わらず、部屋が目に痛いほど輝いている。
「すごいでしょ、この造花?」
 湯飲みと湯気の立つ急須を小さなコタツに置いた隆光が、さぞ自慢げに言う。
「…………」
「全部僕が造ったんだ。ぱっと見ると簡単そうだけど、けっこう地味な作業で大変なんだよ? 花弁の生地も二度と同じ色は使えないから、お金も馬鹿にならないんだよね。売ったりもしないから、お金にもならないし」
 急須を揺すっていた手を止め、湯飲みにお茶を注ぐ。「飲む?」と湯気の立つ湯飲みを掲げた隆光に、
「……怒って、ないのか」
 小さく紗枝が聞いた。隆光が間の抜けた顔をする。怒って──そう、紗枝は彼に、ひどいことをした。下心の無い好意を寄せてきてくれた彼に、理由も述べず怒りを叩きつけてしまった。それも、一方的に、だ。
「そりゃ、怒ってるよ。あの服お気に入りだったし、人前で恥ずかしかったし。クリーニング代として、慰謝料貰いたいくらいだよ?」
 飄飄とした言葉に、紗枝はどきりとして顔を伏せた。当然だ。怒らないわけが無い。だが……隆光がそんなこと言うはずない、と思う自分が、紗枝の中にはいた。そんな証拠も、付き合いも無いのに。
「え……あ、う、うそだって! 本気にしないでよ」
「え……」
 顔をしかめさせた紗枝を見るや否や、心外だという風に隆光があたふたと手を振った。
「もう、紗枝ちゃ……さんは、冗談が通じないなー。僕、そんな薄情な人間に見える?」
「……見える」
「え! うわ、ひどいな。紗枝さんって、意外に毒舌。──怒ってたら、家になんか連れてきてないよ。あれは、僕にも何か非があったんだし。だから紗枝さんも怒ったんでしょ? 僕も反省しなきゃいけない……それにむしろ、僕は君に感謝してるんだよ」
 聞きとめ、紗枝は首を傾いだ。感謝される事など、一つもないように思える。
 隆光は紗枝に近いコタツの墨に湯飲みを置き、自分の湯飲みにもお茶を入れ始めた。
「僕にはね、夢があるんだ。聞いたら、多分笑っちゃうと思うけどね。ハハ、自分でも可笑しいとは思ってるんだ。でも、僕はやる。やらなくちゃいけないんだ。……絶対に」
 楽しげに話す彼の言葉には、しかしどんな事があろうと揺らがない強い意志が見え隠れする。紗枝はふと不安になり、顔を曇らせた。
「のどかな──人が誰も立ち寄らないような。見晴らしが良くて地平線が見渡せる、空の大きい場所に、この造花を……。自由にさせて、咲かせてやりたいんだ」
 言葉の意味は解らないが、それでも彼の顔は希望に満ち溢れていて。
「僕も一緒に仰臥して──共に空を仰ぐ。風を感じる。草の匂いを吸い込む。そして、褒めてあげたいんだ。認めてやりたいんだ。君たちは造花じゃない、この世界にどこにでも咲いている、一つの立派な花だよ、って」
 まぶしいまでの笑顔。美しいまでの言葉。嫌だった。堪らなく嫌だった。胸が締め付けられ、動悸がする。肩はおののき、噛み切るほど強く唇を噛む。
「──その造花を、君は認めてくれたんだ。きれいって。だからそれだけで僕は、」
「ぉ前ェ……!」
 地を這う毒蛇のように唸り、紗枝は隆光の言葉を断絶した。隆光の、ヒュッと息を吸い込む音が聞こえる。わずかな間。
「……、……ごめん。どうしたの?」
 紗枝は掌で自らの頭を鷲づかみにし、指先を米神に抉り込ませた。いづらさの張る沈黙の中、紗枝の荒い息遣いだけが響く。
 ──耐えられなかった。夢。感謝。
 この耳に捕らえるたび、脳に響くたび、自分が壊れるほど心が切り刻まれる。名も知らぬ他人ならばなる事はない。ただ、そいつを目視して殺意を抱けば良いだけのことだから。
 でも……隆光の言葉は。彼の言う言葉は、深く深く、紗枝の心底に突き刺さった。遮断しようとしても不可能な、拒絶しても制圧してくる、無慈悲なまでの煌く希望。
 何故彼が。自分が当の昔に捨てた、そんな言葉を使うと。自分は。自分の心は。
 こんなにも、悲しむのだろうか。
 解らない。解らない。解らない。
 何故自分が、会って間もない男にこんな感情を抱くのか。近づいてもいないのに、とてつもなく遠い存在に感じてしまったのか。それにより、自分の心はどうして涙を流すのか。裏切られたように感じるのか。
 解らない。全てが。自分が捨てたものを隆光が持っていると分かった途端、深い絶望が心に落ちたということ以外は──。
「何故……何故私を、助けた……?」
 考えを紛らわす質問。同時に、確かに抱いていた疑問ではあった。
 心配したから。外は寒いだろうから。つらそうだったから。泣いていたから──。
 そんな言葉が返ってくると思った。しかし、
「だって……綺麗なものは、綺麗であるべきでしょ?」
 ──全く。
 全くの予想外の言葉に、紗枝はそのまま目を剥き、ゆるりと顔を上げた。綺麗なもの──そんな言葉、考えもしなかった。自分とは対極の存在だと思って。
 だって自分は、その存在を遠ざけるために、今まで自分自身を堕としいれてきたのだから。
 では何故この男はそんなことを言う。包み込むような顔で、さも当然のように。今までの自分は何だったのだ。必死に世界を嫌い、はびこる自分自身すら嫌悪を抱き、穢そうとして全てをごまかそうとして──。
 否、解っている。解ってしまったんだ、自分にだって。それは、自分に対する欺瞞なんだって。でも何故、会って間もない男にそういわれなければならない。言い当てられなければならない。そしてなぜその通りなのだ。
 この男は、この男は──
「お前は……この世界が、自分が、嫌いなのか……?」
 ──自分と、同じなのではないか……?
 存在する全てを嫌い、遠ざけ、廃棄する。今はこうだが、以前は自分と同じ境地に立ったことがあるのではないか。でなければ、説明がつかない。
 この男の一挙手一投足、一言一言が自分の心を揺さぶってくる、この感覚に。
 紗枝の中で、何かが爆発する。
「私はこの世界が嫌いだ。大嫌いで、大嫌いで大嫌いで大嫌いで。この世界が大好きだという偽善者を見ると噛み殺したくなる。この世界はこうあるべきだと言う理想主義者を見ると絞め殺したくなる。人の業に酔いしれ、それを正当化する糞野郎を見ると眼漿にナイフを突き刺したくなる」
 口調の裏には暗い──それでいて必死な、焦りにも似た感情が入り混じる。
「世界に美しいものなど何一つ無い。それは思い込みで、虚像に等しいんだ。もちろんお前が勤めている花屋の花どもにも言えて、ここに広がる造花にもいえることだ。全てにおいて平等なのは、憎々しい欲望がとぐろを巻いているということ。変わらない。それ以上でも、以下でもない。すべてが同じく汚れているんだ。それでもお前は、この世界を好きか? 好きでいられるか? いられたのか? 今も今までも、これからもずっと?」
 悄然としていた紗枝の急激な言葉の羅列に、隆光は驚かない。それどころか真剣な面持ちで、見下した紗枝の言葉に眉一つすら動かさない。
 紗枝の胸がさらに締め上げられる。
「私は耐えられない。そんなの、耐えられるはずが無い! じゃあどうすればいいと思う。穢く……そうだよ、私も穢くなればいいんだよ! この世界や、はびこる人類と一緒になればいいんだよ! そうすれば何も感じずに済む。楽になれるんだよ!」
 口調にはしだいに悲痛が染み出し始め──我を通す子供のような必死さがあり。
「私はこの世界が嫌いだ。好きになることなんて、到底出来ない。そして私も……私自身も、大嫌いだ。お前もそうだろう? お前もそうだから、私を目に留めたんだろう? 造花のような雰囲気を感じたって、そう言って! 自分と同じ、世界を嫌う存在を見つけてうれしかったんだろう? 仲間がいて、ほっとしたんだろう! 自分が、自分と堕落していく仲間を見つけて! お前も、安心したんだろうがッ!」
 紗枝の絶叫が、室内に響き割った。反響されずに鼓膜に吸収され、耳が痛む。彼女の荒い息遣いだけが、室内の音の全てだった。
 殴られると、押し倒されると思った。
 自分はそれだけのことを言ったのだ。自分さえも悩んでいることを肯定し、思ってもいない隆光の悪口を叩く。
 そうあってほしいという願望だった。自分と近い雰囲気を感じていた彼が、途端に輝いて見え、怖かったのだ。同じ所でもないのに関わらず、置いていかれたような気がしたのだ。それに──今まで自分が苦しんできたものが、大したことの無いものだと認めたくなかったのだ。
「それでも君は……」
 声がし、うな垂れていた紗枝の肩がビクリと震える。
「この世界にいるだろう……?」
 それは諭すような。確かめのような。心や安らぐ……温かい口調で。
「この世界も人も自分も嫌いで、自分が穢れれば……。けど、それでも君はここにいる。この世界に存在している。どんな事があろうと、それは変わらない。存在しているという事は、それだけで意味のあることだ。そして君はそうしている」
 それは……そうだ。どんなに穢れても変わらない事実。真実。
「そして──そこまで自分を嫌う覚悟があるなら……簡単だろう? ──自分を殺すことなんか」
 ヒュッと、紗枝は息を吸い込む。自分を、殺す……。考えなかったわけではない。そうしようと思い、実行に移した事も少なくなかった。でも、自分は──
 隆光はおもむろに立ち上がり、上着を羽織りつつ言葉を紡ぐ。
「でも君はそうしない。何故か。簡単な事だよ」
 そして。彼は振り返り。さも当然な風に。──言った。

「君は、本当はこの世界が好きなんだよ」

 衝撃が全身に迸り、紗枝は大きく目を剥いた。電流となった伝達信号が背筋を衝き抜け、肢体全ての感覚が無くなっていく。
 せかい。が。す、き。すき。……スキ?
「君はおそらく、賢すぎた。鋭すぎたんだろうね、世界の在り方を見ることに。疑問を抱いても、憎んでも、傍には誰もいない……。逆説的に、だからこそ君は世界に未練があったんだ。本当は……好きなんだよ、世界を。……紗枝ちゃんは」
 世界がスキ。好き。だからこそ、世界を憎む。自分自身でも解らなかった、それが答え。全ての、今まで自分が苛まれてきた悩みの真相。心理。こんなにも簡単で。身近にあって。自分は。世界が、世界が。
 セカイを──
 ガチャリという音がし、はっとして紗枝は顔を上げた。隆光が冷気を含む闇夜の中に、その身を溶かそうとしていた。
「ど……どこ行くんだよ、お前!」
 紗枝はとっさに叫ぶ。すると、
「ん。だって、君行くとこないでしょ、あんな道端で泣くぐらいなら。僕は今日、友達の家で寝るからさ。君はここで寝ていいよ。あるものは大体使っていいから。……あ、盗もうとしてもお金は無いからね、ハハ」
 あっさり言いのけた隆光に、紗枝は言葉を失う。様々な感情が込み上げ、収斂し、胸をふさいで言葉を封殺する。
 ふと、隆光は立ち止まる。おもむろに振り返り──あの優しい笑みを浮かべ。
「僕は好きだけどね。こんな世界も──君も」
 そう言い、後ろ手を振って、凍える夜気の中に溶け込んでいった。
 紗枝は茫然自失で、立ち尽くすことしか出来ない。鼻先でカチャリ、とドアが閉まり、室内には紗枝と──冷えてしまった、緑茶のみが残された。
 頭の中で、彼の言葉と笑顔が反芻し。
 静寂が、場を支配する。明かりが、紗枝を包み込む。温かさが……心を包み込む……。
 ぷつん、と。何かが、途切れ。
「ぁああああ! あぁあ! ああああああああ! ああああああああああああああッ!」
 彼女は咆哮し。白くなるまで握り締めた両の拳を、ドアに叩きつけた。
 何度も何度も。それは狂気迫る、狂った荒者のように。それでいて、悪意を知らない子供のように。瞳から溢れ出る、熱いものを撒き散らして──。
 慟哭しつつガンガン扉を打ちつけ……やがてゆるゆると、膝を砕いてその場に崩れ落ちた。そして室内に、一人の少女のすすり泣く声がこだまする。
 熱い。熱い。頬を伝う涙が。心を包み込む余計な優しさが。熱い。堪らなく熱い。気が狂いそうになるほど──温かい。
「紗枝ちゃんって……呼ぶなっつったろ」
 それは紗枝の、心無い最後の反抗。自分の全てを持ち去り、包み込んでくれた相手に対する。
 泣きじゃくりつつも、自然と頬が緩んだ。
「……ありがとう」

 紗枝は理解した。自分の事ではない。彼の──隆光のことについてだ。
 隆光の仕草の節々に感じる、近しく感じてしまう何か。末端でも鋭い剣尖となる、一つ一つの言葉。
 そう。隆光には、『何か』がある。
 花屋なのに花よりも造花を愛し、執着する『何か』を。常人では解せない『夢』を持ち、どんな事があろうとも成し遂げるという強い覚悟を抱かせる、『何か』を。
 全ては一つの線につながり、終着点はおそらく──彼の過去に既存する。
 『何か』とは、過去とは──? そんなこと、紗枝は知らない。知ろうとも思わない。彼が語らないなら、知る必要も無い。
 ただ、自分はその延長線で受け入れられ、また、受け入れたのかもしれない。その事は断言できる。形質的な想いの質、概要は違う。しかし、実質的なものは同じなのだ。
 これは、確信を持っていえるのだ。何故?──そんな事は、解らな……否、いけないな。紗枝は自粛し、己を叱咤する。
 これでは前と同じではないか。そんなのは、もうイヤ。──そう。自分は解っている。確信を、確固たる意思を持って言える。

 本質的なものが同じだからこそ。自分は、彼に惹かれたと納得できたのだから。

         ◆

 鼻がむずむずする。そう思い、紗枝はゆるりと目蓋を持ち上げた。黒目を寄せて鼻先を見てみる。紋白蝶が一匹、鼻で羽を休めていた。出ない蜜を吸うように、遅く滑らかな動作で羽を動かしている。
 振り払わずそのまま観察していると、紋白蝶の方からその身を宙に投げ出した。頭上を越え、やがて見えなくなる。
 紗枝はぼうっと蝶を見送り──はて、と思う。自分は何をやっているんだろう。
「……あぁ、そうだったな」
 意識して紗枝は呟いた。周りに人はいないからはばかる必要もないし、声に出す方が整理しやすい。
 自分は今、寝転がっていたのだ。寝転がって空を仰ぎ──眠って。そして、何度目になるだろう、再びあの夢を見てしまった。辛くは無いといえば嘘になる──遠いようで、新しく刻まれた部類の記憶。
 陰鬱な気分になりかけ、打ち消すように上半身を勢いよく起こす。途端、感嘆するほどの光景が下方に広がる。自分がいる場所が丘の頂上に位置するため、下に行くほど連なる家々が小さく縮んでいた。といっても田舎であることは否めず、段々畑ばかりなのだが。
 鈍行列車を乗り継ぎ、果てなく探し続け、ここが『目的地』にふさわしい場所と判断したのだ。美しく、静謐な場所。
 そして、彼女の回りには──
 原色を初めとした、様々な色の造花が散りばめられていた。地面の雑草が見えなくなるほどにまで敷き詰められ、降り注ぐ太陽光を存分に吸収する。紗枝の鼻を飛び立った紋白蝶は、そのうちの一つに止まって蜜を吸おうと無駄な努力をしていた。蝶の羽と共に、造花の花弁も風で揺れる。
 意識せず、頬の筋肉が弛緩した。
 約束を果たしに──隆光の夢を叶えに、紗枝はここに来ていた。
 大きく息を吸い、濃密な緑の香りを肺いっぱいに取り込む。吐く息と共にばたりと倒れ込み、目蓋を下ろす。掌を天空に衝きたて、感覚を研ぎ澄ました。
 風がそよぎ、心地よく肌を滑っていく。
 とても儚くて──優しくて、柔らかい。
「なんとなくだけど……お前の言う事が、解る気がするよ。隆光」
 苦笑するように呟き、首を傾ける。視線の先には──ただ造花が、静かに広がっていた。
 紗枝の表情が、わずかに曇る。
 誰もいない。ここにはありったけの造花と、自分しかいない。……隆光は、いない。
 彼は……彼は────

 もうすでに、この世にはいない。

 何の比喩でもなく、文字通りの意味だ。
 彼はいない。この世に、この世界に。彼はいなくなった。彼は──死んだ。

 病気だったらしい。自分と知り合い、約三ヵ月後に他界した。もう一ヶ月も前の話になる。入院を勧める医者を押し切り、普段どおりの生活をしていたのだ。
 と言っても紗枝が知ったのは、彼が死んでからのことだ。所詮は他人を介して聞いた情報、同情するには……事足りない。
 どだい、紗枝と隆光に親密な関係があったわけでもないので、当然といえば当然なのだ。隆光の事情を知らない事は。
 それでも……悲しみは、他人以上だった。
 当然ではないだろうか? 隆光は、自分の世界を変えた人なのだ。自分の見る世界を変えた人なのだ。自分を──好きに、させてくれた人なのだ……。
 自分は外見ほど薄情な人間ではない。でも、そんな安っぽい社交辞令のような感情ではなく。言葉では説明できない、何かが自分を駆り立てたのだ。だからこそ──自分は、今ここにいる。
 彼の成し遂げられなかった『夢』を叶えるため、ここにいる。
 同情などではなく。使命感などではなく。自分がそうしたいから。彼が感じようとしていたことを、自分も感じたかったから。
「……ったく」
 存在の定義を賢しらに垂れていた奴が、その存在自体なくすなんて、笑い話にもなりはしない。
 隆光は全てを置き去りに、簡単に死んでしまったのだ。ここに広がる造花も。ずっと叶えると凄んでいた夢も。一方的に心を寄せさせた……自分も。
 そして、逆に置いていったものもある。
 紗枝は胸の上に置いていた造花をそっと手にとり、茎を掴んでくるくる回す。彼女が隆光に貰った、真紅の造花だ。彼が好きだった、人間に本質的な意味で最も近い色。
 例えば、この造花。降り注ぐ不純の無い光
を透かし、そよぐ柔らかい風に揺られている。とても脆く、儚い、純粋で強い花。
 見ているとさほど遠くない過去なのに、酷く懐かしい気分になってくる。
 以前はこの造花のようだといわれ、自分は酷く動揺したものだ。意味が解らなくて、それでいて当たっているようで、なんだか怖かった。今ではその理由も明確に解る。
 結局は、どっちつかずの自分だったのだ。穢れようとしても腐りきれず、自分を嫌おうとしても、世界を嫌えず。そして隆光は一目でそれを判断した。おそらく、彼さえも気づかない意識下で。
 全く、いつ思い出しても、腹が立つ。ずかずかと人の心に踏み込んできて。しかし……自分がこの花に引きつけられたのも、自分の生き写しのように感じだから。それを否定する事が出来ないので、文句も言えないが。
 ──そしてもう一つ。奪っていったもの。
「ふぅ……!」
 考えた紗枝は強く息を吐き、何故だかわき上がる悔しさに奥歯を噛み締めた。奪われたもの──もはや、言わずもがな。
 ──自分の、心……。
 本当に腹が立つ。考えるだけでも、思い出すたびにも。本当に無遠慮で、無慈悲で、子供っぽくて、的を射ていて──
 目じりが熱くなっている事に紗枝は動揺し、強く擦った。さらに強く歯を噛み締め、目を凝らし──それでも溢れてきた熱いものに、押し切られた。
 彼が死んだときには、出なかったはずなのに。我慢できたはずなのに。なんだか……今、とても我慢できそうに無い。封印していた感情が、解き放たれたように。
「ぅう、ッ、ぅあぁあ……、あぁ──」
 そして紗枝は泣きじゃくった。隠すことも無く。ふき取る事もせず。我慢することも無く。感情のままに、頬を濡らして──。
 やがて、紗枝は立ち上がった。全てを振り切るように、力強く。足元に広がる数百の造花は、素っ気無い丘の上で鮮やかに咲きほこっていた。山に咲く花と分け隔てなく。
 それらの花が一斉に揺れ、隆光の好きだった真紅のワンピースがひらりと翻る。
 彼女は手に持っていた造花を惜しみ深げに眺めた後。ゆっくりと、壊れ物を扱うような手つきで。そっと下ろし、地面に花咲かせ。
 鮮やかな黒髪を、翻した。迷わないように。否、迷うことなく力強く。
「ありがとう」
 それは咲き誇る『花』へ、魂を宿した人に対し。また、ケナゲに生きる真紅の『花』に対し。
「──きれいだよ」
 風が吹き上げられ、『花』がひらひらと花弁を揺らした。まるでこれから生きていく少女に、明るい別れを告げるように。

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