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鏡の中の原石

 人の知識、感情、意志、思いやり、情け、望み、志などは、主に三つの層に分けることができる。
 場面場面に応じた感情の変化を示す、最も薄い表面的な層。
 知識や意志が深く根付き、その人本来の姿を示す、真ん中に位置する層。
 そして、本質的な願望や希望が渦巻く、最深部に広がる層。
 その三つの層に名は無い。それもそうだ、それらは僕自身が発見したものであり、正式な名称や、ましてや認知などされてもいないのだから。
 しかしそれらは確実に存在する。
 僕が言うのだから間違いはない。
 もちろんそれらを明確に分けていくと、さらに細かく分類されることにもなるだろうが……そういう存在があるということが重要なのだ。
 その三つの層を合わせ、そうだな。俗に言う、人の『心』というやつだろう。
『心』は常に正直だ。正直すぎて──本当に嫌になる。行動とは裏腹の、『心』の思惑。
 僕は知っている。人の醜い部分も、ウツクシイ部分も。
 なぜ僕がそんなことを分かるか? 事実とは意外に単純なものだ、少し頭を捻ってみれば分かるだろう。
 僕は、人の『心』自由に視ることができるのだ。
 僕の『心』を見せることなく一方的に視ることができ、またその行為を他人に悟られる事も無い。まさに夢のような能力なのだ。
 ……例えば、あそこでペチャクチャ喋っている三人組の女子生徒。朝のホームルームに迷惑他ならない声量で雑談をしている。あの女子たちの『心』を視てみてることにしよう。
 僕はポケットから鏡を取り出し、自分の顔を映す。何の変哲も無い、ただの鏡だ。手の平に収まるサイズの、百円均一に売っていてもおかしくない白く無機質な鏡。
 しかしこれが重要なのだ。僕は他人の『心』を、鏡を通してみる事ができるのだから。
 鏡には、大して美形というわけでもない見慣れた僕の顔が映る。自分でも驚くほどの無表情だった。
 その機械的な顔に、僕はゆっくりと指を這わせる。すると、鏡に映るすべてが、不意に歪んだ。いや、正確には歪ませた、のだが。
 カップの中で渦を巻くコーヒーのように、僕の顔が歪んでいく。ぐにゃぐにゃに歪んだ自分の顔が、背景と完全に同化する。やがて、光を完全に反射しない漆黒の鏡となった。
 僕はその黒い影を落とした鏡に、会話する女子生徒たちの顔を思い浮かべる。
 さぁ、教えてくれ。彼女たちの感情を、その起伏を。
 僕は念じる。すると、鏡の中が映像を巻き戻すように渦を巻き始めた。渦を巻く映像が、徐々にもとの形へと戻っていく。
 中の映像だけを変えて。
 鏡の中に映るのは、モノクロに映った三人の女子生徒だった。静止した画像は、写真のそれと大差ない。やがて、その少女それぞれの体に色が灯った。
 左と真ん中の少女は黄色みを帯びているが、右の少女はやや赤よりだった。黄色は主に感情の『喜』の部分を指し、赤は主に『怒』のそれをさす。
 楽しげに会話をしつつも、右の少女は怒りを感じているわけだ。
 行動とは裏腹の感情は、しかし珍しいものではない。むしろこちらの方が多いくらいだ。
 誰しもが経験のあることだろう? 実際には不快な思いをしているが、その感情を押さえつけて愛想笑いをしているというのは。
 これが『心』の最初の層に当たるものだ。何てバカらしく、何て小ざかしいものだろうか。
 僕は、また鏡の中をかき混ぜ、黒に戻す。今度は口角泡を撒き散らす教師を標的に、再び鏡に目を落とした。鏡が教師のモノクロ画像をうつしだし、やがて青色の灯火を点滅させた。
 どうやらこの教師は悲しんでいるらしい。しかも色が濃い。僕はもっと教師の心をのぞこうと、さらに下の層を視た。
 今度は、鏡の中に映る教師の姿を通し、脳に直接声が響いてくる。まるでイヤホンをつけているような感覚だ。
 ──ああ、自分はなぜここにいる、私はこんな事をするために教師になったわけではない、もっと私は生徒たちに、深くぶつかり合い──
 嫌悪に思わず眉間が寄り添うになるのを、どうにか我慢する。
 そう、この声は教師の声なのである。表に出さない、本人の中に閉じ込められた、本人だけ知る事のできる気持ち。第二の層に広がる、意志という名の思考──。

 人の『心』とは、表面上の行為に隠されているものではない。『心』そのものに隠されているものなのだ。
 人は『心』を表に出さない。その理由は恐怖心や義務、また気づかいなど多岐にわたるが、結果的には同じ事だ。
 人は必ず、行動とは別の闇を持っている。
 もちろん例外も存在するわけだが、それは善悪の判断もできない幼児や自主規制の甘い──すなわち、自己中心的人間などによるものである。
 一般的道徳を持った人間だからこそ、持ちえるものなのだ。
 ではなぜ、人は自らの本音を心の中に押し隠すようなマネをしてしまうのだろうか?
 前掲のとおり、恐怖心や義務、きづかいなども含まれる事だろう。人は理性という抑止装置を持ち──そして、その装置があるからこそ、社会ないしは道徳という世界単位の統制が取れているのだろうから。
 それは解る。己の感情を抑止せず、感情のままに動き回る世界など、ものの数時間で破滅してしまう事も。しかし──。
 僕は、たまらなく嫌なのだ。影を持ち、偽りの仮面をつけて接しあう人間を視ることが。
 表面上はにこやかに会話する友達同士でも、心の中では醜いかけ引きが常に繰り広げられている。笑って語り合う上司や部下でも、腹の裏では失態や業績などのグチをつきまくっている。
 僕にはその醜い争いが、常に目で視えてしまうのだ。
 人の心を、鏡を通して視ることのできる能力──。
 いつ能力に覚醒したのか、どういうやり方で発見したのか、ましてやこの能力が、本当に能力であり、僕の勘違いではないのか──そんなことも、僕は分からない。
 しかし、この能力を持ち他人の心を視たときは、とても嬉しかったように思える。他人の考えや感情が読み取れるんだぞ? もともと信用というものに敏感だった僕には、たまらなく魅力的な能力に思えた。
 実際は、そんな生ぬるいものじゃなかったわけだが。
 想像してみるがいい? 常に視えているんだぞ? 人が人の悪態をつき、否定している姿が。
 ああ、醜いと思った。嫌だと思った。くだらないと思った。……関わりたくないと思った。
 人の『心』が解らない。見えているのに、解らないという矛盾。人はどうして──解り合う事ができないのだろうか……? 理解し、思いやり、すれ違いのない社会がどうして創造されないのだろうか? あってはならない存在なのだろうか? 正直な世界がダメというなら、この世界は一体なんなのだ?
 ……分かっている。僕がいくら叫ぼうとも、人は永遠に解りあうことなどできるはずが無いという事は。
 だからこそ僕は問い続ける。
 救ってくれるものはないのだろうか──と。


 吉阪がきている、という先生の言葉で、僕は我に返った。不快なクラスの喧騒が耳に刺さる。
 吉阪……吉阪。初めて聞く名前だ。
「何だ、おまえしらねぇの?」
 他に聞く奴がいないため日永に聞くと、そんなバカにされたような言葉が帰ってきた。思わずムッとする。
「ほら、あそこの席、入学してからずっと空いてるだろ? あの席の、入学してから一日もきてなかったやつだよ、吉阪って。なんか入院してたらしいけどなぁ。何でだろ?」
「ふーん」
 適当な生返事をうち、会話を断ち切る。入院してた理由など、入学以来孤立している僕が知る由も無い。
 先生が廊下から吉阪を手招き、クラスの温度が一気に上昇する。あぁ、本当にうるさい……。
 と──そのとき、思考が一瞬停止する。
 ガチガチに緊張して入ってきた少女が、別段美しいというわけではなかった。長い漆黒の黒髪に、病的なまでに白い肌。小さな体や顔のわりに大きな瞳があり、怯えるように潤んでいるさまには一種の愛嬌はある。しかし僕が感じた胃の辺りがむずがゆくなるような感覚は、美しいものを見たときの感慨とは別にあるような気がした。
 意味も無くクラスメイトがざわめき始める。先生がなだめ、吉阪が黒板に頼りなげな小さな字で名前を書く。
 まるで転校生扱いだな……ぼんやりと思いながら、僕はポケットから鏡を取り出した。
 いや……もう解っているのだ。能力を使うまでも無い。どんな容姿や性格をしていようとも、その『心』には必ず醜い影が存在しているという事は。だけど、僕は視る事をやめない。一種の義務感のようなものが、僕にそうさせるのだ。……ただ、暗鬱な気分はいつものように拭うことはできなかったが。
 鏡が黒くなり、渦を巻いてモノクロの吉阪が映る。色が灯り、彼女の感情が……
「……え?」
 映、らない? どうして?
 おかしいと思いやり直すが、吉阪の映像はモノクロのままだ。何度試しても、結果は同じだった。
 感情が……視えない?
 不審に思い、さらに奥の心を視ることにした。真ん中にある、詳しい思想が渦巻く層を。だが──。
「これも、視えない……」
 こんな事は初めてだった。困惑し、動揺している自分もいるが、別の意味で動機が乱れているような気がした。
 思わず吉阪を見る。どきりとした。
 吉阪がこちらをちらりと見て、不器用な笑みを浮かべた。

 運命のイタズラ? ……かもしれない。けれども、出会ったことに偶然も必然も関係なく、可もなく不可も関係はないと思う。
 例えこの出会いが、僕の世界を大きく揺るがすものだったとしても──。

          ◆

 僕は人の本心である、最後の層を視ない。視ることができないのではなく、視ることをしないのだ。
 人の心底にはびこるものは、感情や理性で揺るぐ事の無い、本来の願望──酷く言えば欲望、良く言えば希望がある。要約するならば、まさに感情という名の加工を施していない、『原石』とも呼べるだろう。
『原石』は本人自身、気づいていない事が多い。自分でその『原石』を胸に奥に閉じ込めているせいもあり、また当然のものだと認識しているせいでもある。
 本人では知ることにとてつもない苦労が必要だ。自分を偽らず、自分と向き合ってこそ知りえるものなのだから。でも同時に、ごく単純なものなのだ、その原石とは。もともと自分の本当の気持ちなのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
「──何言ってるのよ! それはあなたのせいでしょうっ? いっつもそう、何でもかんでもあたしが悪い、あたしが悪いって! そうやってあなたは自分の責任をあたしに押し付けているだけじゃない!」
「なんだと! 俺はお前の事も思っていっているんだ! それをどうしてお前は認めることができないんだよ! もともとな、お前がそうして──」
 窓辺から窺える星空に、僕は嘆息した。田舎特有の静かな夜空に、冷たい空気が体を震わせる。林の向こうにある浜辺から、ザァザァと無感動な波の音が聞こえた。一階から聞こえてくる両親のケンカ声も、また同様に。
 そう、いつものようなこのケンカも、根底には別の意志が渦巻いている。『愛』という名の、表面上からは片鱗もうかがうことのできない、計り知れない感情が。
『愛』は美しいと人は言う。しかし、『愛』の何を知ってそう言う?『愛』は確かに美しくもあるが、同じくらいに醜い一面も持っているのだ。
 だからこそ、僕は人の心底を視ない。
 あまりにも人間臭すぎる。文字通りの意味ではない。この複雑化した世界の中で、しかし人の本質とは『愛』のように美しく、醜く、実に単純明快で、同時にぬかるみにはまる恐ろしいものだという事だ。
 希望、絶望、欲望、妄信、服従、辟易──。
 何てくだらない。何て不様。あがいて、隠して、騙して、惑わして、結局残るものはそこらの歌で耳にするような、単純な感情の『原石』なのだ。──でも。
 ぼんやりと浮かんでくる考え──顔が、あった。
 今日の朝、学校に来た少女……吉阪は、なにを思っているのだろう。なぜ、視ることができなかったんだろう。
 意図的に隠したとは到底思えない。じゃあどうして? 彼女には人間性というものが無いのか? ともすれば、自分と同じように人間という愚かな生物に絶望しているとでも言うのか?
 確かめるすべは無い。クラスの人々と触れ合っている彼女に、近づこうとしなかった自分には。
 はあ、と、わざと大きく嘆息をついた。……仕方のないことなんだ。
 僕はこの世界に、『関わろう』としていないのだから。


 家を出た。学校でも入り乱れる人々の感情に息が詰まるのに、家でも同じならば嫌にもなる。
 家裏に生い茂る、林の群れを抜ける。細い道はわずかな月明かりにのみ照らされ、ひどく頼りない。林の大群を抜けると、そこは見渡す限りの砂浜に、今は暗色となった広大な海だった。夏になったら屋台も出る、それなりに有名な砂浜だ。僕はよくここに来る。ここにいると、社会のしがらみから解き放たれたような気になれるから。
 吹きぬける潮風に、大きく息を吸う──と、目の端に何かが映った。
「……ん?」
 辺りはそれほど暗くない。近づかなくても、それが人影であることは知れた。訝しげに近寄り、その人物の横顔を認めてさらに驚愕する。
「……吉阪?」
 砂浜に膝を抱えて暗い海を見つめていた少女──吉阪が、驚いたように僕を見上げた。ぽかんとし、ややあって、こんばんわと言った。
 僕は訳が解らず、立ち尽くすしかない。どうして彼女がここに──なんで? そんな考えばかりが浮かんでは沈む。昼間と同じ顔がそこにはある。自分とは違う次元にいた人間が、次の瞬間に目の前にいたような、妙な感覚だった。
「す、すわれば?」
 ぎこちなく吉阪が言う。一人になりたくてここに来たのだが、断る理由も無い。それに──吉阪と話したいと思う自分もいた。
 僕がぎこちなく隣に腰を下ろすと、吉阪は視線を海に戻した。僕も同じようにして海に視線をやる。海は、淡々と闇を飲み込むばかり。なんだか気まずい雰囲気が流れ始めてきた。とりあえず、どうしてここにいるのかを聞こうとし、
「た、確かあなたは、クラスの──松田君、だったよね。いつもここにくるの?」
 ……先手を取られた。というか、名前を覚えられていたのか。
「ああ。いつもくるな。ええっと……、」
「吉阪でいいよ」
「……吉阪は、どうしてここにいるんだ? 家が近いのか?」
「ううん、そ、そういうわけじゃないけど。何となく見たかったから。夜の海を」
 そうか、と僕は呟く。……再び沈黙が落ちた。
 僕は視線だけを動かして、隣の吉阪を見る。横顔は長い髪に隠れて見えないけど、その肌が確実に吉阪の顔をうつしだす。病的に白い肌は、まるで一度も日の光に当たったことの無いように、月明かりを反射していた。
 急に胸が動悸し、困惑する。打ち消すように慌てて言葉を発した。
「吉阪は、どうして今まで学校にいなかったんだ?」
 ……ああ、なにを聞いているんだ僕は。理由など知っているし、何より独りよがりだ。ぴくりと、吉阪の肩が振るえる。
「……病気だったの」
「何の病気なんだ?」
 さらに聞いてしまう自分に自己嫌悪……。
 さすがに吉阪は言いよどんでしまう。当然だ、デリカシーの欠片も無い。僕はうつむき、そんな僕を吉阪が見た。凝視といえるほどの視線だった。じぃっと長く僕を見つめ、僕がその視線に耐え切れなくなってきた頃に、ようやく吉阪は視線を外し。
「……世界絶望病……かな?」
 さらりと、そう言ったのだった。
「は……?」
 意味が解らず──というよりも驚きに、吉阪を見た。照れ笑いのような笑みで、冗談だよと彼女は言った。
「精神病の一種……だったの。か、簡単に言うと、うつ病みたいなのかな?」
「……世界に絶望していたから、そんな病気になったのか?」
「……そんなところだと、思う」
 同じだと思った。僕こそ病気にはなってないが、その感覚には通じるものがある。
 久しく忘れていた純粋な驚きがあった。印象と性格の違い。いつも人の『心』を視て性格を判断しているため、この驚きに出会うことはない。ふと認識する。自分はこの少女の前だと、そこらにいる普通の人間と変わらないのだ、ということに。
「わ……私はね、一度挫折したんだ」
 意を決したように、吉阪は語りだした。
「今の社会を成り立たせている、人間関係とか制度とか義務とかに。人生が嫌になることって、誰でも感じたことがあると思うんだよね? わ、私の場合、それがひどくて……。私はどうしてここにいるんだろうとか、何でこんなに苦しまなきゃいけないのとか、だれも私のことなんか解ってくれないとか──。じ、自殺とかも考えたことあったよ。結局は死ぬ勇気すら無かったんだけど……」
 話すこと自体に懸命な吉阪の口調は、内容と噛み合っていない。
「小学校の高学年から──中学生は、ほぼ毎日、家でじっとしてたんだ? 学校も行かずに、勉強もしないで。誰とも会わないで朝を迎えて、何も始まらないうちに夜が訪れて。……ほんとうに、あの頃は全部が嫌で、辛かった」
 今度は急にしんみりし始める。なんだか感情の起伏についていけない。すると思い出したように吉阪が顔を上げ、ご、ごめんなさいとあやまった。
「こんなこといわれても分からないよね? ご、ごめんなさい、私、ちょっと変で」
 おどおどし始める吉阪に、軽く嘆息して言った。
「いや、分かるよ。僕も世界が嫌になる事は──いや、今だって嫌いだから。……解るよ、吉阪の言う事は」
 鋭く息を吸い、吉阪はうつむいた。しばしの沈黙の後、トーンを一つ落として再び語りだす。
「このまま引きこもろう。一人で生きて、死んでいこう。そう、思ったんだ? で、でもね──やっぱり、ダメだと思ったんだ。このままじゃ私は何のために生きているの分からないし、逃げているようで、く、悔しかったし……。世界が変われば良いけど、待っていても変わることはないって十分知っていたし。わ、私が変わらないと何も変わらないんだって、思って。だから、勇気を出して高校進学して、と、友達をたくさん作ろうと思ったんだけど……」
 あはは、と、力ない笑い声を吉阪は上げた。
「結局、初日から休んじゃった」
「──そうか」
 どう言っていいのか分からず、そう答えて視線を海に戻した。
 僕と同じ苦しみをこの少女は持っている。もちろん『心』が視えてしまうゆえの苦しみは別だろうが、それでも、僕だからこそ少女の苦心は──そして勇気は、深く理解する事ができた。この苦しみに自ら戦いを挑むなど、僕には想像もつかない。
 それから僕と吉阪は、ぽつりぽつりと会話をした。今のような深い話ではなく、他愛の無い、自分のことや相手のこと、海の事などだ。そこで分かった事は、吉阪はとても不器用な人間だ、ということだった。引きこもりでコミュニケーションが下手、ということもあるが、人間自体に恐怖を抱いているようでもあった。しかしそんな会話は、僕にとっても久しぶりに成り立つ人とのコミュニケーションでもあったが。
 どれくらいそうしていただろうか。やがて、吉阪が帰るといった。辺りはもうかなり暗く、わずかな月明かりが頼りだ。
 浜を渡って林を横切り、分かれ道で吉阪と別れる。去ろうとする彼女の背中に、ふと僕は疑問を抱いた。
「なぁ、吉阪」
「え? な、なに?」
「どうして、僕にあんな話をしたんだ? その……、吉阪が休んでた理由とか」
 普通、会って間もない人間にあんな事を話すとは無いように思える。吉阪は考え、ややあって、ああと理解した。にこりと、あのぎこちない笑みを浮かべた。
「なんでだろ、よく分からないや」
 ……分からない、か。
「じ、じゃあ私からも質問……良いかな?」
 覗き見るように屈み、吉阪は聞いた。
「私がその話をしたとき、松田君は、なにを考えていたの?」
 何を──何を? なぜか口を噤んでしまった僕に、吉阪はあのぎこちない笑みを見せた。ばいばい、と手を振り、今度こそ吉阪と別れた。吉阪の背中が見えなくなってもいっときその場に佇み、やがてポケットからいつもの鏡を取り出した。
 能力を使い、吉阪の心を視る。しかしやはり、何者かの阻害を受けているように視る事は出来なかった。
 ──なにを考えていたの?
 僕はあの時、一体何を考えていたのだろう……?
 背筋が、ふるふると震えた。……もう、夜が寒い。

          ◆

 翌日教室に入ると、そこはいつもの教室ではなかった。僕を取り囲む何かが変わったわけではなく、僕の目に映る教室の視点が、変わったのだ。
 吉阪は、数人の女子に囲まれていた。あの女子たちは、確か流行のファッショなどに敏感なグループだったか。吉阪は親しげに話しかけてくる彼女たちに、懸命にあのぎこちない笑みを見せて会話していた。
 不思議と、自然に彼女へ視線が向いてしまう。気にするなと思うのに気にしてしまう。訳が分からない。そんな自分に腹が立って、小さく呻きながら頭を抱えた。そして次の瞬間には、再び彼女を覗いている自分がいる……。
 そのとき、ふと吉阪と視線があった。その時間は一秒にも満たなかったが、まるで長いときじっと見詰め合っているような、不思議な錯覚があった。黒くて全てを引きずり込むような瞳──。吉阪が、ふっと笑うように目を細めた。
「いいよなぁ」
 どきり、と心臓が跳ね、悲鳴が出そうになるのをどうにか押し止める。慌てて振り向くと、日永が長い顔を不気味に歪め、先ほど僕が見ていたほう──吉阪を見つめていた。
「なにが」
 嫌な感じに、口調が自然と刺々しくなる。
「なにがって、吉阪。微妙に俺の好みなんだよなぁ。あの白い肌とか。入学そうそう入院ってのも、なんか謎めいて好奇心がそそられるってモノだ」
「僕にはその精神がまるで理解できないな」
 確かに、謎めいている感は否定できないが……。
 吉阪を見ると、再び女子のグループと一緒に会話を弾ませていた。
「吉阪は、やめたほうがいい」
 自分でも底冷えするような声が、勝手に口腔を衝いて出た。え、と日永が反応し、同じように自分自身でも驚く。自分はどうして、そんなことを言うのだ?
「……吉阪は、男子に見えない壁を作っている節があるんだよ」
 そんな言葉が、口から滑り落ちる。
「ふーん……。お前、吉阪と話したことあるの?」
「ちょっとな。どうせコミュニケーションの一方通行になるだけだ、だからやめとけ」
「珍しいな。お前が、そこまで他人のこと知ってるなんて」
 日永は憮然としたような、理解できないような顔をして、分かったよと言った。
 なんだろう。こんなの自分じゃない。なにを言っている。罪悪感が……湧く。
 日永に隠れ、鏡を取り出す。自分の顔が映り、すぐに渦を巻いて黒に染まる。次に現れた日永の顔から、彼の思考を読み取った。
 その思考に、僕の体が固まる。
 いや……読み取らずとも分かっていたことじゃないか。彼が、本気で今のようなことを言ったわけではなく、僕との間──つまり友情を深くしようと、話しかけてきてくれたことだと。
 なんだ。なんだ、僕は。


 その日の放課後、僕は校舎に囲まれて日の入りにくい中庭に向かった。冬を迎えようとしている中庭は葉が落ち、むき出しの木と冷たい空気が寂れた雰囲気をかもし出していた。
 僕の目的は、校舎に沿うように並ぶ花壇だ。世話の行き届かない中庭にある花壇は、事実上僕の花壇でもあった。
 花壇には時期を迎えた花々が、小さな蕾を出して徐々にその美しさを結実させようとしている。小さくも、屈する事のない力強い姿。その光景を見ると、いつもながら勝手に頬が緩む。淡々と世界を受け入れ、我が道を行くかのごとく生に執着する姿に、僕は感嘆と憧れを抱いているのかもしれない。
 特に悶々とした何かが胸にわだかまる今、その草花はとても魅力的に思えた。
 ここ二、三日世話をしていなかったため、土が乾燥してしまっている。じょうろに水を入れ、水やりをすることにした。
 蕾を抱える花に水をかけると、葉にのった水が煌いて美しかった。
「あ……松田君」
 そのとき、後方から声がかけられた。振り向くと、渡り廊下から上靴のままこちらに近寄ってくる吉阪の姿があった。自然と身構える僕の体。
「どうしたの? ……水やり?」
 僕の手に持ったじょうろを見て、吉阪が言う。
「ああ。ここは誰も世話がしないから、僕が先生に言って世話をさせてもらってる」
「ふーん、意外だね。松田君が花とかに興味あるなんて」
 なんだか似合ってないといわれているようで、ちょっとムッとした。
「悪いか?」
「あ、いや、ご、ごめんなさい! そういうわけじゃなくて。わ、私もお花好きだから、うれしくて」
 おどおどした様子を隠すように、この水仙もうすぐで咲くね、と吉阪が言った。
 昨日より幾分柔らかくなった彼女の笑顔を見ながら、ぼんやりと僕は思った。
 この華やかな笑顔でさえ、その裏には必ず何かが潜んでいる。だが、彼女の『心』は視えない。どんな思考が飛び交っているのか、見当もつかないのだ。
 吉阪の前だと、僕は僕が哀れむ人と同じ存在だ。改めてそう思うと、それは僕にとって大きな違和感であることに気がつく。
 違和感とは──そう。久しく忘れていた。これが、不安というヤツなのだ。他人の考えが分からず、戸惑い、不安に陥る。人が『心』に闇を持ってしまう最なる原因。
 人間の哀れを傍観する自分が、所詮は同じ存在なのだと認識すると、無性に虚しかった。客観的に世界を見つめていたと思っていた僕が、こんなにも脆いものだったなんて。
「気高さ──感じやすい心」
「え?」
 まるで僕の心を読まれたかのような言葉に、僕は目を見開いた。
「あ、す、水仙の花言葉だよ。すごいでしょ、私全部覚えてるんだよ」
「あ……あ、ああ、そうか」
 花言葉……か。
「あ、いまバカにした?」
「え? いや、してないよ」
「……本当?」
「ホントウ」
 夜空のように漆黒で、星星のきらめきをたずさえた瞳に見据えられ、上げ口上の口調になってしまった。
 じぃっと見つめていた吉阪は、くすりと笑うと、冗談だよといった。
 そのとき、渡り廊下から声が響いた。吉阪と仲良くしていたグループの女子だ。どうやら一緒に帰宅する約束だったらしい……。
「あ、もう行かなきゃ。……えへへ、私ね、あのことたちと友達になる事ができたの」
「……よかったな」
 至福な顔で別れを告げた吉阪は、駆け足でグループの下へ帰っていった。
「……あぁ、クソ」
 ふいに、胸が焦げ付くよう感覚がわき、僕は毒づいた。
 なぜだろう。皆と仲良くできた彼女に、僕は──嫉妬した。
 僕は友達──日永の行為すら、拒絶してしまったというのに。世界に絶望したんだろう? 何で人と深く接することが──友達を作ることができる? 吉阪が、急に遠い存在に思える。近いわけでもなかったのに。
 鏡を取り出し、吉阪と仲の良かった女子を思い浮かべる。女子たちは、吉阪を本当に歓迎しているようだった。
 これで良いのだという自分がいる。傍観者であり、関係せず、世界を哀れむ存在であれば良い──しかし。
 鏡を持つ自分が、とても惨めに思えた。

 それから数日が過ぎた。相変わらず嫌な世界だった。高校に入れば何か変わるかもしれないと思ったが、やはり人間がいる世界は同じである。想像通りだったが、溜め息を吐かずにはいられないものだ。僕の目に映る世界は、いまだ暗澹の色に彩られている。
 ──ただの一点を除いて。
 これほど僕の思考がむけられた相手はいるだろうか? いやいない、吉阪は僕と同じ考えを持つ人間であり──未知数の思考を持つ、唯一の人物なのだから。
 そして彼女は、僕が認識する範囲内で毎日砂浜にいた。肌寒く、美しい星空を見渡せる白銀の砂浜に、艶めく黒髪をたゆたわせて。
 どうして両者共通のこんな習慣がついたのかは分からない。しかし誰しもがある感情だとは思う。ただ話したい、という不確定要素の高い感情は。
 僕と吉阪は、いろいろな話をした。当たり障りの無い、それこそ友達のような会話だが、たまに深い話もあったりはした。意味深な家族関係や、自殺しようとしたときの心境など──。
 吉阪は話し、僕は聞き、海はただ見つめていた。
 この頃の話は、吉阪の友達の話が多い。何を買っただの、どんな遊びをしただの、こんな発見があったのだの。正直どうでもいいようなことだったが、僕は話を止めはしなかった。ただその話を聞くときは、胃の底がチリつくような違和感が僕を襲うのだが……。
「──あ、あれ? ごめん、退屈だった?」
「え? あ、いや、……聞いてた、よ」
 吉阪の声に、我に返る。慌てて返答すると、隣を歩いていた吉阪が長い髪をたらして覗き込み、あははと笑った。
「松田君、ウソ下手だね」
「……ごめん」
「え、あ、謝らなくてもいいよ! 私こそごめんね、友達のことばっかり喋って」
 おどおどしい様子は、相変わらずだ。
 歩幅を早め、吉阪は打ち寄せる波ギリギリの砂浜を歩いた。明るいテンポの鼻歌を口ずさみながら、踊るようにステップを踏む。わずかな月明かりの中はしゃぐ吉阪は、さながら夜闇の妖精のようでもあった。
 彼女は今何を考えているのだろうと、ふと疑問が浮かんだ。輝く肌につやめく髪をなびかせ、笑う彼女は果たして今何を感じているのだろう。
 僕はゆるりと、鏡を取り出した。うつしだす吉阪の笑顔。しかし色が灯る事も、考えを読み取る事もできはしなかった。
 何を考え、感じているか。そんな疑問が、これほど歯がゆいものだと、感じたこともなかった。
「吉阪」
「なぁに?」
 くるりと妖精が振り向く。
「聞いたよな、吉阪。最初ここで会って、吉阪の入院してた理由とか聞いたとき。僕は何を考えていたのかって」
 ちょっと考え、こくんと、吉阪は頷く。
「僕は──同じだと思った。僕も吉阪と同じような考えだったから。……世界が、嫌いだから。だから僕は、同じだと思ったんだ」
 聞いた吉阪は、ぽかんと呆ける。やがて吉阪は、そうと呟いて。
「……ありがと」
 くるりと、また僕に背を向けて浜辺を歩き出した。その背中を眺めた後、ゆっくりと僕もその後についていく。
 ……人はこうして、それぞれの意思を確かめて生きる。でもそれがうまくできないから、人は『心』に影を持ってしまうのだろう。そうして解り合うことができずに、苦しみ嘆く。じゃあどうすれば解り合うことが──意思を向け合う事ができるのだろう。
 解らない。だから、人はいつの世も苦しむ。
「あー!」
 響いた声に、僕は顔を上げた。吉阪が屈みこみ、何かを見ている。
「どうした……あぁ、水仙。めずらしいな。誰かが育ててるのか」
「みたいだねー。だって、とっても綺麗に咲いてるもん」
 夜気にも輝く白い花弁が開き、中心に鮮やかな黄色を抱えている。見事な水仙だった。
「こんなところに、一人で咲いてる。どれだけ淋しくて、どれだけがんばったんだろうねぇ……」
「…………」
 吉阪は水仙を見つめる。僕はそんな吉阪を見つめる。
 優しげなその視線は、水仙に何を思う? なぜ思う? 疑問が晴れる事は無い。ゆえに湧く、焦燥感に似た焦りが僕を襲う。その焦りは今までの経験に無い『違和感』である。その『違和感』が、僕が吉阪を気になった理由でもあるのだが──。
 近頃、僕は思うのだ。
 僕が吉阪にひきつけられる原因は、まだ他に何かあるのではないかと。確信は無い。だがその何かを、必ず彼女は持っているのだ。探る事はできない。彼女の中になにがあり、僕をひきつけているのだろうか。
 僕は彼女に……一体、なにを望んでいるのだろう?
「水仙、綺麗だね」
「ああ」
 ならば探るしかない。例え『心』が視えずとも、その原因は必ずどこかに存在するはずだ。探り、突き止め、鏡を通して必ずその『心』を視てやる。
 だけど──その意地にも似た考えが、次の日に実行される事はなかったんだ。
「じゃあね、松田君。また明日」
 にこりと浮かべるその笑顔は。
 次の日、まるで幻想だったというように、突然姿を消したのだから。


 翌日、吉阪が浜辺にいなかった。
 ほぼ毎日、土日祝日もいた彼女が、なんでもない平日にふといなくなった。ザァザァと闇を飲み込む波の音だけが、空虚に響いていた。
 その翌日学校に行くと彼女はいなくて、ぽっかり空いた席だけが目立った。その日の夜にも砂浜に彼女の姿は無く、それが数日間にわたって続いた。
 吉阪が、いなかったのだ。
 クラスでは、病気が再発しただの登校拒否になったのだの噂になったが、僕にはどれも信憑性の無いものに聞こえた。だって、僕はクラスの誰よりも吉阪の事を知っているつもりだ。彼女は、例え風邪をひいてでも学校──ないしは、浜辺にくるようなやつだ。ましてや、僕に言ったんだぞ。また明日、と。
 考えられる原因は、ただの一つだった。
「……吉阪は、どうしたんだ」
 冷徹な声で、僕は聞いた。普段喋る事の無い僕から話しかけられてか、相手──吉阪と仲の良かったグループの女子は、眉をひそめた。すぐに、知らないよといった。
「あたしたちだって驚いてるんだから、急にいなくなって」
「最後に会ったとき、吉阪はどうだった?」
「別に。普通に遊んで、普通に分かれた。別に変わったところ無かったわよ」
「家には行ったのか?」
「行った。拒否されたけどね」
「吉阪は、何か言ってたか?」
「別に何も言ってないわよ。なに? あんた吉阪のなにが知りたいわけ? あ、分かった。あんた吉阪のこと好きなんでしょ? うわぁ、はっずかしいんだー」
 キャッキャと騒ぐ女子を無視して、さらに質問を続けた。
「お前たちと吉阪は、うまくいっていたのか? どうして吉阪はいなくなった?」
「知らないっつってんのよ! いい加減うるさいなあ! そんな気になるなら、自分で行けばいいでしょ、アイツの家に!」
 響く声に一瞬教室が静まり、視線が僕に集中する。
 僕は臆することなく、ゆっくりとした動作でポケットから鏡を取り出した。女子が眉をひそめ、そんな彼女たちの顔を僕は凝視する。網膜に、その顔を焼き付ける。
「なにガンつけてんのよ、アンタ!」
 スッと鏡に視線を移し、能力を行使する。鏡に映る僕が混濁し、どす黒い灰色で女子たちの顔がうつしだされる。僕は、思考を読み取った。
「……僕には、嘘は通じないんだ」
「なァにっ?」
 苛立たしげに吐いた彼女の胸倉を、僕は勢いよくつかみ上げた。驚く彼女をそのまま引きずり、教室を出て行く。
「ちょ……! 何すんのよ、アンタ!」
 息苦しそうに抵抗する女子に構わず引きずり、男子トイレに入り込んだ。壁に叩きつけ、胸倉を掴む手に力を込める。
「なにすんのよ、アンタ! やめなさいよ!」
「ちょ、松田っ? どうしたんだよ、おい!」
 背後から駆けつけた女子の仲間や、日永の声、聞きなれない野次馬の声が押し寄せてくる。だがそれがどうした。
 苦しそうに呻く女子へ、僕は冷徹に言った。
「吉阪から奪った金で食ったものはうまかったか?」
 苦しそうな顔が、驚愕に目を見開く。
「遊んだゲームは面白かったか? 吉阪にバレなきゃいいと思ったか?」
 シンと、トイレが静まり返る。そう──この女は、吉阪から金を奪った。そしてのうのうと使い、吉阪の心を蹂躙したのだ。吉阪はそれに気づき、そして──。
「アハ──ハハハ、ハハハ」
 奇妙な笑い声が、こだまする。さもおかしげに歪む、卑劣な女子の顔。そして次に聞いた言葉が、僕の何かを断ち切った。
「おいしかったわよ──楽しかったわよ? それが、なに?」
 次の瞬間、僕の拳が振り上げられていた。鈍い音が響き、ついで倒れる音がくぐもる。
 驚愕と、困惑の沈黙が瞬時に満ちた。痛みに呻く女子の喘ぎのみが満たされる。
 僕は、女の顔を殴ったのだ。
 その事実にかまうことなく、倒れこむ女子に馬乗りになる。そして、今度は逆の頬を殴った。鈍い音。さらに殴った。赤い血液。力の限り殴った。剥がれ落ちる永久歯。
「や、やめろ──やめろ、松田! おい!」
「おい、何事だ──。ッ? 何をしている! おい松田!」
「キャァアア! 里奈、里奈ァ──!」
 いろんな叫びが聞こえる。僕の体が誰かに束縛される。鮮血が飛散している。拳に鈍い感触がわだかまる。気を失っている女子がいる。晴れることの無い、怒りがある。
 僕は駆けつけた教師に完全に束縛されるまで、拳を振るい続けた。
 とても、とても無感動に。


 停学、または退学処分が決定する間、僕は自宅待機という緊急措置をとられた。
 例え退学になろうと僕は後悔しないし、むしろ今でも正しかったと思う。ただ一つ気になったのは、やはり吉阪のことだった。僕は、純粋な追及心として吉阪のなにが僕をひきつけるのか、知りたかった。
 おそらく吉阪は今頃、泣くこともできず呆然としているだろう。心は視れずとも、簡単に想像する事ができた。あの黒い瞳が、呆然と虚空を眺める姿を。
 だから僕は、両親の監視を掻い潜って海に向かった。感覚的な何かが、僕に告げていた。
 浜辺につくと、吉阪がいた。いつもの場所に、いつもの格好で。ただその背中がいつもより小さく見えたのは、錯覚ではないだろう。
 表情を消して、僕はそっと吉阪の隣に立つ。いいよ、という彼女の言葉に、腰を下ろす。表情を変えている昼間の海は、なんだか僕らの敵であるような気がした。
「私ね……裏切られたの」
「…………」
 僕は答えない。淡々と、無表情に彼女の言葉を受け入れる。
「彼女たち。私と……仲良くしてた人たち。最初は、本当に仲が良かったんだと思う。友情とか、今まで私が感じたことのないものも、感じられた。とても、純粋なものだったんだよ。気持ちが行動に比例した、美しいもの。でも……しだいに、彼女たちの気持ちは、悪い感情に揺らされて、汚くなっちゃったの」
 吉阪の言うことはよく理解できた。吉阪と僕は、どこか似ている──そういう感覚が、あったから。
「私の家、お金持ちでね。お父さんもお母さんも働いてて、私はお金ばかりもらって育ったの。だから、入院とか病院に通えたんだけど……。彼女たちは、私のそのお金に気づいちゃったんだ。それでね、彼女たちは、私を利用してそのお金をね、使おうとして──」
 切り口上になって、荒くなる息遣い。
「悪い、こころが、うまれて、──」
 うつむく吉阪。
「うらぎ、られちゃったの……」
 どうにか嗚咽を抑えた、その声──。
「歯……二本、折ってやったよ」
 握りこぶしを作り、僕は言う。聞き、理解した吉阪は、しだいに顔をくしゃくしゃにさせていき──
「……ぅ、ぁあ、ああああ、あああああ!」
 大粒の涙を、その輝く頬に流した。子供のように、感情を抑える事をせず、大声で泣いた。僕は何をするわけでもなく、そんな吉阪を見つめた。
 吉阪の苦痛は、どれほどのものだろうか。吉阪は自分の精神病を世界絶望病、と言った。彼女はこういうことを恐れて、病気になったのだろう。でもここままじゃダメだと思い、勇気を出した。
 その結果が、これだ。
 どうしようもない怒りだった。どうしようもない理不尽だった。
「僕は……思うんだ」
 考えてのことではなった。
「僕たちは、救いようの無い偽りの中で生きているんだって。それは最初から決められたものじゃなくて、僕たちの中に存在する『心』が常に生み出しているものなんだ」
 荒い息遣いで涙を流す吉阪が、顔を上げる。
「でも僕らはその偽りに気づく事ができない。いや、気づかないんじゃなくて気づこうとしないんだ。僕ら自身がその偽りを気づかないうちに、自分の『心』に封印するんだから。誰も見ることのできない最も安全な場所である、『心』に。それは人間である限り救いようの無いことだとも思う。でも、僕は思わずにはいられない。何で人間は、完全に解りあうことができないんだろう──って」
 吉阪は意味が分からず首をかしぐ──と思ったが、思いのほか驚いているようだった。吉阪は弱々しい口調で言う。
「わ、解りあう事は……やっぱり、できない、のかな?」
 よく考えると妙な質問だったが。
「できないね」
 即答した。人はあまりにも愚かで、愚鈍な生き物である。
「じゃなきゃ、君自身ここでそんな涙を流しているわけ無いだろう?」
 吉阪は言葉につまり、口を噤んでうつむいた。しまった……と思うが、この口は溢れる感情を抑える事ができない。
「君は自分の病気を世界絶望病といったが、僕は正しいと思う。僕もそういう感情になる事はいつもだし……何より、その要因があまりにも多すぎる。不安になるんだよ。偽りがあるから解りあうことができない。解りあえないから、偽りが生まれる。どちらがパラドックスかなんて関係ない。その事実が、僕らを不安にさせる。その結果が──」
 やめろ、と理性が叫ぶが、止まらなかった。
「今の君の状態なんだよ」
 最低だ。自分でも思う。最悪のクズだ、僕は。傷を負う彼女に、なぜ追い討ちをかける。どうして……胸が刺されるような痛みが襲う。こんなの僕じゃない。僕はもっと、この偽りだらけの世界を傍観する、第三者のような者であるはずなのに。なんで……。
 僕の声が止むと、波打つ海が、とても大きな音に聞こえた。耳に刺さり、肌に刺さり、『心』に刺さった。
「……とても、悲しいことを、言うんだね」
「……だけど、本当のことだろ? 吉阪だって、そう思っていると思うけど」
 そうなんだよね、と夜気に溶け込むような小さな口調で吉阪は肯定した。
「でも、やっぱり悲しいよ……」
「……だけど、可能性がないこともない」
「可能性……? どういう?」
「例えば……」
 静かな彼女の問いに、僕はしばしためらったあと、答えた。
「人の『心』を、鏡を通し視ることのできる能力が人間に備わっているなら、解決できると思う」
 これが僕にとって初めて、間接的にでも自分の能力を誇示した瞬間だった。自分を理解できる可能性の無いものばかりだから、話しても同じだと思っていた。
 だけど吉阪なら、理解してくれるだろうと思ったから。僕は彼女にこの能力を比喩として明かした。……のだが。
 吉阪の反応は、僕の予想とはるかに違うものだった。
 吉阪はまず驚き、そして意を決したように僕の顔を凝視する。二十秒ほどじぃっと見つめ──やがてその顔をクシャリとさせて。
「アハ──アハハ、アハハハハハハ!」
 笑い、出したのだ。
「アハハ! アハハハハ! ハハ、ァハハハハハハハハハッ! ハハハハハハハハハ!」
 狂ったように笑い声を上げながら、彼女は腹を抱えて砂浜を転がる。僕は意味が分からず、戸惑ってそんな彼女を見つめることしかできない。
 十回くらい海水が浜辺に打ち上げられた頃に、ようやく吉阪は腹を抱えて体を起こした。髪はくしゃくしゃで、砂が体中についてしまっている。ごめんなさいと謝りながら、吉阪は目にたまった涙を拭った。
「ま、松田君があまりにも面白いこと言うから」
 僕は釈然としない。むしろ、わずかな怒りさえあった。僕だけの聖域を土足で踏みにじられたような気がしたからだ。
「き、聞かせて? その能力のこと」
 話したくなかったが、言った手前説明しないのも意地を張っているようで嫌だ。憮然としつつも、僕は口を開いた。
「……人の『心』は、三つの層に分かれている。一つ目の一番薄い層には、人の感情──つまり、その時々に応じた感情の起伏が現れる。怒りとか、喜びとかがこれに当たるんだ。人はこの『心』すら隠す。自ら、意図的に」
 鼻をすすりながら、ふんとかすんとか、そういう返事を吉阪はする。
「二つ目である真ん中の層は、意思や知識が支配する層。固定概念とか目的とか、そういう人が本来生活するうえで必要不可欠の感情がある層なんだ。そして、最後の層が……」
「……層が?」
 言葉を発する事を拒否する声帯を、どうにか動かす。
「人本来の姿がある。本質、ということだろう。感情や意地とかでは揺るぐ事の無い、その人本来の──いわば、思いの『原石』。そういうものが、あるところ」
「例えば──愛、とか?」
「……そういうこと」
 喉下にすっぱいものを感じながら答えた。
「そんな人の感情を見抜ける能力が、人間に備わっていれば、人は解りあえると思う。何よりも今の人に必要なものだと思うし、そんな能力があれば誰だって求めると思う」
 人の『心』を視る事ができる……これほど魅力的な能力があるだろうか? 現在の廃れた社会から全てを開放し、不安を取り除き、完全に理解しあう事のできる魔法の手段なのだ。
 社会に苦しむものとして、憧れないわけが無い。
「でも、本当にそうなのかなぁ」
 吉阪が思うげに呟いた。思わず、僕は眉をひそめてしまう。
「そうなのかって……吉阪は、そうは思わないのか?」
「思わないって訳じゃないけど……でも、そうだといいよね」
 釈然としない返答。僕はそれ以上詰め入って聞きはしなかった。
 僕は吉阪に、失望したくなかったから。
 僕は吉阪に、そこらの人間には無い特別な何かを感じている。おそらく僕をひきつける何か──ないしは、通じる何かなのだろう。だから僕の考えを否定されると、僕は吉阪を幻滅してしまうと思ったんだ。
 狂ってるな、と僕は思った。たった一人の少女ごときに、何を僕は苦しむ必要があるなんて。
「……君は、一体なにを持っている?」
 まただ。また、口が勝手にものを言っている。
 吉阪は、すっかり涙の乾いた顔をほころばせ、意味ありげに笑んだ。
「それは、松田君自身が一番わかっていることだと思うよ」
 不思議と、その返答に疑問を抱く事は無かった。
 でも、全く意味は分からなかった。


 数日後、僕は学校へ行く事にした。
 処分は決定した。長期の停学に一年間の社会奉仕活動。退学にならなかったのは、暴力を振るった理由が明らかであり、相手にも非があるという判決が大きかったのだろう。
 とはいえ、女子生徒を殴る行為が肯定されるわけでもなく、それなりに大きい問題として扱われはした。
 まだ自宅待機命令中だったが、学校側に申請して、生徒が帰宅した後の三十分間だけ中庭の世話をする許可を得た。もう一週間以上も世話をしていないから、土も乾燥しているに違いない。
 暗くなってきた頃、僕は砂浜で会っていた吉阪と別れ、学校へ向かった。
 冬の夜は早い。早くも生徒のいなくなった校門をくぐり、明かりも無い中庭に出た。
 花は乾燥しているものの、力強く咲いていた。僕はじょうろをとり、水をやり始め──
「あ……松田?」
 突然の声に、驚いて振り向いた。渡り廊下から歩いてきたのは、日永だった。
「あー、水やりか。お前も好きだなあ」
「……べつに」
 気まずい思いに、僕は目をそらした。とんとん、と、その肩に手が触れる。
「座ろうぜ?」

「忘れ物してさ。どうしても明日出さなきゃいけないやつだったんだよ」
 花壇に腰を下ろし、薄く雲のはった夜空を見上げながら日永が言う。
「そうなのか」
 僕は淡白な返事をする。日永との間にじょうろを置き、僕は座る。日永はちらりと僕を見て、呆れの入った口調で言った。
「それにしても驚いたよ、お前のあの時の剣幕には。そんなに吉阪のこと考えてたんだな」
「……どうだろうな」
「どうだろうなって……分からないわけじゃあるめぇし」
「……わからないんだよ」
 ふと、押さえ込んでいた感情がのたうった。
「わからないんだ。何もかも。吉阪の中には、何かがあるんだ。どんなものか見当もつかない、何かが隠されている。たぶん僕はそれを望んでいて、吉阪に接しているんだ。でもそれが何なのかわからないんだ。吉阪の『心』はわからない。僕と吉阪は解り合うことができないんだ。僕は何を望んでいる? 吉阪の中には一体なにがある?」
 米神に指を食い込ませ、震える語尾をどうにか正す。日永は、ただ僕を見つめていた。
「怖いんだよ、僕は……! こんな事は初めてだから。僕の皮肉んでいた人間のように、自分が惨めに感じられて仕方ないんだよ。僕がこんなにも脆いものだったなんて、こんなにも脆い力だったなんて。ただ何を考えているかわからない女なんかに、僕は不安で不安で壊れてしまいそうなんだよ。こんなの僕じゃない。考えるな。そう思うのに、湧いて出てくるようにアイツの顔が浮かんで、僕を苦しませ続けるんだよ……!」
 完全に感情が爆発した結果だった。どうにか呼吸を整え、押さえ込む。日永には、おそらく何を言っているのか分からないだろう。
「……ごめん、忘れてくれ」
 ハハハ、と日永が笑った。いや……笑われても仕方ない事だ。日永は、いやごめんと呟く。
「悩ましき強迫観念だな、松田」
「……怖いんだよ」
「まあ、そうだな。けど松田、お前は何事も深く考えすぎなんだよ。もっと単純に考えらればいいんだよ。吉阪が何を持っているか。自分が吉阪になにを望んでいるか。そうじゃなくて、何が何に、どんな感情を持っているか、が重要なんじゃないか? そしてその感情を突き詰めていけば、答えが出るんだと思うがな。多分その答え自体、お前はよく知ってるんだと思うぞ。唯お前が一つの可能性として考えないだけで」
 よく喋るやつだ。それに、後半は意味が分からない。でも──。
「僕自身が、一番分かっていること……」
「は?」
「いや、吉阪がそう言ったんだ」
 ではすでに、僕の中に答えはあるということなのか? 僕が自分の『心』に、無意識に隠しているだけで? 考えてみる……しかし、理解する気すら起きてこない。
「うーん、こりゃ……脈ありかもな」
「なにが」
 身を乗り出し、日永が意味ありげな笑みを見せる。
「だってさ、お前をそこまで苦しめる相手なんて、そうはいない。お前がどうこう思う前に、相手から去っていくからな」
 失礼な。
「でもお前は、そこまで吉阪に影響を受けている──いや、吉阪がお前に影響を与えている。まあ、俺が思うには完全に吉阪は脈ありだと思うがな。よかったな」
「よかった? 脈ありって、なんだ?」
 日永は固まり、お前本気で言ってるのか? と聞いてきた。僕は何か変なことを聞いたのか?
 だからぁ、と日永が言い──継いだ言葉に、僕は一瞬意味を図りかねた。あまりにも簡単に吐かれたその言葉に──何より、最も皮肉なその言葉の意味に。
「……ありえない」
 言うが、完全に払拭しようとしない自分がいた。
「さあ、確実な所は俺にも分からないから、後はお前で確認するんだな」
 茶化すように言い、がんばれよと言って、日永は去っていった。僕は言い返すこともできず、混乱する頭の中でその言葉を何重にも反芻していた。頭が混濁し、吐き気が襲う。
 僕は日永がいないことに今更気づいて、慌ててポケットから鏡を取り出した。しかし能力を使うことにためらい、星空の見えない夜空を仰いだ。
 日永の言葉を嘘かどうか判断することすら、僕は恐怖していた。


 その翌日、僕は砂浜へ行った。吉阪は昼間もいただろうが、僕は夜に行った。吉阪の顔を直視したならば、僕は──何も言う事ができず、逃げてしまいそうだったから。
 静かな浜辺に座る少女の背中──もう見慣れたものになってしまった。おそらく吉阪は、昼からずっとこのまま僕を待っていたのだろう。漂う空気が冷たい。
 僕は固まりそうになる足を叩き、吉阪の隣へギクシャクと動いていった。
「……おそい」
 隣に座ると、吉阪が憮然とした声を出した。
「ご、ごめん」
 詰まりそうな声をどうにか励ます。吉阪がこちらを見た気配に、体がこわばるのを感じた。じっとりと手に汗がにじむ。
「……なにか、あった?」
「え? いや、別に何も」
 じぃっと僕を凝視する吉阪の視線。僕が紙だったら、穴が開いているに違いない。
「嘘だね。……松田君、嘘ヘタだから」
「…………」
 不思議と、今の吉阪には全ての嘘が見透かされているように思えた。僕が吉阪に恐怖しているのも、なぜ恐怖しているのかも。
「なにか、あった?」
 空虚に響く吉阪の声。繰り返される質問──しかしその声音で、いっそう僕は確信する。僕が核心に触れるのを待っているのだと。
 夜の海は暗い。そして寒い。この中で吉阪は、ずっと僕を待っていたのだ。ザザザ、と吉阪が座ったまま僕に近づく。隣に座る彼女の体温が、存在を主張していた。
「吉阪は……僕を、どう思っている?」
 完全に震えていた。情けないと思う。しかし、続くように答えられた吉阪の言葉に、僕は震えを通り越して硬直した。
「愛してるよ、松田君を」
 予想以上の衝撃が、僕の脳に叩きつけられた。
 ──吉阪は、たぶんお前の事が好きなんだろ。
 日永はそう言った。しかしもはやその次元ではない。
 吉阪は僕に恋ではなく、愛を向けていたのだ。同じニュアンスにも思えるが、その意味は雲泥の差である。
 ひた、と僕のコートに何かが触れる。吉阪は、体が触れ、互いの顔をはっきりと視認できるほど近くにいた。
「松田君、いったよね、まえ。人は解り合うことができないって。でも、私はどうかなと思うんだ」
 耳元に流れ込む甘い声。でも、わずかに緊張が見えたのは、気のせいだろうか。
「愛って、とてもすごいものなんだよ。松田君が例えばの話で、人の心は三つの層に分けることができるって言ったね。その一番深い層──人の理性に加工されていない『原石』の部分に、愛は当てはまるって言った。私も、そうだと思うんだ。人にそこまで影響を与える愛はすごい。だからこそ人を想う感情がそこまで大きくなるのは、理解しあう事が不可欠だと思うの」
 否──とはいえなかった。確かにそれは、一理あると思ったからだ。けど──。
「俺は……吉阪のことを理解していない。だから、それはあくまでわがままな一方通行認識なんだよ。だから、理解し合えてなんていない」
 理解しあえていない……理解しあいたくない──?
「分かってる。だから、それはこれから理解し合えばいい。わ、私はそうする努力もする」
 何をいう──何を言うんだ、この女は。
「俺は──怖いんだよ、吉阪が……! 何を考えているのか分からないし、何より……。『愛』って言うその感情に、俺は完全に、辟易している」
 醜いと思っていた感情が、自分に影響を与えるなど考えた事も無かった。
「じゃあ……わ、私が何を考えているのか教えてあげる」
 言うや。すっと突然、隣に居座る影が動いた。何だ──と思った次の瞬間。
「…………ッ」
 全てがスローモーションに見えた。吉阪が動くのも。瞳が映す星空の動きも。迫ってくる彼女の顔も。しかし、なぜだろう。
 くちびるに、やわらかくて生暖かいものが触れるまで、僕は動く事は出来なかったのだ。
「──────」
 触れた唇に圧力を加えて、吉阪は僕を押し倒す。何十秒にも何百秒にも思える時間──。
「──や、めろ!」
 覆いかぶさる吉阪をどうにか振り払う。仰向けのまま後ずさり、呼吸荒く呆然と吉阪を凝視した。吉阪は、寂しそうな目をして僕を見つめていた。
「やめろ──やめろ、やめろよッ! 何で僕をそんな目でみる。お前は、僕を理解できているんだろうッ? ならなんで──」
 ──僕に、こんなことをする?
 絶え間なく肺に入ってくる冷気に、だが体には燃え盛るような熱気が渦巻いていた。
「やっぱり……だめ、か……」
 うつむき、吉阪は独り言のように呟く。十秒ほどそのままでいて、おもむろに立ち上がる。ふらついた足取りで僕の隣を横切り、吉阪は静かに砂浜を去っていった。
 その後には、恐怖に逃げる事すらできない惨めな僕だけが残っていた。
 硬直していた体に、ようやく震えが戻ってくる。痙攣するような手を、思わず唇に当てた。今の状況が、まるで頭が理解していない。
 そのとき、手に固いものが当たる。見ると、それはポケットから出た鏡だった。
 ……吉阪の心は見えない。だけど……最後の層──彼女の『原石』ならば、今は視ることができるような気がした。
 月光を反射する鏡に、僕は能力を行使する。そして十年ぶりにもなる、禁断の層を僕は視た。
「あぁ──あああ、あぁぁあアアアアア!」
 激しく入り乱れる思考。連鎖。想い。めまぐるしく脳内に吉阪の希望、願望が入り乱れ、僕に一つの結論をはじき出させる。
 それはたった今聞いたはずなのに、理解できなかったコトバ。
 吉阪は──本当に僕を愛している。
 僕は、その場で嘔吐した。

          ◆

 停学処分が解けた。平常どおり僕は学校へ通う。
 学校内での僕の存在は、前にも増して浮いた存在になった。変な噂は立つわ、クラスで陰湿ないじめにあうわ、教師共々触れることも話しかける事もせず。ただ、痛い視線だけが僕の背中をついた。
 しかし、僕はそんなことすらどうでも良かった。むしろ納得していた。無視するならば無視すればいい。虐めたいなら虐めればいい。それでお前たちの気が済むのならば、いいではないか。異質な存在への恐怖を裏返した行為──それが、お前たちなんだろう?
 そして傍観していたと思っていた自分すら、そんなお前たちと同じ存在なのだ。お前たちは誤解している。だがその誤解が解けることはない。解り合うことができないのが、人間という存在だからだ。
 僕はそれを知っている。今もなお空席でいるあの少女も、知っている。
 ホームルーム終了後、僕は中庭に向かう。今では、日永すら関わってこない。だがそれでいい。上履きから靴に履き替えると、鋭い痛みがかかとに走った。靴を脱ぐと、かかとに刺さったが画びょうが二個。僕は哂う。そう……それでいいのだ。
 あれから、僕は浜辺に行っていない。おそらく吉阪もいないだろう。僕と吉阪の繋がるものは、あの日全て断ち切られた。おそらく吉阪は、もう社会に復帰する事はできないだろう。それこそ、彼女と理解しあうものが出てこない限り。
 中庭に行き、じょうろに水を入れる。花に水をやると、いつものようにキラキラと輝く。
「水仙……綺麗に咲いたな」
 あの日つぼみだった水仙は、今では鮮やかな花を開かせている。否応ない時間経過の認識。ふと思い浮かぶ、浜辺で見た水仙。あの花は、もう枯れてしまっただろうか──。
 ふいにズキリと胸が痛み、うずくまる。
「…………ッ」
 震えていた。僕のじょうろを持つ手は、どうしようもない震えに襲われていた。
 何を震える必要がある。何を恐れる必要がある。もう終わったじゃないか。彼女が望んだものを僕は断ち切り、蹂躙したではないか。ではどうして襲ってくるのだ、この身が焦げ付くような思いは? 僕が悪いというのか。だから責めるのか吉阪?
 それとも──僕が、逃げているからか?
 吉阪の思いに恐怖して、そのまま逃げて、吉阪を踏みにじって。はっきりとした決着をつけず、おののきのままに吉阪を拒否したから。だから責めてくる君の思いか? 逃げている自分への叱咤か?
 思い返せば──いつも僕は逃げてきた。
 様々な人の思惑。行動と反した思いの真意。醜い欲望。まぶしい希望。まざりあった、絶望の連鎖。
 僕はそれらの『心』を視て、嘆く傍観者でありたかった。しかし、それは逃げたかったからなのだ。僕は醜い人の『心』を視てしまった。けど、僕はそうじゃない。僕はあいつらとは違う。……そう思いたかったんだ。
 そのために僕は人の『心』を視続けた。何百、何千の『心』を。そしてもう、その確信は抱いていたはずなのだ。神のような視点を持ち、能力を使い、優越感に浸っていたはずなのだ。
 しかし、僕は『心』を視続けた。確信を得てもなお、視続けたのだ。結果、僕は吉阪に近づき、好意をもたれてしまった。
 視続けていなければ。能力を使わず、優越感にだけ浸っていられれば! ……じゃあなぜ、僕は能力を使い、人の『心』を視続けたのだろう?
 苦しかった。吐き気がした。でも視続けたそのわけは?
「わからないわからない、わからないわからないわからないわからないから誰か教えろよッ!」
 震えを押さえ込むように、わめき、頭を抱え、じょうろを叩き壊す。
 そう──これも『逃げ』だ。わかっているくせに。認めたくないだけなくせに。
 とんでもない臆病者──クズめ。


 虚無の三日間。この三日間ほど苦しい日は、おそらく後にも先にも存在する事は無いだろう。
 自分への疑心暗鬼、嫌悪、殺意。無言でのしかかる責任感、想い、重圧感。
 僕は僕の世界を、完全に破滅させていた。天から見下ろす足場は虚構であり、堕ちた地獄では苦しみの楔が全身を蝕む。
 何も信じられなくなった。他人も、親も、日永も、僕自身も。僕は能力を使うことを止めた。今更その能力に畏怖したわけではなく。その能力で視る人の『心』に──僕は改めて、恐怖したのだ。
 つまるところ僕は、逃げたのだ。怖くて、怖くて、立ち向かう勇気が無くて、再び逃げ出したのだ。何て惨めであり、滑稽なのだろうか。しかしこの僕を哂うものすら、存在しない。僕は孤独だった。孤独になりたかった。優越感からの孤独ではなく、恐怖からの孤独だ。
 何か、きっかけがほしかった。どんな些細な事でも良い。どんな小さなことでも良い。
 死ね、いなくても良い、いる価値が無い。
 そういう言葉がほしかった。偽善的な言葉ではなく、侮蔑した、リアルな言葉がほしかったのだ。そうすれば僕は解放される。心のどこかで希望を望んでいる自分を叩きのめし、完全に堕落する事ができる。
 例えそれが『逃げ』だったとしても構わない。僕は、ただ──
 安心が、欲しかったのだ……。
 そして三日後、事態は起きた。良くも悪くも、それは僕にとって転機になった。
 数週間空席だった吉阪の机の上に、遺書らしきものが発見された。中には紛れも無い吉阪の字で、世の中に対する絶望が書かれていた。要は、自殺予告のようなものだ。授業を自習にして数人の教師を残し、警察の手も加わって吉阪の捜索が開始された。だが僕にとっての転機は、どちらかというともう一つの方にあったと思う。
 惨殺死体。
 ──中庭に咲く花々の、無残に切り裂かれた死体の数々だった。根っこから抉り取られ、数センチ単位に切り刻まれ、クズの山となったかつて美しかったものたち。僕が絶望の淵にいた中で、わずかに見出していた希望の根源でもあった。薄く降り注ぐ雪が、その生々しい惨劇を非現実的なものへと変化させていた。
 ふと、目に止まる花があった。──水仙。
 このシュールな光景の中、花壇の隅に咲く水仙だけが、いつものように整然と咲き誇っていたのだ。同時に、フラッシュバックのごとく戦列に思い出される文字。
 ジェラシー。
 吉阪の遺書の最後に書かれていた、不可解に独立した文字。
 確信する。そして、どうするか考える。
 いや……実際、考えるというのは自分に対するごまかしなのだろう。僕の心は、すでに決まっていて、むしろ望んでいたのだ。


「まだ……枯れてなかったんだな」
 ボソリと呟く僕の足元には、ケナゲに咲き誇る水仙の姿があった。潮風にも負けず、寒さにも負けず。力強く咲き続けるこの花は、一体何を思うのだろう。
「でも……結局は、解りえないんだよな」
 ゆっくりと、僕は視線を上げる。
 辺りは朝というのに暗い。空には厚い雲が広がり、小さな雪をちらつかせて日の光を遮っている。現実世界から逃避し、閉ざされた世界であるように。まるで今の自分のようだなと、らしくない考えが頭によぎった。
 海は今日もそんな暗闇を飲み込み、暗色にたゆたっている。白い砂浜も灰色に染め上げられ、さながら淘汰された世界のようでもある。
 ただ、一点をのぞいて。
 全てが暗色に塗りつぶされている中、目が冷めるような真紅が浮いている。海の中だ。こちらに背を向け、天を仰ぎ、膝上まで海に浸かっているそれは──紛れも無い少女。
 見まがう事の無い彼女だった。
 僕は拒否しようとする足を動かし、波打ち際から彼女を見る。
「……どうして、あんなことをした」
 あんなこと──すなわち、花壇の惨劇だ。
 赤いコートが波に揺れている。吉阪は視線を落とし、こちらを見る。
 吉阪は、朗らかだった。この間のわだかまりを感じさせない──でも、どこか皮肉げな表情。
「私に、そんなことを聞くんだね。メッセージを見てここに来たんでしょ?」
「僕が聞いてるのはそんなことじゃない。どうして僕をここに来させるためだけに、あんな事をしたのかと聞いているんだ」
「どうして私が遺書を残したのか、ってことは聞かないんだね」
 棘のある口調だった。吉阪は口をつぐみ、感情の高ぶりを抑制するような間をとった後。
「……でも、いいよ。どうせ解りきったことだし」
 ウフフ、と三日月の形に唇をゆがめる。
「しっとしたから、ころしてやったの」
 さらりと言った言葉には、まるで現実味や自重はない。いつもの吉阪からは考えられない、そこしれぬ何かがあった。
「やさしくされて、大切にされて、ずっと見守られていて、愛されていて。その期待にこたえて、花咲かすあの姿が、憎くて憎くてたまらなかった」
 私はダメだったのに、と吉阪が呟いた。
「どうして私じゃなくて、あんな思考も無いただの花が? あんなの、ただ綺麗なだけじゃない。反抗する意志もなくて、対抗する力もなくて、ただ世界の成り行きに身を任せているだけじゃない。何も解ってない。何もわかろうとしていない。殺しても何も思わない。何も伝わってこない。でも──私は違う。松田君のことを、解ろうとした──解りえた。なのにどうして。私じゃなくて、あんなものばかりを大切にするの!」
 僕は答えなかった。答えれば、僕の弱みを吉阪に伝えることになってしまうから。
 吉阪は僕を鋭い目で見つめ、やがて寂しげなそれへと変える。
「でも……結局は、当然の事だったのかもしれないね。松田君の言うとおりだったってこと。どんなにがんばっても、どんなに解りあおうとしても、結局はダメなんだよ。私は努力した。どんなに苦しくても、どんなに怖くても、変われるんだって思って、がんばってきたんだよ。その結果が、これ。一回目、そして二回目……私は、がんばっても無駄だった」
 裏切った女子生徒──裏切った僕。吉阪はあてつけていた。僕に責任が──僕が悪いのだと、あてつけていた。
「がんばった、がんばった。私はがんばって、勇気を出した……。結果的に分かったのは、どんなにがんばっても無駄だってことと、この世には偽善ばかりの絶望しか存在してない事。松田君の言う事は、『ほとんど』正解だった。だからね……だからね、松田君」
 仕方無げな、そんな笑顔。
「私、しぬことにしました」
 かすれたような声。細すぎる体。白すぎる肌。解っている。吉阪は本気だ。死ぬといったら、それは死ぬのだろう。殺すというのなら、殺すのだろう。ただ有言実行するという当然の筋。しかしこの場面でその行為は、あまりにも危険だった。
 だけど──危機感が無い。吉阪ではなく、僕に警戒心が無い。吉阪が死ぬ。僕を愛してくれたものが死ぬ。僕の世界を崩壊させた女が死ぬ。自分と理解しようとした命が、潰れる。
 なのに危機感が無い。現実味が無い。吉阪が浸る冬の海は、冷たいだろうなとか、そんなふざけた考えしか浮かんでこなかったのだ。
「ヒドイよ……松田君。確かに海は死ぬほど冷たいけど、私が死ぬって事に本気で悲しんでくれる人は、松田君だけだって思ったのに」
 ……、……何?
「なに、って。別に『思い返す』ことでも無いと思う。私は、足が凍るほど冷たい。でも、もうすぐ何も感じることはなくなるだけ」
 まるで……吉阪は、僕の『心』を視ているかのように言葉をつむぎ──
「だって、視てるんだもの」
 ────────────。
「なん……だって?」
 断続的に空気を取り込む肺のせいで、うまく言葉にならない。瞠った目に白い雪が降りそそぐが、冷たさを感じない。理解できない──信じられない事態に。
「別に不思議がる事じゃないと思う。一人が『その能力』を持ってるなら、同じ世界に同じ能力を誰かが持っていてもおかしくないと思わない? 偶然にも私が『その能力』──人の『心』を視る能力を、持ってたってだけの話。もっとも、私の場合は鏡で視るんじゃなくて、コンタクトとかレンズを通して視ることができるんだけどね」
 吉阪の言っている意味が分からない。まるで理解が及ばない。
「松田君も、私の『心』、視たんでしょ? ウフフ──私達はね、松田君、」
 解りえてたんだよ。
 と、異様に赤い吉阪の唇が紡いだ。
 横殴りの衝撃として、その言葉が頭に入る。なにを、なにを……。解りあえてたなんて、能力を持ってるなんて、そんなの──なにを言うんだ、この女は。
 ふっと、不吉な笑みを吉阪は浮かべて。
「ヒドイよ、松田君。『この女は』、なんて」
 確信する。確信する。確信する。そして理解する。吉阪の不可解な行動、言動。
 前々から思っていたのだ。なぜ、吉阪は僕とあんなにも早くに話すことができたのだろうと。吉阪は、僕と同じだったのだ。何千の『心』を視て絶望し、入学して視た生徒の中で僕だけの『心』が見えなかった。だから興味が湧き、近づいた。
 僕が吉阪に興味を持ったのと同じ理由。視えなかったのも、おそらく能力同士が反発していたのだろう。
 そして吉阪は僕の『心』の、『原石』を視た……。おそらく、僕が比喩的に能力を彼女に伝えたときに。そのとき吉阪は笑った。当たり前だ。自分の能力を持ち、同じように世界に絶望したものが目の前に現れたのだから。
 同時に、吉阪は僕に恋をし、しだいに愛をはぐくんでいった。
 だが──だが、だとしたら。吉阪の言う事が、本当だとしたら。
「私ね……水仙、好きだったの。まるで私みたいだから。寒い冬に、一人で白い花を咲かせ、真ん中に黄色い花弁の希望を抱いて──。でも本当はね、私は──バラのように刺々しくて、鮮やかな色でありたかった。愛情、熱烈な恋──そんなバラの花言葉のように、私はありたかったんだ。だからせめて、最後だけはそうなりたいって。……ど、どうかな? 私、綺麗?」
 ひらひらと、赤いコートを恥ずかしそうに見せつける吉阪。
 僕は答えない。答えずとも、その言葉は吉阪に届いているだろうから。
「……ありがと」
 僕はポケットから、渦巻く映像の鏡を取りだす。その腕は小刻みに震えていた。
 吉阪の体の半分に鏡を重ねると、漆黒になった鏡が再び渦を巻き、吉阪の半分の体をうつしだした。現実と、『心』の中で微笑む吉阪の姿。
 次の瞬間、溢れかえった吉阪の思考が、僕の頭に奔流として入り乱れた。
 それは愛だった。美しく、艶やかで、欲望をむき出しにした、バラのように激烈な愛だった。故の憎しみが、嫉妬が、柳眉を逆立てて渦を巻いている。
 その『心』を視て、僕は。僕は──……
「は、はは」
 笑みが──零れた。
「はは──はははは、はははははははっ!」
 ハハハッ! ハハハハハハハハハハハハハハハハッ!
 どうして笑うの? そういう風に、怪訝そうな顔を吉阪が浮かべた。
 そうか──そうか、そうかそうかそうか、そうかそうかそうかそうか……。
 最高だった。最高の気分だった。吉阪の『心』を視て、僕は全てを理解し、納得したのだ。
 今までの希望を。これからの理想を。吉阪の『原石』に潜む真実が、僕の根底から全てを覆した。覆し、そして踏みにじった。
 僕にはもはや存在する価値など無い。どうしてここにいる? いる必要がある? いなければならない? そう──もう必要はないのだ。僕の希望は完全に打ち砕かれた。他でも無い自分と、吉阪の関係によって。
 僕は言った。『心』を視る能力を持つものどうしならば、完全に理解しあうことができると。水面下で争う醜い人間たち、偽りの仮面をつけて生きる愚かな者たち、すれ違いだらけの哀れな人々──そんなしがらみから解放され、理想の人間関係を築くことができると。
 だけど、吉阪と僕の関係は、見事に裏切る形となった。
 僕は吉阪の『心』を視た。つまり理解したという事。吉阪も僕の『心』を視た。つまり理解したという事。
 その結果が、これだ。
 互いの感情を尊重する事ができず、理解した『心』に納得する事ができず、ゆだねる事ができず──結果、崩壊したのだ。
 僕は希望を抱いていた。この偽りだらけの世界の中で、唯一の真実を求めていた。
 もはや、この世界に希望は無かった。理解しあえるかもしれないという奇跡すら存在しなかった。
 僕の世界は、この瞬間に崩壊を告げたのだった。
「ハハハッ、そうか、そうかそうかそうか! ハハ──クククッ、なんて惨めなんだろうな! 何てバカらしいんだろうな! こんな世界に生まれて! こんな能力を持ってしまって! 勝手に世界に絶望して、勝手に希望を持って! その結果が、これだ! 全く、らしい終わり方だよ! ヒトはわかりあうことはできない。所詮は、希望を抱いたものが絶望する世界なんだ! 僕は今それを知った! そして、お前も知った!」
 キッと吉阪を睨むと、びくっと彼女の肩が揺れた。
「お前は教えてくれた。希望を絶望に変えて、親切に。だけど、何も責任感を抱くことはない。むしろ僕は感謝しているさ! ありがとう、ありがとう、ありがとう吉阪! 僕はお前に、答えをくれた感謝を言う!」
 わき上がる感情の高ぶりに、僕は全てを飲み込む海へと足を踏み入れた。
「! ──こないで!」
 そんな僕を見て、悲鳴のような叫びを吉阪が上げる。僕が立ち止まると、彼女は細長い包丁をぎっしりと両手で握り締めていた。曇り空の光を怪しく反射し、ポツリポツリと粉雪が触れては溶ける。吉阪は包丁を、自分の手首に宛がった。
「き、来たら、しんで──」
「死ねばいいさ!」
 吉阪の考えを視て、僕は大きく歩を進めた。痛烈な冷たさが足を襲うが、体の中に渦巻く激情は、冷める事は無かった。鏡を投げ捨て、吉阪に迫る。
 吉阪の『原石』にはもはや、覚悟は微塵も残っていなかった。
 吉阪の顔が、一瞬絶望に染まり。
「ぃや、こないで、こないで!」
 先ほどまでの威勢はどこにいったのか、恐怖に染まった顔で刃物を振り回す。その姿がとても滑稽で、僕はより足を大きく踏み出した。
 雪を切り、振り回される包丁に、腕を差し出した。腕と包丁が当たった所で、素早く吉阪の手首を握る。
「ぁ────」
 吉阪が恐怖にまみれた顔を上げた瞬間、僕の平手が彼女の頬を捕らえていた。
 吉阪は倒れ、派手に水しぶきを上げる。波紋が広がり、波で消えていく中、そのまま吉阪は動かなくなる。
「──男に殴られるのは初めてか? ムカついたか? 理不尽だと思ったか?」
 冷徹で、鋭い僕の口調。
「死にたいのなら、それくらいどうってこと無いだろう!」
 包丁に切られ、鋭い痛みが走る腕に、鮮烈な赤い血液がにじむ。
 吉阪はのろのろと僕を見上げ、徐々に涙を溢れさせた。
「──ぅう、……ぐっ、あぁ、ああああ」
 吉阪は優しすぎた。だがその優しさは、臆病の裏返しでもある。『心』のどこかで、自殺を拒否していた吉阪がいた。死ぬと本気でいようとも、根底にこびりつく恐怖に、吉阪は打ち勝つ事ができなかったのだ。
「死にたいなら死ねばいい。怖いのなら止めればいい。だから──ハハハッ! 吉阪! 僕にそうさせる動機をくれたお前に、僕は本当に感謝している!」
 そうだ。吉阪は希望を壊すと共に、僕の存在理由も否定してくれたのだ。
 吉阪の『原石』に立ち込める愛と、恐怖と、──蔑み、が。
 吉阪は僕を愛していた。だが僕が彼女の『心』を否定することにより、同時に憎しみをうみだした。憎しみは恨みを創り、存在理由の否定を吐き出した。
 僕にとってそれは、これ以上ない、求めていた言葉だったのだ。
 必要ない。消えてしまえ。いないほうが。腐ってる。死んでしまえ。クズめ。
 僕の『心』を知り、理解してくれた者に、こんな言葉を掛けられて身震いせずにいられるだろうか? 僕の希望という名の存在肯定は打ち砕かれ。暗闇が広がり。──僕は、最高の気分に陥った。
 何も気にすることはない。何も重荷を抱くことはない。ああ、僕は投げ出す。逃げ出す。その決定的な理由ができたのだ。
 ああ、何て素晴らしい。なんて最高な気分なのだろうか! ハハハ! 僕は否定が欲しかった。僕の中に存在する、わずかな希望を抱いている自分を潰し、踏みにじる否定が欲しかったのだ! そして今! その否定を吉阪が与えてくれた!
 もう何も迷う必要など無い! そうさ! 僕は前からこうしていればよかったんだ、こうしたかったんだ! そういう意味では吉阪、お前は僕の望みを叶えてくれたヤツなのかもしれない!
「ハハハハ! 最高だ! 最高だよ吉阪! 僕は死ぬから! お前は好きにすれば良いさ、死のうが生きようが! 所詮は、この世だ!」
 込み上げてくる喜び。溢れてくる希望。ああ、僕は喜んでいる。この瞬間を望み続け、そして今! 成し遂げる事ができるのだ!
 ああ、嬉しい! 嬉しい! 嬉しい! 嬉しい! 嬉しい──のに。
 どうして、涙が溢れてくるんだろう……?
 どうしてこんなにも世界が冷たく感じるのだろう。胸に穴が開いたように虚しいのだろう。
 だが……いいさ。死ねば、それは全て偽りのものとなる。
 さあいこう。迷わずに、逝けば新しい世界が広がるかもしれない!
 が──そのとき、僕の行為を邪魔するものが現れた。突然吉阪が体を翻し、全身を使って僕を止めにかかったのだ。
 バシャバシャと水がはね、二人して水の中に倒れこむ。
「なにを──!」
 塩の味が口に広がるのを感じながら、僕は吉阪を見る。彼女は、泣いていた。涙を流して、嗚咽を洩らして、懸命に僕の体に抱きついて動きを呪縛していた。
「なにをするんだ! お前だって望んでいた事だろうッ? こんな嘘っぱちだらけの世界に絶望して、理解できたやつにも否定されて、はき捨てたいような能力を手に入れて! お前だって、死にたいと思ったんだろう! ならなぜ邪魔をする! おまえ自身理解できる行動だろうが!」
「ぅあぁあ、ぃやだ、やだ、やだあ!」
「邪魔だ、離れろ! お前は僕が死んだ後に、死ぬかどうか自分で決めれば良いだろう! 自殺する勇気が無い事も、僕のせいにする気かっ? ああ、じゃあそうすればいいさ! お前の気が済むなら、全て僕が責任を背負えば良いんだろう!」
「やだ、やだやだやだやだぁあ! わ、私は……私はぁ、松田君に否定してもらいたかったの! 私がしぬのを、否定してもらいたかったの!」
 駄々をこねる子供夜のような吉阪に、どうしようもない怒りが込み上げてくる。
「ああ、知っていたさ! お前の『原石』に視えたその希望に、俺はほとほと呆れた! だから僕は肯定したんだ! 僕はお前を拒否して、お前の自殺を肯定したんだ! ならお前も僕の自殺を肯定するべきだろう! それともなにかっ? お前は僕がお前の自殺を否定するとでも本気で思ったのか! ハハハッ、僕の『原石』を見たやつが、笑わせてくれるじゃないかッ!」
「違う違う! わ、私はただ、『原石』とかそういうものじゃなくて、その時の感情の起伏でも良い! 一瞬でも、悲しいと思ってくれればいい! それだけでもいいから、私は否定して欲しかった……! ま、松田君だって、そのままじゃ、ダメって本当は思ってるんでしょ? 逃げているんだって、思って、いるんでしょッ?」
 瞬間──爆発的な何かが、僕の腕を動かした。噴火するような激情。完全なる感情の起伏。
 激しくも鈍い音が響き、ついで盛大に塩水が跳ね上がる。吉阪が水の中に倒れ、僕の右拳には依然感じたことのあるあの生々しい感触が蘇った。
 荒い呼吸のまま、ギョロつく目で自分の拳を見下ろす。
 僕は再び、女を握りこぶしで殴ったのだ。
 その事実が罪悪感を押しつぶし、僕に一種の納得を与える。──そうさ……邪魔するほうが悪い。そうしてひれ伏し、黙って僕の所行を見ていれば良いんだ。
 ゆらり、と僕は体の向きを変え、沖に向かって足をふみだ──
「────ッ」
 足に、何かがしがみつく。
「に、げている……だけ、なんだよぅ」
 口から血を流し、塩水に垂れ流す吉阪が、懸命に僕の足に手を回していた。
「で、でも……まだ、やりなおせると、わ、わたしはおもう。べつの希望をもてば、まだ大丈夫だと、思、ぅ……!」
 寒さにか、痛みにか、カチカチと震える唇からは、途切れ途切れに腹立たしい言葉が吐かれる。
 苛立たしい。腹立たしい。まるで偽善的な言葉に、そんな感情が生まれるのは当然だ。しかし──なぜだろう。僕はこの時、吉阪に対して一種の恐怖心が生まれた。
 嘘のように冷たい海水。太ももに爪が食い込むほど握られた両手。降り注ぐシュールな粉雪。
 周りの全てが、無機質に僕の『心』を侵食していくような──底知れぬ何かを見たときのような、身の震える恐ろしさがあった。
 逃げているから? 傷口をなでるような、偽善的な言葉だから? 自分を愛した女の惨めな姿にか? 違う、そんなのじゃない。そんな──生ぬるいものじゃ。なら、何を僕は──。
「い、いまの松田君は、怖い……! とっても、と、っても、こわい……っ! わたしだから、解る。その絶望が、き、恐怖が、逃げたい、気持ちが……。だから、だからわたしは……!」
 怖かった。怖かった。怖かった。怖かったから、滑稽なほどに大きな悲鳴を上げて。再び、吉阪を殴った。殴っても離れない腕。怖かった。怖かった。殴って、はたいて、恐怖のままに腕を動かした。激しい息遣いで侵入してくる空気が、嫌に冷たかった。やがて吉阪の腕が離れ、異常なほどに安心し、逃げるように沖へ向かおうとすると──
 再び、僕の腰に腕がしがみついてきた。
「ま、つだくんは……ど、どうして『心』を見続けたの……?」
 穏やかな声に、バクンと心臓が跳ねる。巻きつく腕から広がるような、恐怖の錯覚。
「やめろ──、やめろ……」
 激しい動きに呼吸が苦しくて、力が出なくて、何より──これ以上吉阪に触れるのが怖くて……。
「ま、松田君は優越感に浸りたくて、傍観者に、なりたくて……。私もその気持ちはわかるし、そうでありたいと思ったことも、あるし。で、でもね……能力に満足したあとも、苦痛なのに使い続けたのは──どう、してぇ……?」
 それは僕自身問うた疑問であり──逃げて、否定した疑問でもあった。だから聞きたくなかった。耳をふさいで、大声を出して、吉阪を殴って、押し止めたかった。
 でもできず──
「やめ、ろ……やめて、くれ──」
 言うな、それ以上言うな……!
 ──どうにか抵抗しようとする僕に、やさしく彼女は言った。
「松田君は……本当は、『かかわり』たかったんだよ……」
 息が詰まった。恥ずかしさに、惨めさに、苦痛に、恐怖に、膝を砕きそうになった。
 まるでそれを止めるかのように、吉阪の回す腕に力がこもる。
「松田君は、や、やさしくて、臆病で、傷付きやすいから……。始めて視た『心』が怖くて、関わろうとする勇気が無くて、自分はそうじゃないって強がって。それは、と、とってももったいない事だと思ったの。がんばったって、私のように、良いことが起きるわけじゃない。……死にたくなるときも、ある。でも、す、少しでも大切な人が、自分を見てくれたら……解りあおうとしてくれたら、それはとっても、幸せな事だと思う、の」
 あぁ──と、それこそ傍観者のような自分が、納得する。
「こわくて、こわくて、関われなくて──で、でも松田君はやさしいから。完全に、みんなを、否定する事ができなかったん、だよ……。それで私は──はは……それを、知っているの」
 自分が吉阪に恐怖した理由。簡単な事だ。
 僕はこの少女に、僕の中で小さく息づく『希望』を見たのだ。
 だから僕は、醜くしつこくしがみつく吉阪に、絶対的な拒否感を抱いた。これ以上世界の理不尽に裏切られたくなかったから。淡い希望を持ちたくなかったから。
 ヒトに関わりたいという本音を、見出したくなかったから……。
 涙が溢れた。とても、とても熱い涙が溢れた。
 降り注ぐ雪は凍るほど冷たかったけど。浸っている塩水は死ぬほど冷たかったけど。
 背中に感じる、彼女の体温がとても温かくて。
「わ、たしたちは──たぶん、理解しあってもダメかも、しれないし、理解しあう事もできないかも、しれないけど」
 それでも大切な人がいるのならば──。
 ギリリと、奥歯をかみ締める。
「どうして……どうしてだよ! どうして、吉阪は、僕にそんなことを言うんだよ!」
 好きだとか、愛しているとか、それ以前の問題。
 どうして自分を──?
『原石』など関係ない。それは『心』ではなく、本能で感じていたことなのだろうから。
 吉阪は、えへへと詰まったような笑い声を上げて。
「……な、なんで、だろ。わかん──ないや」
 僕と吉阪が始めて会った日の質問と、全く同じ返答をした。言葉に含まれる本質的な意味は、おそらく変わらないだろう。
 前の僕に、吉阪は『心』が視えないという興味があった。今の僕に、愛しているという愛情があった。しかしその根源は、道がたがえただけで同じものだと思う。
『心』ではなく。そう──例えば、運命を感じたとか、そういうもの。
 僕は泣いた。そして叫んだ。降り注ぐ粉雪を裂くように、この世界に僕らの存在を訴えかけるように。
 冷たかった。怖かった。死ぬかと思った。でも、となりにはずっと、温かい存在がいた。
 やがて捜索していた警察官と、学校を抜け出したらしい日永が同時に僕らを発見したが、彼らはただ見つめる事しかできなかった。
 僕は泣き叫び、吉阪は見守っていた。

          ◆

 僕と吉阪は、似たもの同士だと思う。こんな能力を持ち、世界に絶望した所もそうだが。
 もっと内面的な──やさしくて、臆病で、怖がりで、神経質で、不器用で。自分の事を棚に上げる所など、そっくりだろう。
 だからこそ、そんな吉阪に言われて僕は納得したんだ。
 僕は、『関わり』たかった。
 人を始め、とりまく社会に対し。だけど、僕は臆病だったんだ。
 人の行動を否定しつつも、実は僕自身もそうなりたいくせに、怖がって前に踏み出そうとしなかった。能力のせいにして、傍観者である事でそんな自分のアイデンティティーを保とうとして、僕は逃げた。
 でも未練があり、どうしても『関わる』ことを諦められなかった自分がいて──完全に理解し合えば、こんな自分でも『関わる』ことができる、といつしか思ってしまっていたのだろう。手段を目的にして、僕はいつしか本当の気持ちを『心』の奥底に閉まっていたんだ。
 他人の偽りを嘆いていたものが、自分の『心』に影を作っていたとは、笑い話にもなりはしない。けれどそんな能力があるからこそ、自分の『心』に鈍感になってしまうのではないかと僕は思う。
 例えば──そうだな。能力の要である、鏡を捨てて自殺しようとしたとき。たぶん、そのとき──僕は気づいたんだ。自分の『心』にしまいこんでいた感情に。
 あぁ、とか、そうか、とか、そんな簡単な理解だったと思う。ちょっとした衝撃はあった。でも、僕の『心』に隠れていたものだし──何よりも、僕自身可能性として考えていた事だったから。僕は、安心してその自分の本音に納得することができたんだ。
 僕が、吉阪に恋をしていたってこと。
 おそらく、吉阪もそれは知っていただろう。吉阪は僕の『原石』を初めて視たときから、僕すら気づいていなかったこの勘定に気づいていたのではないだろうか。そう、それほど以前から、僕は吉阪に好意があったのだ。
 そしてその事実は、吉阪が僕に恋するよりも、はるか先に僕が吉阪に恋をしていた事を意味し。
 僕が、吉阪に一目惚れをしていた事を──意味する。
 僕はずっと、吉阪の中に存在する『何か』にひきつけられていると思っていた。けど、何のこともなかった。僕の『心』の中に存在する恋が、僕を吉阪にひきつけさせていたのだ。
 運命というものが存在するのなら、まさにそれだろうと思う。僕と吉阪をひきつけ、僕に一目惚れをさせ、吉阪を恋に落とし、不思議な能力を持った同士、同じ苦しみを持つ──。
 ならば。その運命を仕組んだ者は、一体何を理解し、考えていたのだろうか?
 たぶん、未来永劫解ることはない。ヒトは完全に理解しあうことはできないのだから。
 だけど──僕は、思ったんだ。
 理解しあう事ではなく。
 理解しようとする事に、意味があるんじゃないかって。


 張り付いたまぶたを、薄く開ける。頭上には白い天井が広がり、蛍光灯が無感動な光を灯している。辺りはまるで僕を傍観しているように静かで、時間の経過が止まっているかのような錯覚に陥った。
 僕は寝ている。おそらく保健室であろう場所に、温かい布団を掛けられて、まるで包み込まれているかのように、僕は寝かせられている。
 ──ふいに、涙が零れた。予兆もなく、突然ほろりと出た涙。
 何でだろう。とても胸が痛かった。否──『心』が沁みた。
 まるで、今までの過ちを全て許されているような気持ちになったから。お前は悪くない。だから気にする事は無い、と。だけど、そんな考えは僕の妄想であり、願望であるのだ。逃げ出そうとする僕の気持ちが裏返り、忘れてはいけない事を忘れようとしているだけなのだ。
 信頼をなくし、なりふり構わず傷つけようとする記憶に映る僕の姿は、とても怖かった。孤独で、いじっぱりで、弱くて、刺々しくて、惨めで。
 今なら、吉阪が僕を止めた理由も何となく解る。吉阪はおそらく、壊れた僕を通し、自殺しようとしていた今までの自分を見たのだ。『心』を視るからこそ、自分の『心』に鈍感になるという矛盾がそこにはある。
 僕はあの姿が自分だということを、忘れないだろう。忘れてはいけないのだろう。
 そして今、僕を覗き込んで影を落としたこの少女も、忘れる事は無いだろう。
「……よしざか」
 僕を覗き込んでいた吉阪は、手を伸ばし、花を撫で上げるような仕草でそっと僕の涙をふき取っていく。
 僕はその行為に身をまかせ、痛む右腕を彼女の顔にやろうとし──。
 吉阪のやさしく笑う顔に、大量の痣があるのを認めた。
 その痣を作ったのは紛れも無い自分であり、僕の腕に走る痛みを刻んだのは、紛れもない吉阪だ。
 互いに互いを傷つけあい、触れ合うことが許されるのだろうか。
 思わず目をそらそうとする僕に、吉阪がはっきりといった。
「逃げないで」
 体がこわばる。そうだ──逃げては何も変わらない。何も変われない。
 この少女は、そのことをはっきりと教えてくれた。
 僕がゆっくりと視線を動かすと、吉阪が痛々しい顔でにこりと笑った。美しかった。
「僕は……どう、すれば──いい……?」
「どう、したいの?」
 穏やかな返答。質問というよりは、確認であるように思えた。
 僕は答えた。
「僕は……かかわりたい……。りかいしあえなくても、いい。で、でも、このままじゃ嫌なんだ。僕は、かわりたい、かかわりたいんだ……!」
 世界に。人々に。そして──君に。
「じゃあ、がんばればいい。がんばって、ダメで、無駄だったとしても、またがんばればいい……。理解しあえなくても、いい。理解しあおうとすることに、わたしは、意味があると思うから……」
 理解しあおうとすることに意味がある──。
 それは理解できないという答えからの、逃げであるようにも思える。未完成で、偽りばかり犯す、哀れな僕たちの妥協にも思える。
 だけど、僕と吉阪が互いの『心』を視て理解するよりも、とても勇気が必要で、魅力的なことだと思うんだ。苦しくて、挫折するかもしれない。憎くて、嫉妬してしまうかもしれない。哀れで、絶望してしまうかもしれない。けど、本気で、一生懸命で、誠心誠意がんばっていれば、きっと救ってくれる人は現れてくれるんだ。
 吉阪は僕の首に腕を回し、やさしく抱擁してくれた。ややあって、僕らはどちらからともなく、唇を合わせた。
 吉阪の唇はやわらかくて、小さく震えていて、頼りなかったけど。僕はこの少女となら、何でもできるような気がしたんだ。
「わたしも、いっしょにがんばるから……」
 唇を離し、吐息がかかるほど至近距離で、彼女は言う。
「……ありがとう」
 その言葉に対し。何より、君の存在に対し。


 その後の学校は、とても辛かった。苦しかった。色々な質問や説教、処分の審査や罰……。このような苦しみは今この時だけじゃなく、生きている間ずっと、僕を苦しめていく事だろう。夜に存在する規則やしがらみであるから。
 でも、徐々に理解しようとすれば良いし、理解してもらえれば良いと思う。重要な事は、逃げず、勇気を持って立ち向かっていくという事。何事にも、何時にも。
 ゆっくりで良い、ゆっくりで良いから。吉阪と一緒に、ほんの少しずつ進めて行ければ、僕はそれで良い。

 朝露も凍る真冬の中、中庭の花壇には逞しい葉を広げる草花が植えられていた。
 じょうろを片手に持つ、見慣れた人物が一人。
 日永が僕に代わり色々と世話をしてくれたらしかった。不器用ながらも、咲き誇る花は美しく、力強かった。
 日永は、僕を見捨ててはいなかった。僕が冷たく接していたとしても、彼は静かに、僕を見つめていてくれた。理解しあおうとしてくれたのだ。
 僕は笑い、吉阪も笑い、日永は照れた。
「ありがとう」
 かみ締めるように僕は言う。
 これからも僕は、こうやって言葉を紡ぎ、理解しあおうと努力していく事だろう。

 ポケットに入れていた鏡は、もう無くなって久しい。
 
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